壱、  虜 囚 (2)


 この目が見る世界は、他人が見る世界とはまったく違うものだと知ったのは、忍者学校
(アカデミー)にあがる直前のことだった。
 白眼に通常の視力はまったくない。医学的に見れば、この眼は全盲だ。それを、「気
(チャクラ)」の力ですべてを見るのだ。文字を読むのも、書籍や巻物が発する「気」を見極め、そこに記された情報を白眼の力で読みとる。人の感情さえ、「気」の微妙な揺らぎを見て判断する。その揺らぎが「表情」というものなのだと思っていた。
 白眼を通して見る世界は、すべて「気」に彩られている。木には木の「気」の色があり、山は山の「気」の形をしている。白眼の者はその「気」を見て、世界を見分けている。
 子供のころは、「気」に色があり、形があることが当然だと思っていた。人の「気」が常に増減し、感情や体調によって形や発露の状態を変えるように、すべての「気」は変化する。だから白眼で見る世界は、すべてのものごとが流動的だ。山も空も海も、常に変化し、生命あるものとしてうごめいている。
 だが普通の人間には、世界はそのようには見えていないらしい。山の姿が不動だと言われ、ひどく驚いた記憶がある。
 そして、知った。自分は、他人とは違うのだと。
「それが血継限界を持つ者の業
(ごう)だ」
 一族を率いる長の言葉は、まだ幼い自分にはあまりにも重すぎた。
 それまでは、この白濁した眼が誇らしかった。お前の中に日向の本分はある、お前こそが日向の正しき発露よと、誰もが口を揃えてこの眼を誉めてくれた。
 この白眼が、自分がこの世に生まれてきた意味なのだと、思っていた。
 だが自分が見ている世界は、他人が見ているものとは違う。自分は、他人の語る風景の美しさや懐かしさに、うなずくことができない。誰と郷愁をともにすることも、誰と感動を分かち合うこともできない。
 この白眼がある限り――自分が自分である限り。
 その孤独感は途方もなく、胸の中をおぞましい寄生虫にでも食い荒らされ、心臓も何も失った巨大な空洞ができてしまったかのようだった。
「でも、この感じは、いっしょでしょ?」
 そう言って、この手を握ってきた、小さな手。
「ほらね。こうやってお手々をつなげば、あったかいの、わかるでしょ? お手々のあったかいのは、みんなおんなじでしょ?」
 凍える冬の夕暮れ。袖の中にたくしこんで温
(ぬく)めていても、小さな手は指先が赤くなるほど冷たかった。
 けれどその両手で、この手をしっかりと包み込んでくれた。芯まで凍えた指先に少しでもぬくもりを通わせようと、胸元に抱き寄せ、強くきゅうっと握りしめる。
 そうすると、互いの体がより近くに寄り添った。
 この眼に見える世界は他者にはけして理解できない、血継限界の能力に歪められたものであっても、このぬくもりだけは、ひとと同じ。肌で感じる人の体温は、みなと共通の感覚を分かち合うことができる。
 小さな手は、それを教えてくれた。
「こうしてると、ヒナタもあったかいの。兄さまのあったかいの、わかるの」
 自分を見上げる笑顔。
 まるで花のようだと思った。
 この姫が笑うたびに、ふうわり、ふわり、と、真白いやわらかい花が咲く。花びらのように「気」がこぼれ、あたり一面を包み込む。この白眼にはそれが見えた。
「あの御方をお守りするのが、お前の生涯の勤めだ」
 父にそう言われた、そのひとが。
 自分の寒さも省みず、この手を懸命に温めようとしてくれている。けして独りぼっちにはしないからと、その「気」が言ってくれている。
 左手を包む小さなぬくもりが、泣きたいくらいうれしかった。
 そして自分も、そっとその手を握り返した。
 彼女もまた、自分と同じなのだ。
 二人とも、けして望んでこの禍々しい眼を持って生まれてきたわけではない。自分は独りぼっちではない。ここに、同じ宿世
(すくせ)を分かち合えるひとがいる。
 むしろ木の葉の里の一兵卒として生きる自分よりも、日向宗家の嫡子として生まれ、一族の命運すべてを背負わされているこの姫のほうが、はるかに悲しいだろう。
「兄さま」
 まだ舌足らずな口調でそう呼びかけられ、ぎこちなくうなずく。
 この言葉どおり、自分が本当にこの姫の兄であれば、その重荷を代わりに背負ってやることもできたのに。
 自分を包んでくれるこのぬくもりに、いったいどうやって応えればいいだろう。
