三、愛しのクレメンタイン 


     杯を持て さあ卓をたたけ
     立ち上がれ 飲めや 歌えや 諸人
     祝いの杯 さあ懐かしい 
     昔の馴染み 心の杯を

 人いきれでむせかえるカフェルームに、「乾杯の歌」が響く。人々は歌詞にあるとおり、杯を掲げ、テーブルを叩いて大合唱していた。
 その合唱の中心にあるのは一台のピアノとヴァイオリン、そして二人の少女だった。

     飲めや 歌え 若き春の日のために
     飲めや 歌え みそなはす神のために
     飲めや 歌え わが命のために
     飲めや 歌え 愛のために Hey!

 桜乃は酒場の喧噪に負けないよう、精一杯の声で歌った。
 この歌を教えてくれたのは、ヴァイオリンを弾いている菊丸だ。このごろ彼は、カフェルームでの選曲を乾から一任されていた。
 桜乃が初めてカフェルームで歌った夜から、もう一ヶ月あまりが経とうとしていた。
 その間に、桜乃の周囲は少しずつ変わっていった。店の雑用や下働きの他に、夜、カフェルームがもっとも混雑する時間帯に、ピアノのそばで歌うことが、桜乃の新しい務めになった。
「ちょうど良かった。お前が歌っていれば、他の女郎達は客と踊ることができる。女郎に歌わせたんじゃ、あぶれる客が多くなっちまうからな」
 ただでさえ大入り満員が続く「はるや」だ。ダンスフロアで女郎と踊るにも、順番待ちのありさまなのだ。
「英国や欧州大陸じゃ、こういうのが流行
(はやり)だそうじゃないか。そら、サパールームとか何とか言って、歌と踊りのショウと飲食をいっしょに楽しむための店だよ」
「お、踊りって、私……!」
 人前で歌うだけでも心臓がひっくり返りそうなのに、その上、女郎の姐さん達のように踊れなどと言われたら――! 桜乃はもう、泡を吹いて気絶したくなった。
 真っ青になった桜乃に、乾は苦笑した。
「安心しなさい。こんな狭いカフェルームじゃ、ダンスショウは無理だ。そういうものをやろうと思ったら、おそらく見せ物小屋の興業許可が要るだろうしな」
 まあ、いずれ何か考えておくよ、と、乾は気楽そうに言った。
「それまでは、歌とピアノで保たせるしかないだろう。菊丸に、にぎやかな曲を何曲か教わっておくといい」
「は、はい……」
「うん、桜乃一人じゃあんまり華がないな。もう一人くらい一緒にいたほうがいいかもしれない。そっちも考えておくから」
 そして間もなく、もう一人の少女が「はるや」へとやって来た。
 乾の言葉に従って、菊丸は桜乃に次々と新しい歌を教えてくれた。世の中にこんなにもたくさんの歌があるなんて、桜乃は今まで知らなかった。
 彼に教わるのはそれだけではない。読み書きに楽譜の見方、異国の偉大な音楽家たちの、様々な逸話。そして外国語の発音。
 外国語については、精通している乾が忙しい合間を縫って桜乃達の発音の誤りを直してくれることもある。ただし、
「発音や文法はここの旦那に習ってもいいけど、音程だけは絶対に真似するんじゃないよ」
 と、菊丸がこっそりと耳打ちをした。
 今、桜乃の隣に並んで歌っているのは、小坂田朋香という少女だ。当初は通いの下働きとして口入れ屋から紹介されてきたのだが、物怖じしない性格と、以前は牧師館の子女塾に通い、西洋の合唱曲も学んでいたという経歴を買われて、カフェルームで歌うことになったのだ。日中は桜乃といっしょに掃除や洗濯などの下働きをする。
「どうせ十八になったら女郎にならなくちゃいけないんだもの。むしろ『はるや』みたいな大店に伝手
