四、血の紅(くれない)


 やがて時がうつろい、夏の盛りを迎えても、わたくしの不安は消えなかった。
 東北の御殿の庭がもっとも美しい時期を迎え、それを愛でるためか、夕霧のもとを何人もの上達部が訪れているらしい。
 夏の暑さがようやく一段落した頃、紫の上が一旦六条院へ戻ってきた。
 体調はまだ本調子ではないようだが、どうしてもこちらへ戻らなければならない理由があった。
 東宮のもとへ入内した源氏の君の一人娘、明石女御が懐妊し、いよいよその出産が迫ってきたのだ。
 女の穢れとされる出産を、内裏の中で行うわけにはいかない。必ず里邸に宿下がりして、産む。その時はもちろん、女御の実家、一族すべてが総力を挙げて出産を支える。女御がつつがなく出産を終えるように、なによりも男皇子が無事に誕生するようにと。
 明石女御の里邸は、六条院春の御殿の西の対。彼女は、紫の上の養女となっているからだ。
 女御の生みの母は冬の御殿に暮らす明石の君だが、彼女は、家系をたどれば大納言、大臣にも行き着くとはいえ、その身分は地方受領
(ずりょう)の娘にすぎない。母の身分が低いと宮中で軽んじられてしまうため、明石女御は、宮家の血をひく紫の上の養女として入内したのだ。
 紫の上は母親として、女御の出産のすべてを取り仕切らねばならない。
 産屋となる西の対は浄めのために、部屋のしつらいも女房たちの装束も、すべて白一色に統一された。廂の間には護摩壇が設けられ、都でも指折りの高僧たちが安産祈願のために招かれる。
 そして源氏の君もまた、この出産の準備にかかりきりとなった。
 明石女御が産む子供には、源氏の君の、ひいては皇統源氏すべての命運が託されている。彼女が男子を出産し、その男子が帝冠を戴いた時にこそ、皇統源氏の権力図は完成するのだ。かつてわたくしのお父さまが即位し、その母である弘徽殿母后、外祖父の右大臣とで三位一体の権力構図を完成させたように。
 西の対、東の対はざわざわとして人の出入りも多く、夜通し灯りが絶えることはなかった。
 安産を祈願する読経が間断なく響き渡り、宮中からの使者や源氏の君のご機嫌をうかがう公卿たちがひっきりなしに六条院の門扉を叩く。
 それらを一手にさばいているのは、夕霧だった。父の名代として勅使とも面談し、小さな案件ならば、もう彼の一存で判断しているそうだ。
「廟堂でも、もはや夕霧さまのご意見に異を唱える方はいらっしゃらないそうですわ」
 小侍従がまたも情報を聞き込んできた。
「夕霧さまのご意見は源氏の君のご意見、ひいては主上のご意見も同じですもの。反対しても無駄だって思われるのでしょうね。それにまた夕霧さまが、古今東西の有職故実、法令や慣例に良く通じてらっしゃるそうで。議論になったら、やかまし屋の長老がたでさえ太刀打ちできないそうですわ」
「まあ……」
 ちょっと意外だった。夕霧とは直接口をきいたこともないけれど、小侍従や柏木から聞かされた話では、彼はいかにも坊ちゃん育ちのおっとりとした性格で、表だって人と争うことを好まないように思えていたから。
「お若いですけど、内裏では人一倍苦労されていらしたからでしょうね。なにせ、六位の文章生から這い上がった方ですもの。親の七光りでいきなり高位高官に着かれた方々とは、肝の座り方が違いますんでしょ」
 とにかく、彼や源氏の君が六条院に居るあいだは、わたくしはおとなしくしているしかない。
 わたくしに仕える女房たちですら、人手が足りないと、東や西の対へ駆り出されることすらある。
 源氏の君は時々、思い出したようにわたくしの居る母屋へ顔を出す。ほんのご機嫌伺いで、一刻ととどまることはないのだが。それでもいつも前触れもなく、突然やって来るものだから、こちらはいつ源氏の君が来るかと気を抜くことができない。
 もちろん、柏木もわたくしを訪れることなどできない。
 彼からの手紙すらも間遠になってしまった。
