【ヨコハマ物語・1】

                                                    一、異国から来た少年


 長く薄暗い廊下を、桜乃は足音を忍ばせながら、小走りに抜けていった。
 窓の外では、染井吉野の花びらがちらちらと雪のように舞っている。けれど春のあたたかさは、この廊下にはちっとも入ってこない。素足で踏む板がひどく冷たい。
 もう陽は高いというのにあたりは暗く、廊下の両脇に並ぶ襖
(ふすま)もすべて閉ざされたままだ。
 仕方のないことだ。ほかの街ではとっくに一日の仕事が始まっている時間だが、廓
(くるわ)の中では今はまだ宵のうち。女郎も客も布団の中で眠り込んでいる時間なのだ。
 白い息を吐いて走る少女の後ろを、長く編んだお下げ髪がぱたぱた揺れてついていく。まだ肩揚げのとれない木綿の着物は地味で、裾も袖もかなり擦り切れている。暗い色の中で、これだけは女の子らしい紅い帯。そのほかに飾りらしいものはなにもない。
 もっとも奥まった襖の前で、桜乃は廊下に膝をついた。襖にそっと手をかけ、細く細く開く。
「あの、もし、姐
(ねえ)さん。雪路姐さん」
 ほかの部屋の客たちを起こしてしまわないよう、声をひそめ、女郎の名前を繰り返す。
「姐さん。こちらに不二の若様、おいででしょうか」
「なんだい、桜乃。若様になにか用事かい」
 寝乱れた髪をかきあげながら、先輩女郎が顔を出す。相変わらず綺麗だ。
「お屋敷から迎えの俥
(くるま)が来ています。今日はどうでもお屋敷にお戻りいただくようにと」
「おやまあ……」
 女郎は部屋の中へ振り返った。
「若様、もし若様」
「ああ、聞こえていたよ」
 ほんの少し隙間をあけていただけの襖が、いきなり内側からがらりと引き開けられた。
「えっ!」
 桜乃は思わず顔をあげ、そしてすぐにまたぱっと伏せる。
 そこには、若く姿の良い男が立っていた。おそらく敵娼
(あいかた)を勤めた女郎のものだろう、紅絹(もみ)の派手な長襦袢を肩にひっかけ、その下には何も着ていない。
「わざわざ知らせに来てもらってすまないけど、ぼくはまだ帰るつもりはないから」
「まあ、若様。またそんなことをおっしゃって……」
 若様と呼ばれる男――不二周助をたしなめる女郎は、彼よりも少し年上だ。
「いけません。もう五日もお店に流連
(いつづけ)じゃございませんか。伯爵家の若様ともあろうお方が、お家の方にこれ以上心配をおかけなすっちゃいけません」
「なんだい、つれないなあ。こんな時は泣いて引き留めるのが、女郎の仕事だろう?」
 不二はそう言って笑いながら、いったん部屋の中へ引き返した。そしてすぐに桜乃の前へ戻ってきた。
「手をお出し、おちびちゃん」
「え……」
 おずおずと差し出した小さな手のひらの上に、数枚の紙幣が載せられる。
「俥夫
(しゃふ)に駄賃だと言ってこれを渡して、帰ってもらいなさい。ぼくはまだ雪路に話があるから」
「でも、あの……」
 桜乃は困って、先輩の女郎を見上げた。
 彼女もまた少し困惑した表情を見せながら、小さく首を横に振る。今はなにを言っても無駄だということらしい。
 仕方なく桜乃は、渡された紙幣を手の中で折りたたんだ。
「ああ、そうだ。これはきみの分」
 不二はさらに、桜乃の手にぱらぱらと小銭を落とした。
「嫌な役目を押しつけちまうからね。これで菓子でも買っておあがり」
 そして不二はにこっと笑った。まるで絵のような笑顔だった。







 不二伯爵家から迎えに来た人力車は、結局誰も乗せることなく、そのまま帰っていった。伯爵家お抱えの俥夫は、桜乃から若様の伝言を聞かされるとひとしきりぶつぶつ文句を言ったが、手渡された紙幣の額に納得したのか、空の俥を曳いて帰っていったのだ。
 桜乃はもらった小銭を大切に握りしめた。不二にしてみればほんのはした金だろうが、女郎屋の下働きにとってはめったに手に入らない、自分で自由に使えるお金だ。
 桜乃が山間
