――逢いたい。恋しい。
――俺を忘れないでくれ。
わたくしをめとった源氏の君への嫉妬まで、臆することなく書きしるされていた。
つたなく、感情がむき出しの文章。
それは、婉曲な表現やさりげないほのめかしで飾られ、何事もはっきり表現することを嫌う貴族社会において、むしろ叱責され嘲笑される分類のものだろう。
けれどわたくしには、その飾り気のない言葉が、いとおしくてならなかった。言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さるように感じられた。
わたくしにとっては、柏木の言葉だけが真実だった。
廟堂でなにが行われようが、後宮がどれほど醜い政権闘争の舞台となっていようが、わたくしにはそんなこと関係ない。源氏の君がわたくしの財産を狙っていたとしても、それすらどうでもいいと思っていた。
ただ、柏木がわたくしを想い続けてさえいてくれれば。
けれどわたくしは、その手紙に返事は書かなかった。
源氏の君もいないのに手紙なんか書いていたら、きっと不審がる女房が出てくる。そんな危険なことはできない。
それは、柏木もきっとわかってくれるだろう。彼も、返事など期待しないと小侍従に言ったそうだし。
でも……返事を書かない理由は、それだけではなかった。
返事はきっと、柏木が直接聞きに来てくれる。
そう、思えたのだ。
いちいち文にしたためて、それを女房だの側仕えだの、何人もの手を経て遣り取りするなんて、そんな格式張って面倒くさいこと、柏木は望んでいないような気がした。
わたくしも同じ気持ち。
柏木はきっとわかってくれる。そう、信じていた。
そして、わたくしの想像は間違ってはいなかった。
「……紗沙。紗沙姫」
深い、夜の闇の中。
花の香のように、わたくしの寝所へするっと忍び込んできた風。
優しく低いささやきに、わたくしは眼が覚めるまで、しばらく時間がかかってしまった。
「ひどいな、紗沙。まだ眼が覚めないの?」
「――柏木衛門督!」
さし込む灯りは月明かりだけ。薄蒼い闇の中にほの白く、柏木の若い姿が浮かび上がって見えた。
「どうしてわたくしの名前を知ってるの」
「小侍従に聞きました。本当は、あなたはこの名前で呼ばれるのが一番好きなんだと」
小侍従、あのおしゃべり!
柏木をここまで導き入れたのも、小侍従だろう。
わたくしはそこまでしていいと、許可を与えた覚えはないのに。
勝手なことをした小侍従を、叱ってやれば良いのか、よくわたくしの気持ちを理解してくれたのねと感謝すれば良いのか、それすらわからない。
ああ、もう……わたくし、なにも考えられなくなっている。
「女三の宮なんて、あなたには似合わない。あなたは紗沙だ。こうして間近であなたを見ると、心からそう感じる」
柏木はひとふさ、わたくしの髪を手のひらにすくいとった。
髪の端に、くちづける。甘く噛む。
篝火のようにゆらめいて輝く瞳が、真っ直ぐにわたくしを捉えている。
……じゅっ、と、短く激しい音をたてて、身体の芯で何かが火を噴いた。
そして同じ火が、柏木の中にも生まれている。
「紗沙」
彼の唇からこぼれると、慣れ親しんだ自分の名前でさえ、まるで違うもののように聞こえる。
わたくしも、柏木、と、彼の名を呼ぼうとした。
けれどそれは、声が掠れて、ほとんど音にならなかった。
いけないのに、と、言おうとした。
今ならまだ間に合うから。引き返しなさい。
わたくしたちは、ここから先へ進んではいけない。
なぜなら、なぜなら、わたくしは――。
「紗沙」
柏木は手のひらにすくった髪を、ぐいとその手に巻き取った。
「あ!」
髪を抑えられ、わたくしが痛みを感じるより早く、もう一方の腕が伸びる。
しなやかで強い腕がわたくしの身体に巻き付き、強く抱きしめた。
「か、柏木……」
「黙って」
ひそやかで優しい命令。
わたくしはもう、逆らうことができなかった。
柏木の胸の中に抱きすくめられる。
さやかに、凛とした香りが、わたくしの全身を包み込んだ。
柏木の身体は火照るように熱い。抱きしめられるだけで、わたくしの身体も劫火に炙られるように熱くなる。
――ああ、そうだね。
柏木の言葉が、耳の奥に聞こえる。
彼が一音も発していなくても、彼の言葉はすべて、わたくしの心に直接響いてくる。
――この熱が、あなたの答だね。
――待っていてくれたんだね。あなたも。
ええ、そうよ。
