「えーっ! あたしが帰ったあと、そんな騒ぎがあったの!?」
 翌日、掃除の合間にことのあらましを聞いた朋香は、店中に響き渡るような声をあげた。
「だから菊丸兄さん、あんなに顔を腫らしてたのね!?」
 桜乃と朋香は、先輩女郎たちを「姐さん」と呼ぶのに倣って、菊丸と大石の二人をいつの間にか「兄さん」と呼ぶようになっていた。「はるや」で働くほかの男たちには、こんな呼称は使わない。調理場で働く河村は「板長さん」だし、白髪頭の番頭はそのまま「番頭さん」だ。忘八者の海堂などとは、桜乃は怖くてほとんど口をきいたこともない。
 阿久津 仁に殴られた菊丸は、顔半分に大きな膏薬を貼り、せっかくの色男も台無しといった有り様だった。もっともその怪我を痛ましがって、「はるや」内はもとより出入りの女髪結いや芸人や、真金町中の女たちがこぞってちやほやしてくれるので、当人はまんざらでもないようだったが。
「それで、リョーマ様は?」
「うん……。その後、すぐお帰りになったみたい。あたしもお勝手に行かされたから、見てないの」
 ため息をつくように小さく、桜乃は言った。
 昨夜はほとんど眠れなかった。明け方、うとうととしただけだ。泣きながら眠ったせいで、目元はまだ熱っぽく、腫れぼったい。
 あの時、無謀に男へ向かっていこうとしたリョーマの姿を思い出すと、胸が痛む。今さらながらに恐怖がこみ上げてきて、息も止まりそうになってしまう。
 リョーマに勝ち目があるとは到底思えなかった。男はあきらかに、ああいった血なまぐさい現場に慣れている様子だった。リョーマが年若いからといって、けして手加減などしなかっただろう。乾の制止が間に合わなければ、シャンパンボトルを叩き割った凶器は間違いなくリョーマの頭上に振り下ろされていたはずだ。
 ――私の、せいで。
 桜乃は強く唇を噛む。そうしていなければ、みっともなくしゃくり上げてしまいそうだった。
 自分が殴られるより怪我をするより、リョーマが傷つくことのほうが、何倍も何十倍も怖い。桜乃は今さらながらに、そのことに気づいた。彼が自分のせいで傷つく様を見るくらいなら、いっそこの世からいなくなってしまいたいくらいだ。
 一夜明けても、その次の日になっても、リョーマは「はるや」に姿を見せなかった。
 その間ずっと、桜乃は自分の中で堂々巡りを繰り返していた。
 リョーマに謝りたい。謝らなければ、と思う。けれど、何をどう言えばいいのか、言葉を見つけることもできない。このままリョーマと顔を合わせたとしても、きっと彼の前に立ち尽くすばかりで、声もろくに出せないだろう。
 あのひとに逢いたい。でも、逢ってしまえば、どうして良いかもわからない。なら、いっそこのまま、逢わないままでいたほうが、あのひとにとっても良いことなのかも知れない。――そうまで、思う。
 リョーマに逢えるから、彼が聴いていてくれると思うから、酔漢が集まる酒場で歌うことも怖くなかった。リョーマに喜んでもらいたくて、懸命に歌い続けてきた。
 けれどそれすら、自分には身に余る幸運だったのかも知れない。
 しょせん、身分が違いすぎる。身よりもない女郎屋の下働きが、あんな立派なお家の方に、いずれは世界へ向かって飛び立つひとに、こんなにも親しげにしてはいけなかったのだ。
 桜乃は両眼に涙を溜めて、懸命に自分へそう言い聞かせた。
 そんな想いも、自分からは追いかけていけない廓育ちの故
(ゆえ)だろうか。女郎達には、夢を見てもすぐに諦める哀しい習性(ならい)がついている。
 廊下の隅でうつむいて、隠れるように小さくしゃくり上げている少女に、回りの大人達もその想いがわかるのか、言葉はかけず、ただそっと見守るだけだった。
 世間の聞こえもあるからと、ダンスフロアでは一週間ばかり鳴り物
