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――奴が、来た。
空間の揺らぎが、それを教えている。
乱れる魄動。一瞬、空が真っ白に光り、続いて雷鳴のような大音響がとどろき渡る。あるいは大銅鑼を乱打するような。
空気がびりびりと震える。全身の皮膚が総毛立っていく。
張り巡らされた遮魂膜が破られる。悲鳴のような音をたてて、もろく引き裂かれていく。
うろたえ騒ぐ見習い共を押しのけ、恋次は建物の外へ走り出た。
天を振り仰ぐ。
空が、裂かれている。
純白の大きな爆発光が花びらのように広がり、そこから四つの小さな光が矢のように飛び出した。
四つの光の珠は、暗い空に鋭く残像のラインを描き、そして街の彼方に消えた。
奴だ。
消えていく残像を睨み、恋次はぎりぎりと歯噛みした。
奴だ。奴が来た。
この、全身に叩きつけられるような重く熱い、激しい霊圧。まだ不安定に波うつようでありながら、瀞霊廷全体を猛々しく威圧する。強く足を踏みしめていないと、頭上からのしかかられるような圧力に負け、押し潰されてしまいそうだ。
この不愉快な霊気を、誰が間違えるものか。
とうとう来た。奴が、現世と来世の壁を乗り越え。
ルキアを奪い返しに!!
引き裂かれた虚空を見上げ、恋次は斬魄刀・蛇尾丸の柄を握り締めた。
蛇尾丸もまた、主の怒りに呼応するかのように、低く唸るような共鳴を放っていた。
ものごころついた時にはすでに、恋次はルキアを視界のすみに捉えていた。
自分がいつからあの少女を見ていたのか、覚えていない。自分が、そしてルキアが、どうして流魂街にいたのか、何ひとつ。
流魂街は浮かばれぬ魂の吹き溜まりだ。現世と来世を結ぶ死神たちの、その慈悲深く残酷な手からこぼれ落ちた寄る辺ない魂。自分もその中のひとつにすぎなかったのだろう。人であった時分の記憶がないのは、死亡した時にまだ御祓(みそぎ)も受けぬ赤ん坊だったからだろう。あるいは、ヒトですらなかったからか。
尸魂界(ソウル・ソサエティ)では、すべての魂が肉体の束縛を離れ、己が最も望む姿形になる。動物の魂が人の姿に、あるいはその逆にということも、ありえぬ話ではない。
ともかくも、自分はあの木枯らしばかりが吹き抜ける寒々しい街で、膝を抱え、ものも言わずに座り込んでいたのだ。ほとんど身動きすらせずに、まるで自分自身、木枯らしで街角に吹き寄せられたごみ屑であるかのように。
そしてルキアも、また。
恋次から少し離れた建物の陰に、ぼんやりとうずくまり、うつむいていた。
生きてもおらず、死んでもいない。来世へ続く希望も持てぬまま、無為の魂たちが浮遊する場所。そんな流魂街で、あちらに一人、こちらに一人と、無言で座り込む小さな子供たちなど、誰の目にも留まることはなかった。
そのまま何年、何十年、時が過ぎたことだろう。
その間ずっと、恋次はルキアの姿を見ていた。見ているとルキアにも誰にも気づかれないよう、顔を伏せ、それでも眼をそらすことができなかった。
そしてある日。
彼らの前に、一人の男が現れた。
朽木白哉。
「綺麗な子だね」
白哉はルキアを見つめ、そう言った。まるで彼自身が、天の御使いか、あるいは神そのものであるかのように綺麗なのに。
ぼろ切れにくるまり、無気力に澱んだ眼をした、薄汚い子供。そのルキアに向かい、彼はそう言ったのだ。
恋次は声もなく、白哉を見上げた。
この男には、見えている。
今まで自分以外には誰一人として気づかなかったものが。
ルキアの背にある、美しい羽根。
それは無意識に流れ出す霊力が、そのような形、あるいは幻として見えているだけなのだろう。幼かった恋次は、それがルキアの霊気だということすら知らなかった。
他者の霊力のかたちは、自身の霊力が低い者には見ることができない。この流魂街で、ルキアの霊力のかたちが見えていたのは、恋次だけだった。
美しい、蝶々の羽根。
それは、時折り四方の門より放たれる黒死蝶の羽根にも似て、あざやかな紋様を持ち、淡くるり色の光を放つ。
ルキア自身ですら、自分の羽根の存在(こと)を知らないようだった。自分の背中を自分でつぶさに見ることはできないのだから、仕方がない。
それが恋次以外の誰の目にも触れなかったのは、幸運だった。ここはうつろな魂の浮遊する街。正義や良心などなきに等しい。弱い者は虐げられ、綺麗なものは汚される。ルキアのこの羽根も、もしも誰かに見られたら、きっと無惨にむしられてしまうだろう。
