実際、小侍従を偵察に行かせる必要はなかった。
 若者たちがこの東南の町の庭へ、わたくしのいる寝殿のすぐ目の前へ移動してきたのだ。
 乗馬や弓の試射に飽きた彼らは、今度はこちらで蹴鞠に興じようというつもりらしい。
 女房たちがあわてて御簾をおろし、男たちの視線から室内を隠す。
 それでも室内を几帳で囲ってしまわないのは、やはり蒸し暑いのと、そんなものを立ててしまっては、庭の様子を眺めるのに邪魔だからだろう。
 わたくしもそれを咎めなかった。
 女房たちみたいに御簾のすぐそばまで寄って、衣の端を外へ出し、男たちの歓心を集めるような真似はできないものの、いつも座っている薄縁
(うすべり)を離れ、少しずつ御簾のそばに寄って庭の様子を眺める。
 御簾を降ろすと、外からはほとんどこちらの様子は見えなくなる。けれど内側からは、外が透けて見えるのだ。
 夕霧中納言を中心に、頭の弁、兵衛の佐など、内裏でも指折りの若い公達たちが、かけ声もすこやかに鞠を桜の空へ蹴り上げる。
「おーう!」
「あーりゃっ!」
 小さな布製の鞠が高く中空へ舞い上がるたび、庭のあちこちから高い歓声があがった。
 渡殿には源氏の君や、蛍兵部卿宮の姿もあった。鞠を追う若者たちを眺め、扇で指し示したり、なにか小声でささやき交わしたりしている。
 そして――。
「柏木……!」
 胸の奥で、心臓がどくん!と大きくひとつ、跳ね上がった。
 散り急ぐ桜のもと、柏木が立っていた。
 桜吹雪の中、庭を走り回る若公達。
 その姿を、女房たちが御簾の陰から透かし見る。
 声を抑えた歓声やため息が、あちこちから漏れた。
 若者たちは夢中で鞠を追う。日頃は謹厳実直を絵に描いたような夕霧まで、冠が歪むのにもかまわずに、声をあげて走り回っていた。
 そんな中で、柏木の姿はひときわ目を惹いた。
 彼は、誰よりも高く鞠を蹴り上げる。誰かが蹴りそこなってとんでもない方へ飛んでしまった鞠も、素早く落下点へ走り、もう一度庭の中央へと蹴り戻す。
 その姿はわたくしの記憶にあるよりも少し痩せて、目元のあたりに深い陰が落ちているように見えた。
 けれど、あの瞳は同じ。初めて見た時と変わらない、深く輝く篝火のような瞳。
 わたくしは思わず立ち上がってしまった。
 高貴な女が立って歩くのは、ひどくはしたないこととされている。けれどわたくしは立ち上がり、精一杯背伸びして、御簾の向こうを眺めずにいられなかった。
 女房たちも蹴鞠の見物に夢中だ。誰もわたくしの行儀の悪さを咎める者はいなかった。
 やがて柏木は、蹴鞠の輪からすいと抜け出した。
 いかにも、息が切れた、一休み――というような顔をして、母屋の階に腰を下ろす。
 わたくしの、すぐそばに。
「ようやく少し風が出てきたな。でも、桜の回りだけは避けて吹いてくれればいいのに」
 何気ないふりをしながら、柏木は周囲を見回していた。
 もしかして……わたくしを探しているの?