(注:楽器全般の意)をやめることにしていたし、横浜随一と言われる「はるや」も、ここ二、三日はさすがに店全体がいささか悄然としているようだった。
 ただ一つ、桜乃の心を慰める出来事と言えば、リョーマを傷つけようとしたあの男も、あの夜以来「はるや」に姿を見せないことだった。
 あの凍った海のような灰色の瞳は、今も忘れることはできないが。
 やがて、週末。
 役所の大太鼓がどぉん、どぉん、と正午を告げ、学生たちが一週間の学課から解放されて次々に校舎を飛び出してくる。いわゆる「半ドン」の土曜日だ。西洋から持ち込まれた「一週間」の概念は、日本古来の職人達の習慣にはまだあまり溶け込んでいないが、役所などは午前中だけで職務を終える。
 桜乃は土間の掃き掃除をしながら、港から聞こえてくる汽笛の音を聞いていた。
 遊郭はどこもまだようやく店の支度が始まったばかりで、どこか起き抜けの猫のような、物憂げなのったりした空気に包まれている。土間を掃く桜乃の箒も、ともすれば止まりがちだった。
 そんな中、「はるや」ののれんがふわりと持ち上げられ、外の風がさあっと流れ込んできた。
「おや、どうしたんだい、おちびさん。浮かない顔だね」
「えっ?」
 優しい声に振り返ると、そこにはいつもどおりのおだやかな笑みを浮かべて、不二周助が立っていた。
「あっ、い、いらっしゃいませ!」
 桜乃はあわててぴょこんと頭をさげた。土間を掃いていた箒を握りしめたまま、店の奥に向かって声を張り上げる。
「おっ母さん、おっ母さん、あの、不二の若様がお見えになりました!」
「あ、あら、まぁまぁ若様、お早いお越しで――」
 いささか泡を食った表情で、女将が内証から小走りに出てくる。
「あいすみません、雪路は今、湯屋に出かけておりまして……」
「気遣いは無用だよ。僕が早く来すぎたのは、わかってるから」
 不二はにこやかに笑い、軽く手を振った。
 確かに遊郭はまだ、支度が整う時間ではない。往来に人通りは少なく、女郎達のほとんどは寝不足の顔にようやく化粧を塗り始めたばかりだ。女将の言うように、今夜の勤めに備えて色里内にある湯屋へでかけている者もいる。
 ほのかに揺れる灯火の下で見れば、さながら桃源郷のような色街の佇まいも、明るい日の光にさらされれば、薄汚れた安っぽい街並みがあらわになる。こんな時間にこの街を訪れるのは、ここに関わる生業の者か、遊郭の裏も表も知り尽くし、今さら落胆することなど何もない放蕩者だけだ。
「それより今日は、女将たちに頼みがあって来たんだよ」
「まあ、何でございましょう。若様からのお頼みだなんて」
 女将は品良く帳場に膝をついた。その傍らに、不二も気安く腰を下ろす。どうやら今は、女郎達が待つ二階へあがるつもりはないらしい。
 桜乃は、不二と女将の話を邪魔しないよう、箒を抱え、土間から勝手へ下がろうとした。
「うん、実は明日の昼間、ちょっと桜乃を貸してもらえないかと思ってね」
「えっ!?」
 突然聞こえた自分の名前に、桜乃は思わずしゃっくりのような声をあげてしまった。
「さ、桜乃をでございますか?」
 驚いたのは女将も同じようだった。さすがに桜乃のような不作法はしなかったが、口元を着物の袂
(たもと)で隠し、不二と桜乃とを交互に見比べた。
「ああ。ここのところ、ダンスフロアにも出していないんだろう? 明日、昼間だけでいいから、何とかしてもらえないだろうか。もちろん、その間の花代は払うから。雪路たちを連れ出す時と同じで良いかな?」
 通常は色里から一歩も出ることを許されない女郎たちも、客が相応の対価を払えば、一時、客と一緒に真金町の外へ出ることができる。ただし客が相当の馴染みで、店側から信頼されていなければならない。その場合も外泊はできず、大引けの夜十時までには必ず店に戻るのが規則
