【わすれないで、このことを 5】

 抽出しすぎでとても飲めそうになくなった液体を捨て、もう一度微細粒に挽いた粉をマシンにセットする。しばらくして、かすかな音とともに豊かな香りが漂い始めた。
 みんな無言のまま、エスプレッソの泡が立つのを待っていた時。
「大変です、十代目っ!」
 獄寺くんが息せき切って執務室に飛び込んできた。
「骸の幽閉場所が――復讐者(ヴィンディジェ)たちの牢獄の場所が、判明しました!」
「本当!?」
 突然の報告に、私はコーヒーカップを取り落としそうになった。山本も、そしてリボーンの表情にも緊張が走る。
「旧ユーゴ領内でした、バルカン半島の!」
「バルカン……。そんなところに――!」
 古くから「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、いくつもの民族や宗教、文化、言語が複雑に入り交じる地域。東西冷戦時代から「モザイク国家」と呼ばれ、現在も民族紛争の火種がくすぶっている。内情を知らない人間はうかつに立ち入ることさえできない地方だ。交通の要衝ではあるが、内政の混乱が続き、外部の公的権力も容易には介入できない。闇の勢力が暗躍するのにこれ以上適した地域もないだろう。
「どうりで……。イタリア中を虱潰しに捜しても、見つからねえはずだ」
「柿本から救援要請が入りました。城島のバカが先走って、ひとりで突っ込んでっちまったようです。今、クロームが骸との交信を試みています」
「――すぐに守護者を集めて、獄寺くん! 日本にいる雲雀さんも呼び出して!」
「わかりました!」
「動ける部隊はすべて招集する! 山本はヴァリアーに連絡を! ことによったら、彼らにも動いてもらうかもしれない。いつでも出られるように、準備を整えさせて!」
 『城』中が急にあわただしい空気に包まれ出した。ボンゴレファミリーが、同胞の命を救うため、戦闘態勢に入りつつある。
 獄寺くんが、山本が緊張した面持ちで執務室を飛び出していく。
 リボーンはソファーに身を沈めたまま身じろぎもせず、私の決断を黙って見ていた。
 私はひとつ、大きく息を吸い込んだ。
 ……誰も死なせない。私の空のもとに集う者、誰ひとりとして。
 それが、私がこのリングを受け継いだただひとつの理由だから。
 そして私はまた、罪を重ねる。ひとりの生命を救うために、何人もの、何十人もの生命を危険にさらし、争いを起こし、血を流そうとしている。
 これはすべて、私が決めたこと。私ひとりが望んだこと。この罪はすべて私のもの。すべての悲哀も痛みも怨嗟も、私ひとりが背負うべきもの。
 私は忘れない。自分自身の愚かさを。
 ……こんな愚かな私にも、まだ祈ることが許されるのなら。
 願わくば、この罪がけして許されることのないように。
 そして私は扉を開く。守護者たちを、ボンゴレの名の下に闘うつわものどもを迎え入れるために。





「こ、ここって……。おまえん家だよな、ツナ――。そっか、もう終わりなのか、あのイリュージョン」
 山本が呆然とつぶやいた。十年バズーカの発動による白い煙が消え残る中、床にぺったり座り込んで、きょろきょろとあたりを見回してる。
 無事に今の山本と十年後の山本が入れ替わってくれたのは、ありがたいけど。
 ――ち、近いよ、山本!
 山本の顔が、め、目の前。鼻のアタマとアタマがくっつきそうなくらい。
 そ、そりゃ……。山本が入れ替わる瞬間、わたし……十年後の山本と、あ、あんなこと、してたけど……。
 わたしはもたもたと四つんばいになって、山本のそばから離れようとした。
 あーもう、びっくりした。
「いやー、すっげーな、あのイリュージョンのセット! まるで本物のお城みてーだった! 窓から見える景色も、こことは全然違ってたしなー! 小道具とかも凝ってたし、一瞬で部屋ごと全部入れ替えちまうなんて、マジすげーよ!」
 イリュージョン……?