それを隠すためにも、自分は極力ルキアのほうへ顔を向けなかったはずだ。自分がまじまじとルキアを見つめていることを誰かに気づかれたら、いらぬ興味を招き寄せてしまうだろう。誰の注意も引かず、誰に見られても視線はすべてルキアの上を素通りしていくように、黙っていたのだ。
だが今。
若く美しいこの男。死神の着る死覇装の袖を音もなくはためかせ、突然、ルキアの前に立ったこの男。
彼には、ルキアの羽根が、見えている。
ルキアもまた、茫然と白哉の美しい面差しを見つめていた。
「おいで」
白哉は手を差し伸べた。
「お前にふさわしい場所へ連れていってあげよう」
おずおずと伸ばされた、小さな手。それを掴むと、白哉は軽々とルキアを腕に抱き上げた。
ルキアは彼の手に抱かれると、すぐに眼を閉じ、その胸にもたれかかった。まるで赤ん坊が母親の胸で安心しきって眠るように。白哉の手の中にあるルキアは、美しい等身大の人形のようだった。
そして少女は、恋次の隣から連れ去られてしまったのだった。
後(のち)になって、周囲の大人たちが恋次に教えてくれた。――あれは瀞霊廷の死神だよ。おそらくは隊長級(クラス)、我々が直に口をきいて良い方じゃない。吹き溜まりを這いずり回るこの身からすれば、神にも等しい御方さ。
そんな方に見初められ、あの娘はなんと幸運なことだろう。お前も、あの娘の幸せを妬んではいけない。これもすべて宿世(すくせ)なのだから。
ならば、ルキアは幸せなのだろう。そんな優れた人に見いだされ、この魂の廃墟を抜け出すことができたのだから。
けれど、残された自分は。
今一度。せめてもう一度。あの美しい姿を見たい。
あの少女に、逢いたい。
思えば自分は、ルキアの声すら覚えていない。ルキアはいつも黙って下を向き、冷たい無機物(もの)のように座っていただけだったし、恋次からルキアに話しかけたこともなかった。あの子の名前も、本人から聞いたのではない。連れ去られた後に、街の大人たちが噂し合っているのを聞いて、初めて知ったのだ。もしかしたらルキアは、恋次の存在自体にも気づいていなかったかもしれない。
「もう一度あの娘に会いたいのかい? ならお前も、死神にお成り」
骨と皮ばかりの痩せた指が、高く、そして固く閉ざされた門を指さした。彼らを拒否し続ける四方の門を。
「あの門を突破して、瀞霊廷に入るんだ。訓練生に志願して、死神にお成り。運が良ければもう一度、あの娘に会えるだろうよ。その前にお前の魂が擦り切れて、霧散してしまわなければの話だが」
その言葉を信じ、恋次は闇雲に門へ向かって突進した。そして門番に文字通り指一本ではね飛ばされた。
門番から見ればその時の恋次など、塵芥(ちりあくた)にも劣る存在であったろう。
――力が足りない。
もう一度、あの子のそばに戻るには。
あの子の声が聞きたい。いつも人形のようにうつろで、笑うことの無かった唇が、今は本当に笑みを取り戻しているのか、それだけでも確かめたい。そんなささやかな望みを叶えるのにさえ、自分はあまりにも非力すぎる。
力が欲しい。
誰にも敗けない、力が。
その日から、恋次の成長が始まった。
もともと、尸魂界にいる者は、すべてが魂だけの存在だ。その外見は魂の有り様の反映、その者が最も望む姿が現れる。現世での己に執着する者は生きていた時の容貌を引き継ぎ、それを嫌っていた者は、あるいは忘れてしまった者は、己が理想とする姿に近づく。
今まで恋次とルキアが幼い子供の姿であったのは、それが都合良かったからだ。物陰にうずくまり、目立たぬようひっそりと隠れているには、身体の小さな子供でいたほうが良い。
だが子供のままでは戦えない。自分の奥底に眠る霊力を引きずり出し、思う存分振るうには、それにふさわしい強靱な器が要る。
恋次の外見は急速に成長し、やがて顔つきまでが変わった。背丈が伸び、肩にも背中にも厚くしなやかな筋肉が張りつめた。大型の肉食獣を思わせる体つきになった。荒削りな容貌に、両眼は刃のような光を宿し、見る者すべてを威圧する力を放つようになった。
うつろな眼をした子供はもうどこにもいない。ここにいるのは、若く精悍な、そして強い男だった。
そして恋次は再び門へ向かい、乗り越えた。
――ルキアのいる世界へ。ルキアと同じ場所へ。
【 黒 死 蝶 々 T
】
――Talk’in by RENJI
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