それから数日後、乾はまるで魔法のように、どこからかピアノ弾きを連れてきた。しかもヴァイオリン弾きまで一緒に。
「まさか伯爵家の若様に、女郎宿で唄っていただくわけにもいかないからな」
 ピアノを弾くのは大石秀一郎という若者で、今は家業の古書店の手伝いをしているが、以前は東京音楽学校(注:東京音大の前身)の学生だったという。
 そしてヴァイオリン弾きの菊丸英二は、今でも歴
(れっき)とした音楽学校の学生だった。
「芸術ってのはとかく金がかかるんだよ、お嬢ちゃん」
 下働きの桜乃に向かい、菊丸はまるで帝国議会で演説でもするかのようなくそ真面目な顔をして言った。いや、本人はいたって真面目な顔をしているつもりなのかも知れないが、その目がどこか悪戯っぽく笑っている。
「このヴァイオリン一つにしたって、日本じゃまだ作れない。欲しいと思ったら、欧州から取り寄せるしかないんだ。向こうじゃどんな安物でも、はるばる海を越え、関税事務所を通り抜ける時には、目玉が飛び出るような値段になっちまうんだよ」
 そして菊丸は、美しいワルツをひとくさり弾いてくれた。
「俺はね、お嬢ちゃん。伊太利亜へ行きたいんだ。本場で音楽の勉強がしたい。この店で働いて、その渡航費用を貯めるつもりなんだ。政府は医学や造船術のためならべらぼうな留学費用もぽんと支払ってくれるけど、音楽や文学なんて腹の足しにもならんと、俺たちにはめっぽう冷たくてさ」
 以前はそのために、街角でヴァイオリンの弾き語りもしていたそうだ。その時、乾に声をかけられたのだという。
「いやあ、ここの旦那に声かけてもらって、ほんとに助かったよ! なんせここには屋根がある。雨が降っても、ヴァイオリンを濡らしちまう心配がないからね!」
 そして東京音楽学校でかつて机を並べた仲間であり、幼なじみでもある大石をも引っ張り込んで、『はるや』での演奏を引き受けたのだった。
「ただし、学校には内緒にしてくれよ。うちの教授、頭がカタくて。悪所に出入りすると音楽までが下卑てくるってのが持論なんだ」
 菊丸と大石の演奏は、たちまち『はるや』の新しい呼び物になった。
 伊太利亜留学を目指しているという菊丸の言葉に、嘘はなかった。大石のピアノに支えられ、彼のヴァイオリンが軽快なポルカやロンドを奏でると、ダンスフロアはすぐに「ブラヴォ!」の歓声であふれ返った。
「こいつは思ったより上等の拾い物をしたな」
 乾も満足そうにうなずく。膝の抜けた袴にちびた下駄では店の品格にも拘わると、乾は二人にぱりっと糊の効いた洋装まであつらえた。
 小粋にワイシャツの衿
(カラー)を立て、縞のヴェストのポケットから金鎖を覗かせた菊丸は、真金町中の女たちの話題を独り占めにした。もっともその金鎖は本当にただの飾りで、その先にあるはずの懐中時計がついていないのだったが。
 にぎやかなポルカに浮かれ、亜米利加人の船乗りがテーブルに飛び乗った。真っ赤なドレスを着た女郎を抱え上げ、そのままテーブルの上で踊り出す。速いテンポに合わせて彼女のドレスが翻り、真っ白な脚が膝の上まで見えるたびに、店中からどっと歓声がわき上がり、口笛が飛んだ。日本人の男たちまでが、異国の風習にならってテーブルを叩き、食器を打ち鳴らして陽気に騒ぐ。
「あいすいません。シャンパンをお持ちしました!」
 その喧噪をかいくぐるようにして、桜乃は客が注文した酒や料理を運ぶ。
 今夜はリョーマも姿を見せていない。大繁盛の『はるや』では、人手が足りずに店中がてんてこ舞いだ。
「おーい、こっちにも酒だ! 麦酒
(ビィル)持ってきてくれ!」
「はい、ただいま!」
 帳場の隅では乾と女将が、出入りの女衒を呼んで女郎を増やす相談だ。
「前金は少々高価くついてもいい。上玉を探してきてくれ。唄か踊りか、一芸持ってる妓
(こ)がいいね。できれば英語の話せる娘を――」
「無茶おっしゃっちゃあいけませんや、旦那。そんなお女郎がいるんなら、あっしだってお目にかかりてェや」
 客に酒を運んだ桜乃は、今度は空になった陶製のジョッキや汚れた皿を腕いっぱいに抱え、厨房へ戻る。
「ほい。タンシチュウ、あがったよ」
「こっちは天ぷら。熱いから気をつけて持ってくんだよ」
 厨房では和洋二人の料理人が、それぞれの見習いを手足のように使って、客の注文を次々にこなしている。
「腹が減ったら、そこに賄いの握り飯があるからね」
「はい、板長さん」
 板前見習いの若者は容赦なく怒鳴りつける板長の河村も、女子供には優しい。
 出来上がった料理を手に桜乃がふたたびのれんをくぐると、ダンスフロアは何故か少し静かになっていた。
 菊丸たちの演奏に合わせ、濁声
(だみごえ)の英語が聞こえる。


