リョーマが実は日本語が苦手ではないのかということは、コミックス1巻当時から思っていました。つまり彼の思考はすべて英語で、人と会話する時は、頭の中の英語をいちいち日本語に訳してから口にしているのではないか、と。だからリョーマは主人公としては極端に口数が少なく、さらには心理描写(いわゆるナレーション)がまったくないのではないかと、思っていました。だって試合中のリョーマの思考がすべて英語だったら、そりゃマンガの画面に書くわけいかんでしょ。もちろんこれは私の二次設定ですので、あまりお気になさらないでくださいね。でも、うちのリョーマはこういったパラレルに限らず、別のお話を書いても、きっと日本語が苦手なままでしょう。
 そんでもって、このお話、ようやく第一章が終わりました。あと二、三章続く予定です。ああほんまに、いったい何ページになるのやら……。
「若旦那。関税事務所はご存じですか。赤いレンガ造りで、そりゃあ大きな建物! あっちの坂をのぼると、異人さんたちのお屋敷街になります。それから若旦那……」
「その『若旦那』っていうの、やめて。リョーマでいい」
 ひどく無愛想に、リョーマは言った。
「え……。じ、じゃあ……リョーマ、さん……」
 桜乃は口の中で小さく、彼の名前をつぶやいた。さすがに、近所の悪ガキのように呼び捨てにはできない。
 その名前を口にしただけで、心臓がひとつ、とくんと大きく跳ね上がる。まるで不思議な呪文を唱えたみたいだ。
 高歌放吟する酔客や彼らにまとわりつく客引き、芸者、ただのひやかし、物売り、さまざまな人間たちが往来する色街の夜。ほとんどは和服姿だが、中にはリョーマのように洋装でめかし込んだ者もいる。はなやかなドレスの裾をひき、しゃれたボンネットで洋風の巻き髪を覆った女性もいる。こんな街にいるからには、ここの商売に関係する女ではあるだろうが。
 その人混みの中を、二人は小犬のように小走りにすり抜けていく。色街には不似合いな少年と少女の姿に、おやという顔をする者もいるが、すばしっこい彼らを目で追うことすら難しい。二人の姿はあっという間に人混みの中へかき消えていった。
「そうだ、リョーマさん。お腹空きませんか? 私、お小遣いをもらったんです!」
 桜乃は着物のたもとから、不二にもらった小銭を出した。
「そこの角に、いつもお団子を売る屋台が出るの。いっしょに食べましょう」
 廓にはそばや麦湯などの屋台が付き物だ。そうした屋台の一つに、桜乃はリョーマを引っ張っていった。
「小父さん、お団子くださいな」
 桜乃が小銭を出そうとすると、その手をリョーマが押さえた。
「いいよ。オレが払う」
「え、でも……」
「いいから」
 屋台の親父に言われた金額をすぐに払い、リョーマは竹の皮に包まれる串団子を物珍しそうに見ている。
「亜米利加には、こういうもの、ないんですか?」
「スナックフードを売る屋台はあるけど、ポップコーンか、チーズドッグとかドーナツとか、そんなのが多い」
 リョーマが数え上げた食べ物は、桜乃には想像することもできない。きょとんとしている桜乃に、リョーマは少し困ったような顔をした。自分の話が通じていないのがわかったのだろう。
「こっちへ行きましょう」
 人混みを避け、桜乃は彼を街のかたすみにある稲荷神社へと誘った。ここは海運の安全を祈る金比羅神社も兼ねているが、酉の市が立つ秋の夜以外は訪れる者も少ない。ましてや廓の稼ぎ時である夜には、誰も足を向けようとしない。
 黒塀を回り込み、小さな赤い鳥居をくぐると、とたんに表の喧噪が嘘のように聞こえなくなった。
 小さな社の後ろへ回り込むと、足元が急に落ち込むあたりに、安全のため低い柵がもうけてある。その下の斜面には熊笹が生い茂り、ちらちらと港の灯りが揺れているのが見える。海に向かって規則正しく並ぶ青白い光は、石畳の表通りを照らすガス燈の列だ。
 海は今は真っ黒で、闇そのものがどろりと重たく横たわっているようだ。そこに頼りなげに浮いているのは、異国から渡ってきた大型客船の照明だろうか。それとも小さな釣り船の灯りなのだろうか。蒸気船の煙突が噴き上げる炎が、まるで火山の噴火口のように見える。