(やまあい)の名もない村から、横浜の公娼街・真金町にある老舗の娼館『はるや』に売られてきたのは、今から四年前、数えで十になるかならぬかの時だった。両親を流行病(はやりやまい)で亡くし、ほかに引き取り手もなかった桜乃を、村の世話役たちが相談して女衒(ぜげん)に引き渡したのだ。その時、十年分の給金の前借りとして支払われた金は、父母の葬儀代やこれからの供養代という名目で村の大人たちが取り上げてしまい、桜乃の手元にはほとんど残らなかった。
 もっともこの年季は、桜乃が女郎として働けるようになってから初めて数え始める。ご一新(注:明治維新のこと)の後、公娼街で働く女郎の年令は満十八才以上と法律で定められ、その歳に満たない桜乃は、まだ客の前に出ることを許されない。それまでは、買われた女郎屋で下働きとして無給で働くしかないのだ。
 それでもましだと、桜乃は思っていた。この店にいれば、朝から晩までコマネズミのように働かなくてはならないが、それでも三度の食事にありつける。女郎や客が寝静まるころになれば、桜乃も使用人部屋の片隅で布団にくるまり、眠ることができる。
 ……ここへ来なければ、今頃自分はどこかの道ばたで飢え死にしていたかもしれないのだ。
 時代は明治の御代
(みよ)にあらたまり、江戸が東京と呼ばれるようになって久しいが、まだこの国はあまりにも貧しい。
「おや。不二様の力車
(りきしゃ)はもう帰ったのか?」
 奥からのれんを分けて、背の高い男が出てくる。着流しの上に羽織った半纏
(はんてん)には、『はるや』の屋号と代紋が染め抜かれていた。
「雪路が見送りに出てないってことは、なんだ、不二の若様は今日も流連か」
「あ、旦那さん」
 ぴょこんと頭をさげる桜乃に、男は苦笑する。
「旦那じゃないよ。俺はただの居候。『はるや』は俺の伯母の持ち物だからね」
 この男も妙な男だ。女郎の姐さんたちに聞いた話では、この乾 貞治という男は、『はるや』の女将
(おかみ)の甥で、ただ一人の血縁者なのだという。以前は帝大に通う秀才だったが、夫に先立たれて心細くなった伯母に頼まれると、迷いもせずに帝大を中退し、女郎屋の跡継ぎに収まった。
 それまでは歴史はあるがそれほど繁盛しているわけでもなく、むしろ傾きかけていた『はるや』の身代を、わずか二年あまりで立て直し、横浜随一の娼館にのし上げたのも、この男の才覚だという。女郎たちに西洋風の巻き髪を結わせたり舶来のドレスを着せたり、古い日本家屋にこれも舶来のランプを山ほど吊してみたりと、新し物好きの横浜っ子たちですら度肝を抜かれるような演出を考え、さらには遠く異国から渡ってきた異人たちさえ客として招き入れた。通常は言葉も通じないからと敬遠されがちな彼らだが、乾は異国の言葉で彼らと会話ができるのだ。
 異人たちは海の向こうから取り寄せた赤や琥珀の酒を楽しみ、ドレスをまとった女郎たちと、ジッグやワルツといった故国で慣れ親しんだダンスを踊る。そのためのダンスフロアも、乾は母屋の一部をつぶして増築した。そこは欧米の宿屋に備わっているカフェルームを模したもので、この横浜でもまだ珍しい、総板張りの床だ。そこに亜米利加から取り寄せた大型の自動琴
(オルゴォル)を置いて、さまざまな楽曲を演奏するのだ。女郎たちのためにダンス教師を招きもした。
 数年前までは格子窓と黒板塀に飾られた典型的な女郎宿の造りだった『はるや』は、黒板塀こそ昔のままであるものの、今では大提灯も西洋ランプにとって変わられ、和洋折衷の独特の雰囲気を持つ建物になっていた。
 塀の中へ一歩足を踏み入れると、そこにあるのは高価な輸入ガラスをふんだんに使った西洋式の木造建築だ。だが入り口には亜米利加式のスウィングドアではなく、老舗の誇りでもあるのれんがかけられている。店の左半分にはダンスフロアにバーカウンター。右半分には昔ながらの土間と上がり框
(かまち)が残され、古い形の帳場もある。帳場の奥にも、また『はるや』ののれん。その陰には、客には見せない住み込み従業員の部屋や、「お内証」と呼ばれる店の主人の生活の場がある。女将や江戸の頃から『はるや』で働く老番頭はこちら右半分が定位置であり、明治になってから雇われた洋装の給仕はダンスフロアを管轄する。もちろん忙しくなればそんな区分けにはかまっていられない。店の者が総出で店の中を飛び回る。古い東洋と新しい西洋が混在するミスマッチがまた粋なのだと、ここを訪れる客たち――特に異国からの男たちは賞賛する。
