珠間瑠TV第一スタジオは、阿鼻叫喚の渦となった。
天井からスポットライトが落下する。セットが裂ける。下敷きになったスタッフの絶叫。撮影カメラが青白い火花を噴き、突然爆発した。誰も手を触れていないのに、床を這う太いコードが大きく波うち、ばたっ、ばたたっと激しく床を叩く。
ガラスが砕ける。台本、小道具、破片、あらゆる物がすさまじいスピードで宙を飛ぶ。
足元で渦を巻く、得体の知れないどす黒い霧。気体のようでありながら、どろりと重たく、コールタールみたいに人の身体に絡みつく。
「うっ、うわああああッ! 助けてくれええーッ!!」
黒い霧に両足を絡め取られたTVクルーが、悲鳴をあげながら床に転倒する。その身体はあっという間にコールタールの渦に呑み込まれ、見えなくなった。
「きゃあああーッ!!」
「い、いやああっ! 助けて、誰かあああっ!」
鼓膜を突き破らんばかりの、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
「あああッ! か、顔がっ! 私の顔がああッ!」
両手で顔面を押さえ、黒須純子が絶叫する。のけぞり、床に倒れ込んでのたうち回る。
「大丈夫ですか、黒須さん!」
長い黒髪を振り乱し、悶え苦しむ純子に、リサは思わず駆け寄ろうとした。
しかし、
「きゃあっ!?」
海草のように乱れる髪の下から覗いた黒須純子の顔は、人間のものではなかった。
真っ白な仮面。凹凸もなく、眼は片方しか描かれていない。ピエロ人形のようでもあり、嘲笑の形に吊り上がった大きな唇だけが、血で描いたように朱い。
純子の絶叫が止んだ。かわりに、くく、く……とどこか調子の狂った低い笑い声が聞こえてくる。
仮面に描かれただけの偽物の唇が、笑っている。
「な……っ!? なんなの、これ――!」
ふらふらとおぼつかない動作で、純子が立ち上がった。身体が不安定に揺れ動き、一瞬たりとも止まっていられないようだ。
純子――あるいは、かつて黒須純子であったもの――の背後に、ゆらりゆらりと揺れる影がある。
純子の頭上に覆いかぶさり、呑み込もうとするかのような、巨大な影法師。見る間に膨れあがり、姿形もはっきりとしてくる。
「なに……あれ、いったい……!?」
リサは反射的に左右を見回し、二人の友達に確認を求めた。
「あさっち、みーぽ! ねえ、あれ――!!」
だが麻美も未歩も、リサとは全然違う方を見ている。大きな音や悲鳴がすれば、そちらへぱっと顔を向けるが、リサの見つめるものへは目を留めようともしない。あれだけ大きな、そして奇妙なものがあれば、たとえそれが立体映像のようなおぼろげな姿であっても、そちらを注視しないわけはないのに。
「あさっち? みーぽ?」
……もしかして、見えて、ないの?
リサはもう一度、純子にのしかかる影法師を見上げた。
それはもう、はっきりした輪郭と存在感を持っていた。黒と赤の過剰な装飾をつけたマリオネット。但し普通の人形とは反対に、操り人形が糸を垂らし、人間を操っているのだ。
マリオネットがリサを見ている。うつろな動きを繰り返す黒須純子とは対照的に、明確な意志を感じさせる視線をリサに向けている。
そこに宿る悪意。憎しみ、妬み、恨み、恐怖――人の心にある醜いもの、怖ろしいものがすべて凝縮しているかのような。作り物の人形めいた姿が、何よりも端的に人間の汚い姿を表現している。
あれは、なに。なぜ私にだけ、あんなものが見えているの。
半分麻痺しかけたような脳裏で、リサは切れ切れにそんなことを思う。
けれど同時に、心のどこかで違うことを感じてもいる。
――知って、いる。
私は、あれを、知っている。
身体のどこかで、何かがびりびりふるえている。
――共鳴、している?
