わたくしはそっと小侍従を招き寄せ、小声でささやいた。
「ねえ小侍従。お父さまのところへ行ってきてほしいの」
「え? 朱雀院さまのところへでございますか?」
「ええ。聞いてきてほしいことがあるのよ」
 そう、お父さまならきっと知っているはず。かつてささやかれたという、冷泉さまについてのうわさを。
 手紙で問い合わせるわけにはいかない。お父さまからの手紙は、源氏の君もすべて目を通す。そしてどんな返事を書けば良いかまで、わたくしに指示をする。
 わたくしはあたりさわりのない時候の挨拶を文にしたため、小侍従に持たせた。
 小侍従は衣装をととのえると、緊張を押し隠し、六条院を出ていった。






 じりじりしながら待ち続けること、半日。
 日が暮れる頃になってようやく、小侍従は戻ってきた。
「ああ、気分が悪い。お願い、わたくしを一人にしてちょうだい」
 具合が悪いふりをして、女房たちを追い払う。
「大丈夫でございますか、紗沙さま。気をしっかりお持ちあそばして!」
 小侍従はかいがいしくわたくしの世話をするふりをしながら、御帳台のそばへ近寄った。
 そして。
「うかがってまいりました」
 声をひそめ、小侍従はささやいた。
 周囲を気遣い、少しでも物音が聞こえると、お互いすぐに口を閉ざす。そんなことを神経質に続けながら、わたくしは小侍従の報告を聞いた。
「朱雀院さまははっきり覚えていらっしゃいましたわ。――冷泉さまは、ご誕生が予定より一月半も遅れたのだそうです」
「一月半!?」
「ええ。出産のご予定は十二月の末だったのに、お生まれになったのは二月十日。その当時から、いったいどんな怖ろしい怨霊の仕業かと、かなりうわさになったそうですわ」
「そんな、ばかな……」
 怨霊の祟りで出産が一月以上も遅れるなんて、そんなことあり得るはずがない。
 祟りや呪いに怯えるあまり、妊婦が疲れ果てて早産してしまい、子供を死なせてしまうというのなら、まだわかるけれど。
 なにも知らないころだったら、わたくしも、そういうこともあるかもしれないと怯えていたかもしれない。けれど実際に自分が身ごもってみれば、そんなことがあり得るはずがないと、はっきり断言できる。
 だって、わたくしのまわりでどんなことが起ころうとも、お腹の赤ちゃんは日々確実に、成長し続けているのだもの。
 こんなにもすこやかに、力強くすすむ人のいのちの営みに、怨霊だの生き霊だの、そんな実体も持たない存在が、なにができるものか。
「それだけ怖ろしい祟りにに遭われたにもかかわらず、お産のあとはお母君の藤壺さまもとてもお健やかで、赤ちゃんを連れてすぐに参内なさったそうです。冷泉さまはそれはもう、お可愛らしい赤ちゃんだったそうですわ」
 予定日より一月半も遅れた出産が、なんの障りもなく済んだというのなら。
 考えられる答はひとつしかない。
 予定日がもともと違っていた。十二月なんてうそ、冷泉帝は最初から二月半ばに生まれる予定だったのだ。
 怨霊や祟りを怖れる心弱い人々には、こんなでたらめなうそも通用してしまったのだろうか。それこそわたくしのお父さまとか。
 でも、藤壺母后はどうして予定日をいつわる必要があったのだろう?
