「困ったものだ。みんな、すぐ余計な気を回すんだから」
「えっ!? ま、まさか、夕霧さま――!」
 真っ赤になったわたしに、夕霧さまはおかしそうに笑いました。
「大丈夫だよ。何にもしないから。ぼくは、父とは違うよ。――あれ? もしかして残念だった?」
「夕霧さま!」
「すまないね。妻にこれ以上つらい思いをさせたくないんだ」
 そうおっしゃって、照れながら苦笑するそのお顔。
 こんな誠実な夫に愛される妻は、どんなに幸せでしょう。わたしもつい、雲居雁姫がうらやましくなりましたわ。
 もしこんな方が、紗沙さまの夫なら……いえ、これはよけいなことですわね。
「そうですわよ。わたしだってうかがっておりますわ。お二人は筒井筒の間柄、歌物語になりそうな恋じゃございませんか。そんな愛しい方を悲しませてはいけませんわ」
「うん、まあね。それに今は、太政大臣家との間によけいな波風はたてたくないし」
「……は?」
 つかの間、夕霧さまのお顔から、あの屈託のない優しい笑みが消えたように見えました。
「もうすぐ右大将が辞任するらしいんだ。体調不良とかでね。まああの方は、歳も歳だったから」
「えっ……」
「藤典侍が内裏で聞き込んできたんだ。辞任の件は、もう帝もご承認なさったらしい。あとは、空いた右大将の席に、ぼくが入るか、柏木が入るか……」
 うつむき加減にそうつぶやくお顔は、たしかに源氏の君とそっくりでした。
「帝は間違いなくぼくを推してくださるはずけど、とにかく急な話だからな。根回しもままならない。ねえ、きみのところへは、何か話が入ってないかい? 朱雀院さまのご意向とか――」
 呆れました。
 なにが筒井筒。なにが誠実なお人柄。
 わたしから情報を聞きだそうとするやり方は、後宮の女房たちを口説き落として出世の糸口を掴もうとする、他の男たちとまったく同じです。
 藤典侍を恋人にしているのも、それが目的なのかもしれません。
 典侍は帝の身の回りのお世話をする女官です。帝が大臣たちの奏上を受けられる時も、お髪を整えたりお召し物のお世話をしたりと、おそばにいることが多いのです。廟堂の重要な情報もいち早く聞き込むことができます。
 廟堂での多数派工作、派閥を築くことは、勢力争いのすべてと言っても過言ではございません。
 ご存知ですか? 紗沙さま。内裏の会議はふつう、内大臣に左右の大臣、大納言、中納言、三位以上の参議が参列して行われます。これを「定」
(さだめ)と申し上げますわね。主上のご臨席をいただく「御前定」(ごぜんのさだめ)、公卿たちだけで行われる略式の「陣定」(じんのさだめ)、いろいろございますけれど。律令の運営から税の徴収、祭礼の運営、役人人事にいたるまで、この国のすべてがこの「定」で決定されます。
 しかもこの定は、多数決ですべてが決まります。廟堂内での多数派工作がいかに重要か、これだけでもおわかりでしょう?
