カフェルームは一気に騒然となった。
「ちょっと、お客さん――!」
 ヴァイオリンを傍らに置き、菊丸が男の肩を掴んで振り向かせようとする。
 が、
「うるせえッ!!」
 怒号と共に、菊丸は男の腕の一振りで床へ叩きつけられた。
 椅子が壊れ、テーブルが傾く。皿や徳利が床に落ち、悲鳴のような音をたてて砕け散った。
「英二!」
 大石が菊丸に駆け寄り、助け起こす。
 常連客のそばに座っていた女郎が、店の男衆を呼ぶために、男の眼をかすめるようにしてのれんの奥へと走る。押し殺し、あえぎのように掠れた悲鳴、低くざわめく声がフロアに満ちる。
 その間も、男は桜乃の手首を握り締め、離そうとしなかった。
「答えろ。なんでその歌を歌った。どこで覚えたんだ。港か。誰がお前にその歌を教えたッ!」
「わ、私、何も……!」
 ますます力が籠もる男の手をふりほどこうと、桜乃は身もがいた。
 そして、気づく。
 男の眼。
 整った容貌にはめ込まれた、ガラス玉のような眼。その淡い灰色は、日本人のものではあり得なかった。
「あ……!」
 よく見れば彼の髪も、日本人にしては色が薄すぎる。ゆらめくランプの灯りに照らされて鈍い金色に光る。――いや、暗い銀色だ。
 そして、その眼。まるで荒れた冬の海のような冷たい灰色。激昂しているせいか、今はほとんど色がないようにさえ見える。
「この眼が珍しいか」
 男は唸るように言った。
「青や灰色の眼なんて、横浜に集まる異国人の中には珍しくもないだろうが! それでもお前は、この眼がそんなに珍しいのか!!」
 その言葉は、間違いなく日本で生まれ育った者の発音だ。リョーマのような外国訛りはまったく感じられない。
 桜乃の手首を掴む男の手に、ますます力がこめられる。細い手首は男の手の中で今にも折れそうに反り返っていた。
「い、痛いっ! 痛い、離して……!」
 耐え切れず、ついに桜乃が悲鳴をあげた時。
 赤銅
(あかがね)のマグカップが宙を飛んだ。
 麦酒
(ビィル)を撒き散らし、男の後頭部に激突する。
 がしゃッ!! と、甲高い音がした。
 マグカップは床に落ち、がらがらッと破鐘
(われがね)を叩くようなけたたましい音をたてて転がる。
 男の銀色の髪、洒落た洋装、そして桜乃の袖までも、冷たい麦酒が濡らしていった。
 男が、ぎり、と奥歯を噛み、鳴らした。
 そのまま後ろを振り向く。
 そこには、リョーマが立っていた。
 ようやく男の顎あたりに届こうかというほどの小柄な少年が、男の視線を真っ向から受け止め、逆に突き刺すような眼をして男をにらみ返す。マグカップを投げたその手も、まだ下ろしてもいない。
「貴様……この、小僧
(ガキ)……ッ!!」
 男は桜乃の手を離した。酔いのせいか大きく傾ぎながら身体の向きを変え、リョーマに向かって一歩踏み出す。
 紅いカフスを飾った手が、ぱっと横へ伸びた。手近にあったシャンパンのボトルを逆さに掴み、テーブルの角で叩き割る。濃いグリーンのガラスは中程から砕け、鋭い歯を持つ凶器になる。
「きゃああッ!」
 女郎の誰かが引きつった悲鳴をあげた。
「リョーマさん、だめ、逃げてっ!」
 桜乃も叫ぶ。
 だが逆に、リョーマは着ていたジャケットを脱ぎ捨てた。逃げるつもりなどないという、意思表示だ。
「上等だ、手前ェッ!!」
 男が吠える。
 割れたボトルを振り上げ、リョーマに殴りかかろうとした、その瞬間。
「そいつはちょっと大人気無う
(おとなげのう)ございますよ、お客様」
 二人の間に、背の高い姿が飛び込んだ。
