やがて、さやさやと衣擦れの音をさせながら、中年の女房がわたくしのもとへ取り次ぎに来た。
「大殿のお渡りにございます」
 几帳がずらされ、御簾が巻き上げられる。
 冷たい空気とともに、かすかに薫香がただよってきた。直衣に薫きこめられた、深く豊かな香り。心を鎮めるようなおもむきの中にも、どこか異国めいた不可思議なものを感じる。
「紗沙さま」
「小侍従。おまえはもう、お下がり」
 一瞬にして青ざめてしまい、冷たい汗をにじませた小侍従に、わたくしは言った。
「ほかの者も、一切この部屋に近づけてはなりません。わたくしは二人きりで、あの方と話がしたいの」






 大殿油
(おおとなぶら)に火が灯った。
 橙色の炎が、小さな燭皿の上で燃えている。ゆらゆらと揺れ動く灯火は、室内に、そして目の前の人物に、この世ならざる陰影を与えていた。
「お加減が良くないとうかがったが」
 深く、少し錆びた、耳に心地よい声。聴覚から忍び込み、わたくしの全身を波のように包み込んでいく。
「お食事もほとんど召し上がらないとか。いけませんよ、それではお腹の子に障る」
 そして源氏の君は、紫の袱紗に包んであった小さな銀色の丸薬を、わたくしに差し出した。
「これは唐渡りの秘薬です。一口含めば、心をおだやかにし、火照って乱れた血流を鎮めてくれる」
「いりません」
 わたくしは即答した。
「あなたが勧めてくださるものは、わたくし、一切口にするつもりはありません」
 源氏の君は、優しげに笑った。
「お疑いか? 姫宮。私があなたに毒を盛ると」
 睨み据えるわたくしの前で、源氏の君は銀色の丸薬を一粒、口に含んでみせた。
「ほら、なんともない」
 丸薬を飲み下し、悠然とわたくしを見つめる。
「私があなたの生命を狙っているなどと疑われるのは、とても心外だ。あなたにはすこやかな赤子を生んでいただきたいと願っている。……できるなら、姫君を」
「な……っ!」
 こめかみのあたりまで、一気に血が逆流した。
「あ、あなたは――! この子を、自分の政争の道具にするつもり!? 秋好中宮や明石女御のように、無理やり後宮に入れ、皇子を生ませて――!!」
 わたくしは叫んだ。思わず、両手でしっかりとお腹をかばう。
「そんなことはさせないわ! この子はわたくしの子です! わたくしと柏木の子よ!!」
「あなたは私の妻だ。あなたがこの六条院で生む子供は、たとえ父親が誰であれ、六条院の姫君――つまり、私の子供ということになる」
 わたくしを真っ直ぐに見据える、眼。
 冷たく硬く、まるで黒い石のような。
 その眼の力だけで、わたくしは、まだ生まれぬ我が子をお腹の中からえぐり出されてしまいそうな気がした。
 ……しっかりしなければ。
 ここで負けてしまっては、源氏の君の思うつぼだ。この子を守り抜くこともできなくなる。
「わたくしは六条院を出ていきます」
「出ていって、どうされる? 父院におすがりなさるのか? それは私がさせぬよ。私が返せと言えば、朱雀院は必ず私に従い、あなたを送り返してくるはずだ」
「ひ、一人でも平気よ! わたくしにだって帰る邸も、財産もあるわ!」
「出産の準備はどうする? 産屋は、産婆や祈祷師の手配は。まさか身分卑しき女のように、道端に這いつくばって子を生むわけにもいくまい。素足で地面を踏んだこともない、あなたが」
 わたくしは言葉につまった。
 けれど、ここで怯んでは、柏木の死も無駄になってしまう。
 この男の思いどおりになってたまるものか。
「この子が生まれたら、教えるわ。あなたの本当の父は亡き柏木大納言。そして柏木を殺したのは、六条の院、源氏の君、あなただと!!」