「出産が予定どおりだったとすると、藤壺母后が身ごもられたのは……ひい、ふう――五月の終わりか六月、夏の初めということね」
 わたくしは指を折って数えた。
「ですが紗沙さま。その年は、藤壺さまはお身体を悪くされたとかで、夏の初めからずっとお宿下がりされていたそうです。後宮に戻られたのは、野分
(のわき)のころだったそうですわ」
「え……」
 後宮で帝や東宮に仕える女性たちは、出産や病気や、「穢れ」とされる状態になった時には必ず、宿下がりしなければならない。宮中にはいかなる穢れも持ち込んではいけないのだ。
「もしも出産が予定どおりだったのなら、藤壺さまが受胎されたのは、宮中を退出してご実家におられた時です」
「うそよ! そんなこと、絶対にありえないわ!」
 宿下がりした女御や更衣に、帝が逢いに行くことはできない。そもそも、帝が内裏の外に出る時は、それはすべて行幸
(みゆき)、公の行事になってしまう。帝は私事で内裏の外に出ることはできないのだ。
 だから藤壺母后が宿下がりのあいだに身ごもったとすれば、それは――。
「冷泉さまは、桐壺帝のお子ではないというの……!?」
 そんなうわさのつきまとう皇子が、東宮に立てるはずがない。ましてや、帝に即位など。
 宮中の人々が誰一人として、この生まれ月のずれを指摘しないなんてこと、あるわけがないのに。
「ですからわたし、朱雀院さまのところから帰る途中、何人かの女房のところを回ってみたんです。その当時、内裏に出仕していた人を探して。そうしたら――」
 小侍従は小さく首を横に振った。
「冷泉さまがお生まれになった当初は、そんなうわさもたしかにあったそうですわ。ですけど、すぐに立ち消えになったそうです」
「どうして!?」
「まず第一に、冷泉さまと桐壺さまのお顔立ちが似ていらしたこと。うり二つってほどじゃありませんが、お二人が並ぶと、ああ、たしかに血のつながりがあるなってくらいには、似てらしたそうです」
「そう――」
 わたくしは亡き桐壺帝の顔を知らないから、何とも言いようがないのだけど。
「それにもう一つ。桐壺さまは、冷泉さまをたいそうお可愛がりになってたそうですわ」
 小侍従はさらに声をひそめた。
「もしも本当に藤壺母后さまが宿下がりのあいだに不義密通をされたのなら、夫である桐壺帝が不義の子を抱かされて、おわかりにならないはずはありませんわ。なのに桐壺さまは、そんなそぶりは微塵も見せなかった。ほかのお子がたと変わりなく、いいえ、それ以上に、冷泉さまをいつくしまれて……。だから宮中の人々もみな、やはり冷泉さまは桐壺さまのお子だろうと信じたのだそうです」
「じゃあ……生まれ月がずれた理由は?」
「おそらく桐壺さまが、慣例を破って宿下がり中の藤壺さまにこっそり逢いに行かれたのではないかと、古女房たちは言ってましたわ。それもまあ、あまり人に知られたくない話ではありますでしょ? 帝自ら内裏の決まり事を破って、お忍びで出歩かれたなんて。桐壺さまもその当時、もうけっこういいおトシで。若いモンみたいな真似をなさったのが知れると、恥ずかしかったんじゃありません? だから桐壺帝と藤壺さまは、お二人で相談なさって冷泉さまの生まれ月の予定をごまかされたのではないかって」
「そうね……」
 わたくしはうなずいた。
 小侍従が持ってきてくれた情報には、たしかにうなずける。怨霊のなんのという話にくらべたら、不自然な部分は少ない。
 けれど本当に、帝がこっそり内裏を抜け出して、宿下がり中の中宮に逢いに行くなどということができるだろうか。
 帝が寝む夜の御殿は、かなり広い。実際に帝が横になる御帳台のまわりには、宿直の貴族や護持僧や、大勢の人間が詰めているのだ。御殿の外の孫廂
