「なあ、それがいい。さあ、そうと決まれば、急ごうじゃないか。ここでの酔いが醒めちまったら、もったいない」
 京楽は立ち上がった。ついでにギンの腕を取り、彼も立たせようとする。
「ま、待てや! ちょお待てや、おっさん! 誰がお前も連れていく言うた!」
 ギンは京楽の手を振り払った。
 そしてわずかにふらつきながら、濡れ縁へ向かって歩き出す。
「なにしとんねや、イヅル。早よ来んかい」
「えっ!? は、はい、隊長……」
 豹変した上官の態度に戸惑いながらも、イヅルも慌ててその後を追った。
「詰め所に帰るで。三番隊の紅葉で呑み直しや」
 まるで玩具を見せびらかす子供のような顔で、ギンは京楽を振り返った。
「おいおい、お仲間に入れてくれよ、市丸」
「断る。あれはウチのイヅルが丹精した楓や。肴にしてええのは上官のぼくだけや」
「そんな、ケチくさいこと言うなよ」
「羨ましいんやったら、お前んとこにも植えたらええやんか。来年の今頃には見頃になるかもしれへんで」
 ギンは意気揚々と離れを出ていく。
 居残り客が重い腰を上げてくれたので、料亭の仲居たちにもほっとした空気が漂う。
 イヅルも、ようやく京楽の意図を理解したらしい。上官には気づかれないよう、そっと京楽に目礼した。
「気ぃつけてお帰り」
 京楽は小さく手を振り、二人を見送った。
「まあ……」
 七緒も思わず吐息のような声を洩らす。副長のイヅルですら扱いかねていた市丸ギンを、京楽は口先三寸で、誰の機嫌を損ねることもなく帰路につかせてしまったのだ。
 ――自分が飲兵衛だから、酔っ払いの扱いにも長けているだけなのかもしれないが。
 続いて、座敷の奥できゃあっと押し殺した悲鳴があがった。
 今度は十一番隊の更木剣八が斬魄刀を抜き放ち、暴れ出している。
「うらああああッ!! どいつもこいつも、ぶった斬ってやらあああああッッッ!!!」
「た、隊長ッ!! 落ち着いてください、隊長ーッ!!」
「斬魄刀はまずいっすよー!!」
 あそこの隊は副長が日番谷冬獅郎よりも幼い子供なので、代わりに三席の斑目一角と四席の綾瀬川弓親が迎えに来たらしい。
 が、その二人が左右から抑えようとしても、暴れる剣八を止めることができない。
 皿が割れ、襖が切り倒された。床柱にかけられていた花入れが真っ二つにされる。店の者たちは白刃を怖れて、近寄ることもできない。
 飛び散る破片をひょいひょい避けて、東仙要が我関せずと逃げていく。
「店が嫌がる客、その二。暴れて店の備品を壊す客」
 乱菊が、つぶやくようにぽつりと言った。
 悲鳴をあげて仲居たちが逃げまどう。十一番隊の二人は、もう剣八にしがみついているだけで精一杯のようだ。無論、乱菊も七緒も止めに入ることなど到底無理だ。お互い、命が惜しい。
 だが、その剣八の背後に、すっと影のように京楽が近づくのを、七緒は見た。
「一角、弓親。やちるの名前を出せ」
 小声でささやく。
「えっ? やちるって、あのちび――いや、ふ、副長の!?」
「――やちるが、どうした」
 ひそめた声の会話を聞きつけたのか、剣八が刀を振り上げたまま、動きを止めた。
 左右の部下を、血走った目でじろりと見据える。
「あっ、あの、その――」
「た、隊長のお戻りを待っておられますっ!」
 引きつりまくった愛想笑いで、弓親が答えた。
「隊長が大事の御用をつとめておられるのだからと、詰め所で大人しくお留守居されておられますが、や、やはり隊長がおられないのがお寂しいようで――! な、な!? 一角!」
「あ、ああ、いや、その、そのとおり! なんかこー、しゅんとしちゃって!」
 二人の額に浮かぶ脂汗が、言っていることがすべて口から出任せだと如実に証明している。
 が。
「やちるが……」
 不意に、剣八の刀が下ろされた。
「そうか。なら、帰らねえといけねえか」
 声も落ち着き、刀が鞘に戻される。左右の腕にしがみついていた一角と弓親が手を放しても、もう剣八は暴れ出しはしなかった。
「帰ぇるぞ」
 ぼそりと言って、剣八は座敷を後にした。
 十一番隊の三席と四席は、どっと噴き出した安堵の汗を拭いつつ、半ば脱力した顔でその後を追った。
 そして座敷は静かになった。
 京楽は店の者たちに何度も頭を下げられて、柄にもなく照れている。
「いやあ、そんな、礼を言ってもらうようなこっちゃないよ。それよりその卵焼き、もったいないから折り詰めにしてくれないかい?」
 もう、騒ぎを起こしそうな者は残っていない。
 ほっとして見守る七緒たちの前で、座敷は次第に綺麗に片づけられていった。
 やがて奥の襖が開き、日番谷冬獅郎が寝ぼけ眼をこすりながら顔を出した。
「あれ……。もう、みんないねぇのか」
「隊長」
 乱菊は濡れ縁へあがり、静かに冬獅郎のそばに近寄る。
「ああ、悪りぃ、松本。――待たせたか?」
「いいえ」