(つて)ができて、逆にあたしはとっても運がいいと思うの!」
 あっけらかんと朋香は笑っていた。
「こんな綺麗な振り袖も着せてもらえるし。下働きのままじゃ、きっとさわれもしないわ」
 朋香がうれしそうに撫でた振り袖は、客の前に出る時に着るようにと、乾が二人に用意してくれたものだ。朋香の振り袖ははなやかな鴇色
(ときいろ)、市松格子に撫子が散っている。桜乃は名前にちなんで桜の柄、地色は淡い浅葱色(あさぎいろ)だ。これに裕福な家の子女がはくような葡萄茶色(えびちゃいろ)の女袴をつける。みな、裁縫の得意な仲居のおばさんが古着を仕立て直してくれたものだ。
 二人の髪で揺れているお揃いの髪飾りは、不二からの贈り物だ。
「ぼくが、君達の最初のご贔屓さんだね」
 不二はそう言って、西洋から輸入された可愛い花の形の髪留めを、二人にくれたのだ。
 きらきら光るガラス細工のきれいな髪留めは、自分よりも朋香により似合うと、桜乃は思っていた。
「お女郎になるって……。でも、朋ちゃんのお家は士族(注:江戸時代、武士であった家系の総称)でしょう?」
「士族ったって、貧乏御徒士(おかち:武士の中でもっとも身分が低く、騎馬を許されなかった地位)よ。父さんはろくな働き口も見つからなくて、しょうがなくて東京から横浜へきたんだもの。港のそばなら荷運びの日雇い仕事も多いだろうからって。あたしが通ってた子女塾だって、牧師館の慈善活動。ただで勉強を教えてもらえるから、通ってたのよ」
 けれど朋香はしゃんと前を見据え、力強く言った。
「あたしの下には双子の弟がいるの。あたしが女郎にならなくちゃ、弟たちはろくに学校へも行けないわ。それじゃ、いつまで経ったって貧乏暮らしから抜け出せない」
 読み書き算術くらいの初等教育は、国策としての支援があるから何とかなるが、それ以上の高等教育にはどうしても金がかかる。そしてそういった高い教育を受けなければ、苦しい生活から這い上がることは難しい。
「それにね、桜乃。女郎になるからって、あたしは諦めないわ。どっかの若様があたしを見初めて身請けして下さるかも知れないし、女郎になる前、ここで歌ってる間にも、そういうことがないとも限らないでしょ? ううん、若様なんかじゃなくてもいい。あたしをちゃんと好いてくれて、いっしょにがんばろうって言ってくれる人なら、どんな人でも!」
「そうね。朋ちゃんなら、こんなに可愛いし、頭もいいし。きっとすてきな御方が……」
「なに言ってるの。桜乃だって同じでしょ。諦めちゃったら、なにも始まらないんだから!」
 明るくはしゃく朋香に、桜乃ははっきりと返事をすることはできなかった。
 朋香の言葉に、つい思い描いてしまう姿がある。
 自分を迎えに来てくれる人の姿。この着物の肩揚げがとれる頃、あの「はるや」ののれんをくぐって現れる人。腕には大きな花束を抱えて、他のどんなにきれいな姐さん達にも目もくれず、ただ真っ直ぐに桜乃の元へ来てくれる人。
 その人の黒髪、同じ色の瞳。唇から出る言葉には、少し風変わりなクセがあって……。
「あー! どうしたの、桜乃! 顔が赤くなってる!」
「な、なんでもないの! なんでもないったら……」
 そんな夢を見ても叶うはずはないのだと、わかっている。でも、夢見ることそのものまでも諦めるのは、あまりにも哀しい。せめてこの胸の中だけでは、夢を見ていたい。そのくらいのことは、自分に許してやりたい。そう思うことは、いけないことだろうか?
 桜乃は唇を噛んで、両手を胸に置き、とくん、とくんと次第に大きくなる心臓の鼓動を抑えつけた。