 文を取り次いでくれていた弁の君が、わたくしたちの関係が源氏の君に露見したと知って、すっかり怯えてしまい、これまでどおり手紙を運ぶのを嫌がっているらしい。ようやくわたくしの手元に文が届く時には、三、四通まとまっていたりする。小侍従がやかましくせっついてくれなければ、柏木の文は弁の君の手元で全部握りつぶされてしまったかもしれない。
 柏木に逢えない。文もろくにもらえないなんて。
 最後に逢った夜の柏木の様子が気になってしかたがない。あの時、柏木はまるでなにかに追いつめられているみたいだった。
 今、柏木はなにをしているのだろう。今もまだ、一人でなにかに苦しんでいるのなら、同じ苦しみをわたくしも背負いたい。彼のためになにもできなくとも、せめてわたくし一人がのうのうと過ごしていることのないように。彼とともに苦しみ、傷つき、のたうち回れるように。
 けれど柏木は、そんなことを望んではいないのだろうか。わたくしには、柏木のためにできることはなにもないのだろうか。
 御簾の中でどんなに彼を思っても、それを伝える手段がない。彼の様子を確かめるすべもない。弁の君はもう、小侍従ともろくに顔を合わせようとしないそうだ。小侍従が柏木の手紙を受け取りに行っても、ほとんど口も利かず、すぐに逃げ去ってしまうらしい。
 弁の君は、源氏の君に死ぬほど怯えているのだろう。無理もないとは思うけれど。
 源氏の君はわたくしたちの密通をとうの昔に知っていたのだと説明しても、弁の君には理解できないだろう。わたくしだっていまだに、源氏の君がなにを考えているのか、まるでわからないのだから。
 忙しい合間を縫ってわたくしのもとを訪れた時にも、源氏の君はなにも言わなかった。以前とまったく変わらない笑顔、悠然とした様子で、わたくしを見ているだけだ。
「今はどうしてもあちらに手をとられてしまうので、あなたには淋しい想いをさせていますね」
 いかにも人並みの夫婦のような顔をして、そんなことを言い、わたくしの手を取る。
「落ち着いたら、そのうちゆっくりとお話いたしましょう。それまでの間、あなたのつれづれをなぐさめてくれる者でもあれば良いのですが」
 ……本当に、なんて嫌な男。わたくしがひまを持て余して、退屈しのぎに柏木を通わせたとでも言いたいのか。わたくしたちの恋を、そうやって貶めて、笑いものにしようというのか。
 いかにもおもしろそうにわたくしを眺めるそのしたり顔を、この爪で引き裂いてやりたい。女房や家人たちの眼がなければ、わたくしは物の怪に憑かれたみたいに暴れ狂っていたかもしれない。
 わたくしにできるのはただ、扇の陰で唇を噛みしめ、涙を堪えることだけだった。
 同じ敷地内に源氏の君がいる。そう思うだけで、わたくしは息がつまりそうだった。
 なぜこの男はなにも言わないのだろう。わたくしをこのまま放っておくつもりなのか、なんの罰も与えずに。
 わたくしを殺すことだって、源氏の君には容易いはずだ。女というものはみな、家の奥深くに閉じこめられている。そこでなにが起きようとも、そう簡単に外部へ知られるものではない。わたくしが明日、突然命を落としたとしても、物の怪に憑かれたとか急の病とか、理由はいくらでもつけられる。源氏の君がそうなのだと断言すれば、それを疑う者はこの国にはいないのだから。
 彼はなぜ、そうしないのだろう。自分を裏切った妻など、生かしておく価値はないだろうに。
 それとも、源氏の君にとってわたくしはまだ、利用価値があるのだろうか。
 そう考えて、わたくしはふと思い当たった。
 わたくしはこの六条院で、もっとも若い女君だ。
 ほかの女君たちはすでに三〇才を越えている。その年齢で身ごもった例もないわけではないけれど、ふつうはもう出産は無理と思われる年頃だ。
 源氏の君ももう四〇才を過ぎているけれど、桐壺院が冷泉帝を授かったのも同じ歳の頃と聞いている。男の四〇と女の四〇は、違うのだ。
