日中に聞いた源氏の君の話が、脳裏をよぎる。
 須磨へ落ちる前の源氏の君。後先見ずに自分の喜びのみを追求する、享楽的な若者。それは、出逢ったばかりのころの柏木を思わせる。源氏の君にも、そんな若き日があったのだ。――今の彼からは、想像もつかないが。
 それが、二年あまりの流人生活を経て、自らに背く者は徹底的にたたきつぶす冷徹な権力者に変貌した。
 須磨の海辺で、彼は大嵐に遭遇し、住居も落雷を受けて焼失した。命の危険さえ感じたという。都から一歩も出たことがなく、海を見たこともないわたくしには、それがどういうことなのか、具体的に想像することすらできないけれど。
 その恐怖が、そして恐怖にうち勝って生き延びた体験が、今の彼を造りあげたのだろうか。
 自分を裏切る者はけして許さない源氏の君。ならば、わたくしをどうして放っておくのだろう。夫の留守中に他の男と通じたわたくしは、彼にしてみれば許し難い裏切り者のはず。
 それとも、より手酷い罰を与えられる機会をうかがっているだけだろうか。わたくしを徹底的に傷つけ、打ちのめすために。――源氏の君なら、そうするかもしれない。
 そして柏木への罰は。源氏の君が柏木をこのまま放っておくとは思えない。いったい彼は、柏木になにをするつもりだろう。
 柏木は、わたくしをここから連れ出すつもりだと言っていた。けれどそんなことができるなんて、どうしても思えない。柏木はいったいどうやって、源氏の君に立ち向かうつもりなのだろう。自分に刃向かう者は絶対に許さない、あの源氏の君に。
 わたくしは薄く眼を開けた。
 御帳台は暗闇に包まれ、なにも見えない。この六条院の暗闇が、わたくしには源氏の君そのもののように感じられた。
 逃げられない。どんなにもがいても重たい闇に絡みつかれ、呑み込まれてしまう。永遠に光の見えない奈落の底に沈められてしまう。
「柏木……。助けて」
 答えてくれる声は、どこからも聞こえなかった。
 わたくしは懸命に唇を噛んだ。そうしていなければ、浅ましく声をあげて泣きわめいてしまいそうだった。
 負けたくない。勝てないまでも、せめてあの男に負けたくない。この恐怖に呑み込まれて、あの男の前にすべてを投げ出し、許しを、無様に憐れみを乞うような真似だけはしたくなかった。
 どうすればわたくしの誇りを、この恋を、守り抜くことができるだろう。
 それでもいつか、とろとろと浅い眠りについた時。
 かすかな風の流れを感じ、わたくしははっと眼を開けた。
 すずやかな若木のような香り。触れあわなくても、さざ波のように空を通じてつたわってくる熱い体温。
 そんな……まさか。
「か……ッ!」
 衾をはねのけて飛び起きようとしたわたくしを、強い腕が抱きしめた。
 人差し指が、思わず声をあげようとした唇をふさぐ。
 篝火のような瞳が、まっすぐにわたくしを映していた。
「かしわぎ……」
 掠れる声で、わたくしは彼の名前をつぶやいた。
 人目を忍ぶのか、身をやつした狩衣姿。髪も乱れ、烏帽子の下からはらはらと前髪がこぼれている。おそるおそる手を伸ばしてみると、ひどく痩せて肩がすっかり尖ってしまっているのが、狩衣の上からでもはっきりとわかった。
 けれどその眼は、かわらない。初めて出逢った時と同じ、あの輝く瞳。
 どうしてここに――うれしい、わたくしに逢いに来てくれたのね――なんて馬鹿な真似をするの――聞こえないの、西の対のあの騒ぎが。見つかったら殺されてしまうわよ――。
 さまざまな思いが一気にこみ上げてきて、ひとつも言葉にならない。
 全身の毛が逆立つような恐怖と、それすら焼き尽くしてしまいそうな激しい歓喜とが、身体の芯からこみあげる。彼の瞳から眼がそらせない。わたくしの全部が眼になってしまったみたいだ。このまま彼の燃える眼の中に、飛び込んでしまいたかった。