 かつて、後宮で幾重にも立てられた几帳の陰に押し込められていたわたくしを、それでもそれと察してくれたように。声にならないささやきを、輝くまなざしにこめて送ってくれたように。
 明るい庭先からは、薄暗い御簾の奥はほとんど見えないはずだ。
 ……ここよ。
 わたくしは、ここよ。
 どうしても彼に教えたかった。わたくしがここにいることを。
 その時、わたくしの足元で小さく、にゃあ……と声がした。
「あらお前、どうしたの」
 それは、小さな白い唐猫。
 もう一匹、昔から六条院にいる大きな猫に追いかけられて、わたくしの足元に逃げ込んだらしい。
 飼い猫である印に、首には長い紐を結んである。
 わたくしは不意に思いついた。
 黙って猫の紐をつかみ、御簾の上げ下ろしに使う紐に絡ませる。
 そして唐猫を抱き上げると、大きな意地悪猫のほうへぱっと離した。
「そら、お行き!」
 唐猫は大きな猫から逃げようと、外へ向かって勢い良く走り出した。
 紐が引っ張られる。
 音もなく、御簾が巻き上がった。
 涼やかな風が、一斉に室内へ流れ込んできた。
 そして。
 柏木が、わたくしを見た。
 あの、篝火のようにゆらめく瞳が、まっすぐにわたくしを捉えていた。
 ――見つけた。
 声なき声が、わたくしの耳元でこだました。
 ――やっと見つけた。こんなところに、あなたはいたんだね。
 ――ずっと悪い鬼に閉じこめられていたの? 誰の目にも触れないよう、こんな奥深くに。
 ええ、そうよ。
 わたくしはうなずく。
 ――知らなかったでしょう。わたくしが、こんな近くにいたなんて。
 ――本当だ。俺はいったい、どこを探していたんだろう。
 唐猫はすっかり紐に絡まってしまい、御簾の横でもがいている。
 でも、女房たちはまだ誰も気づかない。庭の若者たちも蹴鞠に夢中で、室内を見る者はいない。
 まるで時間が停まってしまったように思えた。
 わたくしは、身動きひとつできなかった。
 まばたきするのさえ、惜しかった。
 全身がまるで川底の砂みたいに砕け散り、柏木のほうへ一気に押し流されていくみたい。
 そして柏木は、その視線で、わたくしを受け止めてくれる。
 しっかりとわたくしを抱きしめてくれる。
 世界中が真っ白になって、消えていくような気がした。
 その時。
 鋭く、咳払いが響いた。
 夕霧中納言が、まくれ上がってしまった御簾のそばに立ち、しきりに咳払いして、女房たちの注意を喚起している。
 夕霧も、室内の様子が見えていることに気づいてしまったのだ。
 大声で怒鳴り、返ってみなの注目を集めてしまうような不作法はせずに、早くどうにかしなさい、と、無言でうながす。堅物の能吏として名高い夕霧らしい、礼儀と対面を重んじた、生真面目なやり方。
 ようやく気づいた女房たちが、慌てて御簾を巻き降ろした。
 唐猫も、やっと絡まった紐を外してもらう。小さな猫はにゃあっと一声高く鳴いて、外へ飛び出していった。
「女三の宮さま!」
 女房の一人にうながされ、わたくしは部屋の奥へ戻った。
 柏木も、夕霧に急き立てられるようにして、階を離れた。
 室内はふたたび、薄暗さと湿っぽく澱んだ空気に満たされた。
 けれど。
 ――そこだね。
 ――そこにいるんだね。
 柏木の声なき声は、今もわたくしの耳元にこだましていた。
 ――やっと見つけた、もう見失わないよ。
 そのささやきはひどく甘美で、この身を切り裂かれるような危険な予感を孕んでいた。
 わたくしは両手で強く、喉元を押さえつけた。
 そうしなければ、今にも口から心臓が飛び出してきそうだった。
 御簾の向こうでは、蹴鞠はもう終わりになってしまったらしい。
 若者たちは渡殿の近くに集まり、菓子や冷たい果物などをふるまわれているようだ。だんだんその話し声が遠ざかる。
 女房たちは今さらながら几帳などをめぐらし、室内をさらに暗く覆う。
 わたくしは几帳の陰に、くたくたと座り込んだ。身体中の力が抜けてしまい、二度と立ち上がれないような気がした。
 まるでこの胸の芯に、今もまだ柏木の視線が突き刺さっているみたい。
 あのゆらめく篝火のような瞳が、わたくしの身体の中で輝き続けている。
 春の陽はようやく西に傾き、あたりは次第に茜色に染まろうとしていた。






 その夜、東の対の紫の上が、急に体調を崩したと連絡があった。
 そのため源氏の君は東の対に泊まりこみ、こちらへは来られないという
 その知らせを聞いて、わたくしはほっとした。今、源氏の君に会えば、昼間のことをすべて見透かされてしまいそうな気がしたのだ。
「どうやら、あちらの方をひどくお恨みの方がいらっしゃるみたいなんです。大きな声じゃ申せませんが……その呪詛のせいじゃないかって」
 例によって、小侍従が早速聞き込んできた。
