上のほうでふっと小さな灯りが一つ消えたような気がして、劉鳳は顔をあげた。
「どうした? モニターの故障か?」
 壁一面にずらりと並んだ監視モニター。それぞれが、ネイティヴアルターを隔離する独房の内部を映し出している。今日も、数人のアルター犯罪者が収容されていた。彼ら危険分子は、こうして『HOLD』本部に収容されている間、二四時間監視され続ける。
 そのモニター画面の一つが真っ暗になっていた。こちらのモニターが故障したのか、それとも独房を映している監視カメラの電源が、独房の外から手動で切られたのか。
「まさか……!」
 劉鳳はきつく眉根を寄せた。
 時刻は、深夜二時を回っている。モニターの前は宿直の隊員が二名いるきりだ。本来なら対アルター特別実働部隊『HOLY』に所属する劉鳳は、こうした宿直などの義務を持たない。だが今夜は特別に、彼自身どうしても眼が離せないと思うネイティヴアルターが収容されているため、こうして徹夜の監視を自ら申し出たのだ。
 『HOLY』によって捕獲されたネイティヴアルターは、ここでその適正を分類され、本土の教育施設や、あるいはもはや矯正不能と判断されれば強制労働所へ送られる。その先を、劉鳳は知らない。
 実は、彼らのうち再び『HOLY』隊員としてこの建物に戻ってくる者は、最初からそれを志願して自分から壁を越えてきた者を除けば、皆無と言って良い。犯罪者として強制連行されてきたネイティヴアルターたちは、この独房を出されると自分たち『HOLD』の前に二度と現れることはないのだ。
 それを知っていて、ネイティヴアルターに必要以上の暴力をふるい、欲望の捌け口にしようとするHOLD隊員が少なからずいることを、劉鳳も聞き及んでいた。相手はどうせ犯罪者、しかも二度と会うこともないのだから、と。女性アルター能力者は捕らえられると同時にことごとく、時には若く見栄えのする男もが、その餌食になる。
 美しい壁に守られた市街でも、所詮ここは無法の『失われた地』だというのか。劉鳳は歯噛みする思いだった。
 自分たち選ばれし『HOLY』の中にさえ、同様の卑劣な行為に走る者がいる。
「ガス抜きさ。劉鳳。必要悪だ」
 平然とそううそぶく者までもが、いた。
「アルター能力者には精神的に不安定な者が多い。その不安定さこそが強大なアルター能力を生み出すという説もある。そいつらに曲がりなりにも集団生活の規律を守らせ、組織として機能させるには、不安定な精神のバランスをどうにかして保ってやる必要があるのさ」
 その身勝手な言い分を聞いた時、劉鳳は心底怒りを覚えたものだ。何を甘えたことを、自己を律することもできなくて、どうして他者に秩序を強制できるのだ、と。
 劉鳳は、モニター前の椅子から立ち上がった。
「どうかされましたか?」
 寝ぼけ眼で間抜けたことを訊いてくる隊員に返事もせず、モニター室を飛び出す。そして、照明が落とされた暗い廊下を走り出した。
 ――あの独房には、あいつがいる。
 劉鳳自身が捕らえてきた、あの金の瞳(め)の少女が。








 野良猫。
 社会のルールを理解しようともせず、勝手気ままにふるまう野良猫。誰も信じず、誰の言葉も聞こうともせずに。挙げ句の果てには、その境遇から救い出してやろうと伸ばされる手に、片端から噛みついてくる。
 警戒心と猜疑心が強く、けして人馴れしない野生の獣。
 どうしようもない、始末に負えない、薄汚い野良猫。
 その少女を初めて見た時、劉鳳はそう思った。
 乱れた前髪が額にはりつき、その下から燃えるような黄金色の瞳が、まっすぐに劉鳳をにらみつけていた。絶影の触手で打ち据え、戒め、地面に這いつくばらせても、その視線をけして逸らそうとはしなかった。まるで自分がこの場のすべてを支配する女王であるかのように。
 ふざけるな、と、劉鳳は思った。――何を思い上がる、貧民街の犯罪者が。法も秩序も、人としての理(ことわり)など何一つ知らない愚か者が、まさかこの俺と対等であるとでも思っているのか。
 結局、少女は容易く劉鳳に捕らえられ、この『HOLD』本部へ連行されてきたのだ。
 それきり、あんな薄汚い娘のことなどすぐに忘れてしまうだろうと、劉鳳は思っていた。
 だが、あの金の瞳が、妙に気になるのは何故だろう。一度見ただけで、脳裏にその視線がくっきりと焼きつき、容易に消えようとしないのは。
