【わすれないで、このことを 2】

 山本が、どこかのプロ球団のユニフォームを着てれば、良かった。あるいは、竹寿司の名前が入った白い和装の調理服でも。
 サラリーマンのビジネススーツでも、体育の先生のジャージ姿でも、なんでも良かった。
 こんな……こんな、一目で暴力組織の一員だってわかるような恰好でさえなければ。
「山本……。やっぱり、マフィアになっちゃったんだ……」
 山本は一瞬、ためらうような、少し困ったような表情を見せた。
 そして目を閉じ、ゆっくりとうなずく。
「ああ。俺はマフィア構成員(マフィオーソ)――『我らのもの(コーサ・ノストラ)』の『名誉ある男(ウォーモ・ドノーレ)』だ」
 その耳慣れないイタリア語は、山本の口から自然に出てきた。十年後の山本にとっては、自分の名前みたいになじんだ言葉なんだろう。
 山本は腕を伸ばし、わたしの髪をくしゃっと撫でた。くしゃ、くしゃくしゃっ。まるで犬の仔でも撫でるみたいに、かき回して。
 ああ、この癖。……十年経っても変わらない、優しい山本のしぐさ。
「おまえに『沈黙の誓い(オメルタ)』を貫く必要はないよな。何たって、俺たちの頭領(カーポ)はおまえなんだから」
 山本。
 そんな顔で笑わないで。こんなの当たり前だろ、みたいな顔しないで。
「野球は……どうしたの。メジャーリーガーになるんだって、言ってたじゃない。お家のお寿司屋さんは、おじさんはどうしたの!? 山本、一人っ子だったのに!!」
「ツナ……」
 いつも明るく笑ってた山本。学校でも人気があって、女の子にもすごくもてた。おじさんとも仲が良くて、寿司屋を継ぐ気はないって言ってても、お家の手伝いもちゃんとしてた。運動神経抜群で、勉強はちょっとさぼり気味だったけど、面倒見が良くて優しくて。
 こんな……こんな人間になるはずじゃなかったのに。
 わかってる。悪いのは山本じゃない。山本を責める資格なんて、わたしにはない。
 みんな、棄てさせちゃったんだ。夢や家族、いろんな倖せ、山本の未来にあったはずの大切なもの、わたしがみんな。
 わたしが……わたしが、山本を人殺しにしちゃったんだ――!!
「ツナ。泣くな」
 山本の手が、わたしの頬に触れた。
「俺が自分で決めたことだ。おまえのせいじゃない」
 少し硬い指先が、ぼろぼろこぼれる涙を拭う。
 あったかい、山本の指。この体温はなにも変わってないのに。
「これはこれで、悪くない暮らしだぜ? ずっとおまえのそばに居られるしな」
「でも、だって。……だって――!!」
 わたしはのろのろと右手をあげた。
 山本の顎に触れる。
 そこに残る、鋭い傷痕に。
「山本……、こんな、怪我して――」
 熱い。
 白っぽい線だけが残り、完治している傷痕は、けれど今にもぱっくりと裂けて熱い赤い血を噴き出しそうに、わたしには思えた。
 きっと、これだけじゃないはず。これから先の十年、山本はいったい何回、自分の命を危険に晒すんだろう。どれほどこの手を血に染めて、どれほど深い傷を負うんだろう。
 みんな、わたしのせいなんだ。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 どんなに謝っても、謝りきれない。償えない。
 でも、謝るしかない。
「ご……ごめんなさい。ごめんなさい、山本……っ!」
 涙がとまらない。
 喉の奥から苦くて熱い塊がこみあげてきて、言葉がうまく出てこない。視界がゆがんで、もう山本の顔もよく見えない。山本の傷に触れていた指がふるえて、やがてその手を持ち上げていることもできずに、床の上へごとりと落ちた。
 わたしは床に座り込んだまま、小さな子どもみたいにみっともなく泣きじゃくるしかなかった。
「ツナ」
 不意に、熱い体温がわたしを包み込んだ。
 しなやかで強靱な腕がわたしを捉え、抱きすくめる。苦しくなるくらい、強い力で。
 広い胸に視野が全部ふさがれて、もがくこともできない。ワイシャツの襟元から見えてたのは……ああ、やっぱり刺青なんだ。
 こんなものまで――こんなものまで、わたし、山本に背負わせちゃった。
 声が、出ない。
 わたしの全身を包む、かすかな香料(コロン)と煙草の匂い。――大人の男の匂い。
 わたしの知らない、山本の匂い。
「ツナ。泣くな」
 どこか苦しげに、山本がささやいた。
 髪に押し当てられる、山本の頬。
 とく、とく、とく。山本の鼓動が耳元にすごく大きく響く。
「おまえに泣かれるのが、一番つらい」
 大きな手がわたしの顎を捉えた。
 上を向かされ、あ、と思った瞬間。
 熱く乾いた唇が、わたしの口をふさいだ。
 ざらりとした感触が、わたしの唇をそっとなぞる。左右に擦るように、なだめるように。
 さっきまでそれほど強く感じていなかった煙草の匂いが、急に強く濃く感じられた。少しからいみたいなその匂いに、頭の芯がくらっとする。
 山本がわずかに動いた。首をかたむけ、ふれあわせた唇をさらに擦れ合わせるように、そっと。わたしの唇を自分のそれで撫でる。かと思えば、一瞬離れ、また重ねる。ついばむように軽く、軽く、同じことを繰り返す。
 わたしはいつの間にか膝立ちになり、山本の腕の中で大きく背をのけぞらせていた。山本の利き腕がしっかりと支えていてくれなければ、そのままバランスを崩して後ろにひっくり返ってしまいそうな姿勢だった。
 山本の左手がそっとわたしのほほを包んだ。親指でそっと、耳元から頬、顎のあたりまでを撫でる。輪郭をたどるようになで下ろし、またそうっとなで上げる。少し硬くて荒れた、山本の指。
 その感触に、ぞくっと体がふるえた。うなじのあたりがちりちりして、産毛が逆立つような感じ。
 くすぐったいようなもどかしいような――こんな感じ、初めて。
 不意に、熱く濡れたものが唇に触れた。
 わたしの唇を濡らしたいのか、なぞるように動いていく。
「ツナ。口、開けて」
 紙一重ほどわずかに唇が離れ、山本がささやいた。
 山本の声、熱を帯びてかすれてる。
 その時になって、やっとわたしは気づいた。
 ――キス、されてるんだ。山本に。
 十年後の、大人になったっていっても、や、山本に……!
「や、やまもと……っ!?」
 わたしは今さらながらじたばたともがいた。
 けれど山本の腕はしっかりとわたしを抱え込み、離してくれない。
 どうして、山本。どうしてこんなこと――思わずそう言おうとした唇に。
 する、と熱いものが忍び込んできた。
「んっ……ん、んぅ……っ!」
 わたしの言葉はみんな押しつぶされてしまった。
 なめらかで熱い感触がわたしの口中を探り、思いも寄らないところを撫であげる。山本の舌はわたしの中を思うがままに蹂躙する。唇の内側、上あごのちょっとざらついたとこ、そして怯えて縮こまる舌先まで撫でて、さらに奥へ、奥へと入り込んでくる。
 濡れた舌と舌、粘膜が触れあう感触に、さっきよりもさらに強い戦慄が体を走り抜ける。
 信じられない、こんな感じ。熱いのか寒いのか、わかんない。自分がおかしくなってくみたい。これ、いったいなに?
 息が、できない。
 そう思った瞬間、熱い唇がわずかに離れた。
 わたしは小さく息を吸い込む。
 解放されたはずなのに。
 離れてしまった山本の唇が、恋しくて切なくてたまらない。
 あんなに苦しくて息もできなくて、わけわかんなくて、怖くてどうしようもなかったのに。
 自分から唇を開き、待ちわびてしまう。さっきと同じことをして、と。
 そして山本はそれに応えてくれた。
 かと思うと、今度はまた、触れてやさしく愛撫するだけの、キス。わたしの唇をそっと吸い、軽く歯を立てる。
 ちりっとした痛みにも似た感覚が与えられた瞬間、背中に電気が走った。
 もう、なにがなんだか、わかんない。
 頭ん中、ぐるぐるしてる。目の前が真っ暗なのに、いろんな色の光がスパークしてる。
 身体中が浮き上がって、でも同時に、奈落の底まで真っ逆様に落っこちていくみたい。全身がひどく緊張して、ガチガチにこわばってる。だけど身体中の力が抜けてしまって、ぐにゃぐにゃしてて、手も足も、指一本でさえ、自分の思い通りに動かせない。
 ここがどこかとか、自分が今なにしてるのかとか、そんなことさえ考えられなくなってるのに。
 山本の吐息の熱さ、ほほに触れる指の乾いた、ちょっと荒れた感触。わたしの背中を支えてくれる強い腕。そんなものはやけにはっきりと感じ取れる。
 世界中に、感じられるのはただそれだけだった。
 わたしの世界全部が、山本の体温で埋め尽くされていた。
「十年バズーカの効果が五分間限りで良かった。……これ以上ここにいたら、取り返しのつかねえことをしちまいそうだからな」
 山本がかすれた声でささやいた。
 大きな手が、わたしの髪をそっとかきあげた。
 深い海みたいな瞳が、間近でわたしを映してる。
「忘れるな、ツナ。俺の命は、おまえのものだ」
 優しく、包み込むような微笑み。
 十年前と変わらない――でもやっぱり、大人になった山本の。
「や……やま、も……」
 名前を呼ぼうとした時。
 ぼわん、と気の抜けた爆発音がした。
 ピンクがかった白煙が噴き出して。
「ツ、ツナ?」
 呆然として床に座り込む、この時代の山本がいた。





