不二様は、哀しそうに微笑しました。
「なにもかも手塚に背負わせてしまっては、かわいそうだよ」
「不二様……!」
「医学はそんなに万能じゃない。この世には、治癒
(なお)せない病のほうが多いんだ」
 そんなことをおっしゃってはいけません、と、言おうとしました。それではまるで、ご自分から治癒ることをあきらめているようではないですか、と。
 けれどその言葉は、喉の奥で絡まって、どうしても声になりませんでした。
「感謝しているよ、手塚。こんな碌でなしを見捨てずに、命を救おうとしてくれたのは、きみだけだ」
 いきなりの言葉に驚いて振り向くと、そこにはいつの間にか若様が立っていました。
 風通しのために開け放しておいたドアから、入って来られたのでしょう。
「若様……!」
「桜乃。お前はここに近づいてはいけないと言っただろう」
 若様はふだんどおりのお顔をしていました。ただわずかに眉をくもらせ、それが逆に言葉に出来ない強い哀しみを感じさせました。若様はまるで、今にも泣き出しそうなのを懸命に堪える、小さな男の子のように見えました。
 こんな若様を見るのは、初めてでした。
「叱らないでやってくれ、手塚。ごらん、その子は、きみの言いつけを忠実に守っているよ」
 不二様はわたしの手ぬぐいを示し、笑顔を見せました。
「この家にはとても優秀な看護人がいるんだな。きみが羨ましいよ、手塚」
 若様は小さくうなずき、それからわたしに部屋を出るように言いました。
「これからは、俺が良いと言うまでここに入ってはいけない。わかったな」
「はい……」
 わたしはうなだれて、お部屋を出ました。
 扉を閉める瞬間、不二様の声が聞こえました。
「もういいよ、手塚。ぼくのことまでお前が背負い込む必要はないんだ」
 それに、若様はなんと言って答えたのでしょう。それとも、なにもおっしゃらなかったのでしょうか。
「ぼくは、もう……充分だ」
 ひどく疲れて、けれどどこかやすらいだ、泣きたいくらいに静かな声でした。
 不二様にお会いしたのは、それが最後でした。


 それから間もなく、不二様はお屋敷を離れました。山間
(やまあい)の空気の良い、静かな療養所(サナトリウム)へ移られたのです。
 若様は何度か療養所までお見舞いに行かれたのですが、不二様には会えませんでした。病みやつれた姿を見せたくないと、言われたそうです。若様やほかのお友達からの手紙だけは受け取ってくださったようですが、それに対するお返事はありませんでした。
 不二伯爵家ではご長男の周助様を、心身虚弱を理由に廃嫡
(はいちゃく:長男としての相続権を取り上げること)し、陸軍幼年学校に通うご次男の裕太様を新たに嫡男(ちゃくなん:相続権を持つ男子)としてお国へ届け出られたと、風の噂に聞きました。
 やがて夏が過ぎ、空が次第に高くなっていきました。ふと気づけば、お屋敷の庭にも萩の花が咲きこぼれる時期になっていました。
 吹く風が冷たくなるにつれ、若様がいつにも増して口数が少なくなっていくのを、お屋敷中の誰もが感じ取っていました。
 そして、その年最後の野分
(のわき)が吹いた夜。
 お屋敷に一通の電報が届けられました。
 山間の療養所からでした。
 夜半になって、冷たい雨が降り出しました。
 その雨の中、若様はいつまでもお庭に立ち尽くしていました。
 次第に強くなる雨にうたれた萩の花びらが、まるで積もる雪のように地面をおおっていました。ようやく色づき出した楓の枝も重たくうなだれ、風に揺れるばかりでした。
 若様はそのもとに立ち、ただじっと空を見上げていました。
 濡れた前髪から冷たい雫が、額へ、頬へと、透明な筋を描いて滴り落ちていました。かたく握られたこぶしから、雨に溶けた血がかすかに滴っているのを、わたしは見ました。若様は、自分の爪で手のひらを傷つけているのにも気づかず、両のこぶしを握り締めているのでした。
「桜乃」
 低く、若様はわたしの名前を呼びました。
「屋敷に入りなさい。風邪をひく」
 わたしは動きませんでした。初めて、若様のお言いつけに背きました。
 そして若様も、それ以上わたしを追い払おうとはなさいませんでした。
 けれどそのほかに、わたしにはなにもできませんでした。
 わたしは初めて、神様を恨みました。
 どうして神様は、若様の大事なお友達を取り上げてしまわれたのでしょう。
 どうして不二様は、若様が立派なお医者様になられるまで、待っていては下さらなかったのでしょう。
 ――なにもかも手塚に背負わせてしまっては、かわいそうだよ。
 あの日、不二様に最後にお会いした日、不二様がおっしゃっていた言葉が、思い出されました。
 あの時すでに、不二様はこの夜が来ることをご存知だったのでしょう。
 そして、若様も。
 若様もご存知だったのです。ご自分の力では、お友達を救うことができないのを。
 傷つき、泣きたいのを懸命に堪える小さな男の子のようだった、あの時の若様のお顔。
 あれは、自らの運命を受け入れた友人を哀しんでいたのではありませんでした。
 ――不二様のご病気だって、若様がきっと治癒
(なお)してくださいます!
 あの時、わたしが言った言葉。なにも知らず、無邪気にそう信じ込んでいた、愚かな子どもの言葉。
 誰よりもそれを願っていたのは、若様ご自身だったでしょう。そして、それがけして叶わない夢だということも、若様ご自身が誰よりもご存知なのでした。
 わたしの言葉は、若様にとってどれほど残酷なものだったでしょう。
 わたしにはもう、なにも言えませんでした。
 若様から少し離れた場所に立ち、同じ雨に濡れていること。それだけが、わたしにできるただ一つの贖罪でした。
 わたしは知っていました。若様の頬を濡らしているのが、けしてこの雨ではないことを。
 雨は、いつまでも止みませんでした。