「そして私も教えてやろう。柏木がなぜ死なねばならなかったのかを」
「あなたの犯した罪を知ってしまったからよ!!」
 わたくしは叫んだ。
 源氏の君に、真っ直ぐに指を突き付ける。
「あなたの大罪! 父帝の后と密通し、あまつさえその不義の子を、万民をあざむいて一天万乗の君の座につけた! ――冷泉さまは亡き桐壺帝の息子じゃない。あなたの子よ。あなたと藤壺母后の、不義の子なんだわ!!」
 源氏の君は、眉一つ動かさなかった。
 嫌味なくらい落ち着いた声で、
「これは……おもしろい話を聞くものだ」
「とぼけないで! 藤壺母后の宿下がり、冷泉さまの誕生が一月半も遅れたこと、わたくしはみんな知っているのよ! あなたのその顔を見れば一目瞭然だわ。わたくしは冷泉さまの顔も知っている。誰が見ても、あなたたちはうり二つよ。これ以上、親子であるたしかな証拠があって!?」
 わたくしが何を言っても、源氏の君は何の反応も示さなかった。まるで子供の我が侭を眺め、心を和ませている者のように。
 ――いいえ、すべて真実を言い当てられてしまったから、なにも言い返せないだけよ。
「この国の礎を、あなたは根底からくつがえそうとした。あなたは隠し子を帝の地位につけることで、この国を乗っ取ろうとしたんだわ!!」
 源氏の君は、ふっと笑った。
「どうしてそれが罪なのだ?」
「……え――」
「私も、臣籍に降ったとはいえ、帝の皇子。この身にはたしかに、皇統の血脈が宿っている。それを受け継ぐ皇子が帝冠を戴くのに、何の不都合があるだろう? 兄から弟へだとされていた譲位が、実は伯父から甥への譲位だった。ただそれだけのことだ」
 ……たしかに、そういうことは歴史上、何度かあった。
 事実、冷泉さまからわたくしの異母兄への譲位も、表面上は叔父から甥への譲位だったのだから。
「若い義母と息子の密通を、父が許すかどうか。それは私たち三人だけの問題だ。家庭内の私事だよ。この国の行く末には、何の関係もない。事実、私は許したではないか。あなたと柏木の密通を」
 源氏の君は淡々と言った。
「私は、柏木にも同じことを言ってやった。そして柏木も、今のあなたと同じく、納得がいかないという表情をしていたよ」
 ……やはり。
 柏木はこの秘密を知ってしまったがゆえに、殺されたのだ。
 わたくしは源氏の君を真っ直ぐに睨んだ。
「だがこの国を乗っ取るというのなら、藤原一門こそ、その大罪を犯しているのではないのかね?」
「なんですって?」
「内裏にはびこり、主立った役職をすべて同門で占領する。一族の女を次々と後宮へ送り込み、性の営みで帝の血脈を支配しようとする。そうやって生まれた帝を傀儡人形にし、自らの権力を守るためには、帝の首をすげかえることすらいとわない。それを、この国を乗っ取ったとは言わないのか?」
「そ、それは……!」
「帝は彼らの専横を止めることもできず、愛した女一人、まともに遇してやれぬ有り様だ。あなたにも覚えがあるだろう」
 それは……誰のこと? 
 藤原一門の女たちに圧迫され、日の目を見ることもなく死んでしまったわたくしのお母さま? そんなお母さまに酬いるため、遺児のわたくしを精一杯愛してくださったお父さまのこと?
 ――それとも。
「最愛の女が生んだ息子を、帝位につけてやりたいと思うのは、父親として当然の感情ではないのか? それがかなわぬなら、せめて息子の子供――孫を」
 では……ご存知だったというの。桐壺さまは何もかもご存知で、冷泉さまを東宮に推し、その後見に源氏の君を指名したというの!?