(まごびさし)にも、同じように宿直の貴族が控え、庭には警備の侍たちが昼夜を分かたず歩き回っている。
 それだけ大勢の人間たちの目を盗み、帝が一人、外へ出ていくなんてことが、本当に可能だろうか。万が一、帝の忍び歩きがおおやけになったりしたら、それらの者たちは全員怠惰を咎められ、罰を与えられてしまうだろう。
 特に護持僧は、一晩中眠らずに帝の寝所を守護するのが務めだ。人は眠っている時が一番無防備で、悪霊に取り憑かれやすいと言う。帝の寝所に悪しきものを近寄せないため、護持僧は一睡もせずに祈り続け、その法力で帝をお守り申し上げる。
 そんな不寝番の目の前で帝が御殿から抜け出せば、見つからないはずはない。
 若く愚かな皇子たちならともかく、内裏に君臨して久しい桐壺帝が、そんな分別のないことをなさるだろうか。
 わたくしは、小侍従の情報をもとに、彼女とはまったく別のことを考えていた。
 護持僧……僧侶。なんだかその言葉がひっかかる。
 以前にも、同じような言葉をどこかで聞かなかっただろうか。
 そう、確か柏木が、内裏に参内もせずにしきりに寺院を巡っているらしいと、弁の君が言っていた。供もほとんど連れず、家の者に行く先も告げずに出ていって、戻ってきた時には袖に抹香の匂いが染みついていた、と。
「小侍従。たびたびですまないけれど、今度は弁の君に会ってきてほしいの」
「弁の君にでございますか?」
 なぜ、とも訊かずに、小侍従はうなずいた。
「たしか彼女は今、三条の太政大臣家にいるはずですわ。一条のお屋敷よりは監視もゆるやかで、わたしが入り込む隙間もございますでしょう」
「太政大臣家では、今回のことをどのくらい知っているのかしら。弁の君やほかの人がまだ本当のことをなにも知らないようだったら、よけいなことは絶対に言わないで。真実を伝えて、哀しみを深めたくはないわ」
「心得ております。少々お待ちくださいませ、紗沙さま。すぐに話を聞いてまいりますわ」






    《弁の君の語れる》
 え? 先だって柏木さまがどこへ行かれてたかですって? だからわたしは知りませんって言ったでしょ。女のところじゃないことだけはたしかですよ。
 ええ、ですから、どうもお寺さんをあちこち巡っていたらしいって。牛車について行った者たちも、そう言っていましたし。
 ……そう、そう言えば、誰かを捜していたみたい。一人のお坊さんを。たしか、そんなことをおっしゃっていたわ。誰やら、高貴な方の護持僧を勤められるような、徳の高いお坊さま。……さあ、名前までは――。柏木さまも、お名前はわからないままに探していられたみたいよ。
 なにかご祈願されるようなことでもあるのかと思ってましたけど、どうやらそうでもなかったような。――まさかその方を導師として、髪を下ろされるつもりだったわけでもないでしょうけど。
 そのお坊さまが見つかったか、ですって? ええ、そのうち寺巡りはぷっつりおやめになられたようだから、きっと見つかったんでしょう。ご病気になられるちょっと前、そう、冷泉院さまが突然ご譲位を発表される、ほんの少し前よ。
 ほんと、どんなお坊さまを探してらしたのかしら。柏木さまは、詳しい話は誰にもしてくださらなかったんですよ。
 その上、お亡くなりになる直前は、ずっと一条のお屋敷に行ったきりで。お父君お母君がどれほど柏木さまに会いたいと願われても、一条の御方さまはお断りになられたんですよ。
 こちらからの見舞いの使者もお屋敷にあげてくださらず、乳母子のわたしですら、お亡くなりになるまでとうとう一度も柏木さまにお会いすることができなかったんですから。死に顔すら見せていただけないまま、鳥の辺で荼毘に付されてしまって……。ほんとにひどいわ。いくら北の方、帝の血を引く宮さまだからって、あんまりななさりようだと思わない?
