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ちょっと古いものですみません。実はこれ、お友達へのバースデイプレゼントとして書いたものでした。

【うそつきな唇】




「HAPPY BIRTHDAY TO YOU,HAPPY BIRTHDAY……」
 コンピュータCRTの中で、工藤新一の映像が低く歌っている。
「HAPPY BIRTHDAY DEAR……蘭……」
 襟元を飾るのは、もう小生意気な真紅の蝶ネクタイではない。深いネイヴィのスリムタイだ。ダブルのスーツが浮かないだけの広い肩幅、高い腰。きれいに整えられた髪からは、かすかにすがしい煙草の残り香が漂ってきそうだ。脚を組み、その上に両手を乗せるクセだけは、以前と変わっていない。
 声に微妙なヴィヴラートをかけ、低音部分を強調する。より大人びて聞こえるように。
 変声機で造った二六才の工藤新一の声が、歌う。
「――嘘つきね」
 背後で、冷ややかな声がした。
「それ、ビデオレターにして贈るつもり? 蘭さんの誕生日に」
 新一はキーボードから手を離し、ゆっくりと振り返った。
「何の用だ」
「あら、ご挨拶ね。私はここの住人よ。その科白はむしろ、私があなたに言うべきじゃないかしら」
 ドアにもたれて、すらりとした美しい姿がある。
 オフホワイトにペイルブルーの衿がついたセーラーカラーのワンピースは、米花町から電車で二駅ほどいったところにある私立の女子高校の制服だった。ミッション系で生徒数も少なく、だがその分、この近辺の少女たちの憧れの学校であるとも、聞いている。
「ここは俺のラボだ。ここにある機材は全部、俺が好きに使っていいと、阿笠博士には許可をもらってある」
 無愛想に言って、新一はふたたびコンピュータに向かう。
 CG映像は、何度も何度も「ハッピーバースデイ」をリピートしている。
 この声を、新一は本当は知らない。自分でも聞いたこともない二六才の自分の声を、機械で合成しているのだ。
 CRTの中で歌っている工藤新一の映像は、現在の自分の姿をコンピュータで修正し、作ったものだ。面差しは幾分、父・工藤優作に似せている。背景にしているパリの下町の風景は、世界中をふらふらしている両親に連絡し、ビデオ撮影してもらった。これらをパソコンで合成し、さも二六才の新一がパリからメッセージを送っているような映像を造り上げる。
 毛利家にも、江戸川コナン用のラップトップパソコンはあるが、もちろんそれでこんなものが作れるわけもない。そこで学校帰りに阿笠博士の家に寄り、新一のためにと博士が用意してくれた部屋で、キーボードを叩いているのだ。
「その制服……東都高専のよね」
 哀は、小さくつぶやいた。
「どうして杯戸高校にしなかったの」
 新一の着ている五ツ釦の学生服は、都内の工業高等専門学校のものだ。普通の高校と違い、基本は四年制。日本のインダストリアルを支えるさまざまなスペシャリストを育てるための学校である。一般教養は平均的な高校のレベルどまりだが、専門分野では大学院クラスの知識と技術を教え、実習させる。そこで新一が専攻しているのは、コンピュータを駆使したロボット工学だった。
「行けるわけねえだろ」
 ぼそっと、新一が答える。
「どうして? 蘭さんとあなたの母校でしょ?」
「だからだよ。教職員の中にゃ、工藤新一を覚えてる連中がまだ大勢いるんだ。写真だって残ってるし……」
 何よりも蘭に、あの頃と同じ服を着た自分を、見せたくない。
「コナンくんて、ますます新一に似てきた感じね」
 そう言って笑う、蘭。
「ん――。でも、コナンくんのほうが、ちょっと眼が優しいかな。高校生の頃の新一って、かなりとんがってたから」
 眼鏡の奥を確かめるように、見つめてくる視線。
 『江戸川コナン』はすでに、あの時の『工藤新一』の年令に追いつこうとしている。薄っぺらな眼鏡だけが、日毎に変化するこの容貌を隠しているのだ。
 蘭は今だに待ってくれている。一度だって逢いに来ることもなく、ただわずかに声の便りをよこすだけの工藤新一を――俺、を。
 もはや彼自身ですら、もとの自分に戻ることを諦めかけているというのに。
「バカね。本当のこと、言っちゃえばいいのに」
 淡々と、哀は言った。
「言えるわけねえだろ! 俺が生きてると、黒の組織の連中に知れたら――!!」
「大丈夫よ。蘭さんには口止めしておけばいいんだわ。あなたが頼んだことなら、彼女は死んだって秘密を守り抜くわよ」
