FAKE −1−
プロローグ
「まったく、良く口が回ること。近頃のお若い殿方は、みんなあなたのようにお喋りなのかしら」
室内の一点を見据えたまま、淡々と老婦人は言った。
レース編みの肩掛けに包まれた身体はひどく小柄で、枯れ木のように痩せている。
白い絹のブラウスとくるぶしまで届く黒のロングスカート。いささか時代遅れの洋装は、木目を活かしたアールデコ様式の応接室に溶け込み、まるで彼女自身がこの部屋の調度のひとつであるかのようだ。
真っ白になってもなお艶やかさを失わない髪を後頭部でひとつにまとめ、小さな真珠のついたネットで覆っている他は、何の装身具もない。慇懃な寡婦にはそれがふさわしいと考えているのだろう。その横顔は若かりし頃の美貌を今も偲ばせ、視線は彫像のように微動だにしない。
いや、一点を見つめているのではない。薄く白濁した彼女の目は、ほぼ完全に視力を失っている。
「わたくしの若い頃は、男は寡黙なのが美徳だとされていましたよ」
「時代は変わりました。侍が大手を振って歩いていた旧幕時代はおろか、明治の御代
(みよ)
ですら、もう十年以上も昔です。今は新時代、大正十三年ですよ」
「知っています。目は見えなくとも、日付も勘定できなくなるほど呆けてはいません」
ぴしゃりと言った老婦人に、青年は苦笑した。
黒を基調にした洋装はけして派手ではないが、彼の長身にしっくりと馴染んでいる。長い脚を格好良く組み、客用の肘掛け椅子に座ったその姿にも、虚勢やぎこちなさはまったくない。洋装に革靴、椅子とテーブルの生活が、彼の日常であるのだろう。
そしてその容貌も、生粋の日本人ではあり得なかった。
肌は東洋のなめらかさだが、漆黒の髪はゆたかに波うち、瞳は暗い灰色。荒れる冬の海の色だ。光の加減では色のないガラス玉のようにも、アメシストのようにも見える。彼一人の中に、東洋と西洋が入り交じり、せめぎ合っているようだった。
「これは失礼いたしました、久川令夫人
(LADY HISAKAWA)
」
青年はにこやかに言った。
その言葉にも、老婦人は片方の眉だけをわずかに持ち上げ、不快を示して見せる。
「わたくしは好きではありませんね。そのように、何でもかんでも横文字で言い換えるのは」
それに――と久川前男爵未亡人慈乃(しの)は、見えない両眼でしっかりと青年を見据えた。
「相手の知らない言葉を次々に交えて、ぺらぺらとまくしたてる。相手に反論や疑問を差し挟ませず、考える余裕すら与えずに、自分の速度、自分のやり方で押し切ってしまう。あなたのしゃべり方は、商人のそれですらない。ぺてん師そのものですよ」
「これは……」
青年は一瞬、返答に詰まった。
が、すぐににやっと口元を歪め、声もなく笑う。まるで好敵手に出逢えたのが嬉しい、とでも言いたげな笑みだった。
そして、そんなしたたかな表情さえも、盲目の老婦人には手に取るようにわかってしまっているのだろう。
「ずいぶんと手厳しい、奥様」
「まったく、皆さんもどうしてこんな単純なことがわからないのでしょう。誰もかれも、やすやすと小悪党の口車に乗せられてしまうなんて」
けれどそう言う言葉ほど、彼女の口調に嘆きは感じられなかった。むしろ、どこかそれが当然だと言わんばかりの冷淡さすら漂っている。
「それで、わたくしに何の用かしら。あの薄ぼんやりの児島子爵閣下のように、わたくしにも持っている地所をすべてあなたに売り渡せというのなら、金輪際、お断りですよ」
青年は微笑んだ。老婦人の辛辣な物言いが、彼には心地よいようだ。淡い色の瞳が愉快そうにきらめいている。
「ずいぶんお耳が早い。博打で破産した児島子爵の家屋敷をぼくが買い取ったのは、つい二十日ほど前のことですよ」
「それこそ、時代は変わったのですよ。こんな片田舎にだって、電信も新聞報道もちゃんと届くのです」
慈乃はぴしゃりと言い返した。
だが――この老婦人の情報源は、けしてそれだけではあるまい。青年はにやりと口元を歪め、笑った。
維新と開国の混乱の中、一介の生糸商人から身を起こし、わずか一代で世界に名を馳せる大財閥を築き上げた、故久川敦(あつし)男爵。財閥の中核はやがて最初の絹織物の生産・販売から、日本と諸外国が必要とする品々を売り買いする国際貿易業に移行した。