 しかも定に参加できる「公卿」になれるのは、三位
(さんみ)以上の参議だけ。少々増減はありますが、だいたいいつも二十一〜三人くらいです。おなじ殿上人でも三位以上と以下では天と地ほども開きがあると言われるのは、このためですわ。
 そしてこの会議で決まったことは文書にしたためて主上に奏上します。この文が「定文」
(さだめのふみ)です。この定文に主上のご認可が下りて、初めて国を動かす「宣命」(せんみょう)となるのです。
 もちろん主上のご一存で、定文を握りつぶすことも可能です。でも、そんなことをして、後はどうなります? 公卿や役人全員が主上のご意向に背いて仕事を投げ出してしまったら、内裏の仕事はあっという間にとどこおり、国政もなにもすべてが停止してしまいますわ。国を動かす舵がなくなったも同然になってしまいます。
 主上のお立場からすれば、ご自分の意見をすんなり通すためにも、参議はご自分の腹心で固めたいもの。当然、祖父や伯父などの血縁や、あるいは子供のころからずっとそばにいてくれた東宮職の人間を参議に据えたいと思われますでしょう。
 また、主上がまだお若くて国務に耐えられない場合は、太政大臣が関白としてその勤めを代行することもございますわね。帝の代理として太政大臣が人事権を握るなら、そりゃあ、「定」に並ぶ公卿の顔ぶれは、すべてご自分の息のかかった人物になさいますでしょうよ。そうでなければ、太政大臣になる意味なんかございませんわ。
 藤原一門はまさにこの手法で、長く廟堂を独占支配してきたのですわ。
 けれど、もうそのやり方は通用しません。
 今上さまのご後見は同じ皇統のご出身でらっしゃる源氏の君。中宮も藤原氏とは無縁の秋好さま。東宮のお母上は藤原一門出身の承香殿母后ですが、つい先だって流行病でお亡くなりになられてしまいました。東宮のご寵愛を一身に集めてらっさるのは源氏の姫君、明石女御さま。おそらく次代の東宮さまは、この明石女御さまのお腹
(はら)よりご誕生でしょう。
 藤原一門、あるいはほかの貴族たちが割り込む隙間など、どこにもないのですわ。
 実際、冷泉さまは即位なさるとすぐに、朱雀帝の御代に行われていた数々の事績をことごとくお変えになられてしまったとか。律令制度の改正、国史や国選歌集の編纂、新田の開発に治水事業、朝廷に不服従の地方への派兵まで。
 それらはすべて、朱雀帝の御名において、かつての右大臣、その時の藤原一門「氏の長者」が行っていた政治です。それを冷泉さまは容赦なく否定されてしまわれたのです。
 そして当然それは、年若い帝の後見として廟堂に君臨する、源氏の君のご意向だったのですわ。
 源氏の君の片腕として、辣腕をふるっていらっしゃったのは、新しく藤原の氏の長者となられた、柏木さまのお父君さま。頭の中将でいらしたころには右大臣に冷や飯食わされてた方ですもの――あら、失礼。同じ藤原一門といえども、右大臣のやり方を変更するのに、なんのためらいもなかったのでしょうね。
 源氏の君は同時に、ほかの藤原氏の中からも、髭黒大将のような有力者を味方に引き入れ、少しずつ廟堂での賛成票を増やしていかれたのです。
 もちろん、最大の味方はご自分のご家族。兄弟と言っても母が違えば他人と同じなこの世の中で、信頼できるのはやはり息子でございましょう。
 夕霧さまもお父上のお役に立つべく、一歩でも他者に先んじようと懸命なのでしょうが。
「存じません」
 わたしはぴしゃりと言ってやりました。
「朱雀院さまは、今は一心に仏道修行に励まれておいでだとうかがっております。姫宮さまもこちらにお輿入れされてからは、源氏の君のことだけを想われてお心静かにお暮らしですから、表向きのことなどなにもご存知ありませんの」
「手厳しいな。きみは悧巧そうだから、ちゃんとわかってくれると思ったのに」
 おあいにくさま。わたしは藤典侍じゃありません。
「こんなところで若い女房と二人きりでいらしたら、あらぬ誤解を招きますわよ! お父上の真似なんて、夕霧さまには似合いませんわ。早く大事な北の方さまのところへお帰りあそばせ!」
「大事な北の方、ね。まあ、そうなんだけど。だいたい、その雲居雁をめとったのだって、父の進言だったんだよ」
 ――え?