「あら、へんね。呪詛されるなら、今はわたくしじゃないの? 一応、源氏の君の正妻はわたくしってことになっているのだもの」
「いえ、それが、源氏の君絡みじゃございませんのよ。何でも紫の上のお父君、式部卿宮のご正妻が、紫の上のお幸せを妬んで、呪っていらっしゃるとか。いわゆる継子いじめってやつですわ」
 こんな話は珍しくない。
 源氏の君の、前の正妻である葵の上。彼女も、他の愛人の生き霊に憑り殺されたのだとか。
 夕霧中納言はこの、呪い殺された正妻の忘れ形見だ。
「紫の上にとうとうお子ができなかったのも、この呪詛のせいだって話ですわ」
 小侍従はわたくしのほうへ身を乗り出し、喜々としてしゃべり続けた。
「でも正妻が外腹
(そとばら)の娘を呪ってるなんて巷の噂になったら、式部卿宮も立つ瀬がございませんわよね。だからあちら様じゃ、噂のもみ消しに必死なんですって。紫の上に祟っているのは宮の北の方ではなく、昔、源氏の君の正妻を呪い殺した六条御息所の怨霊だって、言いふらしてらっしゃるそうですわよ」
「え……っ」
 思いがけない名前に、わたくしも思わず驚きの声をあげてしまった。
「ええ、六条の御方は秋好中宮の亡くなられたお母上でらっしゃいますわ。六条御息所の悪評が世の中に流布すれば、秋好中宮さまのお名にも傷がついてしまいますわ。式部卿宮家では、それも狙いなんですのよ」
 小侍従は一気にまくしたてた。
 彼女のおしゃべりはいつものことだけど、今夜は特に勢いがある。まるで焦って、このおしゃべりでなにかをごまかそうとしているみたいだ。
「だって式部卿宮家の姫君が、王女御として冷泉さまのもとへ入内されてるんですもの。でも冷泉さまは秋好さまを深くご寵愛され、中宮にも秋好さまがお立ちになられましたわ。王女御さまは後宮でもひどく影が薄くなってしまわれたそうですの。だから、今ごろになってお母上の古い醜聞を言い立てて、秋好さまの評判を貶めようという魂胆ですのよ。もちろん主上は、そんな根も葉もない噂などにはお耳を貸さず、今までどおり秋好中宮さまと仲むつまじくお過ごしだそうですけど。でもこれじゃあ六条御息所さまがおかわいそうですわよ。そりゃあの方、生前にはいろいろとお噂もあったようですけど。死んでまで他人の罪をおっかぶせられるなんて、ほんと、死んだ者貧乏ってことでしょうかしら」
「やめて、小侍従。わたくし、そういう話はきらいなの」
 ようやく、小侍従のおしゃべりをさえぎることができた。
 人を呪ったの、妬んでいただの、そんな醜い話は、今夜だけは聞きたくない。そう思った。
「も、もうしわけございません……」
 小侍従はしゅんとして、うなだれてしまった。
「つい、おしゃべりがすぎました。紫の上のお身の上が、あんまりにもお気の毒で……」
「あの方にかぎって、誰かに呪われるなんてこと、あり得ないわ。だってあの方は、源氏の君の最愛の女だもの。源氏の君が妻を護りきれないなんてこと、あるかしら。この国に、源氏の君の思い通りにならないことなんて、なに一つ存在しないのよ」
「ええ。たしかに、そうでございますわね」
 それにきっと、わたくしと小侍従がこんな話をしていたら、それを喜々として東の対や冬の御殿へご注進に行く女房がいるはず。
 小侍従があちこちの女君の内幕を探ってくるように、わたくしのことを探って他の女君へ告げ口する女房は、必ずいる。
 紫の上の、あの可哀想な女性の不幸をわたくしが喜んでいたなんて、絶対に思われたくない。
 かと言って、わたくしがことさら同情してみせたところで、あのひとは嬉しくも何ともないだろう。
 あの誇り高いひとは、自分が悶え苦しむ姿をけして他人に見られたくないと思うはずだ。
 わたくしだって、いつまでも美しく凛然としたあのひとを見ていたいと思う。
「それより、今夜は早く寝ましょう。源氏の君を待つ必要もないんですもの」
 わたくしがうながすと、女房たちもやがて一人、また一人と、わたくしの前から下がっていった。
 今夜はこのままゆっくり、昼間見た光景を胸の中で反芻しながら眠りにつこう。わたくしをまっすぐに捉えた、あのまばゆい篝火のような瞳を。
 きっと、ひさしぶりに幸せな夢が見られるに違いない。わたしはそう思って、脇息にゆったりもたれかかった。
 そして、残ったのは小侍従一人きりになる。
「紗沙さま」
 乳姉妹の二人だけになると、小侍従はいつもどおり、わたくしのそばに寄ってきた。
 けれどその表情は、いつになく硬く、どこか思いつめたような目をしている。
「紗沙さま。昼間のことは、まずうございましたわね。お気づきになられたのが、夕霧中納言さまお一人だけだったから、まだ良かったようなものの……。あれが、お庭の公達みなさまに気づかれていたら、もう大騒ぎになっていましたわよ」
「お前までお小言なの、小侍従。その話は、他の女房や乳母たちからさんざん聞かされたわ」