 やがて季節は巡り、ふたたび桜の花が咲く時期が来ました。
 雪のように降りしきる花びらの中、若様は旅立たれました。
 黒い真新しいインバネス
(注:男子用の外套)を羽織り、革製の旅行鞄を持って、横浜の港から遠い異国へ向かう船に乗られたのです。
 港までお見送りに行かれたのは、旦那様や奥様などご家族と、限られたお友達だけでした。勉学のために向かうのだから、大仰な見送りは必要ないと、若様がおっしゃられたので。
 自らの力の及ばないことがあると知りながらも、若様は医学の道を諦めはしませんでした。自らにはけして救えない命があるから、ならばせめて救える命をひとつでも救いたいと、ご自分の道を定められたのです。
 わたしたち使用人は、お屋敷の玄関先に並び、若様が馬車に乗り込まれるのを見送りました。
 誰もが懸命に涙を堪えていました。若様の晴れの門出なのだから、笑顔で送り出して差し上げなければ、と。
 馬車が静かにお屋敷を離れると、わたしは庭を抜け、裏口からお屋敷の外へ出ました。
 息が切れるまで走り、何度か転びながら、港が見下ろせる丘の上まで。懸命に走り続けました。
 遠い水平線を眼にした時、ぼぉう……と低く、船の汽笛が聞こえました。
 黒い煙が立ちのぼるのが見え、そして大きな外輪船が出航していく姿が目に映りました。
 あの船に――あの船に、若様が乗っていらっしゃる。
 遠いお国へ行ってしまわれる。もうお声も聞こえない、遠くへ。
 もう二度と、「桜乃」とわたしを呼んでくださることはない。
 涙が落ちました。
 たとえ涙をこらえても、「よく泣かなかったな、偉かったぞ」とわたしを誉めてくださる方は、もういないのです。
 ……初めての恋でした。
 誰に告げることもなく、この胸の奥に秘めるだけの、わたしの恋でした。

                                           −終−












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V
 このお話、最初は「ヨコハマ物語」の番外編にするつもりだったのですが、ストーリーの展開上、どーも「ヨコハマ」に手塚が出せそうにないような気がしてきたので(-_-;)、ひとあし先にこのような形にまとめることにしました。ここに登場する不二は「ヨコハマ」の不二と同一人物かも知れませんし、まったくの別人かも知れません。お読みになる方の自由な解釈にお任せします。
 しかし、こーゆー昭和初期少女小説風の文体は、書いてて楽しかったっすよー(*^_^*) 機会があれば、またやりたいっす。
 この頁の背景画像は「Salon de Ruby」様よりお借り致しました。
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