スーツは光沢のある黒に近い紺、顎につきそうなほど高く立てたワイシャツの衿は「ハイカラ」の語源になったスタイルだ。そこにえんじ色の蝶ネクタイが小生意気に飾られている。膝丈の乗馬ズボンに白い絹のハイソックス、ぴかぴかに磨き上げられた革靴。頭にかぶった鳥打ち帽も少し気取った形に傾けてあった。
 髪は黒、瞳の色も黒。繊細さを感じさせる顔立ちは、確かに日本人のものなのに、
「Are You House−Maid Here? Where’in Your Master?」
 その口からは、桜乃が聞いたこともない異国の言葉が飛び出してきた。
「あ、あの……」
 さらに少年の後ろから、二人の大きな外国人が身をかがめるようにして『はるや』に入ってきた。異国情緒あふれる店内に昂奮したのか、身振り手振りを交え、大声でなにやら話している。
「女将さん、どうしましょう。異人さんのお客ですよ」
「困ったねえ、貞さんが留守だってのに」
「うへえ、なに言ってんのかさっぱりわかりませんやぁ」
 熟れたとうもろこしのような髪の毛をした異国の男たちに真上から覗き込まれ、女将と老番頭はあたふたとあたりを見回した。
「ああ、桜乃、桜乃。お前、ひとっ走り寄り合い所まで行って、旦那を呼んできておくれ」
「は、はい!」
 手にした油差しを放り出し、桜乃が慌てて店の外へ飛び出そうとした時。
「言葉なら心配いらないよ。オレが通訳するから!」
 まだ少年の甲高さが残る声が、桜乃の耳に凛と響いた。
「え……」
「こちらは、MrブラッドリーとMrウィンズフォード。英国から来た貿易商だ。日本の花魁と遊んでみたいと言っている」
 桜乃はぽかんと口を開け、少年の顔を見つめてしまった。
 今なら、彼の言っていることがちゃんと理解できる。少し妙なクセはあるが、流暢な日本語だ。――じゃあ、やっぱりこの男の子、自分と同じ日本人なんだろうか。
 一分の隙もない洋装の着こなし。欧米の猿まねにすぎず、高価な舶来のスーツを着てもどこかちぐはぐなお偉いさんや役人なんかとは、まるで違う。まるでもう一枚の皮膚のように、彼の身体に馴染んでいる。生まれたときからこの服装が、彼にとっては当たり前だったのだろう。
 少年は二人の異人になにやら小声でささやき――声をひそめたりせずとも、店内に彼らの会話を理解できる人間など一人もいないのだが――それからまた女将と番頭のほうへ向き直って、いかにもこれは商談だというように、指を折って数えて見せた。
「一人につき花魁一人。ちょんの間だけど、回し部屋は断る。それぞれに寝室を用意してほしい。花代はいくら? 前払いしておくから」
 だが女将は眼を白黒させるばかりで、ろくな受け答えもできない。こんな子供が異国の言葉ですらすら話をし、異人の代弁として商談をまとめようとするなんて、目の前で見ていても信じられないのだろう。
「それと、食事はいらないけど、ここではシャンパンが注文できると聞いてきたんだ。部屋まで届けてほしい」
「ああ。この店のシャンパンは仏蘭西から取り寄せてる本物だ。それにオックステイルのスープもなかなか旨いよ。おそらく本場に負けないはずだ。試してみるといい」
 階段の上から、突然声が降ってきた。
「やあ、どこかで聞いた覚えのある声がすると思ったら、やっぱりきみ、『越前商会』のリョーマくんじゃないか」
 その声に、桜乃も、そして少年も、二階へ続く階段を振り仰ぐ。
 二階のてすりにもたれかかり、不二周助がおもしろそうに階下の様子を眺めていた。
「不二さん……」
 少年も不二に見覚えがあるのか、その名前を小声でつぶやく。
 ――良かった。桜乃はちょっとずれたことを思った。良かった、若様、今はちゃんと服を着てらっしゃる。今朝方見た自堕落な姿とは違い、着崩しているとはいえ、ちゃんとシャツとベスト、それにくるぶしまでのズボンを穿いている。