「冷泉ももちろん知っている。だからあれは、明石が東宮の長男を生むまで、懸命に帝位に踏みとどまったのだ。藤原一門からどれほど譲位を迫られようとも、皇統の母から帝位継承者が生まれるのを見届けるまで」
 ……ここでまた藤原系の母后を持つ帝が続いてしまったら、藤原一門はきっと、かつての力を取り戻すだろうから。
 聞いたことがある。藤原一門は住吉神社から神託を受け、その成就のために邁進してきたのだという。曰く、代々の皇后はすべて藤原氏より出すべし、と。
「私はもはや政界から引退した身、内裏に足繁く参内して、藤原一門の連中を牽制することもできない。同じ皇統とはいえ、式部卿宮も蛍兵部卿宮も、私の敵に変わりはない。彼らだとて冷泉を引きずり下ろし、自分の血を引く皇子を主上に据えたいと思っているのだから。内裏では、夕霧だけが冷泉の味方だった。よく闘ったよ、あの二人は。さすが私の息子たちだ」
 それは、どこにでもいる父親の口調だった。息子を愛し、自慢げに話すただの父親。
「なのに柏木は、事実をすべて公表すると言った。それが正義だと。自分は正義を遂行する義務がある、と」
「そ、そうよ。柏木は、間違ったことは言ってないわ……」
 だから冷泉さまだって、結局は譲位なさったのではないか。
 柏木に、親子三代に渡る罪を罪を指摘され、逃れられないと思ったから――。
「冷泉に譲位するよう進言したのは、私だ」
「……えっ!?」
 源氏の君は静かに笑った。
「冷泉に教えてやったのだよ。帝の地位にしがみついたとろこで、利点など何もない。形式や旧例に縛られて、内裏の外へ出ることもままならぬではないか。それよりは帝冠など放り出し、もっと身軽になれば良い。上皇になれば、誰に会うのも何をするのも、自由だ。この国を動かすのに、何の不都合もない」
「そんなこと、許されないわ! この国を治めるのは、帝よ! 一天万乗の君とは、そういう意味だもの!!」
 源氏の君はさもおもしろそうに、声をたてて笑った。
「あのお父上を見て育ったあなたが、そんなことを言うとはね」
 わたくしは言い返せなかった。
 お父さまは、祖父である右大臣の傀儡人形だった。――藤原一門の。
「帝をあやつる祖父や叔父が、上皇であってなぜ悪い? 母方の縁者である藤原一門にそれが許されたのだ。上皇が同じことをして、誰に責められようか」
 もう、わたくしは押し黙るしかなかった。
「冷泉も納得した。これでようやく、この国は本来の形に戻るのだよ。我ら帝の血を引く者が、帝を支え、国を治める。もう二度と、他の一族に内裏や後宮を支配させはせぬ。――なのに、柏木は」
「……え?」
 突然聞こえた柏木の名前に、わたくしは顔をあげた。
「そんなことは許さないと、言った。みなの前ですべてを公表する、私も冷泉も死罪になるべきなのだ、と」
「なんですって――」
「私が直接聞いたわけではない。柏木は、冷泉にそう言ったそうだ。帝位を簒奪した大罪人として歴史に名を残したくなければ、私も冷泉も自裁するがいい、と」
 それが、柏木があの日突然参内した目的だったのか。
 その光景が、目に浮かぶようだった。
 柏木は言っていた。敵を倒すなら、完膚無きまでにやらなければならない、と。
 そして冷泉さまに謁見した時、柏木は自分の勝利を、確信していたに違いない。
「愚かなやり方だ。そんな血塗られた手段は、この国は数十年も前に放棄したのではなかったか? 古い、呪われた寧良の都とともに」
 源氏の君は、丸薬を指先でもてあそぶ。わたくしから目をそらして。
「愚かだった、柏木は。自分が他者の命を奪おうとしているなら、なぜその反対を考えない? 同様に敵から命を狙われるかもしれないと、どうして警戒しないのだ? 敵陣に招かれ、勧められるまま、やすやすと盃に口をつけるなど……!」
 くち、とかすかな音をたて、丸薬が彼の指の間でつぶれた。
 何の変化もないと思っていた源氏の君の声が、かすかにふるえている。
「少なくとも私なら、絶対にそんな真似はしない。信用できない相手の饗するものは、けして口にしない。……三歳の子供だって、そのくらいの用心は覚えるものだ」
「三歳?」
 それは、源氏の君が母更衣に死に別れた年令。
「そうだよ。私の母は毒殺された。弘徽殿母后と、右大臣一派に。父、桐壺帝の寵愛を受けて、東宮位とそれにともなう権力が私たちの側に移ることを怖れた右大臣が、母を殺したのだ」