    Come and sit by my side if you love me
    Do not hasten to bid me adieu
    But remember the Red River Valley
    And the one that has loved you so true

    Just remember the Red River Valley
    And the one who has loved you so true


 それは、『赤い河の谷間』だった。
 酔って涙もろくなったのか、懐かしい唄に故郷を思い出したのか、亜米利加から来た船乗りの唄声にはすすり泣きが混じり、やがて途切れ途切れになってきた。
 彼の感傷は、異国から来た者、あるいは同じ日本の地にいながらも家族と離ればなれになっている者、みなの思いだ。産業革命が起こり、巨大な蒸気船が定期航路を行き交うようになったとはいえ、それでもまだ大海は危険に満ち、長期の航海は命がけだった。ひとたび陸を離れれば、次に家族に会える保障は、誰にもないのだ。洟
(はな)をすすり、ついには唄えなくなってしまった彼を、誰も笑おうとはしなかった。
 切ない沈黙がカフェルームに満ちる。望郷の念、久しく逢えない家族の顔が目交い
(まなかい)をよぎる。誰もが旅路の孤独に胸をふさがれる。
 その時。


   谷間に咲くひな菊  風にそよぐ朝は
   露をうけてかがやく 緑におう小道

   ともに語り遊んだ 谷の奥の牧場
   静かなる レッドリバーバレー
   空に光る雲よ


 すずやかな歌声が、フロアの片隅から響いた。


    サボテンの花咲いてる 砂と岩の西部
    夜空に星が光り オオカミ鳴く西部

    赤い河の谷間よ 切り立つ岩山よ
    昼なお暗い森よ 通る人も絶えて


 男たちは身を乗り出し、あるいは立ち上がって、カウンターの隅を注視した。
 そこで歌っているのは、お下げ髪を結い、まだ肩揚げもとれない粗末な着物に身を包んだ、下働きの少女だった。