「あ、あらまあ、若様。この子……いえ、こちらさんをご存じなんですか?」
「ああ。伊勢佐木町に『越前商会』って大きな貿易商があるだろう」
「ええ、表通りに大層なお店を構えて、メリケンさんやらエゲレスさんやらといろいろご商売なすってるっていう……」
「彼はそこの御曹司だよ」
 不二はにっこりと笑った。
「一年ほど前まで、お父上の仕事の都合で亜米利加で暮らしていたそうだから、英語に関しても心配はいらない。ぼくなんかよりずっと達者だよ」
 そしてゆっくりと階段を降りてくる。
「しかし、いいのかい? リョーマくん。いくらお客さんの通訳とはいえ、こんな色街に出入りしたりして。お父上に叱られるよ」
 土間まで降りてきた不二に顔を覗き込まれると、リョーマはあきらかに不機嫌な表情を見せた。
「親父が行けって言ったんですよ。こういうところのしきたりを知っておくのも、無駄にはならないからって」
「はは、あの変わり者の親父さんが言いそうなことだね」
「そっちこそいいんですか? 伯爵家の跡取りが、こんなところで遊び呆けてるなんて」
「まいった。これは痛いところを突かれたな」
 不二はおどけて笑い、黒髪に包まれたリョーマの頭を軽く撫でた。
「家には黙っていてくれないか? 告げ口しないでくれたら、あとで飴玉を買ってあげるから」
「いりません、ガキじゃないんだから!」
 リョーマは乱暴に不二の手を払いのけた。
「そういう科白は、ズボンの裾がくるぶしに届いてから言うもんだよ、おちびさん」
 不二が指さすリョーマの足元は、白い絹のハイソックスだ。乗馬ズボンの裾は膝下でぴっちりと留まり、不二や、リョーマが案内してきた男たちの穿いている、ゆったりとくるぶしまでを覆い隠す長いズボンとはあきらかに違う。
 ……そっか。裾が短いのは、子供用なんだ。桜乃は日頃やかましく注意される行儀作法も忘れ、思わず小さく吹き出してしまった。女将と対等以上に話をしようとしていたリョーマに向かい、不二が、桜乃を呼んだ時のように「おちび」という呼称を使ったのも、可笑しい。リョーマ本人はそれがかなり気に障っているようだが。
「まあとにかく、彼の英語は本物だから、安心して通訳を任せるといいよ、女将さん」
「い、いえ、そんな。疑ったりしてるわけじゃございませんよ。ええ、もちろん……」
 あとは廓の決まり事どおりだった。女将が手を鳴らして呼ぶと、まだ客がついていない女郎たちが顔見せのために二階に並ぶ。婉然とほほえみかける女たちの中から、客が好みの女を指名する。今、姿を見せたのはみんな、異人相手が専門の洋妾
(らしゃめん)ばかりだ。英国人は二人とも、はなやかな洋装の女にも心惹かれたようだが、やはり異国情緒に魅せられたのか、裾を長く引いた和服姿の女郎を選んだ。
 その細かい交渉も、女将が説明した日本家屋についてや廓独特の煩雑なしきたりについても、リョーマは流暢な英語ですべて通訳をしてのけた。交渉がまとまる頃には、女将も老番頭も、そして桜乃も、感嘆の表情でこの小柄な少年を見つめていた。
 ……あんなふうに異国の言葉で話をするって、いったいどんな気分だろう。良い香りの灯油に遠い異国を思うような、自分の知らない世界が目の前に広がるような、胸がときめくあの感じだろうか。
「それじゃあ、どうぞごゆっくり」
 それぞれ選んだ女郎に案内されて、異国の商人たちが二階の客室へと上がっていった。
 それまで半ば茫然と事態の成り行きを見ていた桜乃も、ようやくはっと気づいて、言いつけられた仕事を片づける。そして慌てて台所へ戻ろうとした。