 彼は、わたくしに自分の子を産ませようと思っているのかもしれない。彼の権力をより強固なものにするために、子供、特に娘は、一人でも多いほうがいいに違いない。
 吐き気がした。
 ――誰が、この男の子供など。
 わたくしを一人の人間として見ようともせず、ものも言えない赤ん坊のように扱う男。わたくしを見下し、嘲弄する男の子供など、どうして身ごもることができるものか。
 鳥肌だつような嫌悪と憎しみを込めてにらんでも、源氏の君はただ悠然と扇をかざし、微笑んでいるだけだった。
 そしてさやかに秋風の立ち始めた頃。
 見事な満月が輝く夜、明石女御が、無事に男皇子を出産した。
「男だったか!」
 源氏の君はじめ、六条院の人々はみな歓喜の声をあげた。
 今まで屋敷中が息をつめて出産の成り行きを見守っていただけに、その喜びはまるで人々の感情が爆発したかのようだった。
 すぐさま宮中から勅使が到着し、皇子にのみ許される御剣
(みはかし)が授けられる。
 産養
(うぶやしない)の儀式が始まり、三夜、五夜、七夜、九夜と、盛大に続けられる。米が撒かれ、弓弦(ゆんづる)が鳴らされ、読書の儀のために宮中から名高い学者たちが招聘された。
 主立った貴族から続々と祝いの品々が届けられ、宮中からも父となった東宮や、冷泉帝の手紙を携えた使者が何度も立てられた。
 六条院全体がはなやかな祝宴の光に包まれる中、わたくしは忘れ去られたみたいに春の御殿の母屋にぽつねんと座っているきりだった。
「あちらでは、紫の上が朝も夜も皇子さまをお抱きして、お世話申し上げていらっしゃるそうですわ。まるで本当のお祖母様のように」
「そう――」
 赤ちゃんには興味がある。わたくしもちょっと見てみたい、できるなら抱いてみたいと思ったけれど。
 わたくしがのこのこと紫の上のもとへ行ったりなどしたら、彼女によけいな負担をかけることになってしまうだろう。
 わたくしにとって甥っ子にあたるこの赤ん坊は、東宮にとって初めての男の子であり、冷泉帝に男子がいない現在、この子は将来の帝位継承者ということになる。
 けれどこの子の誕生は、それ以上に大きな意味を持っている。
 東宮が帝として即位したあかつきには、一の皇子を生んだ明石女御は間違いなく中宮に立てられるはず。
 三代続けて、皇統源氏から中宮が立つことになるのだ。藤原一門以外から。
 藤原一門の政治力はいっそう弱まり、皇統源氏が替わって完全なる廟堂の覇者となるだろう。
 源氏の君の権力はもはや揺るぎない。やがて彼の血を引く皇子が帝になる。彼が思い描いていた権力図はまさに今、完成しようとしているのだ。
 現在の東宮、わたくしに異母兄の生母、承香殿母后は藤原一門の出身だったが、すでに亡くなっている。彼女の実家である髭黒大将の家系と東宮とを結びつける輪が、切れてしまっているのだ。
 そして今、東宮のそばにいる女、東宮に対し強い影響力を持てる女はただ一人。明石女御。
 本当なら、明石女御が出産のために長いあいだ宿下がりしている今は、ほかの貴族たちには係累の娘を東宮の後宮に押し込む絶好の機会だ。だが誰もそうしようとしないのは、源氏の君が怖ろしいから。
 冷泉帝の後宮でも、源氏の君にうとまれた王女御は、帝の寵をいただくこともできず、公卿や内裏の女官たちからも完全に無視されて、見るも哀れな状態だという。
 そのことをくわしく話してくれたのは、古くから秋好中宮に仕える女房の一人だった。






   《秋の御殿の女房の語れる》
 こんにちわ。お邪魔しますよ、小侍従さん。
 あら、姫宮さまはお休みでいらっしゃいますの? では、あなたも今だけは少し息が抜けるというわけね。
 わたしもちょっとお休みよ。西の対にいたのでは気ぜわしくて落ち着かないから、お白湯を一杯いただくあいだだけ、こちらに居させてちょうだいね。ああ、どっこいしょっと。
 あなたもたいへんね。今は西の対に人手が割かれているから、その分、姫宮さまのお世話はあなた一人でなさってるのでしょう?