その経済力が日露戦争に果たした役割は大きく、その功績により久川敦は男爵位を授けられた。
士農工商の身分制度が撤廃されたのち、新たに設けられた特権階級、華族。明治六年に制定された華族令では、大きく三つに分けられている。
平安の昔から宮廷に仕え、天皇家のもっともそば近くにあった公家華族。江戸時代の大名や大身の旗本などが叙爵された武家華族。
そして維新の元勲や、日清、日露の戦争でめざましい軍功をあげた者などが「国家に勲功ある者」として新たに爵位を与えられた勲功華族、いわゆる新華族。久川家はこの新華族だ。
初代男爵亡きあと、爵位は嫡男の辰雄に受け継がれた。その時には、久川家はすでに財閥運営の第一線から退き、株式保有などでその利益を享受する創立者一族というポジションに落ち着いていた。辰雄の第一の肩書きは貴族院議員だった。
財閥が創立者一族の意向を確認したい時は、第二代男爵ではなく、初代男爵未亡人へお伺いをたてるのだという。
夫と同じく軽輩の下士の家柄に生まれ、開国の激動をともに生きのび、そして財閥の発展を支えてきた賢夫人・慈乃。長年、夫の相談相手を勤めてきた彼女は、いつか夫と同じく経済や国際政治に精通するようになり、夫が四十代半ばで病に倒れた時も、それまで久川敦のワンマン経営であった久川財閥を、信頼できる重役達の円卓会議で運営する合議制に移行させ、自らは創立者一族として会議の後見をする立場に退いた。
久川男爵は財閥の代表取締役ではあるが、独裁者ではなくなった。ひとりの天才的な冒険商人によって急激に発展した財閥は、以来、複数の知恵と常識によって堅実に運営されていくこととなった。その堅実さが、第一次世界大戦による欧州市場の大混乱やその後の世界的不況の中でも財閥を守り続けているのだ。
もしも彼女が片田舎の牧場に隠居しておらず、東京で家族とともに災難に巻き込まれていたら、久川財閥は完全に崩壊していたかもしれない。彼女は、久川家のまさに扇の要なのだ。
こうして向かい合っていると、それが良くわかる。この老婦人の、器の大きさが。
「けれど、児島子爵が先祖伝来の土地を手放すことになったのも、自業自得というものでしょう。華族に列せられながら妻子もかえりみず、場末の芸者にうつつを抜かして、挙げ句の果てには博打ですってんてんなんてね。拳銃で頭を撃ち抜く羽目にならなかっただけでも、幸せですよ」
慈乃の表情は能面のようだ。何の動きもない冷たい顔のようでありながら、わずかな仕草、視線やうつむき加減だけで、喜びも同情もいたわりも、ゆたかに表現する。ただし、不注意な者や洞察力の足りない者に、その複雑な想いを読みとるのは難しいだろう。
まるで彼女の存在自体が、人間の出来を図る試金石のようだと、青年は思った。
「それでも、あなたが彼の地所を買い取ったおかげで、彼の家族も当面は暮らしていけるのでしょう。夫人と子どもたちはあなたに感謝するべきね」
慈乃の口調が、少しだけやわらかくなった。
「さあ、どうでしょう」
青年は照れ隠しのように軽く肩をすくめる。日本人は滅多にやらないそんな気取った仕草が、彼にはとても良く似合っていた。
「彼の嫡男に、進学の意志があるなら学資を援助してやると申し出たのですが、向こう臑をいやというほど蹴飛ばされましたよ」
その言葉に、慈乃は初めて声をたてて笑った。
「それで、どうするつもりです」
「あと二年後、あのガ――いえ、少年が高等小学校を卒業して、中学か高校への進学を志し、ぼくに頭を下げてきたら……、金を出してやるつもりです」
「蹴り上げられるほど、ひどく恨まれているのに?」
「ええ。敵愾心に燃える男は、単なる向学心を抱いた若者よりも、はるかに大きな功績をあげるものです。ぼくにとっても、けして損ではない投資になるはずです」
青年はそう言って、少し皮肉っぽく笑った。
「それは、あなた自身のご経験かしら? 『三ツ目のアレクセイ』
(Third Eye's Alexis)
」
そのとたん、青年の方がびくりと震えた。