 大きな声をあげてはいけない。柏木がここにいることを、誰にも気づかれてはならない。ただそのことだけを懸命に自分へ言い聞かせる。
 わたくしが驚愕にわななく呼吸を少し落ち着かせたのを見計らい、柏木はようやくわたくしの唇から指先を離した。
「紗沙」
 わたくしは黙って小さくうなずいた。もう大丈夫、騒いだりしない、という意思表示に。
「時間がないんだ」
 少し掠れた声で、絞り出すように柏木は言った。
「明日、主上のもとへ参内する。その前にどうしても、あなたに逢っておきたかった」
「参内するの?」
 柏木はうなずいた。
「ずっと……迷っていたんだ、本当は。こんなこと、とても信じられなくて。――俺の頭がどうにかなったんじゃないかとさえ、思ってた」
「な、なにを言ってるの、柏木……」
 不意に、柏木はわたくしの身体を抱き寄せた。渾身の力で、息が詰まりそうなほど強く抱きしめる。
 その腕は、以前のようにふるえてはいなかった。痩せて、熱でもあるのか肌もひどく乾いて、ざらりと荒れている。けれど柏木の全身は、確固たる意志と力に満ちていた。
「だけど、もう迷わない。あやまちは正されるべきだ。罪はどんなに隠しても、いつか必ず明らかにされるものなんだ。これはもう、俺とあの男だけの問題じゃない。朝廷の、いや、この国の根幹に関わることなんだ」
「あの、男……? 源氏の君のこと?」
 柏木の腕の中で、わたくしはもがいた。懸命に柏木の顔を見上げる。
 けれど柏木は、わたくしを見てはいなかった。
「俺は決めた。明日だ。明日、すべてが終わる。――いや、始まるんだ。すべてが新しく、始まるんだ」
 真っ暗な室内を見つめ、一人、低くつぶやく。その言葉は、わたくしにはひどく不吉な呪いの禍言のように聞こえた。
「そのためなら、俺はなんだってやる。……ああ、怖いものか。俺は正しいんだ。誰かが必ずやらなければならないことを、俺がやり遂げるだけだ。やるなら徹底的にだ。右大臣たちの二の舞は踏まない。いくら源氏の君でももう二度と立ち上がれないよう、完膚無きまでに叩きのめしてやる――!!」
「柏木……」
「大丈夫だ、紗沙。俺は勝つ。必ず、源氏の君に勝ってみせる!」
 わたくしの身体の中を、冷たい氷が滑り落ちる。
 ただ一点を見据えて動かない柏木のまなざしは、まるでわたくしの知らない男のもののようだった。
 なにを見ているの。どうしてわたくしに見えないものばかり、あなたは見ようとするの!?
「ねえ教えて、柏木。いったいなんのことを言っているの。主上の御前に参内して、なにをするつもりなの!?」
「だめだ。教えられない。あなたはなにも知らないほうがいい」
 わたくしは以前と同じ問いかけを繰り返し、そして柏木もまた、同じ答を返した。
「俺を信じてくれ。必ずあなたを守る。守りたいんだ」
 その言葉を疑うわけではない。柏木を信じている。
 わたくしになにも知らせず、ただ幸福な光景だけを見させていたいと思う柏木の心を、わたくしだってわからないわけではない。
 けれど、知りたい。あなたをこんなにも追いつめ、その視線を捉えて離さないものがなんであるのか。
 あなたが怯えているなら、その恐怖を分かち合いたい。あなたが傷つき苦しむなら、わたくしもともに苦しみ、汚れて堕ちていきたい。わたくし一人だけが無知なままで、赤ん坊のように笑っていたくはない。
 そう思うわたくしの心は、あなたには届かないの?
「待っていてくれ、紗沙。もうすぐ、すべての決着がつく。俺は、必ず源氏の君に勝利してみせる。必ずあなたを救い出す!」
「柏木……」
 乾いて熱っぽい唇が、わたくしの唇をふさぐ。
 狂おしい接吻がわたくしを呑み込んでいった。
 ああ、そうよ、柏木。この接吻が、わたくしを抱きしめるこの強い腕があれば、わたくしはもうなにもいらないの。
 だからお願いよ。柏木。
 どこへも行かないで。わたくしを置いて、どこかへ行ってしまわないで……!