 太い梁にはオイルランプが煌々と輝き、自動琴に合わせてくるくると踊り回る男女を照らす。帳場の奥から二階へと続く階段は、女郎たちが顔見せをするステージも兼ねている。そこに立つ女郎たちは仏蘭西や伊太利亜から取り寄せた美しいドレスを着ている者もいれば、昔ながらの立兵庫や高島田(注:ともに日本髪の型の一種)に箔や絞りの打ち掛けの裾を長く曳く者もいる。その婉然とした微笑に逆らえる男など、存在しない。洋妾
(らしゃめん)などと陰口を叩かれながらも、彼女達はこの横浜の夜には欠くことのできない大輪の花々なのだった。
 二階の客室は、一階とはうってかわって和風の造りだ。こちらは乾もまだ何も手を入れていないのだ。長い廊下の両脇には金襴
(きんらん)の襖が並び、その奥には畳と床の間の和室がある。この和室はそれぞれ女郎の私室も兼ねており、女郎たちが自分の趣味で飾ることを許されていた。きれいな博多人形や飾り扇などを並べる者もいれば、畳の上に大きな西洋のベッドを置いて、小さな江戸風の鏡台の代わりにこれも西洋の大きな姿見鏡を置いている者もいる。一つ一つの襖を開けるたびに、まるでおもちゃ箱を覗くようだと、桜乃は思っていた。
 また、こうした女郎宿で客が料理を注文した場合は、宿で用意はせず、近所にある専門の仕出し料理屋から取り寄せるのがふつうだ。だが乾は、それでは異国の料理が用意できないと、『はるや』の厨房を大改造した。日本料理の板前のほかに西洋料理を学んだコックも雇い入れ、客のどんな注文にも対応できるようにしたのだ。
 酒、料理、音楽。これだけの楽しみが揃っているのは『はるや』だけだと、裕福な異国の商人たちも、日本政府に招聘(しょうへい)された学識者、故国ではれっきとした爵位を持つ者さえ、足繁く『はるや』に通うようになった。
 そうなれば、文明開化の申し子を自認する横浜っ子たちが『はるや』を訪れないはずはない。
 通常、異人を相手にする洋妾を、日本人の男が買うことはない。それを見越した乾は、『はるや』の女郎を二手に分けた。建物は同一ながら役所への届け出を別々にして、異人相手の娼館と日本人向けの女郎宿と、併設して経営する形にしたのだ。
 そうしていつか、『はるや』は横浜随一の娼館という称号を手に入れていた。
 帝大生の洋々たる未来を捨てて『はるや』のために働いてくれる甥に、年老いた女将は最大の感謝と敬意を込めて、彼を「旦那」と呼ぶように店中の者に指示していた。けれど当の本人はその呼び方が照れくさいのか、いつも自分のことをしがない居候だと笑っている。
「おや、桜乃。その金は?」
「あ、あの、これは……不二の若様が――」
 叱られるのかと縮こまる桜乃に、乾は笑う。
「チップにもらったんだろう。それはお前の金だ、好きに遣えばいい」
「え? ち……?」
「チップ。西洋では小間使いに渡す心付けを、そう言うんだよ」
「はあ……」
 最初はざんぎり頭に黒縁の眼鏡がいかつくて、桜乃には乾がずいぶん怖そうな男に見えていた。けれどこうして少し話をしてみると、意外にうち解けやすい人柄だとわかる。……彼がなにを言っているのか、さっぱりわからない時も少なくないが。
 やがて朝の遅い廓にも、少しずつ活気が戻ってくる。
「おーい、海堂。店の前に水撒いてくれ。土埃が土間にまで入ってくる」
「へい」
 低い返事が聞こえ、同じく『はるや』の半纏を着た若い男が、裏手から姿を現す。忘八者
(ぼうはちもの)と呼ばれる、男の下働きだ。ただしゆくゆくは女郎になるために買われてきた桜乃とは違い、彼は借金で縛られているわけではない。半年ごとに給金も出るし、その気になればいつでも店を辞められる。
 もっとも彼ら忘八者は、掃除をしたり薪を割ったりという雑用が本来の仕事なわけではない。色里ゆえに起こりがちな暴力沙汰、刃傷沙汰に、これも暴力で対処するために、それぞれの店に飼われているのだ。時には足抜けを図った女郎を捜して連れ戻し、見せしめのために折檻を加えるのも、彼らの役目だ。
 番頭格の老人が帳場に姿を現し、そのほかの使用人たちもそれぞれの仕事を始める。