余裕の笑みを浮かべていた口元がこわばる。
それは、誰も知るはずのない古い通り名だった。彼自身、思い出したくもない過去とともに記憶の奥底に封じ込めようとしていた、古傷のような名前。
「阿久津
(あくつ)
……、阿久津直之
(なおゆき)
です。今は」
声が震えるのも、抑えきれない。
青年――直之はひとつ、深く息をついた。一瞬にして虚をつかれた動揺を押さえ込み、さきほどまでの落ち着きを取り戻す。
が、それはあくまで表面上のものだった。肋骨の内側ではまだ、心臓がばくばくと早鐘を打っている。
海の果ての島国の、それもこんな山あいの片田舎で隠居暮らしをしている婆さんが、どうして知っているのだ。誰にも話したことのない、自分の過去を。それを象徴する通り名を。
それすらも、久川の情報網がかき集めた情報だと言うのか。
あのころ自分は、奇跡のようだと言われた。東洋の伝説にあるように、その額に、悟りを開いたあかしの第三の目を持っているみたいだ、と。小さなカードの裏に書かれた数字も、転がるさいころが見せる次の目も、すべて見通すことができる、奇跡の目。
本当はそれは、少し器用な指先と回転の速い頭とがもたらす、単なるぺてんにすぎなかったのだが。
「ええ、そうでしたね。貴族院議員、阿久津勝一伯爵の甥御さん。国政にお忙しい伯父上に代わって、阿久津家の持つ事業や農地の管理を、一手に取り仕切っておられるとか」
慈乃は淡々と言った。
「児島閣下やほかの、経済感覚に欠けた馬鹿な華族たちから、次々に事業や不動産を買い上げ、売り飛ばしているのも、阿久津家のお仕事の一環なのかしら?」
――この婆さん、いったいどこまで知ってるんだ。
喉の奥にせり上がる苦さを、直之は呑み込んだ。
「お名前に『卿』をつけてお呼びしたほうが良いのかしらね」
慈乃の見えない両眼が、真っ向から直之を見据えている。その視線から逃げることができない。
「いいえ。ぼくは、阿久津伯爵の係累として華族に列せられてはいますが、彼の後継者ではありません。華族令はご存知でしょう? 爵位を相続する養嗣子は、六親等以内の男系男子から選ばねばならない。――ぼくは伯爵の妹の子。女系男子ですから」
「おや。あの伯爵閣下に妹さんがいらしたなんて。――ああ、そう。思い出しましたよ。たしか、かなり若くしてお亡くなりになったとうかがっていましたけれど」
「ええ。母が他界した時、ぼくはまだ一〇才でした」
「それはお気の毒でしたね」
そして次の質問を、直之は覚悟した。
母の話題が出た。次は当然、彼の父親について触れてくるだろう。
それについての返答も、すでに頭の中に出来上がってはいる。これまで、何度も何度も繰り返してきたでっち上げ話だ。
だがそれを、この老婦人は本当に信用するだろうか。
騙しおおせるか? 今までのぼんくらどもと同じように、この賢しい女性の目をも。
今もこうして向かい合っているだけで、彼女は、必死に身がまえる自分を嘲笑っているかのようだ。彼女の見えぬ眼の前に、見通せない秘密などひとつもないと言わんばかりに。
直之は口を引き結び、押し黙った。うかつなことは言えない。相手の言葉を慎重に待つしかない。
言葉が途切れた。慈乃もまた、同じように直之の出方を窺っているのかもしれない。チェス盤をはさんで、二人の名手が互いに先手を読みあい、長い沈黙に入るように。
八畳ほどの応接室に、緊迫感が満ちていく。紫檀のテーブルを挟んで対峙する二人のあいだに、青白い火花が散るようだ。
その時。
一陣の風とともに、重い観音開きの扉が大きく開け放たれた。
「おはようございます、お祖母様! ほら、今年最初のレンギョウの花よ! 今朝、やっと咲きましたの!」
1 仮面の令嬢
応接室に飛び込んだとたん、桜子
(さくらこ)
は息を呑んで硬直してしまった。
祖母ひとりしかいないと思っていた室内に、もうひとり、見知らぬ男性がいる。
この応接室は、貿易商として世界中を駆けめぐった初代久川男爵の趣味に沿って造られている。黒光りする木目を活かした重厚な装飾は男性的で、太い柱や天井の梁は、帆船を思わせる。壁には猟銃が飾られ、空気にもまだ葉巻の匂いが漂うようだ。反面、華やかさには欠け、女性が楽しくくつろげる雰囲気ではない。