 柵の前に二人並び、暗い海へ思いを馳せる。買ったばかりの団子を口に運び、そしてまた、今は境目も分からぬ空と海とを見つめ続ける。
「昼間は港に停泊してる船も数えられるんだけど……」
 もしかしたらリョーマが乗ってきた船も、その中にはあるだろうか。真っ黒い煙を天に向かって噴き上げる、巨大な外国船。動く城のようなその船は一度に何千人という人々を運ぶことができ、どんな大嵐が来てもびくともしないのだと言う。
 そしてその船が着く港の向こうには、桜乃が想像することもできない、不思議な異国の街があるはずなのだ。
「リョーマさんは、二度も三度もああいう大きなお船に乗って、海を越えられたんですね」
 桜乃は感嘆の吐息のようにつぶやいた。
「一度だけだよ」
 リョーマがぼそりと答える。
「え、でも……」
「オレはサンフランシスコで生まれたんだ。日本人の父とアメリカ人の母と、ずっと向こうで暮らしてた。だから太平洋を越えたのは、一年前、日本に来た時の航海一度きりだ」
「さん・ふれぃ……?」
 リョーマが口にした、桜乃の知らない街の名前。それはまるで、魔法の国のように思える。
 魔法の国から来た、魔法使いの少年。桜乃の知らない不思議な言葉を使い、桜乃に魔法をかける。
「そうだったんですか。リョーマさん、だからそんなにメリケンの言葉がお上手なんですね」
「うん……」
 リョーマは小さくうなずく。だが、どこか屈託が残る表情だ。
「どんなところだったんですか? リョーマさんが生まれた街」
 そっとささやくように、桜乃は訊ねた。あまりに小さな声だったので、リョーマには聞こえなかったかもしれない。そう思ったけれど。
「坂の多い街だよ」
 ぼそっと、リョーマが答えた。
「まだ新しい街だ。――アメリカは国自体が新しくて、国土の大半は手つかずの荒野だ。その広い荒野に、ぽつんぽつんと街が散っている。街を一歩外へ出れば、あとはただ、黄色い砂と岩ばかりの砂漠だ」
 遠くを眺めるような眼をして、リョーマはぽつりぽつりと話す。大事な宝物を胸の奥から取り出して、そっと桜乃に見せてくれるように。間違いなく、そこがリョーマの故郷なのだ。桜乃が生まれ育った山間の村を懐かしく思い出すように、リョーマの故郷は彼の語る荒涼とした大陸なのだ。
「砂漠……。そこへ、リョーマさんも行かれたことがあるんですか?」
「親父に連れられて、一度だけ。春――雨期が始まる直前だった」
 リョーマは眼を閉じた。海の彼方にある彼の生まれ故郷を探すように、両腕を虚空へ伸ばす。
「駅馬車でテキサスへ向かったんだ。進んでも進んでもおんなじ景色、砂と岩ばっかりで。でもある夜、野営をしてたら、雨が降ってきた。馬車の幌
(ほろ)を叩く雨音で目が覚めて……。朝になったら、地面の色が変わっていた。たった一晩の雨で、眠っていた草木が一斉に眼を覚ましたんだ。どこまでも見渡す限り、萌え始めた草の芽で覆われていて、まるで緑の絨毯を敷き詰めたみたいだった。……とてもきれいだった。あんなにきれいな景色は、生まれて初めてだった」
 見渡す限りの若萌葱
(わかもえぎ)の絨毯。リョーマの言葉を聞き、そしてその光景を思い浮かべるだけで、胸が高鳴る。
 ……見てみたい。桜乃はそう思った。見てみたい、リョーマがそれほど美しいと思った光景を。一晩で地平の果てまで染め変わる大地の色を。
 リョーマが、小さな声で唄を口ずさむ。

  From this valley they say you are going
  I will miss your bright eyes and sweet smile
  For I know you are taking the sunshine
  That has lighted my pathway a while

  Come and sit by my side if you love me
  Do not hasten to bid me adieu