 それから数日、わたくしのもとへはなんの情報も届かなかった。
 相変わらずわたくしの住む母屋には、訪れる人も少ない。六条院の中心はやはり春の御殿西の対であり、そこに住む紫の上なのだ。
 柏木からの手紙も、なかなか届かない。届いても、わたくしが知りたいことはなにも書かれていない。
 小侍従も出来る限りの情報やうわさ話をかき集めてくれたが、柏木に関するものはなにもなかった。
 都では皇子誕生を受けて恩赦が行われ、神社仏閣にも帝や東宮の名で盛大に喜捨がばらまかれた。直接かかわりのない一般庶民が集まる東の市、西の市まで、浮かれたお祭り気分に包まれているという。
 そうやって、都全体が喜びに沸き返る中。
 突然、冷泉帝が譲位を発表し、帝のみ位を降りられた。
 世は、騒然となった。
 十一歳で即位した冷泉帝は、在位期間こそ先代のお父さまより長いものの、まだお若い。
 健康を害したための譲位ということだったが、冷泉さまがそんな重い病を患っていたなんて、誰も聞いたことがなかったはず。
 東宮に男皇子が生まれ、皇位も安泰になったから、というのもあるそうだ。
 たしかに、冷泉帝は子供に恵まれない方だった。太政大臣家の弘徽殿女御との間に、姫宮が一人生まれたきり。
 秋好中宮とのあいだには、まだ一人も生まれていない。帝より九歳も年上の秋好中宮の年令を考えれば、この先、二人の間に子供が生まれることは考えにくい。
 でも、冷泉帝ご自身はまだお若いのだもの、これから先、ほかの女御や更衣との間に男皇子が生まれることだって、充分に考えられる。
 なのになぜ、この時になっていきなり――。
「気になる話を聞きましたの」
 小侍従がそっと、わたくしの耳元でささやいた。
「ご譲位が発表される十日ほど前、柏木さまがお召しもないのに帝のもとへ赴かれ、そのまま二人きりで長い間話し合われていたそうですわ」
「柏木が!?」
「ええ。御所勤めしている女房から聞き出しました」
 わたくしは思わず、もたれていた脇息を離し、身を乗り出した。
「いったい、何を話し合っていたというの?」
「さあ、そこまでは……。完全にお人払いをなさって、昼の御坐所
(おましどころ)に二人きりで籠もられていたそうですから。わたしもかなりねばって、あっちこっちの女房や女童のところで話を聞いてきたんですけど、この時の奏上の内容を知っている者は、誰もいないようですわ」
 そののち数日間、柏木は内裏に出仕せず、そしていきなり冷泉帝の口から譲位の言葉が飛び出した。
 大臣たちにも何の相談もなく、完全に冷泉帝の独断だったらしい。
「いえ……。もしかしたら、夕霧さまだけは、ご存知だったかもしれない。そういううわさですの」
「夕霧中納言が? どういうことなの、小侍従」
「もう夕霧右大将ですわよ。この秋の除目で、一足飛びにご出世なさいましたもの」
 そう。この昇進で、夕霧はとうとう柏木を追い越してしまったのだ。それは、かつて小侍従が夕霧自身の口から聞き出してきた情報と合致していた。
 柏木はここしばらく参内を怠けていたという理由で、昇進は見送られてしまったらしい。
 小侍従は絵巻物などを広げ、いかにも物語について話し合っているふりをしながら、わたくしに、自分が集めてきた情報を教えてくれた。
「柏木さまが主上の御前を辞したあと、主上はすぐに夕霧さまをお召しになられたそうですわ。そしてまたお人払いされた上で、長い時間、二人きりでお話し合いになられていたとか。柏木さまが出仕を休んでいる間にも、夕霧さまは何度も主上のもとへ参内なさっていたそうですわ。主上も夕霧さまも、かなり青ざめてただならぬお顔をなさっていたって話ですの」
 夕霧は一体、冷泉帝と何を話し合っていたのだろう。
 そして、柏木は。
 わたくしの胸の奥に、どす黒い不安が広がった。
 もうすぐすべての決着がつくと、繰り返し言っていた柏木。必ず自分は源氏の君に勝ってみせる、と。
 まさかこれが、柏木の言葉の真意だったのだろうか。
 源氏の君は冷泉帝の後見。傀儡人形の冷泉帝が退位すれば、源氏の君の政権も終わりになる、つまりそういうこと?