 小侍従がさっき、紫の上への呪詛がどうのとしゃべりまくっていたのは、このお説教を他人に聞かれないためだったらしい。こっそり聞き耳をたてている他の女房に、先におもしろそうな、けれどわたくしとはあまり関係のないおしゃべりを聞かせておいて、それぞれの女主人のもとへご注進に走らせる。そうやって、本当に聞かれたくない話をする前に、追い払ってしまったわけだ。
「これからはもっと慎重になさいませ。こんなことが源氏の君のお耳にでも入ったら、大変ですわ」
「ええ、そうね」
 わたくしは投げやりに返事をした。
 いい加減なわたくしの態度に、小侍従は困ったようにため息をついた。
 ただでさえ源氏の君は、どんなことでもわたくしと紫の上とを比較する。今現在の、年令が倍近くも離れた紫の上とばかりではなく、昔の、わたくしと同じ年頃のあのひとを。
「紫の上は、幼い頃から私が引き取って、私の思う通りに育ててしまったのでね。けれどあのひとはあのひと、あなたはあなただ。あなたらしく、のびのびとしていれば良い」
 などと口では言うが、そのくせ冷ややかな視線が言っている。わたくしは可愛げがなく、相手にしていてもつまらない、と。
 こんな行儀の悪い真似をしたと知れたら、源氏の君の目がどれほど冷たくなることか。
 彼は、自分の意に逆らう者を許さない。それは、お父さまに見せた容赦のない態度で、わかっている。
 今はわたくしも彼の手の中で転がっているだけだから、少々の無愛想や行儀の悪さは大目に見てもらっているのだろう。
 けれどその不品行が彼の許容範囲を超え、世間にも知れ渡るほどの恥を彼にかかせてしまったら、源氏の君はけしてわたくしを許さないに違いない。
 ――許さないよ。私の手から逃げようとすることは。
 あの冷たい、硬い石のような瞳に見据えられるたびに、わたくしは無言でそう厳命されているような気がしていた。
 一瞬、身体の芯を冷たいものが走り抜けた。
 しかたがない、と、思わなければ。
 わたくしは源氏の君に差し出された貢ぎ物。彼の意思に背くことは許されない。
 嫁いできてからずっと、わたくしは自分にそう言い聞かせてきた。そしてわたくしの心も身体も、自分自身のその命令に素直に従ってきたはず。
 なのに今は、胸の奥がざわめいて、とまらない。
 じっとしているだけで、指先からじりじりと熱い焦りのようなものがせり上がってくる。ひどく不安で、落ち着かなくて、でも身体中が何かを期待している。
 なにかが変わるのを、待っている。
 わたくし自身、それが何なのかもわからないのに。
 ただ、今は、一人になりたいと思った。
 実の姉妹より親しく、一心同体と言っても良いくらいの小侍従でさえ、今はそばにいて欲しくない。
「お前ももう下がっていいわ、小侍従」
「はい、紗沙さま」
 小侍従は折り目正しく一礼した。優雅に立ち上がろうとし、きれいに衣の裾をさばく。
 その瞬間、袖に隠してわたくしの手にぱっと結び文を握らせた。
「えっ!?」
「お早く、紗沙さま!」
 押し殺した声で、小侍従がうながす。
 そして目の端で素早くあたりを警戒し、監視役の女房たちがいないことを確認する。
 わたくしは身をかがめ、自分の袖の中に隠すようにして、手紙を広げた。
 ああ、指がふるえて力が入らない。結び文をほどく、たったそれだけのことがどうしてこんなに上手くできないのかしら。
 胸が高鳴る。とどろく。
 間違いなく、それは柏木からの文だった。






  《小侍従の語れる》
 わたしは知らなかったのです。
 まさかお二人の間に、そんなことがあったなんて。
 紗沙さまが六条院へ降嫁されたのちも、柏木衛門督さまが紗沙さまのことを思い切れずにいることは、ご本人の口からうかがっていました。
「馬鹿だと笑うだろう、小侍従? もうあの女は他人の妻になってしまったのに、どうかして姿をかいま見ることができないか、せめて声だけでも、あのひとの袖の香りだけでも感じられないかと、こうして夜な夜な六条院の回りをうろついているんだから」
 そんなふうに自嘲される柏木さまは、ひどく面やつれされたように見えました。
 実際、とてもお苦しみなのでしょう。
 紗沙さまの乳母をつとめたわたしの母は、実は柏木さまの乳母と姉妹です。柏木さまの乳母子の女房、弁の君は、わたしの従姉妹にあたります。
 そんなご縁で、わたしは以前から柏木さまのもとへも足繁く出入りさせていただいていました。
 実を言えば、わたしはこれまでにも何度も、柏木さまから手紙の橋渡しを頼まれていたのです。
「渡すだけでいいんだ、小侍従。返事など期待していない。ただあのひとに、俺の書いたものを見てもらうだけで、それだけでいいから」





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