 昨夜、店に泊まった客たちが女郎に見送られて階段を下りてくる。丸髷
(まるまげ)の髪はだいぶ白くなったが、それでもまだ充分に粋な美しさを保つ女将が帳場に座り、丁寧に三つ指をついて彼らを送り出す。台所からは酒屋のご用聞きや、女郎たちが頼んだ西洋髪結いが来たと知らせる声もする。通いで働く遣り手や料理人なども顔を見せ、『はるや』の一風変わった建物の中に、次第に活気が満ちてくる。
「じゃあ俺は、商工会の寄り合い所に顔を出してくるから。また商工会のじいさまたちに、たっぷり小言を頂戴してくるよ」
「へい、いってらっしゃいませ、旦那さん。今度こそ、カッフェールームを広げるお許しが出るとよござんすねえ」
 白髪頭の老番頭が、頭をさげて乾を送り出す。
「まあ難しいだろうな。今の小さなダンスフロアでさえ、つぶしちまえと叱られてるんだから。大の男が女郎に抱きついて喜ぶとは何事だ、風紀紊乱
(びんらん)も甚だしいとさ」
「そんなことを言ったって、あのじいさまどもだって、布団に入りゃあ女郎に抱きつくどころの騒ぎじゃありゃしませんでしょうにねえ」
「まったくだ」
「あの方たちゃあ、頭ん中が今でもお江戸のままで凝り固まってんでしょうよ。旦那の新しいお考えが、まるで理解できちゃいねえんだから」
「まあとにかく、後はよろしく頼むよ。なにかあったら使いをよこしてくれ」
 苦笑いしながら雪駄
(せった)をつっかけ、乾が店を出ていく。
「あ、私も台所に戻らなくちゃ!」
 掃除に洗濯、女郎たちの身の回りの世話。桜乃の仕事はいくらでもある。
 やがて遊郭の短い眠りが終わり、街にも人通りがあふれてくる。
 ゆっくりと陽が傾き、立ち並ぶ店のそこここになまめかしい灯りがともるようになると、女たちのほほえみと脂粉の香りを求めて、酔客たちが一人、また一人と店の中へ吸い込まれていく。
 店に客が入ってくると、桜乃の仕事もまた一段と忙しくなる。客が注文する酒や料理を部屋まで運び、ちょんの間で遊ぶ客を入れる回し部屋を、接客と接客のわずかな間にあわただしく掃除する。客と女郎の間を取り持ち、金額の交渉をするのは「遣り手」と呼ばれる女たちだが、彼女たちも細々とした用事を言いつけてくる。女郎が崩れた髪やドレスの着付けを直すのを手伝うのも、桜乃の仕事だ。同じように貧しい家から買われてきた下働きの少女と仕事を分担し、『はるや』の店内をちょこまかと走り回る。
「桜乃。おもてのランプが消えそうだ。油を足して、灯心を出しとくれ」
「はい、おっ母さん」
 店を取り仕切る女将を「母」と呼ぶのも、廓のならわしだ。
 桜乃は、乾が欧州から特別に取り寄せているランプ用の油を持ち、店の表へ出ようとした。この油は火をともすと、ほのかに甘い香りをくゆらせる。他の店が照明につかう魚油やろうそくなどとは雲泥の差だ。
「ああ、いい匂い……」
 それは桜乃に、まだ見たこともない遠い国、遠い街、そしてそこに住む夢のような人々を思わせる。金属製の油差しを抱え、うっとりとその香りを胸一杯に吸い込んだ時。
「Hello! Anybody Here!?」
 高い声とともに、『はるや』ののれんをかきわけて一人の少年が店に入ってきた。









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 すいません、いきなりパラレルです。不二が放蕩者の若様で、桜乃ちゃんが女郎屋の下働きってのはまだいいけど(ほんまか!?)乾が女郎屋の旦那で海堂が忘八者ってなあ、我ながらいかがなもんかと思います。ごめんにょ、薫ちゃん。キミもほんとはえーとこ坊んやのにねえ。
 ちなみに忘八者ってのは、人間に必要な八つの徳、仁義礼智忠信孝悌を忘れた奴って意味だそうです。江戸時代までは確かにこの言葉、生きてたんですが、明治になってまで使われていたのかは不明……。ごめんなさい、いい加減で。
 その他にも意味不明の単語がありましたら、どうぞBBSにでも質問なり文句なり書いておいてください。いやぁ、ついつい悪のりしちゃって……。
 あ、すいません、まだまだ続きます。
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