 どういうことでしょう。
 わたしはつい、身を乗り出してしまいました。
 夕霧さまが失言した、と思わないよう、できるだけ何気ない顔をして、次の言葉を待ちました。そう、こんな感じに、上目遣いで眼をぱちぱちさせて。
 夕霧さまはすぐに話してくださいましたわ。……男なんてみんな、女の前で自分の自慢話をするのが大好きなんですから。
「もちろん、ぼくは昔から雲居雁が好きだった。ぼくたちはずっと一緒に育ってきたし、妻にするなら絶対に彼女だと決めていたよ。ただ、本当はもう少し待つつもりだったんだ。せめて四位に出世して、胸を張って彼女を迎えられるようになるまでね」
「で、でも……」
 二人は正式なご結婚を待たず、太政大臣に隠れるように契りを結んでしまわれたのだとか。
 親の七光りで若いうちから不釣り合いな高い地位については、思い上がってろくな人物にならない、政治に必要な勉学もおろそかになる。そういう源氏の君の教育方針により、夕霧さまは、大貴族の子息は初出仕から四位をたまわるという慣例に従わず、役人の位としては一番低い六位から始めることになったのだそうです。
 六位と言ったら、普通は貴族として扱われることはございません。地下人
(じげびと)なのです。お仕事だって御所の警護や使い走りばかり。
 さすがに夕霧さまはそのようなことはなさらず、大学寮にお入りになって、国費で勉強する文章生
(もんがくのしょう)になられたのですけれど。
 雲居雁姫のご実家では、下級役人になった夕霧さまはをひどく軽んじて、姫君とのお交際
(つきあい)をお認めにならなかったとか。
 それに……雲居雁姫のお父上、太政大臣さまは、もともと姫君を東宮さまのもとへ入内させるおつもりだったと、柏木さまもおっしゃっておられました。
「そう。実際は、ぼくは待たなかった。彼女の裳着が済むとすぐに、契ってしまった。そうしないと、雲居雁は東宮の後宮へ入れられてしまうからね」
 結局、雲居雁姫入内の話は立ち消えになり、東宮さまの後宮はいまだに明石女御が独り占めなさっています。
「そうしろと言ったのは、父だよ」
「え……」
「太政大臣家からこれ以上、女御を出されるのはまずい。とにかくこちらは、手持ちの駒も少ないのだから、と言われてね」
「……ま、あ――」
 わたくしはもう、声もありませんでした。
「ぼくだって、雲居雁を東宮になど奪られたくなかった。だから思いきって、既成事実を作ってしまったのさ。実際、上手くいったし。――でも、今度は」
 夕霧さまは、軽く肩をすくめて見せました。
「向こうも同じことを仕掛けてきてね。こっちの貴重な切り札をつぶされた」
「え……」
「父上は玉鬘を、冷泉帝へ尚侍として仕えさせるつもりだったんだ。先に入内させた秋好中宮は、まだ御子を生んでおられない。太政大臣家の弘徽殿女御に男皇子が生まれる前に、同じく自分が育てた玉鬘の君を入内させ、男皇子をあげさせるつもりだったんだろう。彼女なら田舎育ちで体力もある。実際、今は髭黒大将との間にもう二人……三人だったかな、子供も生まれているし」
 尚侍は、内裏の女官とは言いながら、実体は帝の妻妾と大差ありません。その寵を受けることもあるのです。朧月夜尚侍がいい例です。
 源氏の君のご養女、玉鬘さまは、田舎育ちとは言いながら、その美貌は目を見張るほどだったとか。
 そんなことになったら、太政大臣家から入内した弘徽殿女御は、ますます影が薄くなってしまうでしょう。
「案の定、柏木ははやばやと玉鬘に恋文を送ってきたよ。ぼくと同じ手段をとろうとしたんだ。あいつ、こういうのはすごく上手いから。どんなに警戒厳重な邸でも、女房とか女童とかをいつの間にか手なずけて、もぐり込もうとするんだよ」
 なにげないそのお言葉に、わたしは一瞬胸を突かれたような思いがしました。まるでわたしが柏木さまのお文を紗沙さまに取り次いだことが、ばれてしまったのかと。
 けれど夕霧さまは顔色一つ変えず、淡々とお続けになりました。
「だから、しょうがない。玉鬘が本当は太政大臣の娘だということを公表したのさ。父は、本当はもう少し隠しておいて、太政大臣に恩を着せてやりたかったらしいけど。でもまあ、これで柏木や左中弁や、大臣の息子たちには、ぼくが雲居雁に対して取った手段は取れなくなった。ぼくも父も、そう思って安心していたんだ。そうしたら大臣は、今度は髭黒左大将を担ぎ出してきた」
 そうです。思い出しました。
 玉鬘さまは、六条院に引き取られた当時から、求婚者が続々と現れたそうです。
 尚侍として出仕することが決まると、求婚者の殿方たちはみんな涙を呑みました。
 ところが、その中の一人だった髭黒左大将が、六条院の女房を一人買収してこっそり手引きさせ、玉鬘の君を強引に奪ってしまったのです。
 ……大きな声じゃ言えませんが、幼い頃からお互いに想い合っていた雲居雁姫と夕霧さまとは違い、髭黒左大将は嫌がる玉鬘の君を無理やり手込めになさったとか。
 玉鬘の君は以前に、大原へ行幸なさった冷泉帝のお姿を拝見して、一目惚れなさってたらしいんですの。ご自分では、尚侍として帝にお仕えする気持ちを固めていたとか。
 そりゃそうですわよ、冷泉さまは歴代の帝のなかでももっとも美男子だとのうわさです。まあ、わたしなんぞが直接お姿を拝見できるわけはありませんけど。紗沙さまは、主上のお顔をご存知ですわよね?