  But remember the Red River Valley
  And the one that has loved you so true

  Just remember the Red River Valley
  And the one who has loved you so true


「向こうの、お歌ですか?」
 リョーマは小さくうなずいた。
「『Red Liver Valley』。日本語だと、『赤い河の谷間』……かな。和訳の歌詞もあるはずだけど、オレ、知らないんだ。――知ってても、きっと歌えない。日本語はあまり読めないんだ」
「え……?」
 桜乃は一瞬、自分の耳を疑った。
 これだけ流暢に日本語を話すリョーマが、日本語の読み書きができないなんて。そんなことがあるのだろうか。
「話し言葉は耳で聞いて覚えたけど、文字を書くのは……。今、勉強はしてるけど、まだひらがなとカタカナくらいしか読めない。漢字はほとんどわからないんだ」
「そうだったんですか……」
 桜乃もうつむく。悪いことを聞いてしまったようで。彼にとっては、自分にできないことがあると他人に打ち明けるのは、とてもつらいことなのではないだろうか。それだけの自尊心を、リョーマは持っていると、桜乃には見える。
「正直言って、日本語より英語でしゃべるほうが楽だ」
 リョーマは港を見つめ、唇を噛みしめていた。
 思いつめた表情に、桜乃は胸を突かれるような思いがした。何故彼が、こんなに悲しそうな、つらそうな顔をするんだろう。大きな貿易商の息子に生まれ、何不自由なく暮らしているはずなのに。桜乃には想像することも出来ない経験をいっぱいして、これからも望むままの未来が約束されているリョーマが、何故。
「時々、自分がどんな人間なのか、わからなくなる時がある」
 ぽつりと、リョーマが言った。
「どんなに英語が得意でも、向こうの街では肌の色が違う。目の色が違う。どこへ行っても、『東洋の黄色いサルが来た』と言われる。日本へ帰って来れば、『お前は向こうで生まれて育ったんだから、やはり日本人じゃない』と言われる。オレには……どこにも居場所がない」
「リョーマさん……」
「オレは自分がアメリカ人なのか、日本人なのか、それすらわからないんだ。ただ、ありのままのオレでいたいだけなのに――!」
 リョーマは柵を握りしめ、じっと前を見つめていた。その向こうには果てない海が、そして彼が暮らし、故郷として愛し、けれど彼をけして受け入れることのなかった異国の街があるのだろう。
「親父はそれでいいって言う。日本やアメリカや、一つの国に縛られるな、世界中を渡り歩ける男になれって。でも、それじゃオレはどこへ帰ればいい? 世界を歩いて、そしてその後、どこへ戻っていけばいいんだ? オレを仲間として迎えてくれる街は、どこにもないんだ」
 こんなふうに彼が自分の思いを正直に吐露したのは、もしかしたら初めてではないのだろうか。怒りにも似た激しさを持つリョーマの言葉に、桜乃はそっとそう思った。
 普段はそんなつらさなど、彼はまったく顔にも出さないのだろう。裕福な貿易商の息子として、いや、世界中を股に掛ける父の片腕として、周囲の大人たちと対等以上に渡り合うリョーマ。おそらく父親にとっては自慢の息子であり、彼に会う人すべてが彼の知恵と勇気を称賛していることだろう。
 だがその自信に満ちた顔の下には、懸命に涙を堪えている本当の彼がいる。たった一人、誰にこの痛みを、苦しみを打ち明けることもできずに。
 リョーマが日本人の父を持ち、そしてアメリカの街で生まれたことは、彼の責任ではない。彼の力ではどうにもならないことのせいで、彼は誰にも理解してもらえない孤独の中にいる。その、誰にも言えなかったつらさや淋しさ、憤りを、桜乃は初めて聞いたのだ。
 ……それでも。桜乃は思う。
「それでも、私はリョーマさんがうらやましい。だってリョーマさんはどこの国の人にだって、なれるんだもの。リョーマさんが自分で望むものになればいいんだもの」
「なりたいものに、なる……? オレが望むものに?