 乾が男の腕をつかみ、ガラスのボトルが振り下ろされるのを食い止めていた。
「旦那さん……!」
 フロア中から、ほうっと大きく安堵のため息がもれる。
 だが乾は、男にではなく、ちらっとリョーマの方を振り向き、言った。
「おいたが過ぎましたね、坊ちゃん。色街で女を取り合っての立ち回りなんざ、坊ちゃんのお歳じゃ少し早すぎますよ」
「な――!」
 リョーマが言い返そうとするのにも、乾はまったく取り合わなかった。
 帳場の奥から老番頭がリョーマへ駆け寄る。そしてそのまま、リョーマを抱きかかえるようにして土間の方へ引きずっていった。
「旦那さん、違います……私……!」
「桜乃。口答えするんじゃない」
 黒縁眼鏡の奥から鋭い眼が桜乃を見据え、何も言うなと告げている。桜乃は小さく息を飲み、口をつぐむしかなかった。
「お客様。ご気分直しに二階で一献いかがでしょう?」
 乾が顔を向けた先では、二階へ続く階段の中程に華麗な打ち掛けを羽織った花魁が立っていた。「はるや」で一番人気を誇る洋妾だ。美しく着飾った花魁は、男に向かって婉然と微笑み、打ち掛けの袖からほんの少し覗かせた白い指先で、思わせぶりに小さく手招きをした。
「花代はわたしどもで持たせていただきますので、今夜のところは、どうぞこの子の粗相をお許し下さい」
 男の腕から力が抜けたのを見て、乾も彼の腕を放した。割れたボトルがテーブルの上にごろんと転がされる。
「花代は店持ちだと?」
 乾は愛想良い笑顔でうなずいた。だが眼鏡の奥の眼はけして笑ってはいない。「はるや」に長く居る者だけが、それに気づいていた。
 調理場へ続くのれんの陰からも、料理人や仲居たちが少し身を縮めながら、フロアの様子をうかがっていた。さらにその奥には、もっと気の荒い連中が控えている。このまま静かに事が終わらないようなら、すぐにでも飛び出していけるように身構えながら。
 打ち掛けの裾を長く曳きながら、花魁が階段を降りてくる。
「さ、参りましょう、旦那様。西洋菓子はお好きかしら。こないだ、ボンボンを仏蘭西から取り寄せましたの。最初の一口は大事なおひとに差し上げたくて、まだ封も切らずにとってありますのよ」
 花魁は、まだ麦酒に濡れ、ところどころ赤く血がにじんでいる男の手を、そっと自分の手で包み込んだ。そのまま、とても大事なもののように胸元に引き寄せる。
 彼女に導かれ、男はカフェルームを後にした。階段を登り、花魁の部屋へと消えていく。
 どこからともなく、ふうっと大きく息を吐き出すのが聞こえた。張りつめていた空気が、一気にゆるんでいく。
「旦那さん。違います。リョーマさんは……!」
「桜乃。お前はもう勝手へ下がるんだ」
 有無を言わせない声で、乾が命じる。それに逆らうことは、桜乃にはできなかった。
「……はい」
 肩を落とし、とぼとぼと調理場へ向かう。最後にちらっと振り返ると、リョーマは土間の隅で番頭から何かを言い含められているようだった。
 桜乃の視線に気づいたのか、リョーマがぱっと顔をあげる。桜乃に向かって何かを言いかける。
 けれどその声は、桜乃の元へは届かなかった。
 桜乃は乾に肩を押され、調理場へと入っていった。
 騒ぎの中心人物達がみな退場すると、カフェルームは言いようのないやりきれなさに満たされた。
 誰も彼も、何を言っていいのかもわからず、互いに苦い表情をして顔を見合わせるばかりだ。
 男に殴られた菊丸は、ピアノのそばにしゃがみ込み、仲居から傷の手当てを受けている。大石も所在なさそうにそのそばに立っていることしかできない。
 重苦しい空気があたりを支配していた時。