    ともに語り遊んだ 谷の奥の牧場
    静かなる レッドリバーバレー
    空に光る雲よ


 ……どうしてだろう。
 唄声が途絶え、すすり泣きがフロアに満ちた時、桜乃の唇
(くち)から自然に歌詞があふれ出していた。
 なぜみんな、何も言わないんだろう。なんであんなふうに、口を開けたまま黙って、自分の歌を聞いているのだろう。
 あたりを見回すと、『はるや』の入り口に立ち止まっている小さな人影が目に入った。
 リョーマだ。リョーマがのれんを持ち上げた手を下ろすのも忘れ、こっちを見ている。
 ――リョーマさんが、私の歌を聞いている。
 その途端、桜乃の胸が高鳴った。身体中に新しい血が湧き上がるように、熱いなにかがあふれ出してくる。足の爪先から頭のてっぺんまで、言葉にできない嬉しさが満ちていく。それは音楽に合わせて高らかに脈動し、まるで桜乃の身体を今にも宙空へ飛ばしてしまいそうだった。
 ……聞こえる? 聞こえる? これは、あなたに教わった歌。あなたの故郷の歌。
 ヴァイオリンとピアノに合わせ、桜乃が最後のフレーズを歌い終えた時。
「ブラヴォ、ブラヴォー!!」
「いいぞ、もう一度!」
「アンコール!!」
 嵐のような歓呼と拍手が沸き起こった。
「え……、えっ!?」
 涙と洟で顔中ぐしゃぐしゃにした船乗りが、桜乃に駆け寄り、その手を両手で掴む。早口の英語で何かを叫び、感極まったように桜乃の両手を大きく上下に揺さぶる。
「あ、あの、あの、私……っ!」
「もう一度歌ってほしいって言ってる。自分にはあんたと同じ年頃の娘がいる、さっきの歌で故郷に置いてきた娘を思いだした、まるで娘に会えたような気がするからって!」
 酔客の垣根をすり抜けるようにして駆け寄ってきたリョーマが、船乗りの大声に負けないよう声を張り上げ、その言葉を訳してくれた。
「もう一度って……」
「すごいじゃないか、お嬢ちゃん!」
 菊丸も客たちを押しのけ、走り寄ってくる。
「ほかにどんな歌を知ってる?」
「あの――『夢路より』……。不二の若様から教わりました」
「『Beautiful Dreamer』か! 大石、楽譜ある!?」
「ああ。確か、持ってきてたはずだ」
 そのまま菊丸は桜乃の手をつかみ、大石が待つピアノのそばまで引っ張っていった。
「いいかい、まず短い前奏が入る。その後、俺が『はい』と言って合図するから、そうしたら歌い出すんだ。できるかい?」
「は、はい!」
 たぶん大丈夫だ。桜乃は自分に言い聞かせた。不二から歌を教わった時にも、同じやり方で歌い出すタイミングを教えてもらった。
 リョーマも人混みを掻き分け、最前列まで来てくれている。
 優雅なメロディが流れ出した。不二が弾いた時よりも、少しだけテンポが速い。
 大石が小さく合図を出す。
 桜乃は思い切って息を吸い込んだ。


    夢路よりかえりて 星の光あおげや……


 高く澄んだ歌声がカフェルームいっぱいに満ちていく。
 そこに居合わせた者たちはみな、一言も発さず、その歌声に聞き入った。少女の歌声に、誰もが故郷を、家族を、過ぎ去って戻らない遠い日を思っているようだった。
 そして桜乃が目を閉じ、大石のピアノが静かに最後の一音を奏でると、フロアは一瞬、水を打ったように静まり返った。
 次の瞬間、割れんばかりの歓呼と拍手が沸き起こる。
「いいぞ、お嬢ちゃん! もう一曲歌ってくれ!」
「いいや、今度はダンスと行こうや! おう、兄さん。一丁威勢のいいのをやってくれ!」
 菊丸がヴァイオリンを構え、弾むようなメロディを奏で始めた。女郎の手を取り、客の男たちが次々に踊り出す。
 ふたたびおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎになったダンスフロアを、桜乃はこそこそとまるで隠れるように離れた。
 帳場の片隅では、ズボンのポケットの両手を突っ込み、リョーマが立って桜乃を待っている。
「リョーマさん……あの、大丈夫ですか? お連れになったお客さんは……」
「あそこ。一緒になって踊ってるよ」
 リョーマが指さした先では、赤ら顔の異国人が華奢で小柄な女郎を相手に、太った体躯に似合わず身軽なステップを披露していた。
「さっきの歌……『Red Liver Vallay』だろ? いつ覚えたの?」
「あのピアノがお店に来た日に……。不二の若様が教えてくださったんです」
 ちらっと振り向くと、女将が「いいよ」と言うように桜乃に小さくうなずいた。それを確かめ、二人はのれんをくぐって表へ出た。
 黒塀が囲む『はるや』の敷地の外へは足を踏み出さず、表の門から建物まで続くわずかな庭の隅に、まるで植え込みの陰に身をひそめるようにして、二人そっと腰を下ろす。
「もう一度歌って。さっきの歌」
 リョーマが言った。
 桜乃はこくんとうなずく。この暗闇が、自分のほほも目元も、耳まで真っ赤になっているのを隠してくれればいいと願いながら。
 すうと息を吸い込んで、小さく、ささやくように桜乃は歌い出した。リョーマにだけ聞こえるように、リョーマのためだけに。


    谷間に咲くひな菊 風にそよぐ朝は……


 旅人たちが行き交う港町に、ひっそりと優しい歌声が流れていった。






BACK     CONTENTS     NEXT

【ヨコハマ物語・5】

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送