わたくしは、精一杯の力で柏木にしがみついた。
そんなことをしたのは、生まれて初めてだった。
誰かを、男の人を、自分から抱きしめるなんて。
けれどこの動作が、頼りなく子供じみた、ただがむしゃらにしがみつくだけの抱擁が、今、わたくしの想いのすべてだった。
待っていた。この時を。
今、わかった。わたくしの身体が意志に逆らって、なにをあんなに待ちこがれていたのか。
この時だった。
あなたがわたくしを生まれ変わらせてくれる、この瞬間を、わたくしは全身全霊で待ちわびていたのだ。
唇が触れた。
薄闇の中、互いの存在を手探りで確認するかわりに、おそるおそる唇で触れてみた、というような。
だがそれはすぐに、すべてを飲み込むような激しいくちづけに変わった。
強い指先が顎にかかり、乱暴に上向かせる。唇を開けと、ぎりぎりと力を込めてくる。
痛みと息苦しさに思わず小さく唇を開くと、すかさず熱い舌先が、するっとわたくしの中へすべり込んできた。
柏木は思うがままにわたくしをかき乱す。
吹き込まれる熱い息吹きに、めまいがする。
わたくしの呼吸も、鼓動も、すべてが柏木の香りに染まっていく。
息が停まるほど強く、抱きしめられる。わたくしの身体は、柏木の腕の中で柳のように反り返った。
身体中の骨がばらばらになってしまいそう。
けれどそんな乱暴な振る舞いをされて、わたくしの身体は喜んでいる。いっそこのまま、柏木の腕の中で、なにもかもこなごなに砕けてしまえばいいと、願っている。
白い単衣が肩から引き抜かれた。
わたくしの身体を覆うものは、自分の黒髪だけになる。柏木の前に、すべてがさらされる。
柏木はわたくしの身体を褥の上に横たえようとした。
けれどわたくしは、小さく首を横に振った。
自分から手をさしのべ、柏木の直衣に触れる。
美しい卯の花襲の直衣。少しだけ季節を先取りした洒落た色合いは、彼の若い美貌によく似合う。
けれど今は、このなめらかな絹が邪魔だった。
わたくしも、柏木のすべてが見たい。
「……紗沙」
柏木は小さくうなずいた。
そして乱暴に着ているものを脱ぎ捨てる。
ほっそりとした身体があらわになった。
柏木の身体はしなやかで、引き絞られた弓のように強靱だった。
もう少しこのまま、彼のはだかを見つめていたいと思ったけれど。
熱い身体が覆いかぶさってくる。
柏木の唇がわたくしの肌を這う。顎から喉、そしてあらわになった胸元へと、性急に降りていく。
「……あ!」
強い手がわたくしの乳房を包み込んだ。
まだ蒼く、女としての成熟も見せないそこは、彼の手の中にすっぽりと収まってしまう。
真っ白な肉に、硬い指先が食い込む。痛いくらい強く握られ、揉みしだかれる。
「あ、あ――い、痛い……っ!」
苦痛を訴える声は甘くかすれ、自分の声とも思えない。
甘く噛まれた胸の飾りは、すぐに熟した木の実のように硬く紅く勃ちあがった。
「紗沙……紗沙、紗沙……!!」
柏木はまるで縋りつくようにわたくしを抱きしめた。
わたくしも精一杯の力で、柏木を抱きしめる。
乳房に触れる唇。わたくしの身体のすみずみまで、慌ただしく辿っていく指。
熱い吐息が首すじに触れるのさえ、嬉しくて。
「ずっと……夢見ていた。あなたをこうして、抱くことを――」
柏木の手がわたくしの膝にかかった。強引に、力ずくでわたくしの両脚を押し開く。
そして性急な手が、わたくしの秘密に触れた。
「あ――っ!」
一瞬、鋭い衝撃が背すじを走り抜けた。
熱い痛みにも似て、わたくしを打ちのめすような感覚。
同じことを、源氏の君にもされている。けれどこんな、熱く激しい、めまいするような感覚は、一度も与えられたことはない。
痛い。熱い。狂おしい。
でも、やめないで、と思う。
どういうことなの。これはいったい、何。
柏木は執拗にそこをまさぐった。閉じようとする脚を自分の膝で押さえつけ、わたくしを意のままにする。
硬い指が、やわらかな肉を捏ね、拉ぎ
(ひしぎ)
、押し開く。さらにその奥にあるものを、残酷にさらけ出そうとする。
「あ、い、いや……いやぁ、やめて――」
わたくしは掠れる声で訴えた。
「お、お願い、もう……! い、痛い、柏木……っ!!」
痛い――痛い? たしかに痛みはあったけれど。
自分で口走った言葉が、それだけでは足りないと自分でわかっている。
どう表現すればいいのだろう。この感覚を。