      妻をめとらば才長けて
      見目麗しく 情けある……

 低く歌声が聞こえた。
 客も女郎もみな、思わずその声の方へ視線を向ける。
 そこにいたのは、不二周助だった。
 不二は琥珀色の酒を満たしたグラスを傾けながら、まるでさっきの騒ぎなどまるで知らないとでも言うように涼しげな顔をして、小さく歌を口ずさんでいた。

      友を選ばば 書を読みて
      六分の侠気 四分の熱……

 不二は心地よさそうに歌い続ける。いかにも酒と歌とを楽しんでいるといった風情だ。
 大石がピアノに向かった。不二の歌に合わせ、伴奏を弾き始める。
 やがて菊丸も立ち上がり、ヴァイオリンを構えた。
 女郎の誰かが声を合わせる。細く歌いながら、ゆっくりと手拍子を打つ。

      恋の生命を尋ぬれば
      名を惜しむかな 男の子ゆえ
      友の情を尋ぬれば
      義の在るところ 火をも踏む

 若者達の間で歌い継がれる流行歌
(はやりうた)が、手拍子とともにカフェルームに広がっていった。
 やがて客達も、一人また一人とそれに声を合わせる。

      嗚呼 我コレッジの奇才なく
      バイロン ハイネの熱なきも
      石を抱きて野に詠う
      芭蕉の寂をよろこばず

 歌声が満ちる。誰かが調子づいて小皿を叩いている。野太い男達の大合唱になった。
 いつか歌声をリードしているのは、菊丸になっていた。最初に歌い出した不二は、カフェルームの片隅で静かに、満足そうにそれを眺めている。
 「はるや」にようやくいつもの陽気さが戻っていった。








「ええ、あの若い男のことなら、知っています。名前は確か――仁。阿久津 仁です」
 カフェルームからようやく客達の姿が消え、女郎も泊まり客も寝入った頃。
 かまどの火を落とした調理場で、板長の河村が小声で言った。
 燗冷ましを茶碗酒で飲
(や)りながら、「はるや」の男達が今夜の騒ぎの顛末について話し合っていた。
「山手の外れに『逍遙亭』という宿があるのをご存じですか?」
「ああ。異国人専用の西洋宿
(ホテル)だろう」
「阿久津はそこの支配人の、孫息子です」
 河村はどこか屈託した表情を見せ、話すこともつらそうだった。
「正確には……支配人の娘が産んだ、父なし子なんです。俺は以前、あの近くの小料理屋で板前修行してましたので……話だけは聞いたことがあります」
「父なし子って――じゃあ、あの髪や眼の色は……」
 途中で消えた乾の言葉を察し、河村はうなずいた。
「もともと『逍遙亭』の支配人は江ノ島の近くで宿屋を営んでいましたが、ご一新の際に横浜へ出て、異国人専用の西洋宿を始めました。商いは上手くいっていたんですが――ある時、泊まり客だった亜米利加人が、娘を手込めにしたんです。亜米利加人は間もなく帰国し、やがて娘は灰色の眼をした赤ん坊を産みました」
「それが、あの男か」
 乾は苦々しげにつぶやく。
「あの男が荒む
(すさむ)気持ちも、わかるんです。……そうやって周りの人間に噛みついてるしか、生きるすべがないんでしょう」
 河村も苦い吐息をついた。老番頭が無言で洟をすする。
 誰からも望まれずに産まれてきた子供。しかもその容貌には、父親の犯罪の証がはっきりと刻み込まれていた。母親は子供の顔を見るたびに、自分の身に降りかかった忌まわしい出来事を思い出さざるを得ない。これが日本人に近い黒髪と黒い瞳を持っていれば、まだ母子ともに自分達の記憶をごまかし、周囲にも当たり障りのない作り話をすることもできただろうに。
 あの眼と髪は、阿久津 仁にとって、いったいどれほどの重荷なのだろう。
「海堂を外に出していた時で良かったよ。こいつがいたんじゃ、血を見ずには事が収まらなかっただろうからな」
 皮肉っぽく苦笑して、乾は自分の右手を見た。そこには白い包帯が巻かれている。阿久津の腕を押さえた時に、その手にあった割れたボトルで少々の傷を負っていたのだ。
 だが海堂はその包帯を不満そうな表情でにらんでいた。自分がいれば、店の主人にこんな傷を負わせることもなかったものを、とでも言いたいらしい。
「桜乃はどうしていた?」
「だいぶべそをかいていましたよ。そこの隅で丸くなって」
 河村は視線で調理場の片隅を示した。邪魔にならないよう膝をかかえてうずくまり、しゃくり上げる声を必死に堪えようとしていた少女の姿が、目に浮かぶ。
 桜乃はもう使用人部屋に引き上げ、今頃は薄い布団にくるまって眠っているはずだった。
「阿久津については、俺も寄り合い所で少し話を聞いてこよう。あれだけ目立つ顔だ、他の店でも騒ぎを起こしてたら、商工会のじいさん達の耳にも必ず入っているだろうからな」
「あいつが今度のことで味を占めなきゃいいんですがね」
「そうなったら海堂、それこそお前の出番だ」
 乾は海堂の茶碗に酒を注ぐ。
「まあいい。今夜のことはもう終わったんだ。明日のことは明日考えればいいさ」
 そして調理場に聞こえるのは、屋根を叩く雨音だけになった。





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