 静かに語り続ける彼の声には、憎しみも怒りも感じられなかった。
「けれど父は、私に彼らへの復讐を禁じた。たとえ弘徽殿母后、右大臣のみを殺したところで、母の無念は晴れるはずがない、と。母が望んだのは私の栄達、そして私の――帝の血筋が、この国の礎になることだ。そして私がこの国の頂点に登りつめることこそが、母を殺した藤原一門への最大の復讐にもなるのだと」
 源氏の君の表情がかすかにくもる。その声に、苦い自嘲がにじんだ。
「父のその言葉を真に理解したのは、須磨に落ちていってからだった。私はまだ若く、あまりにも愚かだった。父を失い、世の人間たちすべてに裏切られて初めて、私はようやく気がついたのだよ。父母にとって、そして私自身にとって、もっとも大切なものはなにかということに――二度と失いたくないもの、命を賭して守り抜きたいものはいったいなんなのかということにね」
 そして彼は、それを自らの手でつかみとった。
 自分を裏切った者に容赦なく報復し、従わない者をたたきつぶして。
 帝の冠を、自らの血筋の上に輝かすことに成功したのだ。
 冷泉帝は皇子を残すことはできなかったが、彼の娘の明石女御が次代の帝を生んだ。こののちも彼の血が、帝冠を継いでいく。
 彼が愛する者たちを、もはや誰も傷つけられない。彼は自らの力で、守りたいものすべてを守り抜くことができるようになったのだ。
「柏木がかつての私のように、時間をかけて廟堂でのしあがり、私や私の一族――夕霧や明石女御を排斥しようとするならば、もしかしたら私はそれを止められなかったかもしれない。柏木は、私にはないものを持っていた。これからの長い時間、未来……。そこで闘うのは私ではない。夕霧であり、冷泉だ。私にはもはや関与できない。もしかしたら藤原一門はふたたび、かつての栄光を取り戻せたかもしれないのだ。ほかならぬ柏木を氏の長者にいただいて。なのに柏木は、愚かな……もっとも愚かな手段をとろうとした。焦りすぎ、道を誤ったのだ。――女一人のために」
 わたくしの、ために。
 わたくしを、一日でも早く、六条院から解放するために。
 そのためにもっとも確実で、拙速な手段をとろうとしたのだ。
「考えてみるがいい。今、この六条院が滅亡したら、この国はいったいどうなる? 私や夕霧が抜けた穴を埋める人材はいるのか? 明石女御がいなくなった後宮で、誰が今上帝の皇子を生む? その子を支えていくのは誰だ? その絵図面も描けないうちから、ただ現体制だけを突き崩してしまったら、すべてが混乱するだけではないか」
 たしかに、源氏の君の言うとおりだと、わたくしも思った。
 柏木にはそれを一人で背負っていくつもり、あるいは藤原一門がすぐにかつての隆盛を取り返すと思っていたのかもしれないけれど。
「柏木がもう少し悧巧であれば、こんな手段はとらなかった。そう、この国で私の思い通りにならぬものはなにもない。柏木の口を封じるのもたやすい。適当な口実をもうけて辺境の地へでも流刑にしてしまえば、それですべて片が付くのだ。もしも柏木がその地からふたたび這い上がり、私たちに挑もうとするのなら、けしてそれを止めるものではなかった。そこまで闘い抜く意志と知謀があるのなら……! けれど柏木は、愚かだった。あまりにも。私の死に、こだわったのだ。冷泉が譲位しただけで自裁しなかったのを見て、柏木はすべてを公表すると言い切った。あの試楽の宴で、居合わせた者たちにすべての真実をぶちまける、と」
 その理由もまた、わたくしだ。
 源氏の君が死ねば、わたくしは未亡人となり、誰と再婚するのも自由になるのだ。
 柏木がそれを望んでいなかったとは、思えない。
 そう、彼の最後の目的は、権力の奪取でも係累の娘の立后でもなく、源氏の君の死だったのだ。
「柏木がそこまで愚かな手段をとろうとするなら、私も、同じく愚かな手段で対抗するしかないではないか。――それでも、柏木がもう少し賢ければ……!」
 源氏の君は、目を伏せた。
 初めてその顔に、老いた陰を見た。
「悔いているの?」
 わたくしは問いかけた。
「いいや。あの愚か者は、自らの過ちの代償を支払っただけだ」
 源氏の君はゆっくりと首を横に振った。
 それでこそ源氏の君、光る君だと、わたくしは思った。
 勝者が、自分が掴んだ勝利を悔い、疎んじたら、敗者はいったいどうすれば良いのだろう。
 勝者が勝者らしく、傲然としているからこそ、敗者も自分の敗北を運命として受け入れることができるのだから。