 突然、背後で鈍い爆発音がした。
「どうしたの、山本!? なにが――」
 私はあわてて振り返った。
 パレルモ郊外にそびえるボンゴレファミリー総本部――通称「城」。そのなかにある執務室で、私は壁際に設けられたバーカウンターに向かっていた。
 芳香をくゆらせるエスプレッソマシンを持ち上げ、淹れたてのエスプレッソをカップに注ごうとしていた時、いきなり後ろで小さくちょっと間の抜けた爆発音が響いたのだ。
 振り返ると、室内の半分ほどを覆うように爆発の白煙が広がっている。
 けれど、衝撃はほとんど感じなかった。破損したものも見あたらないし、煙に危険を感じさせるような臭気もない。薬品臭や火薬臭さえも。まるで奇術ショーの演出のようだ。
 白煙が噴き出す中心部あたりは、山本がいるはずだった。
 山本はそこの長椅子に座り、後継者が絶えてしまった近隣のファミリーを吸収合併する案件に関しての問題点をひとつひとつ洗い出している最中だったのだけれど。
「……や、山本?」
 次第に薄くなる煙の向こうに、目を凝らす。
 たしかに、山本はそこにいた。
 だが、優美なアールヌーヴォーのソファーに腰掛けていたのは、紺色のニットに白い開襟シャツ、並盛中学の制服を着た、十年前の山本だった。
「え……? え、え……、こ、ここ、どこ……?」
 忙しなくあたりを見回し、そして
「ツ……ツナ?」
 山本は私を見つめ、呆然とつぶやいた。
 




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