柏木の触れるそこから、真っ赤な火花が飛び散るみたい。ばちばちと爆ぜ、わたくしの身体を灼き焦がしていく。
柏木はさらに、わたくしの脚を大きく開かせた。
そして、思いがけない熱さがわたくしを襲う。
「あ、あー……っ!!」
細く高い悲鳴がほとばしった。
潤みはじめた秘花に、柏木の唇が這う。
少しざらついた唇が、熱く熔ける舌先が、わたくしの秘密をすべてあばいていく。
「いや、あ、……あぁっ!!」
わたくしは身を捩った。
柏木の淫らなくちづけから逃れようと、褥の上でもがく。
けれど柏木は、わたくしの脚に自分の四肢を絡みつかせ、けして逃そうとしない。
「あ、あぅ、い……いやああ……っ。いやぁ、か、柏木……っ!」
答えるのは荒く乱れる息づかいと、そして猫が皿を舐めるような淫らな水音。
柏木の舌先がわずかに動くたびに、身体の芯が疼く。腹部の奥底に熱い液体のようなものが溜まり、わたくしを内側から濡らしていく。
やがてわたくしは、身動きひとつできなくなってしまった。
「こ、こんな……っ! どうして、こんな――あ、あ……っ」
熱い。
息が乱れる。つまる。
柏木が触れるそこが、熔けてしまいそう。
人の身体に、こんなにも熱く、激しい感覚がひそんでいるなんて。
身体が宙に浮き上がるみたい。頭の中でなにかがぐるぐると激しく渦を巻く。それは、身体の芯からほとばしる灼熱の感覚とひとつに溶け合い、混じり合って、わたくしを一気に押し流していく。
「お願い……っ。おねが、い――もぉ、やめて……っ」
わたくしはいつか、泣き出していた。
小さな子供のようにすすり泣き、しゃくり上げながら、訴える。
「いやあ、もう……こわい……っ!」
怖い――自分がどうなってしまうのか、怖い。
この激しい感覚の、果ても見えない。
このままでは、わたくしは壊れてしまう。
けれど柏木は、
「紗沙」
わたくしの頭を抱きかかえ、唇を寄せた。
髪の貼り付く額に、まぶたに、涙で汚れたほほに、何度もくちづけを繰り返す。
「紗沙、すまない。もう……止めてやれない――!」
そして、火のような衝撃がわたくしをつらぬいた。
「あ、あ……あーっ!!」
高い悲鳴がほとばしった。
つらぬかれたそこから、身体が真っ二つに引き裂かれてしまいそう。
けれどそれが、悦い。
たまらなく、悦い。
全身の血が沸騰するような熱さ、目の前が真っ暗になる戦慄、腰を中心に身体が浮き上がるようなこの感覚。これが、快楽というものだと、わたくしは初めて知った。
そう、この悦びが、わたくしを生まれ変わらせる。
「あっ、あ、か、柏木……っ!!」
わたくしはあられなく、柏木にすがりついた。
柏木が躍動する。わたくしの中で、激しく脈打つ。
若い身体はどこもかしこもぴんと硬く張りつめ、わたくしの皮膚を弾くように押し返す。わずかに触れ合うだけで火傷しそうなくらい、熱い。
その熱がたまらなく快く、いとおしい。
男と女が契るということの本当の意味を、わたくしは心よりこの身体で、今、覚えたのだ。
広い胸の下で、小さな乳房が押し潰され、ひしゃげる。その感覚さえ、たまらない喜悦だった。
「紗沙、紗沙、紗沙……っ!!」
柏木が何度も何度もわたくしの名前を繰り返す。
押し寄せ、引いて、またわたくしを突き上げる。その波がどんどん高く、早くなっていく。
ここに、彼がいる。彼の命そのものを、わたくしは受け止めている。
わたくしはわたくしのすべてで、柏木をだきしめた。
唇が重なる。
互いの呼吸も、あえぎも、すべて吸い尽くしてしまおうとするかのように、むさぼり合う。
わたくしの中に埋め込まれた熱い楔が、ひときわ大きく、猛々しく膨れあがった。
「あ、あ、……か、柏木ぃ……っ!!」
「紗沙――紗沙、紗沙……っ!」
そしてわたくしたちは、ひとつの塊のように溶け合い、同じひとつの悦びの中に溺れていった。
ようやく眼をあけると、あたりは次第に薄明るくなり始めていた。
遠くからかすかに、鳥のさえずりも聞こえてくる。夜明けも近いのだ。
柏木は褥の上に半身を起こし、わたくしを見つめていた。
「もう……眼が覚めたの?」
「いいや。眠らなかった」
柏木はふたたび、わたくしのそばに身体を横たえた。
「ずっとあなたを見ていた。もったいなくて、眠ってなどいられない」
そして、寝乱れて額に貼り付いたわたくしの髪を、ひとすじひとすじ、丁寧にかきあげてくれる。
見つめられているだけで、胸の奥にまた、ぽっと紅い火が灯る。
