二、西部の唄


 それから、時間は慌ただしく過ぎていった。
 桜が散ってツツジが盛りを迎え、やがて紫陽花
(あじさい)の花弁が薄青く色づき始める。陽の盛りに街を歩けば、額や首すじに汗を感じるようになってきた。
 その間も、リョーマは何度となく『はるや』に顔を見せていた。
 いつも、外国からの客を案内してのことだ。英国人、亜米利加人。時には絹の筒袖服を着た清国人(注:中国人のこと)や、頭に黄色いターバンを巻き、鶏卵ほどもある見事なルビーを飾った印度の大富豪を連れてきたこともあった。つややかな褐色の肌をした、その雲突くような大男を初めて眼にした時には、大概のことには声もあげない肝の据わった横浜っ子である女将も、危うくきゃっと言ってひっくり返りそうになってしまった。
 彼は巨躯に似合わず、気の優しい男だった。『はるや』を訪れる時にはいつも手土産を欠かさず、異国の菓子やきれいなリボン、時には彼の生まれ故郷の不思議な香料などを、女郎たちみんなに配ってくれた。
 桜乃にも、赤いびろうどでできた小さな手提げ袋
(レティキュール)をプレゼントしてくれた。
「わあ、きれい……」
 やわらかな手触りのその袋にそっと顔を寄せると、ほのかに甘い香りがする。
「それは欧米の貴婦人たちが、散歩や夜会に出る時に持ち歩くのさ。ハンカチや、気付け薬なんかを入れて」
「気付け薬?」
「向こうのレディは、なにかあったらすぐ気を失ってぶっ倒れるのが上品ってことになってるんだ」
 通訳を終え、桜乃と二人きりになると、リョーマはそれまでの有能で誇り高い冒険商人の顔から、年相応の少年の表情に戻る。
 リョーマが案内してきた客たちが店の二階にいる間、階下でリョーマの相手をするのは、いつも桜乃の役割だった。
 街へ出る時もあれば、雨の夜などはダンスフロアの片隅に二人、隠れるように座り、桜乃が不二からもらった絵本を広げてみることもある。
 漢字はあまり読めないと言っていたリョーマだが、ろくに小学校へも通っていない桜乃に比べれば、まだましだ。
「さ、さんどりよんは、いつもあたたかいかまどの前でねむっていたので、どれすもあたまも灰だらけなのでした――」
 二人で、絵本の大きな文字を指で追い、声に出して読む。
「かまどの前が灰だらけって……まあ、なんて始末が悪いんでしょう! 私がそんなことしてたら、板さんたちに大目玉もらっちゃいます!」
「日本のかまどとは違うよ。もっとずっと大きいんだ。小さな部屋くらいあって、中に人も入れるし」
「部屋みたいにおっきなかまど――」
 リョーマはいつだって、桜乃の知らないことを教えてくれる。彼の言葉の向こうには、無限の世界が広がっている。
 そうやって、まるでこの街に集まる大人たちの欲望から身を隠すようにひっそりと、仲良く肩を寄せ合う少年と少女を、『はるや』の誰もが優しい眼をして見守っていた。
「桜乃は本当に、越前商会の坊ちゃんと仲が良いんだねえ」
「そ、そんな、姐さん。私……」
「照れなくたっていいよ。坊ちゃんはあのお歳で、あんなに堂々としてらっしゃるし、大きくなったらそりゃあ美男におなりだろうよ。真金町中の女が、ほっときゃしないよ」
「そうだ、桜乃。お前、水揚げ
(みずあげ)の時は坊ちゃんにお願いするといい。お前が頼めば、坊ちゃんはきっと引き受けてくださるよ」
「あら、いいねえ。坊ちゃんと桜乃なら、さぞ似合いだろうねえ。男雛女雛みたいにさあ」
「ね、姐さんっ!」
 耳まで真っ赤に染め、身をこわばらせてうつむく少女を、姐さん女郎たちは微笑みながら眺めていた。自分にもかつて、こんな年頃があったと。
「でも――いいんでしょうか。私がリョ……越前商会の坊ちゃんといる間、掃除も台所の仕事も放りっぱなしで……」
 桜乃がおずおずと、前からの疑問を口にすると、
「ああ、いいのいいの。気におしでないよ」
「そうそう。お前が坊ちゃんのお相手をしてる分も、ちゃーんとこっちの花代に入ってるんだから。そういうとこでは抜け目がないからねえ、うちの旦那さんは」
「えっ、じゃあ――」
「大丈夫だって。ウィンズフォードさんもゴードンさんも、坊ちゃんがお連れするお客はみぃんな大金持ちなんだから。少々花代が高価く
(たかく)たって、爪の先ほども気にしてやしないよ」
「その分あたしたちが、心を込めておもてなししてるからね」
 姐さんたちは互いに目を見交わし、くすぐったそうに笑う。
「お前は坊ちゃんに嫌われないようにすることだけを、考えてればいいんだよ。そうすりゃ坊ちゃんは、お前逢いたさに『はるや』にどんどん上客を連れてきてくださる。そうなりゃお店も、あたしたちもばんばん稼げるし、お客だって喜んでくださるさ。あっちもこっちも上手くいって、それで万事めでたしめでたし」
「リョーマさんが、私逢いたさに……」
 本当にそう思ってくれるだろうか。
 桜乃と変わらない年令でありながら、はるかに多くのものごとを見てきているリョーマ。その中には、桜乃には想像もできないくらい美しい異国の少女たちもいたことだろう。
 それでも彼は、私に逢いたいと思ってくれているのだろうか。
 そうであってほしいと願う。桜乃自身もまた、リョーマに逢いたいと思うから。さながら向日葵が太陽を見つめ続けるように、いつもいつも彼の姿を見ていたいと。
 願いながら、それを心のどこかで信じられない自分がいる。
 あの日、突然リョーマが桜乃の前に現れたように、いつか突然、彼はいなくなってしまうのではないか。何の前触れもなく。そんな不安が、どうしても拭い切れない。どうしてそんなことを感じるのか、その理由もわからないまま。
 おそらくそれは、この街に生きる女たちすべてが思うことなのだろう。この街に縛られているが故に。自分からは恋しい男を追ってはゆけず、ただその訪れを指折り数えて待っているしかできない、その身の上故に。
 そんな桜乃の想いを知らぬ気
(げ)に、リョーマは今日も『はるや』ののれんをくぐる。