 勝者が自分の罪に怯えれば、敗者は自分の敗北を受け入れることができない。諦めきれず怨霊となって暴れ回るしかなくなってしまう。
 やがて源氏の君は顔をあげ、ふたたびわたくしを真っ直ぐに見据えた。
「それで、あなたはどうするのだ、姫宮」
 柏木と同じく、皇統源氏に刃向かってつぶれるか、それともここで源氏の君に屈服するか。
 無言のうちに問いかけてくるその顔は、さきほどまでの陰りなど微塵もなかった。いつもどおり、この国を絶対的な力と財で支配する、皇統源氏の統領。誰もが知る、光る君だった。
 わたくしは何も答えなかった。
 ただ無表情に、源氏の君の視線を受け止める。
 その沈黙を、彼は承諾の証ととったようだった。
 口元に、満足そうな笑みを浮かべる。
 ――自分に逆らう者は誰もいないと、信じているのね。
「大人になりましたね、姫宮」
「え?」
「初めて逢った時は、私に怯え、ろくに私の顔を見ようともしなかったのに。今はこうして、私と対等に向かい合い、どんな不利な状況に追いつめられてもけして諦めず、私と闘おうとしている」
 源氏の君は、まるでわたくしと初めて逢ったかのように、わたくしを興味深げに見つめていた。
「大人になられた。強く賢い、大人の女性に。私が待ち望んでいたのは、そういう女性なのだ」
 紫の袱紗に包まれた丸薬を、すっとわたくしの前に差し出して。
「すこやかな子供を産んでください。もしもその子が女なら、この六条院の姫として、私が育てます」
「もし男だったら?」
 男の子なら、成長すればかならず実の父親の面影が現れてくるだろう。
「男なら、冷泉に預けなさい」
「冷泉さまに?」
「子供のいない秋好の養子にしたいそうだ。冷泉も今のうちから、いざという時に手足となって動いてくれる腹心を育てておきたいのだろう」
 その言葉にも、わたくしは承知とも不承知とも返事をしなかった。
「そしてあなたは……」
 源氏の君は、ほほえんだ。
「私の子供を、生んでいただきたい」
 その言葉に、わたくしは袖の中で両手を硬く握りしめた。けして無様な姿をさらさぬように。
「私には子供が少ない。夕霧もこぼしていた。せめて妹があと二、三人いれば、苦労も少なかったのに、と。だから自分は、一人でも多く子供をつくるつもりでいるようだが」
 夕霧の考えていることは、わかる。姉妹が大勢いれば、たとえ後宮に入れなくても、彼女たちとの結婚を餌に、他の一族や家系の優秀な男たち、敵に回したくない男たちを、自分の陣営に取り込むことができる。玉鬘の君との結婚を機に、髭黒大将が夕霧の敵に回らなくなったように。
「あなたなら、さぞ賢く強い子を生んでくれるだろう」
 源氏の君は手を伸ばし、わたくしの手をとった。
「信じてくださるか? 今、私は初めてあなたを、心から欲しいと思っているのだよ。姫宮」
 ……そう。
 わたくしが初めて、源氏の君、あなたと真正面から向かい合えたように。
「私を憎み、闘おうとするなら、それも良い。そうやって私に立ち向かう気概を持つ女こそ、ともに生き、智恵を巡らせ、愛し合うにふさわしいのだ」
 わたくしはまっすぐに、源氏の君の瞳を見つめた。
 変わらず、黒曜石のように冷たく深く、何を思っているのか、読むこともできないけれど。
 けれど、わたくしはもう、その瞳を怖いとは感じなかった。
 わたくしたちは今初めて、一人の男と一人の女として、対等に向かい合っている。身分も、年齢も性別も関係なく、ただ同じ一人の人間同士として。
 そうね。柏木ですらしてくれなかったことを、源氏の君、あなたはしてくれるのね。
 柏木はわたくしを守ると誓ってくれた。わたくしのために闘い、命を落とした。
 けれど彼は、とうとうわたくしとともに闘うとは言ってくれなかった。柏木にとってわたくしは、腕の中に抱きしめるもの、守り抜くものであって、対等の立場で肩を並べ、ともに歩んでいく存在ではなかったのだ。
「身体を大事に、良い子を生んでください。できるならば、あなたの賢さと勇気を受け継いだ、強い娘を」
 ……源氏の君。
 この国の政治の舞台で闘い抜き、すべての勝利をもぎ取ってきたあなた。どんな苦難にも打ち勝ってきた人。
 そんなあなたでも、まだ、知らないことがあったのね。
 わたくしはかすかにほほえんだ。
 この六条院に降嫁して、あなたの妻となったから、わたくしは本当のわたくしを知ることができた。本当の自分の力に目覚めることができた。