(きまり)だった。
「いいえ、この娘
(こ)はまだ半人前にもなりゃしませんし、そんなにお代は……。ですけれど若様、桜乃をいったいどこへお連れなさいますので」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。それとも僕は、こんな年端のいかない子どもに悪さをするような男に見えるのかな?」
 冗談まじりの言葉は、女将にではなく、いつの間にかその背後に立っていた乾に、向けられていた。
 乾は笑って、首を横に振った。
「実は明日、山手にある教会で慈善バザーが開かれるんだが、主催する婦人団体に僕の姉も名を連ねていてね」
「不二伯爵のご令嬢が? それは……さぞ盛大なバザーになるでしょう」
「今は嫁いで、子爵夫人だよ」
 淡々と不二は言った。
「姉が、僕にも何かバザーに出品してくれと言うんだよ。ところが僕は、ご婦人方がなさるような刺繍も水彩画もできないからね。それで代わりに、桜乃に何曲か歌ってもらおうかと思って」
「ええっ!?」
 今度はしゃっくりだけでは収まらず、桜乃は箒を取り落としてしまった。
「可愛いエンゼルの歌声に、お優しい貴婦人方は感激なさって、さぞや多額のご寄付をはずんでくださると思うんだが、どうだろうね?」
「そ、そんな……っ! そんな、若様、あたし――!」
 思わず途切れがちになる桜乃の声を、聞いている者は誰もいなかった。
 女将は遅れがちな女郎たちの身支度を見に席を立ち、不二と乾は、明日、どうやって桜乃を教会まで連れていくかの話し合いを始めていた。






 翌日、桜乃は不二に連れられて、山手の異人街にある小さな教会を訪れた。
 袴と振り袖はいつも店で来ているものだが、足元は真新しい編み上げのブーツだった。赤みがかった茶色が、葡萄茶色
(えびちゃいろ)の袴によく映える。
 この靴は、「はるや」へ支払う対価とは別に、不二が買ってくれたものだ。
「金持ちの見栄っ張りな暇つぶしと、僕のわがままに付き合ってくれるお礼だよ」
 今朝早く「はるや」へ迎えに来た人力車に乗せられ、桜乃はこの教会に到着した。
 桜乃が着いた頃にはバザーの飾り付けもほぼ終わり、教会の前庭は祭のようなにぎやかさだった。
 いくつものテーブルが庭に出され、その上にバザーに出品されたハンケチやクッション、家では不要になった食器類などがきれいに並べられている。その一つ一つに、手書きで値札がつけられていた。
 木陰に用意されたテーブルには、冷たく冷やされた飲み物と、ガラスの鉢に山盛りにされたビスケットやスコーン、ボンボンといった西洋菓子が置かれ、クリームの甘い匂いを漂わせている。
 子どもたちが歓声をあげて走り回り、華やかな洋装や贅を凝らした和服姿の女性たちが、パラソル片手に優雅にたたずんでいる。錦絵
(にしきえ)の中から抜け出してきたような、シルクハットにステッキの紳士たち。花瓶からあふれそうなくらい活けられた、名前も知らない豪奢な花々、建物や植え込みに巡らされた色とりどりのリボン。桜乃はまるでお伽話の中に紛れ込んでしまったような気がした。
 こんな世界に、自分はひどく場違いだ。いくら綺麗な着物を着て、舶来のブーツを履かせてもらっても、すぐに化けの皮が剥がれて追い出されてしまいそうな気がする。
 ……けれどリョーマは、こういう世界で生まれ育ってきたのだろう。豊かな富と笑顔と、はなやかさに満ちた中で。ここが、彼の住む世界なのだ。
 そう考え、思わず縮こまりそうになる桜乃に、不二は優しい笑みを向けた。
「心配いらない。あの人たちだって、同じ人間さ。腹が空けば食事をするし、あくびもくしゃみもするよ」