 その上、あの方、早ばやと別の男君を通わせてらっしゃるって言うじゃない。そうよ、夕霧さまのことよ。
 夕霧さまは、未亡人になった一条の御方を慰めるって口実で、毎日毎晩、一条のお屋敷に通い詰めて、とうとう契ってしまわれたってもっぱらのうわさよ。
 ひどいわ、あんまりよ。亡くなった夫の親友を、即座に次の夫にするなんて。しかも夕霧さまは、柏木さまの妹君、雲居雁姫の夫でもあるのよ。これじゃ柏木さまがおかわいそうすぎるわよ。
 あなただってそう思うでしょ、小侍従さん。ねえ、そうだって言ってちょうだいよ。でないとわたし、わたし……。






 弁の君の話を聞くとすぐに、小侍従にはもう一度西山のお父さまのところへ行ってもらった。今度はお父さまではなくとも、僧侶たちのあいだのうわさ話に詳しい人物なら、誰でも良かったのだが。
「柏木が死ぬ前に――冷泉さまがご譲位されたころに、宮中で中宮さまや主上さまの護持僧も勤めたこともある高僧が一人、死亡していないか。あるいは、山に籠もったか大陸を目指したかとかで、行方不明ということになっているかもしれないわ」
「かしこまりました。お任せくださいませ、紗沙さま」
 短期間のうちに何度も何度も寺参りをする小侍従は、周囲に怪しまれないよう、まず、
「身ごもられた姫宮さまの体調がどうもすぐれないので、思いつく限りのお寺や神社に願掛けして回ってますの。あんなご様子ではとてもご出産には耐えられませんわ。どうか神仏のご加護がありますように。ああ、もう、心配で心配で」
 と、大声で言いふらして行った。
 そして小侍従は、山ほど護符やらお守りやらとともに、わたくしが確認したかった情報を持ち帰ってきた。
「たしかに一人、かつて冷泉さまの護持僧をつとめられたお坊さまが急に亡くなられたそうです。なんでも、薬草と間違えて毒のあるものを口にしてしまったらしいとか。身の回りのお世話を言いつかっていた童子まで、いっしょに死んでしまったそうですわ」
「そう……」
「しかもその方は、藤壺母后さまのご信任もいただき、何度か病気快癒の祈祷も承ったことがあったそうですの。お母君からのご推挙をうけて、冷泉さまがご自分の護持僧に指名した、ということらしゅうございます」
 母と子、二代にわたって護持僧を勤めた高僧が、突然不可解な死を遂げた。その異様な状況は、今は俗世に一切の関心を持たないお父さまでさえ、気にかかり、忘れられないものだったのだ。
 わたくしと小侍従は互いに目を見交わし、黙ってうなずきあった。
 あまりにも不自然な死だ。おそらく柏木に続いて、その僧侶も口をふさがれたのだろう。
 護持の僧は、守護する高貴の方が眠っている間、片時も御帳台のそばを離れない。時には、悪夢にうなされてついこぼしてしまった寝言を聞いてしまうこともあるだろう。あるいは夢占やたとえ話にかこつけて、どうしても告白せずにはいられない罪科を、聞かされることもあったはずだ。
 それらをすべて胸ひとつにしまい込んでおくのも、護持僧の大切な役目なのだが。
 この世の中、全幅の信頼に足る僧侶ばかりではない。
 おそらく柏木は、そういう僧侶の口から、彼がもっとも知りたがっていた情報を聞き出したのだ。――かつてうわさになった、冷泉帝の出生の秘密を。
 亡き桐壺帝と、冷泉さまは、血のつながりが見てとれるほどには、似ていた。
 でも……冷泉さまと、うり二つの人間が、もう一人、いる。
 その人物はおそらく、桐壺帝にも似ていたことだろう。
「ねえ、小侍従。今度は秋好さまのところへ行ってきてちょうだい」
「秋好中宮のところへでございますか?」
「ええ。たしか今、冷泉さまの御所からこの六条院へお宿下がりしてきてるはずよ。紫の上さまのお見舞いに。あなたとよくおしゃべりしてる、あの古参の女房もきっと御所からお供しているんじゃないかしら」
 わたくしは小侍従の耳元で、ぼそぼそと質問の内容をささやいた。
「それだけでよろしいのですか? はい……はい、わかりましたわ」
 小侍従はそれ以上よけいなことは訊かず、すぐに立ち上がった。
 秋好中宮は源氏の君の養女として、冷泉帝の後宮へ入った。
 彼女の母はかつて六条御息所と呼ばれた女性。昔、東宮に立った皇子のもとへ入内し、一人の姫宮を生んだが、夫に先立たれて後宮を離れた高貴な身の上だった。