 冬獅郎はまだどこかぼーっとした様子で濡れ縁に座り、草履をつっかける。普段、抜き身の刀のように研ぎ澄まされた彼を見慣れているだけに、こんなさまはひどく子供子供して見えて、可愛らしいくらいだ。
「ほい、おみやだよ、乱菊。夜中に腹減るだろうから、持ってきな」
 店の者に作ってもらった折り詰めを、京楽は乱菊に手渡した。乱菊は一礼し、それを受け取った。夜中に腹が減るのは彼女ではなく、育ち盛りの隊長殿のことだろう。
「そんじゃあ僕らもそろそろ帰ろうか。七緒ちゃん、提灯に火を貰ってくるから、もうちょっと待っててくれよ」
「はい」
 七緒も、渡り廊下を歩いていく京楽に、静かに頭を下げた。
「佳い
(いい)男だろう、京楽隊長は」
 ぽつりと、独り言のように乱菊がささやく。
「できることならウチのにも、ああいう男になってもらいたいものさ」
 その述懐を、七緒はもう否定はしなかった。
 冬獅郎がまだどこかおぼつかない足取りで、中庭を抜けていく。
 それと入れ違いに、背の高い逞しい姿が飛び込んできた。
「悪りい、遅くなった!!」
 血のように朱いざんばら髪を一つにまとめ、額に刺青を飾ったその男は、確か十一番隊から腕を買われて引き抜かれ、六番隊に副長として着任したばかりだったはずだ。
 座敷を振り返ると、高貴な血筋を誇る六番隊隊長の朽木白哉は、座敷の隅に端然と座っている。どうやら副長が迎えに来るのを待っていたらしい。
 乱菊が視線で、阿散井恋次に彼の隊長の位置を教える。
「すまねえ、松本!」
 恋次は慌てて座敷に駆け込んだ。
 これで、居残っていた隊長たちそれぞれに迎えが到着した。
「七緒ちゃん、帰ろうか」
「はい、隊長」
 七緒は素直にうなずいた。
 そして提灯を手にした京楽に従い、中庭を抜けようとする。
 その時。
「恋次。肩を貸せ」
「は、はい。――え? ち、ちょっと、隊長ッ!? ま、待ってくださいっ、ここでは――せめて庭先まで我慢してッ、……うげえええッッ!!!」
 野太い絶叫に振り返れば、それまで髪一筋の乱れもなかった白哉が、己の副長の胸ぐらを掴み、顔色一つ変えずに嘔吐しているところだった。
「飲み屋がもっとも嫌がる、最悪の客。――悪酔いして、店内で吐く客」
 乱菊がぼそっと言った。
「あちゃあ……。ありゃあ僕でも、もうどうしようもない――」




 結局、恋次は店の外にある手水場を借りて死覇装を洗い、同じく店の若い衆に借りたつんつるてんの着物を羽織って、白皙の美貌のまま人事不省に陥った隊長を担いで、六番隊の詰め所まで戻っていった。
 そして七緒は、座敷の後始末に追われる仲居たちに、京楽がそっと心付けを手渡しているのを見た。更木剣八が壊した備品の弁償にも、どうやら京楽が身銭を切ったようだ。
「やれやれ。すっかり酔いが醒めちまったなあ」
 女将に見送られながら料亭を出て、京楽はゆっくりと夜道を歩き出した。
 七緒はその横に並び、隊長の足元をホタルカズラの提灯で照らす。おそらく彼には、そんな気遣いなど必要ないだろうが。
「七緒ちゃん、腹減ってないか? この先になかなか旨いラーメン屋があるんだよ」
「ラーメン……ですか?」
「うん、どうも飲み会の後ってのは、ラーメンが食べたくなるんだよなあ」
 ちょっと視線をそらしたその表情は、まるで子供が母親におねだりし、その返答を待っている時のようだ。
 七緒は小さくほほえみ、京楽の横顔を眺めた。
「ご相伴いたします」
「本当かい?」
「但し、ラーメンだけですよ。その後は真っ直ぐに詰め所へお戻りください、隊長」
「ああ、もちろん。わかってるよ」
 京楽はひげ面でほほえんだ。
 見ているだけで、その懐深くいだかれるような思いのする、温かい笑みだった。
「そこはしょうゆが旨いんだ。あっさりめで、呑んだ後には最高なんだよ」
「わたくし、ラーメンはしょうゆが一番好きなんです」
「そりゃ良かった。七緒ちゃんも、きっと気に入るよ――」
 二人の頭上では朧月が、静かに西へ傾きかけていた。




 後日。
「なあ、松本。……なんで俺が六番隊の副長に抜擢されたんだと思う?」
「そりゃあ――あのお坊ちゃんの面倒を見てやれるのはお前さんしかいないって、上層部が判断したんだろ」
 同情するよ、と、乱菊の目が言っていた。
 恋次はヤンキー座りで頭を抱え、つぶやいた。
「……もーやだ、こんな生活……」
朧月  弐
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以前、飲み屋でバイトしていたせいか、どーも
酔っ払いを書くと喜々としてしまいます。乱菊
のセリフは私の実体験です…(^^;)
この頁の背景画像は「幻影素材工房」様より
お借り致しました。
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