「できるか、そんなこと!! 秘密を知れば、それだけ危険が増えるんだ!! 俺の失敗に蘭を巻き込めるか!!」
「偽善者」
 黒というより銀をおびたダークグレイに近い瞳が、真っすぐに新一を見つめていた。
「そうやって何も教えず、彼女の眼も耳もふさいだままにしておくことが、本当に蘭さんのためだと思っているの? ――違うわね。本当のことを知ったら、きっと彼女は傷つくわ。ずっと信じて、想い続けていた人にだまされていたんですものね。一番身近にいた相手が実は、ずうっと嘘をついていたんだって知ったら……」
「黙れッ!!」
 怒鳴られて、哀はようやく口をつぐんだ。けれどその表情には、怯えた様子などみじんもない。
 新一も唇を咬み、やがて自分から顔をそむけた。
 沈黙が重たく横たわる。六畳ほどの狭いラボに、ただ低く、コンピュータ合成の歌声が繰り返し流れていった。
「……ねえ」
 どれほどたったのか、哀がふたたび小さく、新一を呼んだ。
「同じなのよ、私たち」
 2人、同じ嘘をついて、みんなをだましている。まるでお互いをかばい合うように。
 あの日――あの雨の夜。阿笠博士に拾われたのは、けして作為ではなかった。
 小さくなってしまった姿で帝丹小学校へ入学し、工藤新一と接触したのは、保身のため。
 小学校、中学校と時間を重ね、そして今、灰原 哀として新しい制服を着ているのは……何故?
 哀はゆっくりと新一に近づいていった。
 いつの間にか差が開いてしまった身長をおぎなうため、あごをあげ、心持ち背伸びをして、新一を見つめる。
 鋭く研ぎ澄まされた、若い顔。その美貌には時折り、似付かわしくないほどの倦怠や憂いが浮かぶ。だがそれも、彼の真実を知る者以外には、けして見せることがない。
 同じ嘘を共有する――私以外の、女には。けして。
 パフスリーブに包まれたほっそりした腕が、しなやかに新一の首にからみついた。新一は行儀悪く両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、身動きもしない。
 呼吸すらふれあうほど近くに、唇が寄りそう。
 ここには、ほんとうの彼が、いる。
「私たち、共犯者だわ」
 重ねられる、甘い唇。
 しっとりと熱を持ち、新一を包む。かすかに擦れ合い、また強く、押しあてられる。つややかなアンバーブラウンの髪が揺れた。
 だが。
「よせよ」
 わずかに唇が離れた時、新一は言った。
 唇の端だけで、皮肉な笑いを刻む。
「シェリー。俺とお前じゃ、蛇の共喰いだぜ」
 新一はあえて、彼女のかつてのコードネームを口にした。それは彼女自身がもっとも忌み嫌い、忘れ去りたい名前のはずだった。
 哀の顔色が変わった。
「そうさ、俺たちは確かに似たもの同士、共犯者だ。こうしてたところで、そんなものはただ、お互いの膿んだ古傷を舐め合ってるだけだぜ。何も変わりゃしないさ」
 若い少年の声が、その未成熟さにふさわしくない辛辣な言葉を吐く。
「……そう、ね――」
 哀は、小さくうつむいた。
 新一の首に絡んでいた腕が、するりとほどける。
 やがて、真冬の湖のような瞳が、挑みかかるように新一を見上げた。
「何にも変わらないわ。私も、あなたも」
 小さな紅い唇だけが、仮面のような笑みを浮かべていた。
「私とあなたがこうしていても、蘭さんは別に怒りはしないのよ。ねえ……コナン」
 今度は新一が、表情を歪めた。くっきりと形良い眉が、きつく寄せられる。
 けれど哀は、さらに新一に身体を寄せ、言い募る。優しく、まるで睦言をささやくように。
「可哀相に、蘭さんの前では、弟みたいに可愛いコナンくんでいなければならないのでしょう? 本当は彼女が好きなのに、愛してるのに、手を触れることさえできない。彼女はあなたにとって、幸福だった過去の象徴だもの。『工藤新一』だった頃の記憶の偶像――。今のあなたには、けして手を触れてはいけないひとよね……」
 下から見つめる美しい瞳に、新一は逃げるように顔を背ける。その鼻先を、ふわりと甘い香がかすめてゆく。
「辛いでしょう?」
 蠱惑的な声がささやく。
「本当は彼女にキスしたいんでしょう? そうよ……今のあなただって、もう小学生の子供じゃない。高校生なんだもの、SEXくらい、できるわよね……。でも、あなたは彼女を抱けない……。蘭さんは、けして穢してはいけないひとだから――」
