頭上からは、朧月(おぼろづき)が淡い光を投げかけていた。
けぶるような月光と、ホタルカズラを活けた提灯だけを頼りに、伊勢七緒は足早に瀞霊廷の中を歩いていった。
外敵の侵入に備えるため、瀞霊廷の街並みは迷路のように入り組んでいる。建物の外壁とただの土塀の見分けもつきにくく、門や入り口の扉すら巧妙に隠されている。
だが、いくら夜道とはいえ、瀞霊廷の中で道を間違えるようでは、護廷十三隊の副長は務まらない。
七緒はすぐに目的の建物に辿り着いた。
控えめな篝火(かがりび)と布看板が目印の老舗。見かけはこぢんまりした小料理屋のようだが、下々の者は勿論、護廷十三隊の隊士ですらおいそれとは足を踏み入れられない、高級料亭だ。
七緒は布看板の横を抜け、庭のほうへ回り込んだ。
店の手代だろうか、腰の低い若い男が渡り廊下の奥から顔を出す。
手代はちらりと七緒の腕にある副官章を確認すると、
「こちらでございます」
右手で庭の奥にある離れを示した。
案内に立とうとした手代を断り、提灯だけ預けると、七緒は離れに近づいていった。
離れと言っても、茶室造りの座敷に次の間、宴が終わるまで供回りが主人を待つための控えの間と、ちょっとした家屋敷ほどの広さがある。そしてそれだけの建物を懐深く包み込む、広く優雅な庭。この庭から観賞する秋の月は、歌人達も賞賛する風情なのだという。
花の香がする。庭も離れも、いたって静かだ。
もしかして行き違いになったのだろうか。七緒がふと不安を覚えた時。
「おや、早かったねえ」
「乱菊さん」
離れの障子が開き、その陰から十番隊副長・松本乱菊が艶やかな美貌を見せた。
「貴女も、隊長殿のお迎えに?」
挨拶がわりに問いかけて、七緒は気づいた。十番隊隊長の日番谷冬獅郎は、まだ子供と言っても良いくらいの少年だ。いくら護廷隊長全員の親睦を図るための宴席とはいえ、このような酒席にそんな年若い彼が顔を出すだろうか。
「ああ、ウチのはまだ奥の座敷で寝つぶれてるんだよ」
座敷の奥、わずかに隙間の開く襖を目線で示し、乱菊はため息混じりに言った。
「こういうのは社交辞令だから、一応挨拶だけってつもりで顔出させたんだけどさ。誰かがおもしろがって呑ませちまったみたいでねぇ」
「悪いなぁ、乱菊。そりゃ僕だ」
錆びた、耳に快い声がした。
障子に背の高い影法師が映り、八番隊隊長・京楽春水が顔を出した。
「七緒ちゃん、そんな庭先に突っ立ってないで、こっちに上がっといで。大丈夫、おっかない山じいは、疾うに帰っちまったよ」
「隊長……」
死覇装の上にぞろりと派手な小袖を羽織り、長い髪はうなじで束ねて小さな風車を飾っている。相変わらず酔狂な身なりだ。
「そっちは……おや、五番隊の――」
京楽の言葉に、七緒も振り返る。
庭の片隅にホタルカズラの提灯がもう一つ。提げているのは、五番隊副長の雛森 桃だった。
「あ、あの、遅くなりまして」
桃はぴょこんと頭を下げた。
「いやいや、遅かァない。丁度いい時分に到着したよ、桃ちゃん」
その親しげな呼び方に、七緒は眉をひそめた。よその隊の副長を、そのように馴れ馴れしく呼ぶのはいかがなものかと思うのだ。
だが京楽は知らん顔で、座敷の中に向かって呼びかける。
「藍染。お迎えだ。おい、立てるか、藍染」
やがて京楽に肩を借りながら、五番隊隊長・藍染惣右介が庭に続く濡れ縁へ出てきた。かなり酔っているのか、いささか足元がおぼつかない。
「すまないな、桃ちゃん。少々呑ませすぎちまったようだ。こいつが下戸だってのは承知してたんだが」
女中が揃えてくれた草履を何とかつっかけ、藍染はふらふらと庭へ出た。桃が駆け寄り、すぐにその手を支える。
「大丈夫ですか、藍染隊長」
「あ、いや……だいじょうぶ。自分で歩けるから……」
と言うものの、その言葉すら呂律がはっきりしない。眼鏡の下で、涼しげな目元が薄桜色に染まっている。
普段は端然として居住まいを崩さない人が、たまに酒を過ごして酔った姿を見せるのも、悪くないと七緒は思った。乱れた襟元やうなじに貼り付いた後れ毛に、一瞬、視線が吸い寄せられ、胸の奥に不意に熱い揺らぎを覚えたりする。
