「雨……、止まないね」
 暗い窓の外を眺めて、織姫がぽつりとつぶやいた。
 大粒の雨が激しく窓ガラスを叩いている。遠く、西のほうから雷鳴も聞こえる。夏の最後の嵐だ。
「どうする? 雨竜くん。傘……あたしのでよければ、あるけど――」
 うつむき加減で、ちらちらと盗むように僕を見る織姫。
 僕の口から言わせたいのだ。まだ帰りたくないよ、今夜はきみといっしょにいたいんだ、と。僕がそんな甘ったるいことを言う性格ではないと十二分に承知していながら、それでもまだ彼女は諦めきれないらしい。女の子って、みんなそういうものなんだろうか?
 くすっと笑うと、織姫も僕の意図に気づいた。すぐにこどもみたいなふくれっ面になる。
「いじわるだ、雨竜くん」
「そんなことないだろ。今夜はこの部屋に泊まるって、言ってるんだから」
 僕は立ち上がり、織姫を背中からそっと抱きしめた。
 華奢な身体がかすかにふるえている。寒いわけではないだろうに。
「雷、怖いの?」
 織姫は答えなかった。ただ、僕の腕に体重を預けてくる。くったりと胸にもたれかかってくるそのあたたかさ、やわらかさを、僕は心地よく受け止めた。
 こんなふうに、何度この部屋で抱き合っただろう。
 彼女が一人で暮らす、この小さなアパートで、まるで世界中の視線から隠れるみたいに。
 他人の眼があるところでは、僕たちは以前と変わらない。二人で特に言葉を交わすこともなく、あえて視線を合わせようともしない。学校では、織姫はいつもどおり友人たちに囲まれ、明るい笑顔を絶やさない。僕は僕で、相変わらず人嫌いの顔をして、他者から気安く話しかけられることも全身で拒否している。
 時々、盗むように織姫が僕を見ていることもあるが、僕はその視線に気づいていながらも無視をする。そうして黙っていることが、二人のこのつながりを守ることだとでもいうように。――そんなことはまったく意味がないと、互いに知っていながら。
 世界は欺瞞の匂いに満ちている。あの死神達の動乱を経て、僕達はそれを知った。
 この平穏はまやかしだ。静まり返った日常の奥には、ちりちりと青白い火花を散らす導火線がひそんでいる。誰かが息を詰めて、じっとこの世界を見つめているのだ。今も。
 導火線が刻一刻と短くなっていくのを知りながら、僕もまた口をつぐんでいる。なにもなかったふりをしている。
 その火を止められるのは闘う力を持つ者だけだと知りながら、その選ばれし者どもの義務に、僕は今、背を向けている。
「いいんだよ」
 織姫が言った。
 僕のほほに手を添えて、じっと僕の目を覗き込みながら。
「いいんだよ、雨竜くん」
 ――いいんだよ、何も言わなくたって。
 ――いいんだよ。来るべき明日よりも、今、過ぎてゆくこの瞬間だけを大切にしていたいって、そう願ったって。
 声にならない彼女の言葉が、僕の中に流れ込んでくるようだ。僕に触れる小さな手から、そのたしかなぬくもりといっしょに。
 ――今もまだ癒えない傷が、こんなにも痛くてつらくて、哀しいから。だから今はまだ、誰かに甘えていたいって、あなたの気持ち。
 いいんだよ。その自分の気持ちに素直に従っていても。
 誰もあなたを責めたりしない。
 だって雨竜くん。あなたの肩だって、まだこんなに細い。
 そして、彼女の瞳を涙が濡らす。
 織姫が僕のために泣いてくれる。
 彼女は知っているはずだ。僕がすでに滅却師としての能力を失っていることを。彼女の霊力を察知する力は、誰より鋭かった。
 それでも織姫は何も言わなかった。無言で、僕のための涙をこぼす。
 ――僕は、卑怯だ。
 僕の無力、卑小さ、怯懦。それらすべてを彼女ひとりが許してくれたことで、僕は、世界中から許されたような気になっている。
 そして彼女はそんな卑怯な僕ですら、抱きしめ、許してくれるのだ。