言葉にできないこの感覚を、どうにかして柏木に伝えたくて、わたくしは彼の手を掴まえ、指先に唇を押し当てた。
硬くて少ししょっぱい指先、平たい爪、全部を自分の舌先で確かめ、味わう。
柏木は悦びと、そして困惑の表情を見せた。
「やめてくれ。そんなことをされたら、帰れなくなる」
御簾の向こうは、刻一刻と明るさを増している。
どこかで、かァ……と、嗄れた鳴き声がした。
「明け鴉だ」
柏木は褥の上に身を起こした。
がァ、がァッと、騒がしく不吉な鳴き声が響く。幸福なひとときの終わりを告げる。
わたくしにはその声が、六条院にいる人間たち全員を叩き起こしてしまいそうなくらい大きく、禍々しく聞こえた。
「姫さま。……紗沙姫さま。お目覚めでらっしゃいますか」
御帳台の外から、押し殺した声がした。
「小侍従、お前なの?」
「はい。わたししかおりません」
小侍従はいつになく声をひそめ、呼びかける言葉のひとつひとつも慎重に選び抜いているようだ。
「間もなく、下働きの者たちが起きてまいりましょう。その前に……どうぞ、お早く」
うながされ、衣擦れの音さえ抑えながら、柏木は御帳台を出た。
小侍従に手伝わせて、直衣を身につける柏木。
昨夜、脱ぎ散らしたままだった直衣は、少ししわになって張りもなくなっていた。けれどその乱れが昨夜のことをありありと思い出させる。
柏木もきっと同じことを考えていたのだろう。陰の落ちる横顔に、少し朱がのぼった。
「お早く、お早く! お急ぎあそばして!」
小侍従は泣きそうな顔で、柏木を急き立てた。
このことが露見すれば、わたくしも柏木もただでは済まされない。
柏木を手引きした小侍従も、罪に問われるだろう。
その昔、朧月夜尚侍と密通した源氏の君は、その罪を背負って須磨へ流謫した。二人を手引きした女房は、もちろん右大臣家をクビになり、その後、親類縁者によってなかば無理やり尼にされたとか。
わたくしだって、小侍従を尼になんかしたくない。
ましてや柏木を、遠い配流の地へなんて。
考えるだけで全身の毛が逆立つようなのに。
なのに、御簾の外へ忍び出ようとする柏木を、
「行ってはいや」
と、引き留めようとする、愚かで子供じみたわたくしがいる。
わたくしは唇を噛みしめ、懸命にあふれる言葉を飲み込んだ。
柏木が一瞬、振り返る。
わたくしに何か言って欲しそうに、こちらを見つめている。
けれど一度でも口を開けば、わたくしはきっと、言ってはいけないことばかり並べ立て、柏木を困らせてしまうだろう。
だから、言えない。一言も、口を開けない。
初めて情を交わした男女は、その記念に互いの単衣を取り替えるのがならわし。けれどわたくしたちはそれもできない。
この夜の名残りすら、互いに抱いてはいられない。
わかって、柏木。
柏木も黙って、うなずいた。食い破るほど強く唇を噛みしめ、わたくしを突き刺すように、どこかすがりつくように、見つめる。
明け鴉がガァガァと、騒ぐ。急き立てる。
まるでそのくちばしに突かれ、追い払われるように、柏木はわたくしの前から去っていった。
そしてわたくしは、初めて泣いた。
御帳台の中、突っ伏して。
声をあげて泣いた。
こうなることくらい、最初からわかっていたはずなのに。
わたくしたちは恋を叶えたのではない。罪を犯したのだ。
罪の上に続く幸福なんて、あるわけがない。
なのに、こんなにも夜明けが恨めしい。
鴉、鴉。この鳥さえ啼かなければ。
かなうものなら、世界中の鴉をみんな殺して、この手で黒い羽根を毟り散らしてやりたかった。
次の夜も、その次の夜も、柏木はわたくしのもとを訪れた。
「あなたが泣いているんじゃないかと思って」
そう言って、悪戯っぽく笑う。その顔は、初めて出逢った、あの桜の夜とまったく同じだった。
本当なら、格子も開けずに彼を追い返すべきなのだろう。
けれどわたくしはもう、柏木を拒むことはできなかった。ふと気づけば、一日中、彼が訪れるのを待ちわびているわたくしがいた。
主人のいない邸は、やはり警戒も甘くなるらしい。
柏木はすぐに六条院の地理にも慣れ、小侍従の手引きがなくても、まっすぐにわたくしの寝所まで来られるようになっていた。
「今日は日暮れ頃から、あの庭先にひそんでいたんだ」
などと、大胆なことを言う。
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