 その声は、新一のもっとも奥深い部分を揺さぶり、日頃はすさまじい自制の鎖で縛り付けている、ほの暗い彼自身の想いをかきたてる。まるで灰をかぶせた埋ずみ火をかき起こし、ふいごで風を送ってふたたび炎を燃え立たせるように。
「私なら、いいのよ」
 哀は喉の奥で、くくく……と小鳥のように笑う。
「きっと私たち、いいパートナーになれると思うわ」
 すう……、と差し出された唇。白いまぶたがゆっくりと降りてゆき、くちづけをねだる。
 新一は眉をくもらせたまま、花びらのように紅い唇を見下ろしていた。小さな唇には少女たち特有の清らかさと蒼いみだらさが混在し、下唇だけがふっくらとしているのが、ぞくぞくするほど艶かしい。
 この唇は、男を知っているのだろうか。『灰原 哀』の唇は知らなくとも、『シェリー』の唇は、誰か、酒と煙草の匂いの残る、乾いた男の唇を、知っていたのか。
 吐息がもれる。
 新一はわずかに首を傾けた。
 誘われるままに、やわらかな唇に自分のそれを重ねていく。
 互いの呼吸を探りあい、やがてわずかに開いた隙間から、少年の舌がするっと忍び込もうとした。
 その瞬間。
「――痛てえッ!?」
 思わず声をあげ、新一は身をひきはがした。
 口の中に、錆びた鉄の味が広がる。
 押さえた右手を見ると、血の色がにじんでいた。
 茫然とする新一に、哀は笑った。その小さな唇にも、血の朱が塗られている。
 その唇で、哀は笑っていた。
「……最低の男!」
 新一はこぶしで、口元の血をぬぐう。
 二人の視線が、真正面からぶつかり合う。初めて出会った時と同じように、青白い火花を撒き散らして。
「安心なさいよ。誰にも何にも言わないから。私だって命が惜しいわ」
 感情の起伏の乏しい声に、精一杯の皮肉をこめて、哀は言う。
「蘭さんが少しでも疑惑を持つようだったら、言いなさいよ。あなたの恋人役でも何でもやってあげるわ。覚えておくことね。私は、たった一人の共犯者なのよ。工藤新一というぺてん師のね!」
「――出ていけッ!!」
 新一は火のように叫ぶ。
 その叫びが終わらないうちに、哀はさっと身をひるがえし、開いたままのドアから廊下へ飛び出した。
 ばたん! と、壊れそうな勢いでドアが閉められる。
「ちくしょう――ちくしょう、ちくしょう……ッ!!」
 新一はパソコンテーブルにこぶしを叩きつけた。
 CRTの中では、二六才の自分自身がまだ歌っている。愛した女に贈る歌を。
「蘭……」
 そうだ。お前と一緒に生きていたかった。ともに成長し、歳をとり、同じ時間の中を歩きたかった。胸をはって、お前を愛していると、言いたかった!
「ちくしょう……ちくしょう――。蘭……らん――」
 傷ついた若いけもののように、少年はうめく。ぎりぎりと咬みしめた唇からは、血が滴り落ちていた。少女に咬みつかれた傷を、彼は自分でさらに喰い破り、酷く広げているのだ。
 けれど本当に痛いのは、そんなちっぽけな傷ではなかった。





 ドアを背に、哀は身をふるわせる。
 思わず両手を押しあてた唇が、熱い。そこに残る、彼の血が。
 苦い――新一の血は、苦くて苦くて……こんなにも、甘い。
 それは、心臓も停まりそうな幸福感だった。
 私は共犯者。世界でただ一人、彼とすべての記憶を共有する女。
 その言葉に何もかもを封じ込める。自分の心がそれ以上のものを、飢えるように求めているのを知りながら。
 この扉の向こうで、彼は泣いている。たった一人の女の名を、彼女ではない、彼が愛した女の名だけを呼びながら。
 私はこの扉を、開けてはいけない。開ければその瞬間、手にしたこんなわずかなものさえ、失ってしまうから。
 泣かない。泣いてなんか、いない。だって私は、悪党なのよ。彼をそそのかし、騙し、親しい人々を裏切らせ続けている、大嘘つきなの。それで彼がどんなに苦しもうと、私の知ったことじゃないわ。
 たった一枚の薄い扉しか隔ててはいないのに、彼の体温はもう伝わってはこない。
 それが、身を切るように辛く、切ないなんてこと、絶対にない。
 絶対に、ない……。
 透明な熱い雫が、白くまるい頬を、ころがり落ちていく。
 それでもふるえる唇は、少女自身にすら、哀しい嘘をつき続けていた。

                                                   〜FIN〜
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