 胸の中にぽかりとあいた巨大な空隙を、小さな手で懸命に埋めようとし、あたためようとしてくれたひと。
 そのあたたかさを知った時、自分のさだめは決まった。
 額に刻まれた服従のあかしは、ただこのひとのためだけに捧げられる。
 そして今。
 その手が、目の前にある。
 丸っこくてちいちゃかった手は、すんなりと細く、優美な手になった。
 髪は幼い頃と同じく、短く切り揃えている。どうやら長く伸ばすことを嫌っているらしい。
 長い髪が血継限界の能力を助長するというのは迷信だ。白眼や他の血継限界を持つ者がみなその黒髪を長く伸ばしているのは、単なる験担ぎ
(げんかつぎ:おまじない、ジンクス等の意)にすぎないのに。
 その「気」もまた、昔のままだ。このひとは未だに「気」を隠すのが下手なようだ。雪のように白く、花のようにやわらかな「気」が、感情のままにこぼれ落ちている。こちらの「気」を探るようにそろそろと伸ばされ、彼の「気」に触れると、まるで熱いものに触れて火傷をした時のようにびくっと跳ね、引っ込んでしまう。
 その表情には――他者にすれば、それは白眼だけが読みとれる「気」の微妙な変化なのだろうが、自分たちにとってはこれだけが「表情」だ――驚きと困惑が浮かんでいた。
「兄さま……?」
 昔どおりの呼び方に、胸がえぐられるようだった。






 ヒナタは、ネジの顔を半ば呆然と見上げていた。
 彼が突然声を荒げた、その理由がわからない。一族の長であるヒナタの父と和解し、何のわだかまりもなくなったから、ネジはここにいるのではないのか。
 ネジの「気」は、いつになく刺々しくなっていた。ヒナタがそろそろと「気」の触手を伸ばして彼に触れようとすると、硬い殻のようにヒナタの「気」をはじき飛ばしてしまう。
「誰が……、誰が貴女をここへ寄越したのですか」
 ぎりぎりと奥歯で噛み殺すような声で、ネジは言った。
「誰って……父様です。兄様が暗部のお務めからお戻りだから、ねぎらってやるようにと……」
 その返答を聞いた途端、ネジは拳を力一杯畳の上へ叩きつけた。
 どすん、と鈍い音が響き渡り、膳がひっくり返る。
「あの、男……ッ!!」
「に、兄様!?」
 ヒナタは息を呑んだ。
 長い黒髪に半分ほど隠れたネジの横顔。そこに一瞬、激しい感情が表れた。抑えきれない怒り、憎悪――そしてひどく苦しげな、何か。
 けれどそれも、ほんのわずかな間のことだった。
 やがてネジの唇が、小さく笑みの形に歪んだ。
 く、くく……と、喉の奥に絡みつくような笑い声が洩れる。
 それはすぐに、高い哄笑になった。ネジは身をのけ反らせ、まるでなにかを嘲り、ののしるように笑い続けた。
「ネジ兄様?」
 ヒナタが名を呼ぶとようやく、どこかたがの外れたような笑いは止まった。ネジは髪をかき上げ、ヒナタを真っ直ぐに見据える。
「さすがは日向一族を束ねる頭領殿だ。一族の安寧と里への忠誠のためなら、ご自分の娘御を犠牲にすることもまったくお厭
(いと)いにならぬと見える。一族の存続のため自分の兄を見殺しにし、まだ温もりも消えぬその遺体(からだ)から両眼をえぐり出せと命じたほどの方だしな」
「な、なにを、兄様……」
「いいや。それとも俺がうちはの二の舞になるのがそんなに怖いのか、俺の能力
(ちから)をそれほど必要としているのか。鬼子(おにご)と呼んだこの俺を、今さらどうしても手放せぬと言うのか!」
 ネジは、まるで今、目の前に一族の長であるヒアシを見据えているかのように言った。
 ネジが苦々しく吐き捨てたその言葉に、ヒナタは唇を噛んだ。
 宗家の陰として控えるべき分家に生まれたネジが、宗家の後継者であるヒナタ、あるいは一族を統べるヒアシすらも凌駕する能力を持っていることは、隠しようがなかった。その事実に気づいた父ヒアシが、ネジのことを、宗家に相応しい能力を持って生まれてこなかったヒナタへの落胆や批判をも込めて「鬼子」と呼んでいたのを、ヒナタは知っていた。
 胸の中にこみあげるさまざまな思い。けれどそれは、ひとつとして言葉にならなかった。
 じり、とネジの膝が動いた。少しずつ身を乗り出して、ヒナタの方へ近づいて来る。
 同時に、息も詰まるような圧迫感が、目の前のネジから押し寄せてきた。ヒナタは思わず、小さく身体を引いてしまった。
「うちはの兄弟が里を売った
(注:逃亡した、の意)ことは、ご存知ですね?」
 低く、ネジは言った。