 すらりとお背が高くて、もの静かな中にも凛としたものを秘められたお顔立ち。即位された当時はわずか十一才のお子さまでしたが、今はご立派に成人され、一天万乗の君にふさわしい威厳をそなえられて……。
 源氏の君のお若いころにうり二つだということですけど、わたしたちはほら、お若い源氏の君の姿を知りませんでしょ? 冷泉さま以上に魅力的な男性なんて、想像できませんわ。
 それにくらべて髭黒大将は……そりゃ、帝の後宮にお妹君を承香殿女御として送り込むほどのお家柄、北の方は式部卿宮の姫宮という高貴なお方です。武門の誉れも高く、いかめしいヒゲだらけのお顔は、そのおつとめにもふわさしいんでしょうけど。若い姫君が好むような男性じゃあ、ありませんわ。
 夕霧さまも同感だったようです。けれど、
「髭黒大将は同じ藤原一門でも、太政大臣家とは別系統だからね。大臣にしてみれば、自分の『氏の長者』の地位をおびやかす競争相手の一人だ。それでも太政大臣は、皇統源氏の女に冷泉帝の後宮をすべて支配されるよりは、一旦髭黒大将と手を結んだほうがましと、思ったらしいよ」
「そ、そんな……」
「だってぼくは、宮中で髭黒大将に直接聞かされたんだ。玉鬘を盗む決心をしたのは、太政大臣に励まされたからだって。あの人、結婚当時は会った人間みんなに、玉鬘のことを吹聴して回ってたからね。既成事実を作られちゃ仕方がない。父も、二人の結婚を認めたのさ。玉鬘の君を尼にするのも忍びなかったし」
 たしか玉鬘の君は、一応、尚侍として出仕したものの、すぐに夫の髭黒大将が出仕を辞めさせてしまったのです。今は髭黒大将のお邸に引き取られ、北の方としてお子さまにも恵まれているとか。
「まあ、いいじゃないか。ぼくは一生、雲居雁を大事にしていくつもりだし、玉鬘だって今は夫と仲良く、幸せに暮らしているんだから」
 良くありません、などとは言えませんでしたわ。
 たとえ今現在はお幸せとはいえ、冷泉帝への淡い初恋をこんな冷酷な理由で汚されてしまった玉鬘の君は、どれほどおつらかったでしょう。
 権力闘争の前には、女の意思や愛情なんて、すべて踏みにじられてしまうもののようです。
 そうまでして男たちは、自分の家系で廟堂を支配し尽くしたい、他の一族を蹴落としたいと思うものなのでしょうか。女たちが、恐ろしい呪詛を行ってまで、夫の愛情を独り占めしたいと願うように。
 そう思ったら……源氏の君のことが、さらに怖くなってきました。
 万が一、紗沙さまと柏木さまの秘密が知られてしまったら、源氏の君はどんな怖ろしいことを考えられるでしょう。その秘密をどんなふうに利用しようとなさるでしょう。
 ご自分の息子の初恋まで、政争の道具にされる方ですもの。もうわたしには、想像もつきません。
 いいえ……いいえ、もしかしたら、柏木さまだって……。
 柏木さまだけが、他の殿方とは違うと、どうして言えるでしょう。
 柏木さまとて、一歩内裏に足を踏み入れれば、権力を奪い合って火花を散らす上達部のお一人なのですから。
 ええ……今までは、紗沙さまのお気持ちを思い、黙っていましたけれども。
 柏木さまには、北の方がいらっしゃいます。ええ、正式にご結婚なさっておられるのです。
 一条にお住まいのその方は――そうです、紗沙さまのお異母姉君さま、女二の宮さまでございます。
 紗沙さまのご結婚が決まってすぐに、柏木さまは女二の宮さまのご降嫁を朱雀院さまに願い出られたそうですわ。
 柏木さまがかつて紗沙さまをお望みになっていたこともあって、宮さまのお母君、一条御息所はかなり反対されたようですけれど、ほかの実力者の方々からは特に異論もなく、すぐに降嫁が許されたとか。