……たまさかに見るから、まるで彼の秘密に触れたようで、大きく心を動かされるのだ。年がら年中酒浸りのおっさんなどには、こんな不意の感情など爪の先ほども感じたりはしない。
七緒は、藍染に副長として仕え、彼を一心に敬慕している桃が、ふと羨ましく思えた。
藍染を支えながら、桃はもう一度振り返り、一礼した。
「お先に失礼いたします。皆様、おやすみなさいませ」
「おやすみなさいませ、藍染隊長。おやすみ、桃」
「お気をつけて」
乱菊と七緒も丁寧に二人を送り出した。
が、その時。
「おーい、桃ちゃん。藍染に夜這いかけるなら、今夜がチャンスだぞぅ!」
「え、えぇっ!?」
「大丈夫大丈夫! ナニが勃たなくなるほどは、呑ませちゃいねェから! 藍染みたいな堅物は、少し酒が入ってるくらいのほうがムスコが言うこと聞くもんだ!」
「き、京楽隊長!?」
「いいかぁ、屯所に着いたらそのまま押し倒しちまえ。なーに、玄関先だってかまうもんかい。布団とか寝間とか、男はそんなん、気にしないもんだ。有無を言わせず乗っかっちまえば、藍染だって嫌とは言うまいよ!」
桃は熟れた苺みたいに、耳まで真っ赤になった。
「京楽くん、僕は、何も――! だから、その、ひ、雛森くん……っ!」
泡を食った藍染が、支えていてくれた桃の手をぱっと離す。その拍子に足がもつれたか、藍染はぐらりと大きくよろめいた。
庭石の上に尻餅をつきそうになった藍染を、桃は袖をつかんで慌てて引き戻した。
「た、隊長! 大丈夫ですか!?」
「ひ、雛森くん、誤解だよ。彼の言うことは――!」
ろれつの回らない口調で、藍染は必死に京楽の言葉を否定し続けていた。だがその顔が、耳元から喉のあたりまで真っ赤に染まっているのは、けして酔いのせいばかりではあるまい。
「野暮を言うなよ、藍染。お前、女の子に恥をかかせるつもりかい。こんないじらしい娘(こ)にそこまで想われて――ああ、そうか。桃ちゃんからじゃなく、お前のほうから手を出したかったか。そりゃそうだなぁ。男の沽券ってものが……」
「も、もう結構ですっ! 失礼いたしますっ!!」
桃はそのまま顔を上げることもできず、藍染の手を引っぱった。
藍染も桃に手を引かれるまま、二人は逃げるように料亭の庭を飛び出していった。
「あれま。可愛い連中だ」
「隊長! なんて品の悪い!!」
七緒は怒鳴った。怒りと恥ずかしさで、顔から火が出そうとはまさにこのこと、眼鏡まで曇ってしまいそうだ。
「ああ、七緒ちゃん。怒るとまた一段と別嬪さんだ♥」
減らず口ばかり叩くその口元を、いっそ一発ひっぱたいてやりたいと思った時。
京楽はすいと渡り廊下を歩き出した。
「隊長、どちらへ」
「手水(ちょうず:トイレのこと)。七緒ちゃんも一緒に行くかい?」
「行きませんッ!!」
気がつくと、乱菊が障子に隠れるようにして、くすくす笑っていた。
「乱菊さん」
「ああ、すまないね。つい……」
「いいんです。いつものことですから」
憮然として七緒は答えた。
「まったく……。京楽隊長はどうしていつも、あのようなことばかり仰る(おっしゃる)のでしょう。護廷十三隊隊長としてのご自覚が、かけらもおありにならない!」
「おや、そうかい?」
「そうです! わたくし、副長として恥ずかしい限りです!」
「そうかねぇ。あたしにゃ京楽さんは、随分とさばけて懐(ふところ)の深い、美い(いい)男に思えるけどねぇ」
「ど、どこが!」
七緒は乱菊に食ってかかった。
「酔って高歌放吟、挙げ句の果てには、あ、あんな下品な――!!」
「あのくらい、下品の内にも入らないよ」
乱菊はからからと気持ちよさそうに笑った。
「酔って歌って下ネタ連発、まぁ罪のない酒じゃないか」
「そんな、乱菊さん……!」
「いいかい、七緒。本当に人に迷惑かける酒ってのは、あんなもんじゃないんだよ」
そして、ちらっと視線で座敷の中を示す。
宴に出席していた隊長達は半数以上がすでに店を出たらしく、女中達がまだ残っている客に気遣いつつも、空いた皿から順に片づけを始めている。
「こういう呑み屋商売で、店の者ですら嫌がる客ってのはね――」
乱菊の視線の先には、三番隊隊長・市丸ギンがいた。
「隊長、もう帰りましょう。宴ももうお開きになったんですから……」
