【わすれないで、このことを 4】

 そう。あの時も、私は泣いていた。
 マフィオーソになってしまった山本が哀しくて、申し訳なくて。
 ――私はあの時と、なにも変わっていないのかもしれない。同じ迷いを吹っ切れず、同じことを悔やんでいる。
「おまえのせいじゃない、ツナ。俺が自分で決めたことだ」
 そして山本も、あの時と同じことを言った。
 けれど私はもう謝らなかった。
 そんなことをしたら、山本の決意を疑うことになる。
 たとえ心のどこかでつねに疑いを消すことができなくとも、それを口にしてはいけない。
 私はただ黙って、山本の捧げてくれるものを受け取る。
 悔いも迷いも、もう見せてはならない。でなければ、私の名のもとに闘う彼らの心の拠りどころがなくなってしまう。
 それが、頂点に立つ者の義務だ。
 私はボンゴレ十世。いかなる魂をも包容する、おおいなる大空。
 ……なんて重い、空。
「ツナ。愛している」
 低く、山本がささやいた。
「山本。私は……」
「おまえはけして、俺ひとりのものにはならない。だが……俺は、おまえのものだ」
 私はそっと目を閉じた。
 私のうなじに額を押し当てる山本。まるで聖人像に額ずき祈る巡礼者のように。
「わかってる」
 私はただそれだけを答える。
 この言葉にたどり着くまで、十年間、山本がどれほど傷つき苦しみ、のたうち回ったか、私は知っている。私を連れてボンゴレから逃げようとしたこともあった。獄寺くんと何度も何度も衝突して、リボーンとも激しく言い争って。そのたびにみんな、血反吐を吐く思いをして、ぼろぼろに傷ついて。
 あの頃の傷は、今も私たちみんなの胸にぱっくりと大きく口を開け、生々しい血を滴らせている。
 癒されることのない傷の痛みに歯を食いしばりながら、山本は私を抱く。私たちはそうやって、いだき合う。
 この十年で、私たちはいろんなことを覚えた。たとえば嘘をつくこと、自分を騙すこと。そうやってなにかを諦めること。
 ……そして、どんなに諦めようとしても、諦められないものがあること。
 たとえば山本が、私の無理強いする運命を受け入れず、私の元を去る決意をしたなら……むしろそのほうが私にとっては楽だったかもしれない。けれど山本は私の元に残ることを選んだ。そのことで私がさらにつらい想いをすると知っていながら。
 私だって、同じ。
 私にも、ボンゴレの名を棄てるチャンスは、何度もあった。なにもかも棄てて、忘れて、ただの女に戻ることもできたはずだった。この手のひらに包めるだけのささやかな幸せだけを大切にして生きていく平凡な道も、私にはたしかに用意されていた。
 けれどその道を拒否したのも、結局は私自身。
 私は、私のために流された血を忘れることができなかった。ファミリーを棄てることができなかった。そのために、誰の想いを踏みにじり、犠牲にすることとなっても。
 みんな、同じ。誰かを想って誰かを傷つけ、心ならずも誰かを裏切る。そうやって、血まみれでずたずたになった心を抱えたまま、生きていく。
 山本の唇が私に触れた。こめかみから目元、涙の痕が残るほほ、そして唇へ。
 私は顎をあげ、のけぞるように山本の肩にもたれかかった。山本の手が私の顎を支えてくれる。
 山本の舌先がするっと私の中へ忍び込んできた。
 深く互いを絡ませ合う、大人のキス。奪い、与え、啜り合う官能のくちづけ。
 苦い――苦い、キス。けれど私はこの唇を拒むことができない。
 私を包む、山本の匂い。
 山本はいつも、雨の匂いがする。
 明るい陽光にあふれる地中海性気候のシチリアには、雨はほとんど降らない。湿潤な日本で育った私は、時折、あの肌にまとわりつく冷たい雨の気配が無性に恋しくなってしまう。
 黒い豊かな土をそっと湿らす春の雨。枯れた落葉樹林にしとしとと降る、氷雨。東の果ての小さな島国に降る、いのちの雨。
 山本の肌は、そんな雨の匂いがする。
 ふと、唇が離れた。
 山本はそのまま、強く、痛いくらいに私を抱きしめた。
「おまえ……。あんまり変わってねえな」
 私の耳元で、くすっと低く笑う。
「さっきと同じだ。こうやって抱くと、俺の腕が余る」
 山本の腕はまるで私を閉じこめるように、私の胸の前で交差している。私は背中から山本の広い胸にすっぽりと包み込まれていた。
「十年も経ってるのにな」
 山本は私の髪に頬摺りした。昔と同じように、まるで小さな赤ん坊をあやすみたいに。この十年間であまり背も伸びず、外見的にはほとんど成長しなかったことを、私はひそかに気にしているのに。
「山本は……不真面目になった」
「え?」
「だって十年前……。まだ中学生の私に、あ、あんな……やらしいキスして――」
 さっきのキスと、十年前に体験した山本との初めてのキスの感触とが、重なって唇の上によみがえる。
 今でこそ山本とそういうキスをするのも、当たり前になっているけれど。
 あの時は、あんなキスがあるなんて――本当のキスがああいうものだなんて、考えたこともなかった。
「なんだ、ツナ。もしかしてあれがファーストキスだったのか?」
「そんなわけないって! キ、キスくらい……」
「してたのか」
 山本の声が少し硬く、冷ややかになった。
「誰と?」
 鋭い詰問。
 ……失敗した。
「――ディ、ディーノさん……」