 けれど、現実はそんな単純なものではない。
 冷泉帝の後を継ぎ、現東宮――わたくしの異母兄が帝位についても、その次の東宮は明石女御の生んだあの男皇子、一の宮。源氏の君にとっては、孫なのだ。
 しかも新しい帝の後見に立つ髭黒大将――いや、彼もこの除目で昇進し、いよいよ内大臣となったそうだ――は、軍事一本槍で昇進してきたような男だ。政治的にはほとんど独自の意見は持たないらしい。新しい陣定で議論を牛耳るのは、弁が立ち、源氏の君の後ろ盾を持つ夕霧一人になるだろうというのが、大多数の者の意見だった。異母兄上も、明石女御にすっかり手綱を握られて、義理の兄とも言える夕霧の思うがままらしいし。
 源氏の君の権威はまったく揺るがない。
 たとえ今、源氏の君になにかあったとしても、冷泉院が上皇としての影響力を発揮し、夕霧がその後ろ盾を得て内裏を支配すれば、皇統源氏の勢力はけして衰えることはないだろう。夕霧は、それだけの能力をすでに示している。
「ああ、そうでした。冷泉さまはご譲位の直前、お忍びで六条院へお越しになりたいとおっしゃっていたそうですわ」
「帝がお忍びで?」
 わたくしはつい忍び笑いをもらし、首を横に振った。
 一天万乗の君には「お忍び」なんてことは許されない。たとえ非公式なものでも、帝が内裏の外へ出る時には、供回りだの護衛だの、大騒ぎの大行列になってしまうのだ。
 帝を迎えるほうだって、最大限のもてなしを用意しなければならない。家屋敷をすべて浄め、家人や女房たちの装束も新調し、帝に付き従う侍たちや牛飼い童たちにいたるまで、すべての供回りにも褒美を出さねばならない。何ヶ月も前から準備をしなければ、絶対に間に合わない。
「ええもちろん、無理なお話だったんですけれど。源氏の君が参内して、お止めになられたらしいんですの」
 源氏の君は現在、ほとんど内裏に出仕することはない。彼の意見が聞きたければ、公卿たちはみな、六条院へ参内する。帝ですらわざわざ公式に使者を立てるほどだった。源氏の君は第一線をしりぞいた立場で、悠々とこの国の後見をしているのだ。
 その彼が自ら参内し、帝と会見するなんて、よほどのことだ。そこまでして二人が話し合いたかったこととは、いったいなんだろう。
 だが源氏の君でも、冷泉帝の退位は止められなかったわけだ。
 やはり柏木が、冷泉帝の退位をうながしたに違いない。源氏の君の影響力をも排除して、帝の御位さえ、柏木は意のままにすることができるようになったというのか。かつて、藤原一門の氏の長者たちが、みなそうであったように。
 濃厚な血縁も閨閥もない柏木にとって、いったいなにが、それほどまでの政治力のみなもととなったのだろう。
「なにをしたの、柏木……」
 そう言えば、かつて柏木が、冷泉帝について何か言いかけたこともあった。あの時、柏木はいったい何を言おうとしたのだろう。
 これが本当に、柏木の言っていた勝利なのだろうか。
 彼に、逢いたかった。
 逢えたとしても、この不安をぬぐい去れるとは思わなかったけれど。
 けれど柏木に逢い、その肌に触れたい。彼の口からもう一度、心配はいらないと言ってもらいたかった。
 そして。
 ――わたくしからも、彼に言わなくてはならないことが、ある。
 わたくしはそっと、衣の上から腹部を押さえた。
 まだ平らで、何の兆候も見られないそこを――けれど確かに、その中に息づいている新たな命を。






 そして、不安は的中した。
 それは六条院に、ひさしぶりに美しい楽の音が響いた日。
 厳しい残暑もようやく去って、都には秋風が立ち始めていた。
「ああ、まるで御殿に花が咲いたようですこと。ようやく本来の六条院に戻ったようですわ。源氏の君も紫の上も、お二人お揃いになられて……」
