【桜に雨の降るごとく】
〜ヨコハマ・もうひとりの桜乃の物語〜
 わたしがそのお屋敷へうかがったのは、春先の冷たい風の中でした。
「いいですか。お屋敷にあがったらお行儀良く、皆さんに気に入っていただけるよう、一所懸命に働くのですよ」
「はい、尼僧様
(シスター)
「旦那様や奥様に、感謝の気持ちをけして忘れませんように。お優しくも身よりのないあなたを引き取って、お屋敷に置いてくださるのですから。そしてまた、あなたに救いの道をお示しくださった神様にも、感謝するのですよ」
「はい、尼僧様。忘れていません」
 そう返事はしたものの、わたしは不安と期待で、足ががくがくふるえて止まりませんでした。
 わたしは両親の顔を知りません。わたしが生まれてすぐ、横浜の半分を焼き尽くす大火があり、父も母も巻き込まれて亡くなったのだそうです。
 わたしを育ててくださったのは、基督
(キリスト)教会に付属した慈善救護院の優しい尼僧様たちでした。その施設には、わたしと同じように身よりのない子どもたちがおおぜい集められ、共同生活を送っていました。救護院の運営資金は、主として富裕な貴婦人たちが寄せてくださる寄付金で賄われているそうです。
 けれど規則で、救護院には尋常小学校を卒業するまでしか居られません。卒業したら、なにか職を見つけて、自分の力だけで生きていかなければならないのです。男の子ならまず、職人に弟子入りか、商家へ丁稚
(でっち)奉公か。女の子なら女中奉公か工場の女工くらいしか道はありません。ご一新(注;明治維新のこと)で士農工商の別がなくなり、職業選択の自由が生まれたからといって、学もなく、ろくな技術もない十二かそこらの子どもを雇ってくれる仕事など、ほとんど見つからないのが現実です。
 わたしはこの三月、尋常小学校を卒業しました。
 尼僧様たちはあちこち走り回って、わたしのために住み込みの女中奉公の口を見つけてくださいました。
「手塚様は士族のご立派なお家柄です。ご一新前はお旗本でらっしゃったとか。そんな由緒あるお家で働かせていただけるなんて、本当にあなたは幸せですよ」
「はい……」
 そうしてわたしは、ようやくほころび始めた桜のもと、お屋敷の門をくぐったのでした。
 丈の短くなった絣の着物にすり減った下駄、飾りもなにもないお下げ髪。小さな風呂敷包みだけをかかえたわたしは、大きなお城のようなお屋敷には、あまりにも不似合いに思えました。
「大丈夫、素直に、正直におつとめしていれば、きっとうまくいきますよ。聖母様のみ恵みが、あなたの上にありますように」
 女中頭さんにわたしを預けると、尼僧様はそう言い残して帰っていかれました。
 桜が咲き初めると同時に、こうしてわたしの新しい生活が始まりました。
 いざ始まってしまえば、最初の心配ほどは、苦しいことやつらいこともありませんでした。目が回るほど忙しい毎日ではあるのですが、ともに働く人たちはみな親切で、いつも黒い服に身を包み、まるで修身の教科書がそのまま人の姿になったような慇懃な女中頭さんも、不慣れなわたしに根気よく仕事の手順を教えてくれました。
 新しい着物もいただきましたし、四人一部屋の女中部屋も気になりません。救護院では、一つの部屋に一〇人もの子どもたちが寝ていたのですから。
 西洋の領主館を真似て造られたという広いお屋敷にお住まいなのは、ご一新前は直参旗本でいらした謹厳実直な大旦那様、大きな貿易会社を経営していらっしゃる旦那様とお美しくお優しい奥様、そして帝大に通っていらっしゃる若様の四人。
 もっともわたしは、旦那様方にお目通りしたことなどありません。新参の、それも台所の下働きなど、お屋敷のみなさまにおいそれとお会いできるはずもないのです。
 若様がお生まれになる前からお屋敷で働いているという女中頭さんは、それはそれは若様のことがご自慢のようでした。
「国光坊ちゃまは、帝大始まって以来の秀才なのですよ。西欧へのご留学を目指して、むつかしいお勉強をなさっておいでなのです。今にご立派なお医者さまにおなりですよ。ええ、わたくしがお育てした国光さまですもの」
 時折り、庭の隅など遠くからお見かけする若様はたいそう背がお高くて、いつも厳しげな表情
(おかお)をなさっていらっしゃるようでした。もちろんわたしは、若様のお声を聞くことすらありませんでした。
 そしてわたしがお屋敷にあがって、十日ばかり経った頃――春先の冷たい雨で少し開花が遅れていたお庭の桜が、ようやく満開を迎えた頃のことでした。



「これを庭の四阿
(あずまや)へ持っていきなさい。そこで若様が御本を読んでおいでだから」
 わたしは、女中頭さんから小さな四方盆を渡されました。漆塗りのお盆の上には、不思議な香りのする真っ黒な色の飲み物と、西洋から取り寄せた丸い小さなお菓子が載せられていました。
「本当なら新前のお前に任せたりはしないのだけれど、今夜はお屋敷で夜会
(パーティー)があるのでね。他の者はその準備で手が離せません。お前も、坊ちゃまにお茶をお届けしたら、ぐずぐずしないですぐ戻ってくるのですよ。坊ちゃまのご勉学の邪魔になるようなことは、けしてしてはいけません」
「は、はい。わかりました」