 ヒナタはかすかにうなずく。
 突然、彼は何を言い出したのだろうと思う。
 声が出なかった。じりじりと自分の方へ近寄ってくるネジが、その声が、ひどく冷たく怖ろしいもののように感じられる。それは、子供の頃から慣れ親しんだ彼の姿、彼の声そのものなのに、まるでまったく違う人間のもののようだ。
 さっきまでは頑なにヒナタを拒否していたネジの「気」が、今度は彼のほうからじわじわと伸ばされていた。まるで逃げるヒナタを追い、掴まえようとするかのように。
「では、彼等が何故逃げたか、お判りですか?」
「え……?」
「彼等二人は、力への渇望に敗けた。写輪眼がもたらす圧倒的な破壊力、そしてそれを思う存分にふるうこと、その力によって自己を顕示すること。そのことへの欲求が、里への忠誠、家族や仲間との絆、そして自分自身の尊厳よりも勝ってしまったのです。彼等には、写輪眼の力よりも大切なものが、何一つ存在しなかった」
「そ……そんな――っ」
「血継限界を持つということは、そういうことだ。人外の力を持ち、常にその誘惑にさらされ続ける。能力
(ちから)の言いなりになり、人間(ひと)であることを捨てるか、その力をねじ伏せて、人間であり続けるか……。暗部で、最前線で命のやりとりをしていれば、自然、その誘惑の力は強くなる。人間なんてあまりにもあっけなく死んでしまう。生まれながらに人間を超越する力を持っている自分が、そんな不合理な摂理に従っていて良いのかと、思わざるを得なくなる」
 ひどく淡々とネジは言った。彼自身、その言葉に何の疑問も感じていないかのように。
 ネジの言葉は、ヒナタには理解できなかった。言葉の意味は判っても、その感覚が判らない。ヒナタにとって白眼の能力は重荷でしかなく、存分にふるうどころか、いつもその能力を持て余していたのだから。
「うちはの二人には、血継限界よりも強く心を占めるものが、なにもなかった。だから里を売った」
 不意に、強い力で右手を掴まれた。
 ネジが乱暴にヒナタの手を引き寄せる。そしてその手を畳の上に押さえつけた。
「い、痛い、兄様……っ!」
 ヒナタが思わず小さく訴えても、ネジは押さえつける手を離そうとはしなかった。
「彼等を里にとどめておくには、どうすれば良かったのだと思いますか? 血継限界以外に、何一つ心を占めるものを持てなかった者達を」
「わ、私……っ、私、そんなこと――」
 判りません、という言葉が、出てこない。
 ネジはさらに強くヒナタの手を引き寄せ、肩にもう片方の手をかけた。着物の上からでも指が食い込むほど強くヒナタの薄い肩を掴み、互いの髪が触れあうほど近くまで顔を寄せる。
 その距離で、ネジは真っ直ぐにヒナタを見据えた。彼の放つ「気」が、まるで刃のようにヒナタの全身を突き刺す。
 ネジが見つめるこの皮膚から、今にも血が噴き出しそうだと、ヒナタは思った。
 そしてこんなに鋭い「気」を放っていては、ネジ自身もずたずたになってしまうだろうに、と。
 ネジはヒナタの返答など必要とはしていなかった。
「そうだ。血継限界以上に大事なものを、持たせてやればいい。里への忠義が重みを持てないなら、もっと具体的に彼等の心を掴み、縛るものを。たとえば父母、たとえば共に闘う戦友
(とも)。イタチの失敗を繰り返すまいとサスケが、そして俺もが血継限界の能力者でありながら、一般の下忍に混じって三人一組(スリーマンセル)のチームに組み入れられたのは、そのためだ。そのチームで心の支えとなる友を得られるようにと。だがそれも、サスケには歯止めにならなかった」
 師であるカカシも、一つのチームでともに切磋琢磨したナルトをも裏切り、サスケは里を捨てた。
 そしてネジにとっても、かつてのスリーマンセルの仲間も、その時の師も、けして重きを成してはいない。ネジが暗部に所属するようになってからは、彼等とほとんど連絡も取り合っていないことを、ヒナタはかつてネジとチームを組んでいたテンテンから聞かされていた。一切の特殊能力を持たず、愚直なまでの努力で忍の任務を果たそうとするロック・リーは、ネジとはあまりにも目指す方向性が違い、互いの立場を理解し合うこともできなかったのだ。
 歯止めとなる家族も、ネジにはいない。母親は彼を産んだ時に産褥で死亡したと聞く。父は、一族の犠牲となった。その死については、ヒナタにも責任の一端がある。