 そう言えば山本、ランボの十年バズーカを見るたび、そんな誤解してたっけ。
 じゃあ今、十年後の自分と入れ替わってたのも、イリュージョンだと思ってるわけ?
「そうだ、ツナ。おまえももうあのメイク、落としちまったのか」
「メイク?」
「ほら、特殊メイクだって言ってたじゃんか。十年後の自分をイメージしたとかって――」
 どういうこと?
 ――あ。もしかして山本、十年後の世界で、十年後のわたしと逢ってたのかな。
 十年後のわたしは、山本になにを言ったんだろう。
「うん、まあ……えっと――」
 適当にごまかそうとすると、
「ちょっともったいなかったな。あのかっこ、すげー似合ってたのに」
 山本はにかっと笑った。
 いつもどおりの、山本の笑顔。
 ……なんにも、変わってない。私はほっとした。
 でも同時に、胸の芯がちょっとだけ、きゅっと痛かった。
 安心したはずなのに、山本がいつもの山本であることが嬉しかったはずなのに、どうしてだか、淋しいような切ないような、うまく言葉にできない、そんな小さな痛みが残った。
「なあ、ツナ。おまえだけでももういっぺんあのかっこになれねーのか? 獄寺に見せてやったら、きっとすげー喜ぶぜ、あいつ」
「あぁ? 俺がどうしたって、野球バカ」
 右手に、猫の仔みたいにぶらーんとランボをぶら下げて、獄寺くんが戻ってきた。
 ランボはボムの直撃を食らっちゃったのか、顔中真っ黒、煤だらけ。その状態でべそかいて鼻水たらしてるもんだから、もー、汚いったらない。
「あーもう、ランボ。ほら、鼻かんで。ちーんするの!」
 びーびーうるさいランボを獄寺くんから受け取って、真っ黒けの顔を拭いてやる。
「ツーナー、帰ってるんでしょー? お友達もいっしょなのー!?」
 階段の下から、お母さんの声がした。
「もうすぐご飯よー。お友達も、良かったらいっしょにどうぞー!」
 そう言えば、、いい匂いがする。今日の晩ご飯は、カレーみたい。
「わーい、カレー! カレー! ランボさん、カレーだーい好きー!!」
 ぐしゅぐしゅ泣いてたランボがとたんにはしゃぎ出した。わたしの手を振りきって、ばたばた階段を駆け下りていく。
「獄寺くんも山本も、ご飯、食べてくでしょ?」
「い、いや、その――」
 獄寺くんは逃げるみたいに眼を伏せた。
「姉貴もいるんでしょ? ……姉貴の顔見ちまったら、俺、メシどころじゃねえし――」
 下からはたしかにお母さんが誰かと話してるみたいな声が聞こえる。その相手が誰かまではわからないけど、獄寺くんには、それがビアンキだって聞き取れたんだ。すごいっていうか、それほどまでお姉さんが苦手なのというべきか……。
「やっぱ俺、今日はこのまま帰ります」
「そう?」
「すんません、十代目。お母様にもどうぞよろしく!」
「俺も帰るわ。たぶん、親父が道場で待ってるだろうし」
 山本も立ち上がった。
 三人、順番に狭い階段を下りていく。
 玄関に向かう途中、キッチンに立つお母さんにちょっと声をかけて。
 玄関のドアを開けると、外はもう暗くなりかけていた。
「そんじゃ、十代目。またしばらくお逢いできませんが、お気をつけて!」
「うん。……獄寺くんも、あんまり無茶しないでね」
「じゃ、またな。ツナ」
 夕焼けのあかね色が消えて藍色に変わっていく街の中へ、獄寺くんと山本が歩き出そうとする。
 わたしは玄関のポーチに立って、ふたりを見送った。
 わたしがいつも学校へ向かう道。三人で何度も歩いた道。あの角を曲がって、ふたりが見えなくなったら。
 もう、彼らを止めることはできないんだ。
 彼らの進むあの道は、闘いの運命に続いてる。
 ……わたし、何にもできなかった。