 中宮さまの御所からだって、だいぶ女手を出しましたもの。わたしはそのとりまとめ。ええ、お産の手伝いには慣れてますからね。秋好さまがお生まれになられた時も、わたくしは六条御息所さまのおそばに控えておりましたもの。
 本当は秋好さまのお子さまも、わたしが取り上げてさしあげたいと願っておりましたけれど……。
 ええ、お子さまに恵まれなくたって、秋好さまと主上さまは、とても仲むつまじくお過ごしでらっしゃいますよ。琴瑟相和すというのはまさにこのことと、いつも拝見しておりますわ。
 たとえお子さまがなくたって、秋好さまの権勢は揺るぎないものですわ。
 自慢するわけじゃあ、ありませんけどね。ほかの女御さまがたは、もう永
(なが)のお暇(いとま)をいただきたいと思ってらっしゃるんじゃないかしらねえ。
 お若い弘徽殿女御さまは、姫宮さまをお産みあそばしてるから、そこまで肩身の狭い思いはなさっていないでしょうけど、もうお一方
(ひとかた)、王女御さまは、ねえ……。
 お優しい冷泉さまも、あのお方にはなぜかひどく冷淡で。後宮ではほとんど忘れ去られたも同然の方ですわ。
 ――下手に王女御さまのことを思い出したりしたら、源氏の君が怖ろしゅうございますもの。
 え? どうして源氏の君が王女御さまをそこまで目の敵になさるのか、ですって? あらまあ小侍従さん、ご存知ないんですか?
 王女御さまのお父君は、式部卿宮さま。ええ、こちらの紫の上のお父君でもいらっしゃいますわね。
 ですが式部卿宮は、源氏の君が須磨に落ちられた時、娘である紫の上に一切の援助をなさらなかったんですよ。都に一人お残りになった紫の上は、どれほど心細い思いをされましたでしょう。ほかの女君に仕えるわたしでさえお気の毒に思ってましたのに、実の父である式部卿宮は、経済的な面倒を見るどころか、お見舞いの手紙ひとつ送られなかったとか。
 源氏の君は、その時のお恨みをけしてお忘れにならないのですよ。
 ええ……。源氏の君はお変わりになられましたわ。須磨で過ごされた二年あまりのあいだに、まるで別人のように。
 わたしは六条御息所さまのもとで、昔から源氏の君を見ていましたもの。
 昔はね。あんなお方じゃありませんでしたよ。もっと無邪気で、ちょっと考えなしで……享楽的というか、刹那的で。御息所さまにおっしゃることも、みんなその場限りの口からでまかせ、後のことなんかなにも考えていないっていうのがすぐにわかりましたよ。今この瞬間のことしか、頭になかったのでしょうね。良くも悪くも、若い殿方でいらしたんですのよ。
 それが――明石からお戻りになられた時には、あの方はすっかり変わっておしまいになった。昔にはほとんど見せなかった権力への執着をはっきりとお示しになって、ご自分に逆らう者、裏切った者には容赦なく報復をお与えになるようになってしまわれた……。
 須磨、明石で過ごされた二年あまりは、そんなにも過酷だったのでしょうね。
 ご自分がご不在の時、最愛の紫の上に冷たくあたられた式部卿宮を、源氏の君は今でもけしてお許しにならないのですよ。
 でもねえ、小侍従さん。そんな源氏の君だからこそ、一旦あの方の庇護のもとに入ってしまえば、こんなにも心強いことはないのですよ。
 うちのお姫
(ひぃ)さま……いえ、中宮さまだって、源氏の君のご後見がなければ、今ごろどうなっていたことやら。
 あの方はご自分の翼の下に匿われた者たちを、けしてお見捨てにはなりませんわ。裏切りは許さない、だからご自分も、ご自分を頼る者たちを絶対に裏切らないのです。
 そのためには誰が味方で誰が敵か、峻別しておかねばならないのでしょう。
 あなたもご存知でしょう、小侍従さん。あの有名な絵合わせのこと。
 秋好さまがまだ中宮にお立ちになる前、梅壺女御と呼ばれてらしたころ、弘徽殿女御と競って絵巻物を集められ、ついには判者をたてて絵巻勝負をなさいました。