「おや……。お前も、視えるのね」
ひどく冷たい、感情のない声がした。
表情を半分以上覆い隠すような、糸のように細く重い漆黒の髪。その下から、切れ長の美しい眼がリサを見据えている。青白い火を噴いているような眼が。
「ワンロン千鶴……」
巷の話題を独占する美貌の女占い師。その予言は外れたことがなく、珠間瑠市を震撼させている殺人鬼JOKERが単独犯ではないということを初めて示唆したのも、彼女だった。
そして今も。彼女が未来図に禍々しい影を読みとったと宣言した途端、一気に異常なことが起こり始めた。機械や無機物が生命あるもののように動き、人間を襲う。床一面にどす黒い霧が湧き起こり、人々を呑み込む。飛び交う怒号、悲鳴、そして死。第一スタジオは流血と怪異の地獄絵図と化したのだ。
もはや人ならざるものとなった黒須純子が、ゆらりと立ち上がる。背後に浮かぶ黒と赤のマリオネットが腕を上げると、彼女もまたぎくしゃくとした動きで片腕を上げた。そして、リサを指さした。
「お前もあの方と同じなのね。これが、視えているのでしょう?」
石神千鶴がゆっくりと近づいてくる。パニック状態のスタジオの中で、その騒乱などまったく目に入っていないかのように、涼しげな笑みさえ浮かべて。
「ペルソナ使い……。そんなものがいるから、あの方もよけいなことにお心を煩わされてしまうのよ。みんな消えてしまえばいい。お前達など、みんな……」
「な、なに!? なに言ってんの、あんた!?」
千鶴が独り言のようにつぶやく言葉は、リサには意味すらまるでわからない。――何て言った? この人、今、何を使うって言ったの? ペル……? 私が、それだっていうの!?
「死んでしまえばいい。お前達ペルソナ使いなど、一人残らず!」
千鶴が高く哄笑する。ヒステリックに表情を歪め、身をのけ反らせて、まるで壊れた人形みたいに。いつもはほとんど表情を見せない千鶴が、リサにはエゴイスティックな敵意を剥き出しにしていた。
「さあ殺せ! あの娘を殺せっ!! そうすれば、あの方のお心を占めるものは、何もなくなるのだから!」
純子のマリオネットがさらに膨れあがる。甲高い咆吼を上げ、鋭いかぎ爪を振りかざす。
けれど動けない。リサの足はまるで床に縫いつけられてしまったみたいに、一歩も動こうとしない。
棒のように硬直した身体の中、わずかな知覚神経だけが働いている。声をあげている。
私はあれを知っている、と。
マリオネットの鎌のような爪が、リサの喉元を狙って振り下ろされたようとした、その時。
「リサッ!!」
真横から強い力で突き飛ばされた。
「きゃああ!」
悲鳴をあげ、リサは床に倒れ込んだ。
間一髪、今までリサがいた空間を、マリオネットの爪が引き裂いていく。
「下がってろ、リサ!」
鋭く響く声。
ぱたり、と、リサのほほに熱い雫が飛んできた。反射的に手のひらでぬぐい、確かめると、そこには鮮やかな血の紅。
どこにも痛いところはない。これは――彼の、血だ。
純子のマリオネットとリサとの間に立ちはだかり、日本刀を振りかざす若者。その左腕を包むレザーの袖が、大きく裂けている。リサをかばった時に、マリオネットの爪で引き裂かれたに違いない。
赤いライダースーツと、銀色に光る刃。若く整った面差し。
普通ならあり得るわけもない取り合わせなのに。
――ひびいて、る……。
床に座り込んだまま身じろぎもせず、リサは彼を見つめた。
背の高い後ろ姿に、ちらっとこっちを見たその横顔に、リサは確かに見覚えがあった。
「周防……先輩?」
周防達哉。リサと同じ七姉妹学園に通う男子生徒だ。学年はリサより一つ上で、その容姿もさることながら、問題行動も多いらしく、よくクラスメイト達の間でも話題になっていた。制服姿の彼は何度か校内で見かけたことがあったが、それ以外の彼を見るのは初めてだ。
でも……でも。
違う。
こんな呼び方じゃない。
リサは唇に手をあて、喘ぐような呼吸を必死で押し殺す。無意識のうちに、自分の指を血がにじむくらい強く噛む。
それでも、痛みなどまったく感じなかった。
彼の姿が蜃気楼に包まれたみたいにゆらめく。
そしてその背後に、大きな炎のような姿が浮かび上がる。
「な……なに……?」
黒須純子の後ろに浮かぶマリオネットと同じく、彼を頭上から包み込む巨大な幻。
けれどそこに、マリオネットのような恐ろしさは感じなかった。
力強く、純粋な炎。迷いも怖れも、一切の弱さを打ち砕く誠実な力。
――太陽。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
彼の後ろに、まばゆいひとつの太陽がある。
若く、熱い太陽が。
「あ……!」
リサの唇から、かすれた声がもれた。
一瞬だけ振り返り、リサを見つめた彼の瞳。言いようのない悲しみと、後悔とを浮かべた、瞳(め)。
なぜ……? 声にならない疑問が、リサの唇をふるわせた。なぜ? なにがあなたをそんなに哀しませているの? どうして私をそんな瞳で見るの!?