「いやや! なんであない辛気くさい詰め所に戻らなあかんねん!」
「そんな、隊長……」
ギンの横では、彼に仕える副長の吉良イヅルが、尻に根が生えたような隊長をどうにか立ち上がらせようと、四苦八苦している。
「いい加減に帰らないと、明日の任務に差し支えますよ」
「明日は非番や」
「僕は任務があるんですってば」
「お前の任務なんぞ知ったことか!」
ギンは立ち上がるどころか改めて胡座(あぐら)をかいて座り直し、銚子の乗った膳を自分の前に引き寄せた。酔いに眼が赤く染まり、据わっている。てこでも動く気はないらしい。
「店が嫌がる客、その一」
小声で、乱菊が七緒にささやいた。
「閉店時間が過ぎても、居座る客」
片づけを始めた女中達も、護廷十三隊の隊長をそこらの飲んだくれのように無下に叩き出すこともできず、さりとてこのまま居座られてはと、かなり困惑気味だ。
「上司と一緒に呑んだかて旨いわけないやろ、山じいが帰った今からが本番やないか! 大体イヅル、お前、そないなトコ電信柱みたいに突っ立って、なんちゅう無粋な奴ゃ(やっちゃ)。ほら、盃持てや!」
自分が不味いと言った上司との酒を、ギンは部下のイヅルに無理強いしている。強引にイヅルを座らせ、その手に持たせた盃へだばだばーっと溢れるほど酒を注ぐ。
「『駆けつけ三杯』いうやろ。ほら、ぐーっと空けぇや!」
「だから隊長、僕は下戸で……」
「なんやて!? お前、ボクの酒が呑めへん言うのんか!!」
「た、隊長ぉ、勘弁してくださいぃ……っ!」
イヅルはもう、半ベソかいている。
「そんならそのお流れ、僕が頂戴しようかね」
大きな手が背後からすいっと伸び、イヅルの盃を取り上げた。
あっけにとられるギンとイヅルが止めるひまもなく、京楽は手にした盃の酒をあおり、美味そうに飲み干してしまった。
「なにさらす! 人の酒、勝手に呑むな!」
ギンが京楽の手から酒杯をひったくった。
「おいおい、しみったれたことを言うなよ、市丸。誰が飲もうと酒は酒じゃないか。床にこぼされるより、美味しく呑める者の腹に収まったほうが、酒の身にも幸せというもんだ」
「お前みたいなむさ苦しいおっさんに呑まれてしもたら、酒かて哀れやわ!」
「まあまあ、そう毛嫌いするなって。同僚のよしみじゃないか」
京楽は笑いながら、ギンの横にどっかと腰をおろしてしまった。
その後ろでは、これ以上居座られたくない店の者たちが、はらはらしながら二人を眺めている。
「なあ、見てみろ、市丸。善い月じゃあないか」
京楽は身を乗り出すようにして、開け放した障子の外を眺めた。
外には冷たい夜風が吹き抜け、黒々とした庭木の影の上に、おぼろに霞む十六夜月が浮かんでいる。
「この料亭(みせ)の庭からの月の眺めは瀞霊廷でも屈指というが、いや、たしかに。善い月に善い酒、善い肴(さかな)。これ以上の幸福はないな」
なにを呑気なことを……と、七緒は思わず死覇装の袂を握り締めた。無意識のうちに袖を両手でいじくり回す。
二人の隊長の背後にいる店の者たちの視線が、次第に険しくなってきている。イヅルもそれに気づいているらしく、冷や汗を浮かべながら二人の背後で立ったり座ったり、声は出さずに両手でなにやらアクションしてみたり、まったく落ち着かない。
が、京楽は鼻歌交じりで銚子を取り上げ、手酌で呑み始めた。
「おお、そうだ。今夜のような朧月も善いが、秋の風情はやっぱり紅葉だ。三番隊の詰め所にはそりゃあ見事な楓があるそうじゃないか。誰かさんがさぞ丹精してるんだろうなぁ」
いきなり自分の詰め所のことを言われ、ギンは少し不審そうな顔をした。
だが誉められて、まんざらでもないようだ。
「ふふん、そら、まあな」
珍しく、話に乗ってきた。普段、自分のことは極力話さず、すぐにはぐらかしてしまうギンだが、さすがに今夜はかなり酔いも回っているらしい。
「ぼくやない。イヅルがいろいろと手ぇかけとんのや。先月の夏嵐でだいぶ枝も傷んでしもたようやったけど、ここ二、三日の冷え込みで、かーなーり綺麗に色づいてきたで」
「そんなら、どうだろう。これからちょいと、市丸ご自慢の紅葉を肴にまた一杯といこうじゃないか」
【 朧 月 ――哀しき中間管理職・2――】