 あれだって、表向きは女同士、きれいな絵を集めて互いに自慢し合っていただけですけど、裏ではすさまじい権力闘争、駆け引きが行われていたんですのよ。
 弘徽殿女御のお父上は、藤原一門の「氏の長者」、柏木さまのお父上。かつて頭の中将と呼ばれ、あの当時はまだ内大臣でしたわね。
 かたや秋好さまのご後見は源氏の君。太政大臣でいらっしゃいました。
 どちらも、それぞれの女御の名のもとに、あちこちの家からすばらしい絵巻物を献上させました。
 それは無言の問いかけだったに違いありません。お二人とも、こうおっしゃっていたのですわ。「私につくか、向こうにつくか、どちらかを選べ」と。
 絵合わせの判者にも、当然同じ圧力がかかったことでしょう。
 結局、勝負は秋好さまの勝ち。源氏の君が勝利をおさめられました。その結果、秋好さまは中宮にお立ちになり、この国でもっとも高貴な女性となられたのです。
 そして王女御は、絵合わせに参加させていただくこともできませんでした。源氏の君が、そうし向けたのです。絵合わせだけではなく、その後も、ことごとく。誰もがあの方を忘れてしまって、当然でしょう。
 お姫さま、秋好さまもね、源氏の君に託されたご自分の役割をよぅく理解なさっておられますよ。
 冷泉さまのご寝所に、他の女を近づけさせないこと。たとえご自分で男皇子をあげることはできなくとも、他の女にけして男皇子を産ませないこと。その役目を、秋好さまはしっかりはたしておいでです。
 弘徽殿女御は、冷泉さまご元服のおりに添臥
(そいぶし)をつとめられた方。いわば神事の一端を担ったお方ですから、あまり粗略に扱っては罰(ばち)があたりましょう。ですが王女御さまは……。
 あのお方ももう、おひまを頂戴したいとまわりの女房たちに漏らしておいでだそうですよ。でもご実家のお母君がお許しにならないんだとか。せっかく入内したのだから、なにがなんでも男皇子をあげよ、と。でもそれは無理というものですよ。
 ほんと、お気の毒なお話よねえ。
 あらあら、すっかり長話しちゃって。わたしもそろそろ西の対に戻らなくちゃ。それじゃ小侍従さん、お互いがんばりましょうね。


 




 あの古参の女房は、わたくしは御帳台で眠っていると思っていたようだけれど。
 わたくしは、彼女の話を全部聞いていた。
 晩夏の長い日もようやく暮れかけ、屋敷のあちこちに灯りがともされた。庭にはあかあかと篝火が焚かれ、金赤色の火の粉を噴き上げている。
 西の対ではまだ、皇子の誕生を祝う宴がにぎやかに開かれている。風に乗り、音楽が聞こえる。
 それらの宴を一手に仕切り、楽人の手配や、次々に届けられる祝いの品の仕分け、使者への褒美や礼状の準備までこなしている夕霧は、寝るひまもないほどらしい。六条院につめきりで、もう十日も妻の顔を見ていないとこぼしていたそうだ。
 けれどわたくしのいる母屋
(もや)はしんと静まりかえったままだった。まるで人っ子一人いないみたいだ。
 源氏の君たちに捨て置かれていることを、別に淋しいともなんとも思わないけれど、こうまで静かなのは、やはり気が滅入る。じっとしていると、よけいなことばかり考えてしまいそう。
「小侍従。もういいわ。灯りを消して」
「紗沙さま」
「今夜は早く寝ます。おまえももうお休み」
 御簾を下ろし、御帳台の中に閉じこもれば、宴のはなやかさも少しは遠くなるだろう。
 わたくしは小侍従が帷を下ろすのも待たずに、衾をかぶって横になった。
 誰の残り香もない寝床で、わたくしはむなしく自分の肩を抱きながら目を閉じた。
 重苦しい闇が、全身にのしかかってくるようだった。





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