屋根を叩く小さな雨音に、リザはふと眼を醒ました。
 ロイはまだ、ぐっすりと眠っている。枕に半分顔をうずめ、リザの肩を抱くように片腕を伸ばして。
 昨夜はこの腕を枕に、眠った。この男の胸に、体温に抱かれて。
 彼を起こさないように気を遣いながら、リザはそっとベッドを降りた。
 カーテンの端を持ち上げ、窓の外を見る。
 街は冷たい灰色に濡れていた。
 うんざりするような、雨の朝だ。せっかくの休日
(オフ)だというのに。
 ひとつ、軽いため息をついて、リザは窓辺を離れた。
 何も着ていない肩に、湿った朝の空気は寒すぎる。
 昨夜脱ぎちらかした服を拾おうとして、ふとその手が止まった。
 自分のブラウスやシンプルなキャミソール、ストッキングに覆い被さるようにして、大きな男性用のワイシャツが落ちている。
 ロイのシャツだ。
 昨夜、リザがボタンを外し、彼の肩から脱がせた。
 互いの衣服は、まるで昨夜の二人そのままに、今も床の上で重なり合っている。
 リザは声には出さず小さく笑って、ロイのワイシャツを拾い上げた。
 自分のものではなく彼のシャツを素肌に羽織る。かすかに残る男性用コロンの薫りと、彼の匂い、そして火薬の匂いが、リザを包んだ。
 小さなキッチンに立ち、ケトルをコンロにかける。
 ケトルがぴいぴいと歌い始める前に。
「あ、そうだ」
 ふと思い出して、リザはリビングへ戻った。
 ソファーの隅に置いたショルダーバッグから、小さな封筒を取り出す。手書きの文字がとても懐かしかった。
「読むの、忘れてたわ」
 少し申し訳ないような気持ちとともに、封筒の端を器用に破る。
 飾り気のない便せんを広げ、その文面にまたリザはため息をついた。
「浮かない顔だな」
 低い声がした。
「ヤカンが騒いでるぞ」
「あ、いけない!」
 リザは慌てて便せんを封筒に戻した。その間に、ロイがキッチンへ行ってコンロの火を停めてしまう。
「物思いの原因はその手紙か。私はきみを慰めるべきか、それとも嫉妬したほうがいいのかな」
「莫迦なことを」
 リザは小さく笑った。
「母からです。田舎の」
 封筒を、壁に吊したレターケースに放り込む。そこには同じような手紙が何通も収められていた。
「もう読まなくていいのか?」
「いつも同じ内容ですから。いつまで仕事を続けるつもりだ、そろそろ辞めて帰って来い、いい見合い話があるから――」
「見合い!」
 その声には、驚きや嫉妬よりも、どこかおもしろがっているような響きがあった。
「するのか? 見合い」
「断ります。結婚する気がまったくないのにお見合いだけするなんて、相手の方に失礼ですから」
「どうして? 会ってみたら、意外と相手が気に入って、その気になるかもしれないぞ」
「私はまだ仕事を辞める気はありません」
 ロイはにやっと笑って、ソファーへ身を投げ出すように座った。
「たしかに、今、中尉に辞められたら私も困る。きみがいないと何の書類がどこにあるのか、さっぱりわからん。ハボック少尉あたりは、むさ苦しい男所帯の職場に絶望して首を吊るかもしれん」
 ちらっとのぞく、大佐としての口調。
 そのほかには? その問いかけを、リサは胸の奥に押し込んだ。
「そろそろお見合いを断る口実も見つからなくなってしまって」
「男がいると言ったらどうだ? もう付き合っている相手がいる、と」
 リザは一瞬、返事の言葉を失った。
 暗い色の瞳が静かにリザを映している。
 その包み込むような優しい色、無言の微笑にリザは安堵して、唇を開いた。
「まさか」
 珊瑚色の唇に、ほんの少しだけ、淋しげな笑みが浮かぶ。
「おことわりです、大佐なんか」
 軍の上官であるロイ・マスタングと大人の関係を持つようになって、もう二年近くが経っている。
 上司としては、彼は申し分のない男だ。リザ・ホークアイの能力を正確に把握し、そのスキルを最大限に活かせるステージを与えてくれる。軍人としても国家錬金術師としても、その能力は他者に秀で、つねに危険と背中合わせの戦場で、彼ほど信頼できる司令官はいない。