けれど祖母は、この部屋を愛しているようだった。来客がなくても、午後の一時を必ずこの部屋で過ごしている。亡くなった夫の息吹をここで感じているのだろう。
だから、
「大奥様は一階の応接間にいらっしゃいます」
という女中頭の一言を聞いただけで、桜子はためらいもなくこの部屋へ飛び込んでしまったのだ。
そういえば、さきほどから正面玄関のあたりが何だか騒がしかった。きっと執事の大沢たちが、この青年を出迎えていたのだろう。
桜子はあらためて、見知らぬ青年に目を向けた。
黒の背広はパッドで肩のラインを強調し、ウエストを細めに絞ってある。スラックスにはぴんと折り目がつき、真っ白な絹のシャツにわずかな曇りもない革靴。一縷の隙もない、見事な洋装だ。開国してすでに五〇年以上が経っているが、こんな片田舎ではこれほどの洋装はまだ珍しい。
来客用の肘掛け椅子に座ったままでも、彼の背の高さ、すらりとした体つきは良くわかる。漆黒の髪はゆたかなウェーヴを描き、その下の瞳は――。
瞳は……、この方の瞳は、何色と言えばいいのかしら?
こんな色の瞳は、見たことがない。すべての色彩をなくしたような、冷たい灰色。日本人のものではあり得ない。昏く燃えるような何かがそこで激しく渦を巻き、見つめていると、そのまま身体ごと吸い込まれてしまいそうだ。
桜子は思わず、腕に抱えたレンギョウの枝をぎゅっと抱きしめた。若い小枝が胸元でぽきりと折れた。
「何です、桜子さん。お客様の前で、お行儀の悪い」
祖母に厳しい声でたしなめられ、ようやく我に返る。
「あ! し、失礼いたしました。お客様がいらっしゃるとは気がつかなくて……」
「また女中たちと一緒になって、朝早くから庭いじりに精を出していたのでしょう。困った人ね。着ているものを良く確かめなさい。このあいだのように、頭に枯れ葉を乗せたままになっているのではなくて?」
そう言う慈乃の声は、言葉ほどきつくはない。優しさがにじみ、どこかおもしろがっているような響きがある。東京で生まれ育った孫娘が、北関東の山里暮らしを嫌がっていないことを、内心ではとても喜んでいるのだ。
「お着物は大丈夫? 裾や袖に泥はついていませんか?」
「はい、お祖母様。お屋敷に入る前に、ちゃんと払ってきましたもの」
桜子は菫色の矢絣のたもとをもう一度確かめた。帯はは山吹色の名古屋帯を一文字に結び、やや古めかしくマガレイトに結った長い髪は少し乱れているが、このくらいは大目に見てもらえる範疇だ。
「そう。それなら、こちらへ」
小さく笑いながら、慈乃は桜子を手招きした。
「直之さん。このお転婆娘が、わたくしの孫の桜子です」
「初めまして、桜子嬢。阿久津直之です」
立ち上がり、青年は軽く一礼した。その身のこなしも、整った容姿にふさわしく優美だ。
桜子もあわてて深く頭を下げる。
「直之さんは、阿久津伯爵の甥御さんです」
「先日、伯父がこの近辺に土地を買いました。いずれ国政の一線から退いたのちは、のんびりと牧場でも経営するつもりらしいですが、まずはぼくが物見に来て、こうして近隣の方々とお近づきになろうとしているんです」
「そうでしたの。こちらこそ、どうぞご懇意にしてくださいませ」
儀礼的に、新しい隣人へ笑顔を見せる。
直之も軽くうなずき、それに応えた。
だがそのとたん、桜子は彼から眼がそらせなくなってしまった。
直之がまっすぐに桜子を見つめている。
冬の嵐のような灰色の瞳が、その視線が、桜子の全身をつらぬいていく。まるでその視線だけで桜子の姿を丸裸にしてしまい、すべての秘密を暴こうとするかのようだ。
――なんなの、この人の眼。どうしてこんな怖い目で、私を見るの。
怖い……? ううん、違う。身体の芯がぞくぞくして、ふるえてしまいそうになるけれど、でもこの感じは単に怯えているからじゃないわ。なにか、もっと違う気が……。
「この目が、お珍しいでしょうか?」
直之が口を開いた。
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