響いてる。
リサははっきりと感じ取った。
響き合っている。
先ほど感じたものよりもずっと強く、鮮烈に。
彼と私の中にあるなにかが。
共鳴している。
触れあい、重なり合い、そしてひとつの大きななにかを刻もうとしている。
響いている。私の中の何かが、彼のために。彼の中の何かが、私のために!
――そうよ。私は彼を知っている!
けれどその想いは、どうしても明確な言葉にならない。
「あ、あぁ……あ――っ!!」
彼の名前が、喉のすぐここまで出かかっている。
本当に、ほんのわずか息を吐き出せば、彼のことを呼べるはずなのに。
どうしてもその名前が出てこない。
彼の名前が出たがっている。私の口から、私の声として。私の中で暴れている。
呼ばなくちゃ。彼を、本当の名前で呼ばなくちゃ。私だけが知っている、彼の名前で。
そうしなければ、その名がここに、この喉の奥につかえて、私、息をすることもできない。
リサの両手が、無意識のうちに自分の喉元を掻きむしる。白い透き通るような肌に、薄赤い爪痕をいくつもいくつも刻んでいく。
けれどそんな痛みは、何も感じないほどのささやかなものでしかない。この、心臓を締め上げる息苦しさ、身体中をせき立てる焼けつくような焦燥感に比べれば。
呼ばなくちゃ。彼を、呼ばなくちゃ。
想いばかりがこみ上げる。
彼が、闘っている。リサを護って。その姿を、リサはまばたきもせずに見つめる。
だって彼は、私を呼んでくれた。
――リサって、呼んでくれたのに!!
リサは床に突っ伏し、泣いた。
怪異は収まった。彼と、彼と同じように不思議な力を使う数人の男女が、石神千鶴の呪いをうち破り、みなを救ってくれたのだ。
その数人の中にも、どことなく見覚えのあるような人がいる。
うち一人については、すぐに理由がわかった。
「達哉は僕の弟だ」
地味なスーツに身を包み、きまじめにネクタイを締めた若い男性。彼は、リサにそう言った。彼の面差しにどことなく懐かしさを覚えるのは、そのせいだろう。確かに彼は弟とよく似ている。強い力に満ちた眼差しとか、硬く引き結ばれた口元とか。
けれど彼以外の人――あのセミロングの女性に感じる想いは、いったい何だろう。心臓を締め付けるような焦燥感、焼けつくような淋しさ、つらさ。それは、周防達哉の姿を眼にした時と、まったく同じ感覚だった。
「もう大丈夫だ。このことは……みんな、忘れてしまえ」
そう言って彼は、リサの前からまるで逃げるように姿を消してしまった。
言葉がなにも出てこない。
ただ、胸が苦しい。涙があふれてとまらない。
胸が、身体中が痛くて、痛くて――そして、哀しくて。
「あああ……っ! あー……っ!!」
小さな子供みたいに声をあげて、リサは泣きじゃくる。
何が哀しいのか、どうしてこんなに泣きたいのか、それすらわからないのに。
「リサ! リサ、大丈夫!?」
「どっか痛いの? 怪我しちゃったの!?」
麻美と未歩が駆け寄ってくる。リサの肩を支え、抱き起こそうとする。
けれどリサは、その呼びかけに答えることもできなかった。
彼が、いない。
自分のそばにいない。もうどこにも、彼の存在が感じられない。
行かせてしまったのだ。彼を、独りぼっちで行かせてしまった。
そのことがリサを苦しめる。まるで彼の孤独がリサ自身の孤独であるかのように。
さっきはあんなにも響き合っていたのに。まるでこの身体が彼の一部分になってしまったみたいに、はっきりと。彼の鼓動、彼の呼吸、痛み、苦しみ、すべてを感じていることができたのに!
「ああぁ……っ、あ、あ……あぁ――っ」
苦い涙があふれ続ける。それは、取り返しのつかない悔恨の苦さ。知っているはずもない、けれど確かにリサが知っている苦しみの涙。
「リサぁ……。リサ、ねえ、どうしたの。泣かないでよぉ……」
突っ伏したリサの背中を抱きかかえ、未歩もすすり泣いていた。麻美もそのそばに膝をつき、こみ上げる嗚咽を押し殺す。
リサはただ、泣き続けることしかできなかった。
……呼べなかった。
とうとう最後まで、私、彼の名前を呼ぶことができなかった――。
【水 底 の 太 陽・1】
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