「おーい、こっちだこっちだ! 丁寧にやってくれよ!」
 夕暮れ時――かといって色街が混み合うには、まだ少し間のある頃。
 『はるや』の店内に一台のアップライトピアノが運び込まれた。
「ど、どうなすったんですかい、旦那!? こいつぁいってぇ――」
「異人街の牧師様が故国
(くに)へ帰るんで、不要になった牧師館の家具や備品をすべて競りにかけていたんだよ。たまたま通りがかったんだが、こいつを見たらどうでも欲しくなっちまってね」
 目を丸くしている店の者たちを前に、乾は得意げに話した。
「ダンスフロアに自動琴
(オルゴォル)だけじゃつまらない。演奏できる曲目も限られるし。前からピアノの生演奏を入れたいと思っていたんだ」
 フロアの隅に設置され、まるで十年も前からそこにあったかのように馴染むピアノを前に、乾は至極ご満悦の表情だった。
「いやまったく、こりゃあたいしたもんでございますねえ」
「これでまた『はるや』の評判があがりますよ!」
「でも、旦那さん……」
 桜乃はつい、ふと思いついたことを口にしてしまった。
「このピアノ、誰が弾くんですか?」
 一瞬の沈黙。そして。
「しまった。ピアニストを一緒に仕入れてくるのを忘れたぞ」
 乾は黒縁眼鏡の下、真顔で言った。
「だったらそのピアノ、ちょっとぼくに弾かせてもらえないかい?」
 穏やかな声がした。
「不二の若様!」
「い、いってぇ何時の間に……いえ、その、お早いお越しで、若様」
 ピアノを取り囲んで浮かれていた『はるや』の面々は、声をかけられるまで不二がダンスフロアに入ってきたことさえ気づかなかったらしい。
「あいすいません。今、遣り手に雪路を呼んで来させますんで」
「慌てなくてもいいよ。それより、かまわないだろう?」
 不二は乾に笑いかけ、確認を取ると、慣れた様子でピアノの前に座った。
 長く形の良い指が鍵盤の上を踊り出す。


   夢路よりかえりて 星の光仰げや
   さわがしき真昼の業も 今は終りぬ
   夢見るはわが君 聞かずや 我が調べを
   なりわいの憂いも 跡もなく消えゆけば
   夢路より かえりこよ

   海辺より聞こゆる 歌の調べきかずや
   立ちのぼる川霧 朝日受けてかがよう
   夢見るはわが君 明けゆくみ空の色
   悲しみは雲井に 跡もなく消えゆけば
   夢路より かえりこよ


 琥珀
(こはく)色のような、のびやかで深みのある歌声に、居合わせた者、そして二階から顔を出した者も、すべてがうっとりと聞き入った。
 やがてピアノが最後の一音を奏で終えると、心からの拍手が沸き起こる。
「驚きました。若様がこんなに、お歌がお上手だったなんて」
 不二と馴染みを重ねる女郎が彼の肩に手を置いて、いまだ夢心地のようにささやいた。
「ありがとう。じゃあ調子に乗って、もう一曲ご披露しようか」
 ふたたび不二の指が黒白の鍵盤の上をすべり、奏で始めたその曲。
「……あ!」
 桜乃は思わず小さな声をあげてしまった。


   谷間に咲くひな菊 風にそよぐ朝は
   露をうけてかがやく 緑におう小道

   ともに語り遊んだ 谷の奥の牧場
   静かなる レッドリバーバレー
   空に光る雲よ

   サボテンの花咲いてる 砂と岩の西部
   夜空に星が光り オオカミ鳴く西部


「この曲を知ってるの? おちびちゃん」
 間奏のあいだに、不二がにっこりと笑顔を見せる。
 桜乃はおずおずとうなずいた。
「あ……『赤い河の谷間』。以前
(まえ)に、リョーマさんが……」
 リョーマが、彼の故郷の唄として、聞かせてくれた唄。その時は荒削りな響きの英語で、日本語の歌詞はわからないと言っていた。
「この唄、歌えるようになりたいかい?」
 まるで桜乃の心を見透かしたように、不二は言った。
「和訳の歌詞を、きみからリョーマくんに教えてあげるといい。きっと彼も喜ぶよ」
「……はい!」
 表通りのランプに火が灯るまでの短い間、『はるや』の店内にはすずやかな歌声が満ちていた。





BACK     CONTENTS     NEXT

【ヨコハマ物語・4】

「赤い河の谷間」日本語歌詞は、本当はもっと長いんですが、少々省略させていただいてます。私が音楽の授業で習った時も、後半部分の「サボテン……」あたりは、教科書には載っておりませんでした。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送