「だが、さすがに頭領殿はよくご存知だ。俺を里にとどめるためには、誰を人質とすれば良いのか。いったい誰が、俺をここに縛り付けているのか……!!」
「兄さま、離して……離してください!」
 ヒナタはもがいた。ネジの言葉などもうほとんど聞いていない。ただ、どうにかしてネジの手を振り払おうとする。
 だが強い指はますますヒナタの手首や肩に食い込み、手首にはもううっすらと鬱血の跡が浮き出していた。
「い、痛い! 痛い、兄さま! やめて!」
 もがくヒナタを、ネジはいきなり胸元に抱きすくめた。両腕でがっちりとヒナタを抱え込み、逃がさない。
「やめなければ、どうします。人を呼びますか? だがどんなに声を上げたところで、誰も来はしない!」
 その言葉に、ヒナタは思わず息を呑み、ネジの顔を見上げた。
 そこで皮肉な表情に唇を歪めている男は、ヒナタのまったく知らない男のように見えた。
 ネジは笑った。くく……と、低い声が喉の奥に絡みつく。
「暗部で血継限界を持つ者はみな、任務で里の外へ出る時には、人質を里の監視下に残しておくことを要求される。だが俺には里に差し出すべき親も子もない。頭領殿も、早く俺に子なり妾なりを持たせろと里の上層部からよほどせっつかれたのだろうな。ここで待てと俺に言ったのは、頭領殿――貴女のお父上だ。端女
(はしため:身分の低い下働きの女性)でも差し向けてくるかと思っていたら……」
 唇は笑みの形に歪んでいる。声にも自嘲の笑いがにじんでいる。
 だがネジの眼は、こぼれる「気」は、けして笑ってはいなかった。そこにあるのは、誰に向けられているのか抑えようのない、煮えたぎるような怒りと、そしてその奥に見え隠れするひどく哀しげな色だった。
「そうですよ、ヒナタ様。貴女は俺を、この白眼の鬼子を木の葉の隠れ里に――日向一族に縛り付けておくために差し出された、人身御供だ!」
 ネジはいきなり、ヒナタの着物の両衿に手をかけた。刺繍と染めで飾られた生地を、その下の襦袢ごと力任せに左右に押し開く。繊細な刺繍糸がぶちぶちと引きちぎられた。
 白く透けるような肌が胸元まで大きくあらわになった。
「きゃあっ!」
 ヒナタは思わず胸元を両手で覆い隠そうとした。だがネジはそれを許さなかった。ヒナタの身体を畳の上に押し倒し、両手を押さえつけてのしかかる。
「い、いやあっ! いや、兄さま――!!」
 ヒナタは暴れた。
 ネジの肩を押しのけようと両手を突っ張り、顔を背ける。だがそんな抵抗など、ネジには何の妨げにもなっていないようだ。反対に腕を掴まれ、片手だけで軽々と押さえつけられる。
 のしかかってくる重い身体。胸や脚にあたる感触は、硬く、まるで鋼
(はがね)のようだ。同じ一族に生まれながら、ヒナタ自身の身体とはまったく違う。そして耳元に、頬に触れる熱い呼吸。手首をつかむネジの手のひらも、ひどく熱い。火傷させられるのではないかと思うくらいだ。
 なにが起きたのか、どうしてこんなことをされるのか、まるでわからない。
 何も考えられない。ただ、自分を抑えつけるこの力が、痛くて、怖くて、懸命にそれから逃げようとするだけだ。
「やめて、兄さまっ! いやあ、――いやあああっ!!」
 くのいちとして学んだ体術など、まったく思い出せなかった。ヒナタはまるで小さな子供のようにめちゃくちゃに手足を振り回し、もがき続ける。
 ばたつく足に裾が乱れ、太腿まであらわになる。その白い脚に硬く強い脚が絡みつき、動けないように押さえ込む。さらにヒナタの膝を割り、その奥を探るようにネジの脚が押しつけられる。
 噛みつくような接吻が押しつけられた。ネジは強くヒナタの唇を吸い、顎をつかんで無理やりこじ開けようとする。
 あまりにも強引なくちづけに、ヒナタは思わずネジの唇に歯をたてた。舌先に鋭く、錆びた鉄の味が広がる。けれどネジは唇を離そうとはしなかった。固く歯を食いしばるヒナタの唇を、その呼吸さえすべて吸い取ろうとするかのように貪る。
 袖が破けた。無理やり開かれた衿から肩が引き抜かれ、真っ白な乳房が半分以上剥き出しになっている。やわらかなふくらみに、紅く痕が残るほど強くネジの指が食い込んだ。
 涙があふれた。
 呼吸
(いき)がつまる。息苦しさで頭の芯が痺れ、意識がぼやけていく。
 そして、火のような痛みがヒナタを貫いた。

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