「若様……」
 やがて教会の階段に、バザーの主催者である婦人団体の役員と、この場所を提供した教会の牧師とが並び、挨拶文を読み上げる。教会の扉が開け放たれ、そしてバザーが始まった。
 集まった客たちは並べられた品物を買い求め、そのほかにも婦人団体の求めに応じて、庭の四隅に置かれた募金箱にいくばくかのコインを落としていく。このバザーの収益は、恵まれない子どもたちの教育に役立てられるのだそうだ。
「桜乃、おいで」
 不二は礼拝堂への階段を登りながら、桜乃を手招きした。桜乃は子犬のように、不二の後をついていった。
 ステンドグラスに飾られた教会は、思ったよりも明るかった。正面には牧師の説教台があり、その横に古びたアップライトピアノが置かれている。
 ふだんは説教を聞く信者が座る椅子は半分ほど片づけられ、代わりにバザーのさまざまな出展物が並べられていた。水彩画や漆器など、日光にさらしたくない品物は、みなここに置かれているようだ。そしてそれらを品定めする客たちがゆっくりと通路を歩き回ったり、それに疲れた人々がちょっと椅子で休んだりしている。
 その客たちの間をすり抜けるようにして、不二は桜乃をピアノのそばまで連れて行った。
 そこには、一人の美しい貴婦人がたたずんでいた。
「まあ、周助さん」
 その女性
(ひと)の声は、まるで音楽のようだと、桜乃は思った。
 淡い青の絹に淡雪のようなレースが飾られたドレスは、巴里あたりから取り寄せたのだろうか。ドレスとお揃いのボンネットの下、西洋風にこてを当て、はなやかに波うたせた髪型が、花のような美貌をさらに際だたせている。
 その女神のような顔立ちが、どこか不二の若様に似ていることに、桜乃は気づいた。この女性が、子爵家に嫁がれたという不二の若様のお姉さまなのだろう。
「周助さん。こちらの可愛いお嬢さんは、どなた?」
「詳しいことはあとでお教えします。それより募金箱を用意してください、姉上。それも一番大きなものをね」
 そして不二はピアノの前に立ち、二度、三度と大きく手を打った。
「謹聴、謹聴
(ヒア、ヒア)!」
 その声に、礼拝堂内にいた人々が一斉にピアノのほうへ顔を向ける。
「お集まりの皆様、これより一時、可愛い天使の歌声でお楽しみください。そして一曲なりとも皆様のお心にとまりましたなら、どうぞ募金箱に博愛のお志を!」
 礼拝堂内からぱらぱらと、あまり気乗りしていないような拍手が起きる。
 不二はピアノの蓋を開け、ひとつふたつ、鍵盤を鳴らした。
「桜乃、『Beautiful Dreamer』だ。英語の歌詞は覚えているね?」
「は、はい。でも若様、わ、私……」
 おろおろする桜乃に、不二は優しい笑みを見せ、小声でささやいた。
「大丈夫、『はるや』の客の前で歌うのと何も変わらないよ。むしろ、英語がわかる人間なんてほとんどいないから、歌詞を間違えても大丈夫さ」
 不二の長い指が鍵盤の上をすべり、耳に馴染んだメロディを奏で始める。
 甘く優しい前奏を聴いているうちに、桜乃もだんだん落ち着いてきた。胸のどきどきが収まったわけではないが、こうなったらもう歌うしかないと、どこかやけっぱちのような度胸が据わってくる。
 ここは「はるや」のダンスフロア、聴いているのは馴染みのお客さんたち、と、自分に言い聞かせる。
 その中に、一番聴いてもらいたいひとの姿があったなら、と、桜乃の胸に一瞬、ちくりと痛みが走った。
 そして桜乃は一息大きく吸い込んで、ならい覚えた歌詞を歌い始めた。

    Beautiful dreamer, wake unto me,
    Starlight and dewdrops are waiting for thee……