 自分で掘った墓穴に、私は思いきり嵌ってしまった。
「跳ね馬と?」
 山本の手にかすかに力がこもった。
 獄寺くんほどではないけれど、山本もけっこう嫉妬焼きだから。
「で、でもあれは、軽くちょんちょんっと触れるだけで……。ディーノさんにしてみたら、きっとただの挨拶で――。ディーノさん、生粋のイタリア人だから……」
「だから?」
「だから……」
 山本は、私を抱きしめたまま、身動きしようともしない。そのまま私がなにも言わなければ、いつまでも私を抱き、身動きすら許してくれそうになかった。
 本当のことを言うしかない。
「あ、あんな……大人のキスで、――か、感じたのは……初めてだった」
 やだ、もう。恥ずかしい。なんでこんなこと言わなくちゃいけないの。
「ツナ――」
 山本が小さく息を呑む気配がした。
 そしてさらに強く私を抱きしめる。まるで二枚の木の葉をぴったりと重ね合わせるように。
 火照るような山本の体温がつたわってくる。二人分の衣服の厚みなど、まるで存在していないかのように。
「なあ、ツナ。さっきの続きしていいか?」
「えっ!? ち、ちょっと待って、山本、なにを――」
 山本の手が忙しなく動き出した。私の胸元を、ウエストをまさぐり、ジャケットのボタンを外そうとする。
「だめ、山本! こんなとこで、誰か来ちゃったら――ま、待って。待ってってば……!」
「待てねえ」
 耳元に熱い吐息が吹き寄せられる。それだけで私の身体はびくりとふるえ、反応してしまう。そんな私をからかうように、山本は頬から耳元へつうっと尖らせた舌先を滑らせた。
「……あっ!」
「いい声だな、ツナ」
 ブラウスの上から胸元を包み込まれて。ふくらみ全体を手のひらで転がすように刺激され、硬い指先が胸の頂点を摘む。熱い、痛みにも似た感覚が走り抜けた。
「感じてくれたんだろ? 十年前も、俺のキスに――。……今度はもっと感じさせてやる」
「や、山本……っ」
 甘くとろけるような熱が身体の芯からこみ上げてくる。薄い皮膚の内側をざわざわと小さななにかが這いのぼってくる感じ。思わず膝がふるえ、山本の腕にすがりついてしまう。
 山本は私のスカートを手繰ってまくりあげ、やがて私の脚をほとんどあらわにしてしまった。腿の内側の敏感な肌を、硬い指がすうっと這い登る。
「あっ、や……やだ、こんな――」
 閉じようとした膝のあいだに、山本の硬い脚が割り込んでくる。
「ツナ――。足、開いて……」
 低く優しいささやきに、私はもう逆らえなかった。
「やまも、と……」
 が。
「お楽しみのところ、邪魔して悪りぃんだがな」
 重たい樫の扉が、外から思いっきり蹴り開けられた。
「ところかまわずサカッってんじゃねえぞ、おめえ等!」
「リ、リボーン!?」
 全開になった扉の向こうには、トレードマークのボルサリーノに怒りの表情を押し隠したリボーンが立っていた。
 私と山本はあわてて飛び退き、身体を離した。私は扉に背を向け、乱れた衣服を整える。
 アルコバレーノの呪いが解けたリボーンは、現在は私の相談役としてボンゴレファミリーの一角を担っている。中身も以前と変わらず、冷静沈着で容赦がなく、毒舌家のまま。いたるところに神出鬼没を繰り返すのも、十年前とまったく変わっていない。さすがにあの妙ちくりんなコスプレ癖だけは、やめてくれたけれど。
 いい加減、家庭教師が必要な年齢でもなくなった私だけれど、まだリボーンの支えを必要としている。まだ、彼を解放してあげられない。これも私の我が儘だ。
「例の吸収合併の話はどうなった、ツナ」
「えっ、あ、ああ、その話。うん、それならそこに報告書が……。今、山本と検討してたところ」
「ほーお? てめえ等の検討ってのは、書類も見ずに窓際でいちゃいちゃすることか?」
 ボルサリーノの下から、青みを帯びた鋭い眼が突き刺すように私たちを睨んだ。
「てめえ等がどこで何してようが、俺の知ったことじゃねえがな。せめてドアに鍵ぐれぇはかけておくのが礼儀じゃねえのか、ツナ。それとも『城』中の人間におめえのハダカ見せびらかしてえのか!」
 ……たしかに悪いのは私だけど、もうちょっとソフトな言い方をしてよ、リボーン。
「てめえもてめえだ、山本! 自分のナニ、口ん中突っ込まれて殺されたくなけりゃ、さっさと仕事しろ!」
 山本も言い返す言葉がないようだった。
 なんとかスーツを元通りに整え――恥ずかしさで真っ赤になった顔は、なかなか元に戻りそうにはなかったけれど――私は執務机に向かった。
「ふん。まったくどいつもこいつも……! 俺がちょっと目を離すとすぐこれだ」
 リボーンは呆れたようにつぶやき、どさっとソファーに身を投げ出した。
「ツナ。なんだか焦げくせえぞ。コーヒー、煮出しすぎてんじゃねえのか」
「あっ、いけない!」
 エスプレッソマシンのスイッチが入れっぱなしになっていた。私は慌ててバーカウンタに駆け寄った。





                         男性のナニをちょん切って、それを死体の口に突っ込んどくってのは、
                         マフィアの妻や愛人に手を出した男に対する制裁だそうです。
                         バラの花をくわえさせる時もあるらしい。

   BACK   CONTENS    NEXT