 冷たい言い方をさせていただければ、あちらには有力なご後見もなく、お母君のご身分も更衣と低うございました。この結婚によって廟堂の勢力地図に影響が出るようなことは、なにもないのですわ。ですから、どなたさまも異論を唱えなかったのでしょうね。
 柏木さまがなにを思って女二の宮さまをめとられたのか、わたしは存じません。
 でも……これでおわかりでしょう? 柏木さまだって、お心のすべてを紗沙さまにうちあけてらっしゃるわけでは、決してないのだって。
 人が、その胸のうちにどんな秘密を隠しているのか、他人には絶対にわかりませんのよ。
 恋しいお方を信じて、すべてを預けてしまいたいという、紗沙さまのお気持ちも、わからないわけじゃありません。
 ただ、ほんの少し、思い出してくださいまし。
 身分も係累もない、わたしみたいな中流やそれ以下の女なら、なにもかもかなぐり捨てて、恋の淵底
(ふちそこ)へ身を投げることも許されるでしょう。
 けれど紗沙さまは帝の姫宮。これ以上はない、尊いお身の上でらっしゃるのです。
 その誇りを、お身に流れる純血を、どうぞお忘れにならないでくださいまし。
 そして、み仏の道に身を捧げられたお父君さまのことを。
 わたしのことなんて、どうでもよろしゅうございます。ただ、お父君を哀しませるようなことだけは絶対になさらないと、お約束くださいまし。
 お願いでございます、紗沙さま。どうか、どうか……。







 小侍従の言うことも、わからないわけではなかったけれど。
「考えすぎじゃないのか、小侍従は」
 柏木もそう言った。
 夕暮れにまぎれて届けられた手紙を追いかけるように、深夜になって柏木自身がわたくしのもとへ忍んで来てくれた。柏木は宮中での宿直を病気といつわって欠勤し、ここへ来てくれたのだという。
「たしかに俺は、女二の宮を妻に迎えた。だけどそれは、あなたの身替わりだ」
「身替わりって……」
 帷に閉ざされた暗い御帳台の中で、柏木はさらに昏い眼をしてつぶやく。
 今夜は月も雲に隠れ、灯りを消せばあたりは墨を流したような真の闇だ。その暗闇にまぎれて、柏木はわたくしのもとへ忍んできた。
 源氏の君はまだ二条院から戻って来ない。源氏の君と紫の上がいない六条院は、まるで火が消えたようだと女房たちが嘆いている。けれどその暗闇が、わたくしと柏木を強く結びつけてくれる。
 わたくしたちは生まれたままの姿でいだきあっていた。
 月光にさえ怯える、かりそめの逢瀬。これだけがわたくしの幸福だ。
 なにも見えなくても、わたくしにはわかる。柏木のあの眼が、火のように輝いて、わたくしをじっと見つめているのが。
「同じ父君の姫宮だから、少しはあなたに似ているだろうと思ったが――。所詮、身替わりは身替わりだ。いくら抱いたところで、満たされるわけじゃない」
 そして柏木は、わたくしを強く抱きしめた。
「ひどいわ。そんな言い方」
「ひどい? 俺が? それともあなたがか?」
「なぜわたくしが? ひどいのはあなたじゃない。わたくしの身替わりだなんて、お姉さまがお聞きになったらどう思われるか――」
「誰にも言いはしないさ。あなた以外には。それに、俺は女二の宮をけして粗略には扱っていない。金銭的にも不自由はさせてないし、このごろは父の邸にいる時間よりも、一条で過ごす時のほうが長いくらいだ。俺の――藤原一門『氏の長者』の嫡男の妻として、それにふさわしい扱いをしているさ」





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