 わたしはお盆をひっくり返さないよう精一杯緊張して、まるで操り人形みたいにぎくしゃくした動きで、庭へと向かいました。
 四阿は広い庭のほぼ真ん中、池を望む小山
(こやま)の上に造られています。若様のお気に入りの場所らしく、わたしも一、二度、そこで本を読んでいらっしゃるお姿をお見かけしたことがありました。
 桜の花びらが雪のように舞い落ちる中、池のほとりまで来てみると。
 けれど若様の姿は、四阿の屋根の下にはありませんでした。
「え……? わ、若様、どこに――」
 お盆を持ったまま、わたしはあたりをきょろきょろ見回しました。
 満開の桜がはらはらと散るほかは、動くものなどなにも見えない、そう思った時。
 いきなり、がさがさっと大きな音がしました。
 目の前の植え込みが揺れて、そこから黒い大きな影法師が、ぬッと飛び出してきたのです。
「きゃあッ!?」
 わたしは思わず悲鳴をあげ、お盆を取り落としそうになりました。
「おっと」
 落とす、と思った瞬間、さっと大きな手が伸びて、お盆を支えてくれました。
「すまない。驚かすつもりはなかったのだが」
 その手の主を見上げ、わたしはさらに吃驚
(びっくり)してしまいました。
「わ……わ、若様……っ!」
「大丈夫か。火傷など、しなかったか」
 わたしは返事をすることすらできませんでした。
 初めて聞いた若様のお声は、想像していたよりもずっとお優しそうでした。
「木陰で本を読んでいたら、そのまま眠ってしまったようだ。吃驚させて、すまなかった」
 間近でお会いした若様は、なんて背がお高いのでしょう。ネルの真っ白いシャツに深い藍のお着物がよくお似合いで、天を目指して真っ直ぐに伸びる若竹のようです。わたしの重みの足りない猫っ毛と違ってつややかに黒い、少し硬そうなお髪
(ぐし)。それと同じ色の涼やかな瞳が、ちょっと怖そうな眼鏡の奥から、まっすぐにわたしを映していました。
 その凛としたお顔立ちは、昔、救護院の絵本で見た、九郎判官
(くろうはんがん:源義経のこと)や敦盛公(あつもりこう:平家物語の悲劇の武将)のようでした。
「どうかしたか?」
 その言葉に、わたしは無礼にもまじまじと若様のお顔を見つめてしまったことに、ようやく気づいたのでした。
 わたしはぱっと顔を伏せました。きっと耳まで真っ赤になっていたでしょう。両手でお盆の端を握り締めたまま、もう顔をあげることもできませんでした。
「おや。お前、見ない顔だが……そうか、新しく来た女中見習いというのは、お前か」
「は、はい。どうぞ、よろしくお願いいたします……」
 固くうつむいたまま、わたしはどうにかお盆を若様へ差し出しました。
「珈琲だけでいい。俺は、甘いものはあまり好かないから」
「え……」
 そうおっしゃると、若様はお盆の上から飲み物のカップだけをお取りになりました。
「菓子はお前にあげよう。食べなさい」
「い、いいえ、そんな……! だ、だめです、わたし、叱られます……」
「いいから、食べなさい。誰かになにか言われたら、俺が言いだしたのだからと答えればいい」
 けして強くはないけれど、逆らうことを許さない、静かな力のある声でした。
「は、はい。いただきます」
 わたしは頭を下げ、小さな丸いお菓子をおそるおそる口に入れました。
 やわらかい小麦のお菓子は口に入れた途端、ほろほろと溶け、甘い香りが身体中に染み渡っていくようでした。
「美味しいか?」
 若様がお訊ねになりました。
 わたしは声を出すこともできず、こくこくと何度もうなずくのが精一杯でした。口を開けば、このとろけるような甘さが、香りと一緒に逃げてしまいそうな気がしたのです。
「そうか、旨いか」
 若様はふっと微笑みました。
「これから午後や夜食の茶は、お前に運んでもらうことにしよう。菓子はみんなお前にあげるから」
「そ、そんな、若様っ!」
 それではまるで、わたしがお菓子をねだったようです。そんなお行儀の悪いことをしたら、わたしはきっとすぐにお屋敷を追い出されてしまうでしょう。
 けれど若様は、
「俺から女中頭に言っておこう。お前――そうだ、お前、名前は?」
 わたしは困ってしまいました。
 実は、救護院の尼僧様がつけて下さったわたしの名前は、お屋敷で最古参の女中さんと同じだったのです。とてもありふれた名前だったので。
 それではあまりに紛らわしいから、別の呼び名を考えなくてはね、と、女中頭さんからも言われていたのでした。
 そのことを告げると、
「そうか。たしかにそれじゃあ不便だな」
 若様はふと、考え込まれました。
 うす紅色の霞のような、満開の桜を眺め、そして、
「桜の時期に家
(うち)へ来たから、さくら――いや、少し変えて、『桜乃』はどうだろう」
「さ……く、の……?」
「こういう字だ」
 小枝を拾って、若様は地面に文字を書きました。
 『桜乃』。
 顔を上げれば、ガラスの奥から優しい瞳が、わたしを包み込むように見つめていました。
 わたしはなかば夢うつつのように、小さくうなずきました。
 その日から、私の名前は「桜乃」になりました。






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