 ……不愉快だ。あの眼も、淫蕩な笑みを浮かべる紅い唇も、そのくせ処女のように華奢な肢体も。
 忘れられない。明確に思い出せば、苛立ちが募るばかりだ。
 いっそ、この手で殺してやりたい。
 いつの間にか本気でそう考えている自分に、劉鳳は気づき、愕然とする。あれは社会の不適合分子ではあるが、それでも一個の人間だ。法の裁きも受けずに処分されて良い存在ではない。それを、すぐに殺してやりたいだなどと。
 しかもその殺害方法さえ、明確に自分は夢想していた。細い、小鳥のような首にこの両手を絡ませ、力の限り締め上げる。そうすれば、窒息するより先に頸椎がへし折れ、痛いと思う間もなく殺してやれるだろう。その時の骨が折れる乾いた感触、絶息する時の痙攣さえ、この手のひらにはっきりと感じとっていた。
 ――どうかしている、自分は。
 長い廊下を一気に走り抜け、独房が並ぶ一角へと向かう。『HOLD』本部内で、HOLY隊員である劉鳳に立ち入りが許されないブロックは存在しない。
 ずらりと並んだ独房のドア。そこに記されたナンバーを一瞬で読みとる。
「……32!」
 ここだ。
 ドアの横にある電源盤を確認すると、やはりドアロックもモニターカメラの電源も手動でオフにされていた。この電源盤を操作するためには、『HOLD』もしくは『HOLY』の認証カードが必要だ。
 閉ざされたドアの奥からは、かすかに人の話し声が漏れてきている。この部屋にいるはずもない、男の声だ。
 劉鳳は、ドアを開けた。
「何をしている、貴様等ッ!!」
 いきなり怒鳴りつけられ、中にいた人間たちは、跳び上がらんばかりに驚いた。
 数人が折り重なるようにして、狭い独房の床に這いつくばっている。誰かをその下に押さえ込んでいるのは、一目瞭然だ。だらしなく緩められた『HOLD』の制服。床に放り出された特殊警棒。認証カード。
「り、劉鳳……っ!」
 HOLD隊員たちは、一様に引きつった声で口々に劉鳳の名を叫んだ。中には、膝までずり降ろしたスラックスを慌てて引き上げようとする者もいる。
 劉鳳は一歩、独房の中へ足を踏み入れた。
「ここで何をしていると訊いている」
 返答できるはずもない。
 隊員たちは、一瞬、互いに顔を見合わせた。
 そして、次の瞬間。
「か、かまうな、やっちまえっ! 相手はたった一人だ!!」
「本部内でアルター能力は使えん! 素手なら、こんな若造の一人や二人!!」
 劉鳳めがけ、一斉に殴りかかってきた。
「……馬鹿どもがっ!」
 劉鳳は低く吐き捨てた。
 わずかに身構え、手刀を一閃させる。獣のように吠えて殴りかかってきた相手を、手首の返しで軽くいなし、その鳩尾を膝で蹴り上げる。たまらず身を二つに折った男の、うなじの急所に肘撃ちを叩き込む。次の敵には、正面に一歩踏み込み、掌底で相手の顎を強か(したたか)打ち据える。
 まったく無駄のない、研ぎ澄まされた刃物のような動き。軸足として重心を載せた劉鳳の左足は、わずかに踵が浮いたただけで、最初のポジションから一歩も動いていなかった。
 劉鳳が五人の男を叩きのめすまでに、三分とかからなかった。
 うずくまって無様に呻く男たちを、劉鳳はさらに容赦なく蹴り飛ばした。
「出て行けっ!」
 互いに身体を支え合い、引きずり、あるいは獣のように四つん這いになりながら、男たちは廊下へと逃げていった。ばたばたとみっともない足音が響き、あっという間に遠ざかっていく。
 独房内は、再び誰もいないかのような静けさに満たされた。
 劉鳳は独房の奥へ振り返った。
 そこには、あの金の瞳の少女が、いた。
 壁際にうずくまり、まるで傷付いた野生の獣が痛いところをかばうように、小さく身体を丸めている。うつむいたその顔は、表情も見せない。
 雨に濡れた大地の色の髪が、額に乱れかかっている。若い猫を思わせる、すんなりとしてしなやかな体つき。脱がされかけた革のジャケットを必死でかき合わせ、あらわになる肌を隠そうとしているのが痛々しい。
 劉鳳には見えた。その手が、小刻みに震えてとまらないのが。
 ――可哀想に。劉鳳はちらりとそう思った。アルター能力を持っているとはいえ、やはり本当は心弱い少女だ。五人もの男たちに襲われて、平静でいられるはずがない。どれほど怖ろしい思いをしただろう。
「怪我はないか。もう大丈夫だ」
 劉鳳は少女に向かって、そっと手をさしのべた。