 数多い源氏の君の愛人の中でも自尊心が高く、怜悧な才女だったが、源氏の君より七才も年上だったためか、大勢の愛人たちや正妻と競い合うのに疲れ果て、自ら源氏の君に別れを告げたという。
 ただその別れが、ちょうど源氏の君の正妻である葵の上の死と重なったため、その当時は、彼女の生き霊が葵の上を憑り殺したなどと不穏なうわさも流れた。
 その後、母御息所を亡くした秋好中宮は、母の遺言に従って源氏の君の養女となり、そして女性にとってはこの国で最高の地位である、中宮にまで登りつめたのだ。
 不幸なことに、秋好中宮自身は、冷泉帝の皇子に恵まれることはなかったけれど。
 やがて、小侍従はわたくしが予想していた通りの答を持って帰ってきた。
「紗沙さまのおっしゃったとおり、六条御息所さまは、源氏の君の恋人たち、通いどころのほとんどを把握していたそうですわ」
「そう、やっぱり!」
「六条御息所さまのおそばにも、とても有能な女房が何人もいて、その当時の源氏の君のお側仕えを抱き込んで、源氏の君がお出かけになる時は、その行き先、日時、逐一細かく報告させていたのだそうです」
 抱き込む方法には、女ならではの罠を使ったのだろう。男たちが女たちの情報網を利用するために近づくように、女たちもまた、男たちの好色心を利用して、自分たちに必要な情報を集めるのだ。
 おそらく六条御息所だけではなく、紫の上も、明石の君も、自分以外の女たちのことを知っていただろう。たとえ女主人が何も言わなくても、そばに仕える女房達が、必ず情報を集めてきたはず。
 だって女どうしだもの。主人同士に競争心や互いへの嫉妬があるように、仕える女房たちにだって、お互い張り合う気持ちや敵愾心があって、当たり前だ。
 でもその情報を、紫の上や明石の君に今も仕えている女房たちから聞き出すのは、さすがに小侍従にも難しいに違いない。
 だからわたくしは、小侍従を秋好中宮のもとへ行かせたのだ。
 中宮本人は源氏の君の養女で、その寵愛には無縁だ。けれど彼女のもとには、必ず母親の代から仕えている古い女房がいるはず。中宮は賢く沈黙を通して母の名誉を守っても、その古い女房から、源氏の君の過去を聞き出せるだろう。そう思って。
 そして小侍従は、わたくしの思惑どおり、欲しい情報をすべて聞き出してきてくれた。
「ですけど……六条御息所さまにもただ一ヶ所、どうしても突き止められなかった通いどころがあったのですって」
 わたくしは思わず、小さく息を飲んだ。
 ――やはり。
「お若い時、ごくまれに、源氏の君がたったお一人で出かけられることがあったそうですわ。牛車も使わず、馬で向かわれたそうですわ。お側去らずで仕えていた惟光どのでさえ、けしてお連れにならなかったとか。右大臣家に忍び込んでの朧月夜尚侍との密会の時にも、惟光どのだけは必ずお供を許されたのに。ですから、その行き先を知っている者は、誰もいなかったそうです」
「源氏の君がその謎の通いどころへ出かけたのはいつだったか、わかる?」
 小侍従は首を横に振った。
「六条御息所さまの日記やお手紙が残っていれば、きっと調べることもできたんでしょうけど。秋好さまは、お母上さまがお亡くなりになった時、私的なお文や書き付けはすべて焼き捨ててしまったんだそうですの」
「そうね。当然だわ」
 わたくしだって、死後にそんなものを残しておきたくないと思うもの。
「どうしましょう、紗沙さま。ほかの御殿の女房たちにも、訊いてまいりましょうか」
 わたくしは首を横に振った。
「いいえ、もういいわ、小侍従。これで充分よ」
 これ以上、六条院の中で小侍従を動き回らせては、彼女を危険にさらしかねない。
 小侍従の動向はすでに源氏の君の耳に入っているだろう。そして彼女を動かしているのが、わたくしだということも。
 すでにわたくしの胸には、ひとつの推測が固まっていた。
 たしかに、すべて推測の域を出ず、何の証拠もないけれど――。
 いいえ、証拠なら、ある。
 これほど、誰の目にも明らかな証拠は、ほかにはない。
 




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