 その時。
「ツナ」
 山本が振り返った。
「心配すんな、ツナ」
 山本は笑った。
「後悔しねえよ、俺は」
「え……」
「なにがあっても、後悔はしねえ。自分で決めたことだからな」
「山本……」
 あったかい、おひさまみたいな山本の笑顔。
 みんなが――わたしが大好きな、山本の笑顔。
 その表情はおだやかでいつもとまったく変わりなく、そして揺るぎない決意があった。
「うん……」
 わたしはかすれた、誰にも聞こえないくらい小さな声で、うなずくことしかできなかった。
 ごめんね。
 ごめんね、山本。
 もう、山本を止められないんだね。だってそれは、山本が自分で決めたことだから。山本の意志を歪めることなんて、誰にも許されないことなんだ。
 わたしにできるのは、ただ、山本を信じること。
 信じて、ともに在ること。
 でも……ごめんね。
 山本が後悔しないと言ってくれたのに、わたしはまだこうして迷ったり、悔やんだりすることばっかりなんだ。
 敵とか組織とか、闘いとか、なにもかもが怖くて。今すぐにでも逃げ出したくて。
 そしてなによりも、これから先、大切な誰かを失うことになったらと思うと、怖くて怖くてたまらない。
 お母さん、お父さん。京子ちゃんやハル、ランボとイーピン、ビアンキ、フゥ太。
 獄寺くん。
 山本。
 そしてリボーン。
 誰も……誰も、失いたくない。
 わたしはこんな意気地なしのくせに、こんなにも欲張りだ。
 ――だから、忘れない。
 今日、この時を。
 今日が終わってしまったら、わたしが、わたしたちが、もう二度と戻ることのできない、ささやかな幸せの日常。
 明日には永遠に失ってしまう、きれいで優しい「あたりまえ」の時間。
 獄寺くんが、そして山本が、もう二度と振り返らないと誓ってくれても。
 わたしは忘れないよ。
 ふたりの、みんなの代わりに、いつまでも覚えてる。
 今日が、この時が、わたしたちにとってどんなに大切だったか。たとえあまりにも短い時間でも、わたしたちが一緒に過ごしたことが、どれほど大切なことだったか。
 あたりまえの幸せの中にいた、山本を。その笑顔を。
 わたしのために、地獄の中へ踏み出そうとしてくれている獄寺くんを。
 まだ何も知らない幼いランボ、京子ちゃんのお兄さん。雲雀さん。
 そしてリボーン。
 わたしが、みんな、みんな覚えてるから。
 獄寺くんの姿はもう見えない。
 山本の背の高い後ろ姿が、夕暮れの薄闇の中にゆっくりと溶けるように消えていく。
「ツナ。そろそろ家の中に入りなさい。風邪ひくわよ」
 開けっ放しだったドアの向こうから、お母さんがわたしを呼んだ。
「ご飯、できてるわよ」
「……うん」
 最後にもう一度、静かに眠りつくように、夜の中へ沈んでいこうとする並盛の風景を振り返って。
 絶対に、わたしは忘れない。今までみんなといっしょに過ごした時間、これからみんなとともに在る時間、なにもかもを。
 その記憶が時にどんなに重く、つらいものになっても。
 けして忘れない。
 たとえどれほど涙を流しても、傷ついて血だらけになっても。
 みんなが生きて、互いの声が、言葉が届くこの時間、この世界のすべてを。
 ――大好き。大好き。
 今のわたしには、もうそれしか言えないけれど。
 大好き。みんなが、大好き。この想いを、けして忘れない。
 そしてわたしはそっと、扉を閉めた。





                     この話ん中じゃ、十年後のツナはほかの守護者とも寝てんだろーなぁ……
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