     春の日の 花と輝く
     うるわしき姿の
     いつしかに あせてうつろう
     世の冬は 来るとも
     わが心は 変わる日なく
     御身をば 慕いて
     愛は なお 緑いろ濃く
     わが胸に 生くべし

 大石のピアノに合わせ、朋香が澄んだ歌声を響かせる。一途な恋の喜びを歌うこの曲は、朋香が牧師館の子女塾で教わったものだという。
 一番の歌詞が終わるころ、ダンスフロアの隅に置かれたグランドファーザーズクロックが、低くぼぅん、ぼぅん……と時を告げるベルを鳴らした。
「もうこんな時間か」
 時計を確かめ、大石がつぶやく。
 「はるや」に住み込んでいる桜乃とは違い、朋香は真金町の外にある自宅から通ってきている。そろそろ帰宅しなければならない時刻だ。
 調理場へ続くのれんを持ち上げ、乾が顔をのぞかせた。ピアノのそばにいる四人に向かって小さくうなずき、朋香にもう帰っていいと合図をした。
 それを見ると、朋香は一度フロアの客達に向かってぴょこんと頭を下げた。そしてすぐにぱたぱたと草履を鳴らして調理場のほうへ引っ込んだ。
「番頭さんから傘を借りて行きなさい。だいぶ降りがひどくなってきた。海堂に家まで送らせよう」
「はい、ありがとうございます!」
 二人の会話に気づき、ふと耳を澄ませば、屋根を叩く雨音がフロアにまで響いている。
「この分じゃ、これ以上客は来そうにないな」
 菊丸がカフェルームを見回し、言った。
 テーブル席にもダンスフロアにも、常連客の見知った顔ばかりが目立つ。混み合っている時のはじけるような陽気さ、活気はないが、その分客達もそばに寄り添う女郎の姐さん達も、のんびりと落ち着いて酒や音楽を楽しんでいるようだった。
「そうだ、お嬢ちゃん。こないだ練習したあの曲、やってみるかい?」
「こないだって――クレメインタインの曲ですか?」
 それは桜乃が数日前から練習しているアメリカの歌だった。歌詞のすべてが英語なので、まだ発音に自信が持てない桜乃は、人前で歌うのをためらっていた。
「大丈夫だって。少々発音がおかしくたって、みんな大目に見てくれるよ」
 菊丸はにっこり笑って、軽く片目をつぶってみせた。
 そして桜乃の返事も待たずに、大石へ合図する。
 大石はすぐに、明るく、けれどどこかに哀調を帯びたアメリカ西部の民謡を奏で始めた。
 こうなれば歌うしかない。桜乃も思い切って息を吸い込んだ。

     In a Cavern, In a Canyon
     Excavathing for mine
     Dwelt a miner forty niner
     And his daughter Clementine

     Oh my darling, Oh my darling
     Oh my darling, Clementine!
     Thou art lost and gone forever
     Dreadful sorry Clementine,

 一攫千金を夢見て西部に流れ着いた金鉱堀り、そしてその美しい娘のことを歌ったこの曲は、カウボーイ達の間で歌い継がれ、アメリカ大陸でももっとも有名な曲だろう。客達の中には前奏を聴いただけでおや、という顔をし、桜乃の歌声に合わせて低くハミングする者もいた。
 英語の発音はまだ少したどたどしいが、桜乃は確かな音程で歌い続けた。綺麗な韻を踏む歌詞が、歌っていて心地よい。一番を歌い終える頃には、次第に不慣れな英語への不安も薄れていった。
 ゆっくりとカフェルームを見回すと、客席の片隅、ツィードのジャケットに身を包んだ小柄な姿が眼に入った。いつも通り鳥打ち帽を小粋にかぶり、その下から少しクセのある黒髪がのぞいている。
 ――リョーマさんだ。そう思った瞬間、桜乃のまわりからすべての景色が吹き飛んだ。
 煙草の煙も酔客の笑い声も、もう何も気にならない。いつも胸の奥から消えない不安も、今だけは忘れられる。ざわめくカフェルームの中、自分の声が確かに彼に届けばいいと、それだけを思う。
 リョーマが小さく微笑んでいる。彼もこの「愛しのクレメンタイン」を知っているのだろう。桜乃に向かってちょっとうなずいてくれたように見えた。
 もう、何も怖いことはない。彼が聞いていてくれるのなら。彼が、私の歌を喜んでくれるのなら。
 のびやかに歌う喜びだけが、桜乃の中を満たしていった。

     Oh my darling, Oh my darling
     Oh my darling, Clementine!
     Thou art lost and gone forever
     Dreadful sorry Clementine,

 だが。
 いきなり、がたん! と、大きな音がした。
 椅子が蹴り倒され、グラスが床に叩きつけられる。ガラスがこなごなに砕け散る音が、まるで悲鳴のように響く。琥珀色の酒がぶちまけられ、あたりに強い薫りが立ち込めた。
 そして。
「きゃあっ!?」
 いきなり、強い力で手首をつかまれる。
 桜乃は思わず小さく悲鳴をあげた。
 細い手首をつかみ、爪先を突き刺すように食い込ませてくる強く硬い指。真上から、桜乃を見据える眼。
 洒落た洋装のヴェストに、金の鎖が揺れている。深紅のネクタイに高い衿。だがその襟元は大きく開かれ、少し血色の悪い肌が胸元近くまであらわになっていた。ワイシャツの袖にも紅い宝石をあしらったカフスボタンが飾られているが、袖を留める役割は果たしていない。
 強く、酒と煙草の匂いがした。そしてかすかな潮の匂い――それとも、血の匂い?
「なぜ、その歌を歌う」
 低く、奥歯でぎりぎりと押し潰すように、その男は言った。
「答えろ! どうしてその歌を、お前が歌うんだ!!」





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【ヨコハマ物語・6】

出だしに使った「乾杯の歌」、ドイツ民謡だそうですが。確かかなり以前にビールかなんかのCMソングとして使われていたような気ががするんですが……。
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