 そんな馬鹿げた劉鳳の思いを、だが少女は、たった一言で吹き飛ばしてくれた。
「なんてことしてくれんだよ、てめえ。客がみんな逃げちまったじゃねえか」








「な……んだと?」
 噛みしめた歯の隙間からぎりぎりと押し出すように、劉鳳はつぶやいた。
「貴様、今、なんと言った」
「耳悪りいの? てめえがオレの客、みんな追い散らしちまったって言ってんだよ。どうしてくれんだ。久々にたんまり稼げるチャンスだったのに」
 座り込んだ独房の床から、カズマはゆっくりと立ち上がった。男たちに脱がされかけたレザーパンツ、その隙間から覗く白い肌を、目の前の男に見せつけるように。
 フェイクレザーのジャケットが右肩からするっと滑り落ちる。その下は、ほんの申し訳程度にしか肌を覆っていない小さなタンクトップだ。胸の丸みも、頂点の小さな突起まで、その形をくっきりと浮き上がらせている。
 カズマは肩をそびやかし、高慢な仕草で腕を組んだ。重ねた両腕にまだ小さく硬い乳房を乗せ、そのふくらみを誇示するように。その光景が、劉鳳の眼に焼きついた。
「それとも、今度はてめえがオレの客になりたいってわけか? そんでもかまわねえぜ。金さえ払ってくれるならな」
 カズマは挑発するように、にやりと笑った。ほっそりした腰に両手をあて、上目遣いに劉鳳を見上げる。金茶色の瞳が、ひどく淫らな光を湛えていた。
「フェラだけなら三〇、本番込みなら一〇〇。縛りとかオプション入れるなら、あと五〇上乗せだ」
 グラブをしていない左手を口元に近寄せ、卑猥な仕草をしてみせる。桃色の舌先をちろりと覗かせ、何かを舐める真似までして。
「オレ、上手いよ?」
 劉鳳は、怒りと屈辱に顔を歪めた。
「この……淫売がッ!」
 その瞬間、ぱん!と高く乾いた音が、独房に響き渡った。
 劉鳳は一瞬、茫然として声も出せなかった。平手打ちされた頬が、熱い。見る間に赤く染まっていく。
「その淫売をじろじろ物欲しそうに見てんのは、どこのどいつだよッ!」
「な……っ!」
 絶句する劉鳳の前で、カズマはそら見ろ、図星だと勝ち誇った。
「ふん、サカッた眼ぇしやがってよ。てめえだって、あの連中と同じじゃねえか!」
 金色の瞳が劉鳳を見ている。……見くだして、いる。
 カズマはせせら笑い、レザーパンツのジッパーに細い指をかけた。劉鳳に見せつけながら、ゆっくりとジッパーを引き下ろす。まるで、それ自体が一つのショウであるかのように。小さな金属音が、やけに大きく劉鳳の耳へ届いた。
「見せてやろうか?」
 小さな紅い唇が弓なりに吊りあがり、淫蕩な笑みを刻む。指がパンツのウエストにかかり、光沢を帯びた布地を腰のラインに沿ってそろりと引き下ろそうとした。
「見たいんだろ? カッコつけんなよ。いいぜ、そのくらいならサービスしてやる。ただし、オレに指一本さわんじゃねえぞ。さわりてえんなら先に金払って――」
 その瞬間、劉鳳の右腕が一閃した。
 硬い手の甲で、力一杯カズマの頬を張り飛ばす。
「うわあぁっ!!」
 小柄な身体が一気に壁際まで吹っ飛ばされた。カズマは背中からコンクリートに激突する。
「ぐ、う、うぅ……っ……」
 激痛に呻き、床にうずくまったまま起きあがることもできずにいるカズマに、劉鳳は大股に歩み寄った。もともと狭い独房だ。一、二歩前に出るだけで、もうブーツの爪先が細い身体に触れそうになる。
 劉鳳はカズマのかたわらに片膝をついた。そして右手を伸ばす。
 短い、少しクセのある髪。濡れた大地の色。手を触れた瞬間、思っていたよりもずっとやわらかく繊細なその感触に、一瞬、手を引っ込めそうになってしまう。だが劉鳳は、すぐにその髪に指を埋め、そして鷲づかみにした。
「いっ――いたっ、い、痛てえーっ!」
 後ろ髪を引っぱられ、乱暴に上向かされて、カズマは思わず苦痛の声をあげた。
 白い喉がのけ反る。その半透明の肌が、劉鳳の眼を射る。
「雌猫が……ッ! 盛りがついているのは、どっちだ!」
 劉鳳は、カズマの身体を乱暴に突き放した。まるで床に叩きつけるように。
 立ち上がり、隊服を脱ぎ捨てる。鍛え抜かれた上半身があらわになる。見上げたカズマが、一瞬息を飲むのがわかった。
「いいだろう。そんなに男が欲しいなら、俺が相手になってやる!」






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