 そして、心から人を愛することを知った。
 だから、教えてあげましょうね。
 今度はわたくしが、あなたに。
 あなたが知らないことを。


 



 やがて月満ちて、わたくしは無事に柏木の子を産み落とした。
 男の子だった。
 薫、と名付けられたこの子は、今はまだ顔を真っ赤にして泣くばかりだけど、やがて父に似て、凛とした顔立ちになるだろう。
 そしてわたくしは、産褥の床で、出家した。
 家族、夫婦、この世に存在するすべての人のつながりを断ち切り、生きながらにしてこの身を仏の道へ葬り去ったのだ。
「な、なんということを……!!」
 六条院の人々はみな驚愕し、絶句した。
 源氏の君も。
 まさかわたくしが、生まれたばかりの我が子をも捨て、尼になるなど、考えていなかったのだろう。
 小侍従は泣いてわたくしに取りすがり、自分も出家すると訴えた。
 けれどわたくしは、それを思いとどまらせた。
「小侍従、薫をお願いね。わたくしの替わりにそばにいて、この子を見守ってやってちょうだい」
「紗沙さま……!!」
 女ではなかったため、薫は源氏の君の意のままにされることだけはないだろう。けれど冷泉院に引き取られるにせよ、けしてその行く末は安穏とはしていないに違いない。
 わたくしに、薫の未来を見届けることは、もうできない。かわりに小侍従に、この世の此岸
(しがん)に留まるように命じたのだ。
 それは小侍従にとって、わたくしにこの恋をもたらしたことへの褒美であり、罰でもあったろう。
 小侍従は涙で顔中くしゃくしゃにして、それでもわたくしの言葉にうなずいた。
 わたくしに仏の戒を授けてくださったのは、お父さまだった。
 仏の道に入られたお父さまが、俗世の縁である親子の情に動かされてわたくしのもとを訪れるなど、それだけでも本当は仏の戒律を破っていることになる。それでもお父さまは、わたくしのために六条院へ来てくださった。
 臆病なお父さまがみ仏の教えに背いただけでも、源氏の君はかなり驚いたようだった。
「まったく……どうなさったのですか、朱雀院さま。こんな突然に、前触れもなくお越しとは――」
「愚かな父親だと笑ってください。娘のことが気がかりで、修行にもまったく身が入らないのだ。紗沙に、女三の宮に会わせて欲しい」
 かつて源氏の君が「傀儡人形」と呼び、「私には逆らえない」と評していたお父さまが、源氏の君の怒りをも怖れず、わたくしを出家させてくださったのだ。
 父と娘だけでゆっくりと話し合いたいからと、源氏の君すら部屋から追い出して。
「姫よ。いとしい紗沙。お前のために良かれと思ったこの縁だったが……。源氏の君に愛されることもないのなら、良いだろう。お前の願いを聞き届けよう」
 お父さまはそれ以上、なにもおっしゃらなかった。ただ黙って、わたくしの顔を見つめていらした。それだけで、わたくしの思いをすべてくみ取ってくださったのだ。
「いいの、お父さま? 本当にわたくしの我が侭を許してくださるの?」
「いいのだよ、紗沙。お前が望むとおりに生きなさい。これが、親として私がお前にしてやれる最後のことなのだ」
 そして一瞬の隙をつくようにして、お父さまはわたくしの黒髪を切り落とした。
 長い髪が床に落ち、まるで蛇のようにうねうねと溜まった。
 鋏が音をたてて、ひとふさひとふさ髪を切り落としてゆくごとに、わたくしは身が軽くなっていく。
 それは、わたくしの命が、鋏で切り落とされていくのと同じ。
 こうしてわたくしは、生きながら仏に、死人になっていくのだ。
「なんということをなさったのだ……!!」
 背丈よりも長かった黒髪を切り落とし、変わり果てた姿のわたくしに、なかば茫然として源氏の君は言った。
「なんと、愚かなことを――!!」
 わたくしは無言でほほえんだ。
 これで、源氏の君の思い通りにならずにすむ。
 だって尼となったわたくしは、もう死んだも同然の身なのだもの。誰かの妻として扱われたり、ましてや子供を産むことなど許されない。
 教えてやりたかったの。都中の人間すべてが自分の思い通りになると信じている、源氏の君に。
 人は、そんなものではないということを。
 どれほど弱く、敗北に狎
(な)れた人間であっても、時には勝者に逆らい、けして屈服しないことを。
 どんな人間にも、けして曲げない誇りがあることを。
 そして源氏の君。あなたはそういう人間をこそ、愛するのでしょう?