 古参の女房たちまでが、少女のようにほほを染めて、はしゃいでいた。
 この冬に予定されている、お父さまの五〇歳のお祝い。そのための試楽
(しがく)――舞や音楽の予行演習が、六条院で行われたのだ。
 予行演習とは言っても、式部卿宮、蛍兵部卿宮、髭黒大将など、宮中の主立った人々がこぞって招かれ、内裏の行事に負けないほど盛大に行われた。
 美しい音楽、鳥や蝶の衣装をまとってことほぎの舞を舞う、可愛らしい子供たち。
 六条院の女君たちもうち揃って、御簾の陰からこの宴を見物していた。
 けれど、わたくしは西の対から出なかった。仮病を使い、御帳台の中に隠れていた。
「試楽をごらんになりませんの、紗沙さま?」
 小侍従の質問にも、わたくしはそっぽを向いた。
「いやよ。ほかの女君たちと並ばされて、源氏の君の自慢のたねにされるなんて」
「またそんなことをおっしゃって……」
 小侍従は周囲の視線を気にしている。
 けれどほかの女房たちはみんな、もう試楽の見物に行ってしまっていた。
「柏木さまも、おいでですのよ」
 小侍従が声をひそめ、ぼそっと言った。
「本日の試楽、舞人や楽人の装束は、柏木さまがお見立てになったそうですわよ」
「知ってるわ」
 そのことは、夏のころからすでに決まっていたらしい。以前、柏木の口から聞いたこともあった。本当はやりたくないけれど、源氏の君にどうしてもと頼まれたので、仕方がない。父にも、このさい源氏の君に恩を売っておけと言われた――と。
 こういう催しで芸術的な才能を見せておくと、のちのち廟堂での駆け引きに有利になるのだという。芸術の才を帝に愛でられて、その場で臨時の昇進ということもあるのだそうだ。
「もちろん、それは口実。前もって裏取引が成立しているんだけどね」
 とは、小侍従が聞いてきた夕霧の言葉。
「だけど口実がなければ、時季はずれの昇進はさせにくい。どんな才能も、ないよりあったほうがいいに決まってるさ」
 音楽の才能に恵まれなかった夕霧は、漢詩の丸暗記に賭けるしかなかったという話だ。
 柏木が演出した宴は、どれほどすてきだろう。わたくしだって、本当は見てみたい。
 けれど源氏の君がこの宴を一番見せたいと思っているのは、紫の上ただ一人なのだ。
 明石女御の出産を仕切るため、そうとう無理をしていた紫の上は、ふたたび体調を崩していた。お父さまのいらっしゃる西山の寺院まで出向くことは、今の彼女には無理だ。そのため、源氏の君はわざわざ試楽を六条院で行うことにしたのだ。
 そんな席にわたくしが並んだら、紫の上によけいな気苦労を与えてしまうだけだもの。
 それに。
「これをごらん、小侍従」
 わたくしはそっと、柏木の文を差し出した。
 それは、つい先ほどわたくしのもとへ届けられたばかりのものだった。
 いつもどおり弁の君が小侍従によこす手紙の中に隠されていたのではなく、同じ小侍従宛でも、まったく知らない男の名で出されていた。それを、東の市で使い走りをしているらしい子供が裏門から家人を通じて届けてきたのだ。
 最初、小侍従は気味悪がって、封も切らずに破り捨てようとしたそうだ。見知らぬ男からの初めての付け文にしてはいやに厚みがあるのに気がつかなければ、本当にそうしていただろう。
 さいわい、小侍従は破る直前で、その文の中にもう一通、手紙が隠されていることに気がついた。そして、人目を盗むようにしてわたくしのもとへ走ってきたのだ。
 そこには、緊張した筆跡で、今夜の試楽には絶対に来るなと書かれていた。





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