 小さく、桜乃はうなずいた。
「そう。リョーマさんは、何にだってなれる。でも私は……この街で、女郎になるしかないんです。私の未来は、私じゃない人が、私の知らないところで勝手に決めちゃったから――」
 そうしなければ生きられなかった。これだけが、自分に残されたたった一つの道だった。それは十二分にわかっている。
 むしろ『はるや』に来られた自分は幸運だった。店は繁盛し、資金も潤沢だ。無茶な労働を強いられることもない。女将も、実質的に店を取り仕切る乾も、使用人たちに情け深く接してくれる。上がそういう態度だから、他の使用人も女郎たちも、桜乃を妹のように可愛がってくれる。料理や裁縫など女として必要な手仕事を教えてくれる者や、いつも空腹を抱えている下働きを哀れんで、客からもらった菓子などをそっと分けてくれる姐さんもいる。
 だが、真金町が政府に保護された公娼街だからと言って、『はるや』のような店ばかりではない。むしろもっと非道い店のほうが多いのだ。女郎の歳をいつわって、十五、六才の少女に客を取らせるのも当たり前、命が擦り切れるまで働かせ、病に倒れたら日も差さない土蔵に押し込めて早く死ねと言わんばかりの扱いをする。死んだら寺の無縁塚に放り込んでそれっきり。女郎などはなから人間と思っていないのだ。
 自分はまだ幸せなほうなのだ。桜乃はそう思う。それはわかっている。けれど。
 知りたいことがあった。見たいものが、行ってみたいところがたくさんある。だがそれらはすべて、桜乃には許されない願いなのだ。
「ごめん」
 リョーマはうつむいた。
 自分よりつらい立場にある人間に、それを思いやってやることもできず、子供じみた自分の思いをぶつけるばかりだった。そのことを、少年は恥じているのだろう。むしろ恵まれた立場にいる自分のほうが、少女の悲しみを聞いてやるべきだった、と。
「あんた……えっと――」
 リョーマのぎこちない呼びかけ、下手な日本語に、桜乃は小さく笑った。「あなた」というのは、日本語では目上の人間に対する呼びかけ方だ。
 違う、と首を横に振り、自分の胸をそっと指さす。
「桜乃です」
 少年を見つめ、小首をかしげて、彼の言葉をじっと待つ。
「さ、くの……」
 リョーマがその名前を繰り返す。
「あの花のこと」
 桜乃は虚空を見上げ、そこに枝を伸ばす夜桜を指さした。
「桜乃――」
 リョーマがもう一度、桜乃の名前を繰り返す。
 彼の唇からこぼれると、馴染んだ自分の名前がまるで別のものに聞こえる。もっとすてきな、どこか不思議な陰影を伴って。そして自分自身も、人の数にも入らない女郎宿の下働きなどではなく、彼とともに異国へ旅立つことのできる、生きる力と勇気に満ちた娘になれたような気がする。
 できることならリョーマにも、今はその瞳にそういう娘を映していてほしいと、願う。彼の隣に並んで、ともに走って行くにふさわしい勇敢な娘を。
 どこか遠くで鐘がなる。それに呼応するように、港に停泊した外国船がぼおう……とひとつ、汽笛を鳴らす。まもなく日付が変わる。そのことを報せているのだ。
 リョーマが案内してきた英国の貿易商たちも、敵娼
(あいかた)に別れを告げて『はるや』を出る頃だろう。
「桜乃」
「はい」
「また、来てもいい?」
 ――お前に逢いに、来てもいいか。ここで、またお前と話をしたいと、望んでもいいか。
 声にならないその言葉に、桜乃はこくんとうなずいた。
 リョーマが手をさしのべた。
 その手に、桜乃は自分の手を重ねる。
 互いのぬくもりが、鼓動が伝わる。今まで誰にも癒すことのできなかった互いの孤独が、重ねた手の中で今、淡雪のように溶けて消えていく。
 逢いに来てください。声には出さず、かすかな唇の動きだけで、桜乃はささやく。また、私に逢いに来てください。そして聞かせて。あなたのつらいこと、悲しいこと、みんな。どんなに冷たく痛く胸に刺さることでも、二人でいれば、こうして溶かしてしまえるから。
 あなたが逢いに来てくれる日を、私、指折り数えて待っているから。
 無数の灯りが夢幻のように浮かび上がらせる色街の片隅を、独りぼっちの少年と、独りぼっちの少女とが、しっかりと手をつなぎ、誰にも見とがめられることもないまま、小さなつむじ風のように走り抜けていった。






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