 だがふと見ると、二人の異国人を二階へ送ったあと、リョーマが一人、入り口付近でぽつんと立っている。異人たちが遊び終わった後、ふたたび彼らを案内して伊勢佐木町まで帰らなければならないのだろう。
「あら、困ったねえ……」
 女将も彼の扱いに苦慮している様子だ。まさかこんな年端もいかない子供を女郎宿の客としてあげるわけにはいかないし、二人の異人たちが戻ってくるまでダンスフロアの隅で待たせておくわけにもいかない。『はるや』はこれからがもっとも混み合う時間だ。酔客も次々に入ってくるし、ダンスも始まる。本当は違法だが、船乗りなどがカード賭博に興じることもある。なかには、酔った勢いで生意気そうな少年をからかおうとする者もいるだろう。これがそこらの使いっ走りの少年なら、気にも留めずに放り出しておくところだろうが、相手は仮にも大きな商会のお坊ちゃまだ。
「ああ、そうだ。桜乃、ちょっとおいで」
「はい、なんでしょう、おっ母さん」
 いきなり女将に手招きされ、桜乃は台所へ向かおうとした足を止めた。あわてて女将が座る上がり框
(かまち)のそばへ駆け戻る。
「お前、こちらの坊ちゃんに街の中を案内しておあげ」
「えっ? あの、でも……」
「そうだね、金比羅さんの神社へでもお連れするといいよ。きっと夜店も出ているだろうから。でも、お堀を越えちゃいけないよ。坊ちゃんは良くても、お前はお堀の外へ出ちゃあならないんだからね」
「は、はい。それはわかってます。でも、私……」
 桜乃は、まだ手にしたままの油差しへ視線を落とした。この後にも、皿洗いなどの厨房の手伝い、掃除に塀磨きと、やらなければならないことはたくさんある。
 けれど女将は優しい笑みを桜乃へ向け、小さくうなずいた。
「いいよ。厨房の仕事は後におし。板さんたちにはあたしが言っておくから。――ええ、その、越前様の若旦那。若旦那」
 いきなり呼ばれて、リョーマは妙な顔をした。「若旦那」という呼称に驚いているらしい。そんな呼ばれ方をしたことがないのだろうか。女将にしてみれば、不二に「おちびさん」と呼ばれてひどく不満げだったリョーマの様子を見逃さず、気を遣ってのことなのだろうが。
「お二階のお客様方をお待ちになってる間、ご退屈でござんしょう。よろしければ、この娘
(こ)が街をご案内いたしますよ」
「い、いや、オレは――」
 リョーマは、まだ戸惑いが隠せない様子だった。女将と、そして桜乃とを交互に見る。さっきまではあんなに大人びて、ひどく生意気そうだった彼の表情が、今は年相応の照れも見え、桜乃にも可愛らしくさえ思える。
「若旦那さん」
 桜乃はおずおずと、けれど確かに自分から前へ踏み出した。
 どうしてそんなことができたのか、自分でもわからない。ふだんの桜乃なら、見ず知らずの相手と口をきくのも恥ずかしくて、気後れする。
 でも今だけは、彼と話がしてみたいと思った。
 子供じみた好奇心かも知れない。不躾でとても失礼な感情だろう。自分の中にそんなふうに他人への興味が湧くこと自体、桜乃にとっては驚きだった。
 もっと彼の言葉が、話がきいてみたい。彼といっしょにいたい。
 そう思う気持ちが、とまらない。
 胸が高鳴る。何かがそこからわき上がる。胸の前で手を重ね、抑えても抑えても、熱いものが止まらない。生まれて初めての感覚が心臓の鼓動にあわせて、身体中へ広がっていく。
「参りましょう、若旦那」
 桜乃は自分から先にたってのれんをかいくぐり、リョーマへ向かって手を差しのべた。擦り切れた下駄を鳴らし、なまめいた灯りの照らす街へ駆け出していく。
 そしてリョーマも、桜乃の後について『はるや』を飛び出した。





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