 幼い少女がほぼ完璧な英語で歌い上げる曲に、貴顕の客たちも驚きの表情を見せた。そして歌が終わると、今度は惜しみない拍手が桜乃へ贈られた。
 続いてもう一曲、「愛しのクレメンタイン」。
 さきほどよりもさらに大きな拍手が湧き起こる。美しい子爵夫人が持つ募金箱には、次々とぴかぴかのコインが入れられた。
 不二に促され、桜乃は聴衆に向かってぴょこんと頭をさげた。
 そしてもう一度顔をあげた時。
 リョーマの姿が、視界をよぎった。
 一瞬、自分の見間違いかと思った。あまりにもリョーマに逢いたいと願い続けていたから、せんもない幻を見たのかと。
 けれど人々の笑顔の向こうにあったのは、たしかにリョーマの姿だった。見覚えのあるグレイの鳥打ち帽に、ネイヴィブルーのジャケット、小生意気な蝶ネクタイ。「はるや」で初めて会った時とそっくりの服装だ。
 教会の入り口近くに立つリョーマは、逆光を背負って、その表情までははっきりと見ることはできなかった。
 でも、間違いない。少し斜に構え、生意気に腕を組んで立つあの姿。顎を引き、まっすぐにこちらを見る黒曜の瞳。見間違えるはずがない。
「リョーマさ……!」
 思わずその名前が、桜乃の唇からこぼれた。
 心臓がひとつ、止まりそうなくらい大きく跳ね上がった。驚きと喜びと、言葉にできない衝撃が、息も出来ないくらい胸を突き上げる。
 リョーマが、ぱっと背を向ける。そしてそのまま、礼拝堂を飛び出していった。
 桜乃の身体が一瞬、前のめりになった。そのまま、ピアノがある祭壇を飛び降りそうになる。
 が、
「桜乃。もう一曲、大丈夫かい?」
 ピアノの前から、不二が静かに声をかけた。
「あ……は、はい――」
 桜乃は、うなずくしかなかった。
 もし不二の声が聞こえなかったら、そのままリョーマを追って駆け出してしまったかもしれない。今でもできることならそうしたいと、心の中で熱いものが渦巻いている。けれど不二の言葉を聞かないわけにはいかない。自分は今、不二に対価を支払ってもらって、遊郭の外に出てきたのだ。
「何がいい?」
「じゃあ……『赤い河の谷間』を」
 ともすればにじみそうになる涙を必死に堪え、桜乃は返事をした。
 この歌は、初めてリョーマのために覚えた歌。
 礼拝堂を出ていってしまったリョーマに、聞こえるはずもないだろうが。
 この歌が、故郷の歌が彼のもとまで届けばいいと、桜乃はただそれだけを願った。

    From this valley they say you are going
    We will miss your bright eyes and sweet smile
    For they say you are taking the sunshine
    That has brightened our path for a while……

 歌い終え、惜しみない拍手の中、桜乃はふたたび深々と頭を下げた。
 そして姿勢を正した時、
「もういいよ、桜乃。ご苦労様」
 不二が小声で言った。自分もピアノの前から立ち上がり、桜乃の肩に手を置いて、祭壇を降りるように促す。
「午後になったらもう一度歌ってもらうつもりだけど、それまでは好きに遊んでおいで」
 子爵夫人もにこやかに微笑み、うなずく。
「で、でも私、若様……」
「いいから。あれは確かに、リョーマ君だったよ」
 戸口に立つ少年の姿は、不二にも見えていたのだ。
「逢いたいんだろう? 行っておいで」
 行かないと、後悔するよ。おだやかな笑みは、そう言っていた。
「は……はい――!」
 桜乃はうなずいた。
 そして人混みをかき分けるようにして、礼拝堂を飛び出した。