 情人としてのロイも、とても魅力的だと思う。ベッドの中での情熱的な仕草も、耳元でリザの名を呼ぶハスキーなささやきも、思い返すだけで身体の芯にさざ波が走る。
 さらりと乾いて、それでいてひどく熱っぽい肌。少し硬い黒髪の手触り、ナイフで刻みつけたような鋭い顎のライン。どこにでもキスしたがる、ききわけのない唇。指先に絡みついて消えない火薬の匂いさえ、愛しい。
 けれど恋人としては――願い下げだ、こんな男。
 美人と見れば片っ端から口説きにかかるし、そのくせ最後の最後じゃ絶対に、仕事優先だ。世界中の生殖可能な年令の女性をすべて平等に愛している男なんて、空の彼方の神様一人で充分だ。
 ましてや、夫なんて。
 リザは、ロイの暗い色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 ――こういう男は、長生きしない。
「私にだって、理想はあるんです」
「どんな?」
 ロイが手を伸ばす。リザの手を取り、隣に座れとうながした。
 けれど。
「出世なんて、そこそこでいいんです。私と家庭を大事にしてくれる人がいい。郊外に小さな家を構えて、犬を飼って、子どもは三人。週末には庭の芝生の手入れをしてもらって、晴れたら家族みんなで近所の公園にピクニックに行くんです」
 リザはそっと、ロイの手を払いのけた。
「娘の結婚式には夫に盛大に泣いてもらって、私達の金婚式には一族郎党みんな招いて、にぎやかにパーティーを開きます。そして子どもと孫とひ孫に囲まれて、夫と二人、天寿をまっとうするつもりなんです」
「はは。そりゃたしかに、私には無理だ」
 ロイは笑った。
 リザは、自分で飲み込んだ言葉を、哀しく胸の奥で繰り返す。
 そう――こういう男は、絶対に長生きできないから。
 自分で抱いた野心に急かされるまま、地獄の焔の上を渡る吊り橋を、全速力で駆け抜けていく。吊り橋のロープに火が移り、燃え落ちようとしているのにもかまわずに。
 そんな男を愛しても、自分が哀しいだけだから。
 リザはくるっときびすを返し、ロイに背を向けた。
 今、自分がどんな瞳
(め)をしているか、彼に見られたくなかった。
「たしかに、私には無理だ」
 独り言のように、ロイが言う。
「だが」
 強い、あたたかい腕が、背後からリザを抱きしめた。
 広い胸に背中から包み込まれ、長く形の良い指が金色の髪をそっと撫でる。
「今くらいは、夢を見させてやれる」
 そっと降りてくる唇。リザの髪に、こめかみに、耳元に、優しい切ないキスを降らせる。
「外は雨だ、リザ。残念だけど、ピクニックは今度の休日までおあずけにしよう」
「たい……」
 大佐、と呼ぼうとした唇を、乾いた指先がす、と押しとどめる。
「コーヒーを淹れてくれないか、リザ。それから二人でベッドに戻って、ひ孫全員の名前でも考えよう。こんな雨の日には、そのくらいしかやれることがないさ」
 夢を見よう、と、ロイの指先が言っている。
 大人だから、夢を見る。
 叶わないとわかっていて、こんな優しい夢を見る。
「……ええ」
 リザはそっと、ロイの手に自分の手を重ねた。そしてその指先に、唇を押し当てる。
「ええ、そうね、ロイ」
 雨の休日には、やれることなど何ひとつないから。
 だから今だけは、互いに優しく寄り添って、ひとときだけの夢を見ていよう――。







                                                〜FIN〜
【Rainy Days】
 物静かでロマンティックなオトナの会話が書いてみたくて、ふとこんなお話を作ってみました。正直言ってロイ×アイは、よそ様のサイトで私好みの素敵な作品を拝見することができるので、まあ自分で書かなくても良いかな〜と思っていたのですけど(^^;)
 この頁の背景画像は「Salon de Ruby」様よりお借り致しました。
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