 もしもわたくしがあなたに服従し、あなたの意のままになるようなら、けしてあなたはわたくしを愛したりはしない。そんな意思のない人形のような女に、あなたはいつまでも関わり合おうとはしないはず。
 自分自身のことすら、わかっていなかったのね。
 源氏の君はすぐに、わたくしたちの意思に気づいた。
「まさか、この年令
(とし)になって……」
 苦々しくつぶやき、そして笑った。
「あなたのような姫宮と、あの朱雀院から、教わることがあろうとはね。今度ばかりは、私も痛い教訓を学んだ。どんなに卑小な人間に見えても、その決意をけして侮ってはならない、とね」
 そして、彼は言った。
「本当に惜しいことをなさった、姫宮。あなたほどの勇気があるなら、我々皇統源氏から権力を奪い取ることもできただろうに」
 まだわかっていないのね。
 わたくしはそんなもの、いらない。
 そんなものより大切なものがあると、源氏の君は、まだ気づいていない。
 可哀想な人。
 わたくしは自分の誇りに、この恋に殉じたのだ。
 いつまでも此岸で生きながらえて、恋の残滓を引きずってはいたくなかった。そんなことをすれば、ただ惨めになっていくばかりだから。
 もっとも純粋に燃え上がった瞬間に、すべての思いを永遠に封じ込めてしまいたかったのだ。柏木の死によって、彼の想いが永遠にわたくしのもとにとどめられたように。
 わたくしたちの恋は、もっとも激しく美しい瞬間で、永遠に凍りついた。もう誰も、この想いを引き裂けない。
「無理にでもあなたを抱いてしまえば良かった。そうやって、此岸につないでしまえば良かったのだね……。柏木にはできたことが、もう私にはできなかったのだ……」
 やがて薫が、母屋中に響き渡るような声で泣き始めた。
「おお、元気な声だ。良い子だ――」
 源氏の君は慣れない手つきで薫を抱き上げ、あやす。
「抱いてあげないのですか。あなたの息子だ」
「出家したわたくしには、その資格はもうありません」
 ……薫。
 薫。わたくしの可愛い薫。
 ごめんなさい。あなたの母は、もう死にました。
 けれど、わかって。わたくしは、精一杯闘った。
 この身を生きながら葬ることになっても、わたくしは後悔していない。これがわたくしの闘いの結果だから。たとえ、けして勝てなくても、わたくしは負けなかった。そう思うの。
 けれどあのまま此岸に留まり続けていれば、いつかまた、源氏の君の力に負け、彼の意のままになってしまったでしょう。
 これがわたくしだと、誰にでも胸を張って言える生き方を、わたくしはつらぬき通したの。
 だから、あなたも闘いなさい。
 闘って、自分自身の生き様を全うしなさい。
 たとえこの先、どんな運命があなたを待っていようとも。
 あなたの中には、そのための力があるはず。どんな人間も持っている、闘い、生き抜く力を信じなさい。
 そして……柏木。
 夜更け。わたくしは、柏木と取り交わした文をすべて燃やした。
 死にゆくこの身が、仏の旅路にこんなものを持って行くことはできないから。
 暗い夜空に、白くか細い煙が立ちのぼっていく。
 柏木。あなたはこの空のどこかにいるかしら。
 今、燃えているのは、わたくしの心。わたくしの魂。
 この煙の中に、死んだわたくしの魂が溶け込んでいる。
 そうして柏木。あなたのそばまで辿り着けるかしら。
 愚かでも、拙くても。あなたも、自分を信じて、精一杯闘い抜いたわね。だからわたくしは、あなたが好きだったのよ。
 愛している、柏木。今も。そして永遠に。
 何通もの手紙は、あっという間に白い灰となっていく。
 最後の煙が、夜空に吸い込まれて消えていく。
 この夜のうちに、わたくしの魂はふたたびあなたと巡り逢うでしょう。
 そうしたら、また、わたくしを抱きしめて。
 あなたが愛してくれた黒髪は、もうわたくしはなくしてしまったけれど。
 でもお願いよ、柏木。この空のどこかで、必ずわたくしを見つけてね。
 夜が明ける前に。
 朝日が昇れば、わたくしは仏道の彼岸へ渡る。もう、この世の者、この世に生きる女ではなくなるから。
 だからその前に、柏木、わたくしの魂を見つけてね。
 この空に、明けの鴉が啼く前に――。




                                    −終−




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