「雨竜くん」
 彼女の手が眼鏡を外す。
 そうすることが、織姫は好きらしい。いつもとは違う、自分しか知らない石田雨竜があらわれるから、と。
 白く小さな手は思いのほか不器用で、僕はいつも少し痛い思いをするけれど。
 そして僕たちは抱きしめ合う。吹雪の中で懸命に生きのびようとする二羽の野鳥のように、けして埋まることのない空白を、少しでも埋めようとするかのように。
 彼女の指、彼女のくちびる、彼女のすべてが僕の身体に触れていく。そのやわらかな感触に、僕は息を呑む。まるで小さないきものに肌をついばまれているようだ。自分の身体を他人の好きにさせること、その不穏な快楽に酔いしれる。
 今度はお返しに、彼女の身体のすべてを、僕の接吻であますところなく覆い尽くしていく。最初はくすぐったそうに逃げようとしていた織姫が、いつか切なげに喘ぎ出す。
 ひゅ、と、小さく音をたてて、織姫が息を吸い込む。まるで泣き出す寸前みたいなその表情が、たまらなく、悦い。きゅっと尖った胸の先端を甘噛みしてやると、その表情がさらに曇った。
 激情にまかせて、たわわに実った果実みたいな真っ白な乳房を両手に掴む。力いっぱい、指がひそやかな肉に食い込んで、惨く爪痕をつけてしまうほど。織姫は苦痛に眉を寄せ、うっすらと涙までにじませる。けれどけして僕を責めようとはしない。
 がくがくと揺れる肢体。爪先が反り返り、僕を迎え入れる。快楽なのか苦痛なのか、細い悲鳴のような声が、彼女の唇からこぼれた。
「織姫。――熱いよ。きみの、からだ……」
 思ったままのことを耳元でささやいてやると、彼女はまるでいやいやをするようにかぶりを振った。
 つながりあう身体は髪ひとすじほどの隙間もなく密着し、まるでこうなるために僕たちの身体は創られたのだとでもいうみたいだ。
 織姫。世界に対し、僕たちはこんなにも無力だ。
 この手をどんなにふりかざしても、何も変えられず、何も停められない。どんなに目をそらしていても、明日は必ず来てしまう。二人でひっそりと隠れるこの小さな部屋は、雨音にすら押し潰されそうになっている。
 雨はまだ止まない。激しくなるばかりの雨音は、まるで軽機関銃の乱射音のようだ。雷鳴は殺されるけものの悲鳴だ。
「雨竜くん」
 小さな手が、僕の耳元に触れた。
 織姫が僕の両耳をふさぐ。
 ――聞かなくて、いいよ。
 声を出さずに、彼女の唇が小さく動いた。
 ――今は、なにも聞かなくていいから。
 眼を逸らしていても、いいから。この部屋の外に満ちている、いろんな怖いこと、やがて立ち向かわなくてはいけないこと、そのすべてから。
 ――今だけは、逃げてもいいから。
「織姫」
 そうしてきみは、僕を包み込んでくれる。この華奢な、力を失った僕の手ですら簡単に絞め殺してしまえそうなほど細い、やわらかい身体で、それでも懸命に僕を受け止めてくれる。
「織姫」
 きみのなかに、僕は埋もれていく。きみの生命に、抱かれている。
 これも、嘘だ。この安らかさは、ひととき現実から目をそらしているにすぎない。きみに許されて、僕は自分の罪から逃げているだけだ。この手でなにひとつ守ることも救うこともできなかった、この罪から。
 きみは、きみのこの手を求める者はみな、同じくこうして抱きとめてやるんだろうか。
 わかっている。僕にそれを止める権利はない。
 それでも明日、この部屋から旅立つ時。
 僕はまた闘う力を取り戻すだろう。
 織姫。その時もきみは、僕の欺瞞を許してくれるだろうか。
 世界を救いに行くんじゃない。ただ、きみひとりだけを守りたいんだ、と。







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