 薄暗い礼拝堂から駆け出すと、外のまばゆい陽光は目に痛いくらいだ。けれど桜乃は小さなつむじ風のように、息せき切って人々の間を走り抜けた。
 あたりを見回し、チャコルグレイの鳥打ち帽を捜す。
 そして、
「――あ!」
 大きな桜の樹の陰に、身を隠すようにしてそのひとは立っていた。
 顔をそむけ、桜乃から逃げるように。
 けれど桜乃が走り寄る足音は、たしかにリョーマの耳に届いていた。
 小さく肩が揺れ、それでもリョーマはもう、逃げようとはしなかった。
「リ、リョーマ、さん……っ」
 走って、乱れた呼吸のもと、かすれたような声で、桜乃は彼の名前をつぶやいた。
 ほとんど、聞こえるか聞こえないかくらいのささやきだったけれど。
 リョーマはゆっくりと振り返った。
 その顔を見て、桜乃は思わず息を呑んだ。
「リ、リョーマさん、その顔……っ!!」
 リョーマの口元には、頬から顎近くまで青黒い痣が大きく浮かび上がっていた。殴られた衝撃で切れたのか、口の端にはまだ生々しい傷が残っている。
「まさか……っ!」
 あの夜、阿久津はリョーマを傷つける前に、乾に制止されたはずだ。それともリョーマが殴られる様子を、まさか気づかずにいたのだろうか。
「違う」
 真っ青になった桜乃に、リョーマはぶっきらぼうに言った。
「親父に殴られたんだ」
「え……。お、お父さまに――?」
 リョーマはひどく苛立たしそうに顔を背けた。傷ついた顔を、これ以上桜乃に見られたくないらしい。
「ご、ごめんなさい、リョーマさん。あたしのせいで……。あ、あたしのせいで、喧嘩なんかしたから……!」
「桜乃のせいじゃない」
 吐き捨てるように、リョーマは言った。
「喧嘩を買う時は、もっと相手をよく選べって。喧嘩するなら必ず勝て、力の差もわからずに、まるで勝ち目のない相手に突っかかっていくのは、ただの馬鹿だ、阿呆だって、あのくそ親父……っ!」
「そんな――」
 リョーマは何も悪くない。叱られるようなことは何もしていないのに。そんな簡単な言葉すら、声に出すことができない。桜乃はただ、両手を胸の前で強く握り締めているしかなかった。
「だから、この傷が治るまで、桜乃には逢いたくなかったんだ」
 拗ねたように顔を背けたまま、リョーマは言った。黒髪の下からのぞく耳元が、薄赤く染まっている。
「かっこ悪いじゃないか、親父に殴られたなんて」
「そ、そんな……っ。そんなこと――」
 言葉はもう、声にならなかった。
 堪えきれず、桜乃は小さくしゃくりあげた。
 涙に歪む視界の中で、懸命に手をのばし、リョーマの袖をつかむ。
 そばにいたいと、つたえたかった。あなたに逢えなくて、とても哀しかったと。
 もう逢ってはいけないと、自分で自分に言い聞かせていた。けれどその決意も、こうして逢って、声を聴いてしまえば、跡形もなく消えていく。生まれの違いとか世の倣いとか、そんな言葉などではもう、胸の中から堰を切ってあふれ出すこの熱いものを、押しとどめることなどできなかった。
 逢えないでいる間、不安で不安でたまらなかった。自分のせいであなたが傷ついたかと思うだけで、死にたいくらい哀しかった。
 そして今。
 つたえたい。私は、あなたのそばにいるだけで、涙がとまらなくなるくらい、嬉しいのだと。
 だから、だから……!
「ごめん」
 小さく、リョーマがささやいた。
 うつむいて、自分から手をのばし、桜乃の手を握り締める。
 熱く、強いリョーマの手が、桜乃を包み込む。
 その手から、リョーマの鼓動がつたわってくる。今ここに、一番近くに彼がいるのだと、教えてくれる。
「ごめん、桜乃……」









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