FAKE −10−
 ここ数日で、直之のうわさも少しずつ桜子の耳に入るようになってきていた。
 那原にあった児島子爵の農場は、相場の二分の一程度の値段で買い叩いたらしい。子爵の博打狂いは以前から有名な話だったが、その借金に乗じて阿久津伯爵家が土地を乗っ取ったともっぱらの噂だった。もう少し児島子爵に分別があれば、あんな冷徹な人間の口車には乗らなかっただろうに、と。
 ほかにも、彼に地所や屋敷をほとんど乗っ取り同然に買い上げられたという人間は、何人もいるようだ。しかも直之はその土地を次々に転売し、大きな利益をあげているという。
 それらは法律違反、犯罪というわけではない。現行法の範囲内だ。しかもその取引はほとんど阿久津勝一伯爵の名で行われており、直之の名前は表に出ていない。
 それまで事業や金儲けにはまったく興味のなかった公家のお殿様が、突然「人が変わったように」経済通となり、容赦ない手段で自分の財産を殖やしている。一度破産寸前にまで追い込まれたのがよほど堪えたのだろうと、もっぱらの評判だった。
 だが陰に回れば、
「実業家と言えば聞こえもよいが、あれではただの高利貸しではないか」
 と、毒づく者も少なくない。
 それは、阿久津勝一伯爵にとってどれほど屈辱的なことだろう。雅を尊ぶ公家の血筋を重んじ、家名を守るために妹を見殺しにするほど誇り高かった彼が、まるで守銭奴のように言われているなど。だが事実を公表すれば、直之の出自――伯爵の妹が見知らぬ男たちに強姦されて父なし子を産んだという事実も、明らかになってしまう。
 そうやって阿久津家の名を泥にまみれさせることで、直之は母の復讐を果たしているのかもしれない。
 事実を知っているのはほんの一握り、阿久津家内部の人間だけだ。
 表面上、直之はロシア貴族の血を引く洋行帰りの貴公子だ。時々、伯父の事業を手伝うだけで、あとはのんびりと日本の社交界にとけ込めるよう、文化や伝統を学んでいる最中だという触れ込みを、疑う人間はほとんどいない。
 ――私の秘密を知っているのが彼だけであるように、彼の真実を知っているのも、私ひとりなのかもしれないわ。
 今は桜子を支え、助けてくれる直之だが、いつ裏切るかもしれない。食うか食われるか、騙すか騙されるか。直之はそうやって生きのびてきた男だ。
 たったひとり、混沌の上海で生きてきた少年。大人からは何ひとつ与えられず、名前すら自分で考えなければならなかった。他人をだまし、奪い、傷つけ……それだけが彼の生きるすべだった。
 だから彼は、利益を上げるために血のつながった伯父たちを利用し、その名誉を踏みつけにするのも平気なのだろう。
 三つ目のアレクセイ。その過去を思えば、桜子ですら身震いする。
 なのに、彼の灰色の瞳には、それ以外のものが宿っているような気がする。
 こちらを見ていない時、誰かが自分を見ているとは気づいていない時、彼はふと、まるで別人のような目をすることがある。
 ひとりぽっちでさまよう子どものような、淋しい灰色の眼。
 そこにあるのは、いつもの、激しく渦を巻く冬の海ではなく、透明で切ない哀しみだ。ひとりぽっちの子ども。誰にも抱きしめてもらえず、誰よりも愛してほしかった母親からも手を差し伸べてもらえない、寄る辺のない子どもが、そこにいる。
 他人を見くだす傲慢な表情と、鋭い知恵。他人を騙しても眉ひとつ動かさない冷徹さ。彼がひとりで生き抜くために身に着けた鎧を剥ぎ取れば、そこにいるのはまだ、上海のアパートでふるえている孤独な少年なのかもしれない。
 ――莫迦ね。何を夢見ているのかしら。
 桜子は、自分で自分の想いを笑った。
 彼が可哀想な男の子だなんて。そんなことを告げたところで、彼はきっと一笑に付すだけだろう。
 彼はきっと、自分にすがり、寄りかかろうとする人間など、受け入れない。彼自身が言ったではないか。桜子の勇気を称賛する、と。何もかも彼に任せきりにして甘えているようでは、すぐに見捨てられてしまう。
 いや、ただ見捨てられるだけならまだましだ。愚か者は彼の獲物になってしまうだろう。
 賢くならなければ。誰にも――直之にもだまされないように。あの人は三つ目のアレクセイ。自分でそう言ったように、彼のすべてが偽りなのだ。
 そう思う心で同時に、彼にならだまされてもいいと、声がする。
 彼が差し伸べてくれた手のあたたかさ、この肩を抱いてくれた力強さ。それまで疑ってしまうのは、あまりに狭量なのではないか。そこまで自分は人を信じられないのか、と。
 人は、自分の信じたいものだけを信じる。直之の言葉がよみがえる。
 ――私は、あの人のすべてを信じているのかしら。それとも、いつ裏切られるかわからない、あの人が怖いと、怯えているのかしら。
 だからこんなにも、いつもいつもあの人のことばかり考えてしまうのかしら。
 そうね、私、あの人のことをどう呼べばいいのか、それすら未だにわからない……。
「どうかなさったのですか、お嬢様」
 呼びかけられて、ようやく桜子は我に返った。
「あ、ああ、ごめんなさい。ぼんやりしてしまって……」
 振り返ると、布団の上に正座した歩が、心配そうな表情で桜子を見つめていた。
 こぢんまりした使用人長屋は、どの部屋にも最新式のストーブが置かれ、あたたかく乾いた空気を造り出している。
「お疲れなんじゃありませんか? お顔の色もなんだか冴えないし」
「そんなことないわ。……そうね、ちょっとお祖母様のことが気がかりで」
 それも、嘘ではなかった。
「大奥様のご容体は、そんなにお悪いのですか?」
「ご本人はそれほどでもないっておっしゃってるのだけど、この頃少しお疲れのご様子なの。急にあったかくなったり寒くなったりしてるから……」
 もう一度、窓の外の雨を眺め、ため息をつく。
 祖母の体調が良くないのを理由に、桜子は近隣の人々から茶会に招かれても、あるいはテニス、乗馬などに誘われても、みなことわっていた。
「じゃあ、ぼくのことなど気になさらず、どうぞお屋敷に戻ってください。大奥様のおそばに」
「でも……」
 歩も、このところ微熱が続いて、体調が思わしくない。食欲もあまりなく、布団の上に身を起こしているのも、少しつらそうだった。
「ぼくは大丈夫です。少し横になっていれば、すぐ楽になりますから」
 懸命に笑う歩が痛々しくて、桜子はそばを離れる気にどうしてもなれない。
 歩は、桜子の嘘が自分のせいだと思っている。自分の命を救うために、お嬢様はあえて罪を犯しているのだと。
 逆にその自責の念が彼を苦しめ、快復を遅らせているのではないかと思う。
 自分から健康になろうとする気力が、歩には欠けているような気がする。自分が死ねば、桜子の秘密を知っている人間はひとりもいなくなる。そう思い、いっそこのまま死んでしまいたいと願っているのではないか。怖くて、歩本人に問いただすことはできないけれど、彼の言葉の端々や、歳よりもずっと大人びて哀しげな彼の瞳に、その思いが感じられてしまうのだ。
 そう思うと、なおさら歩のそばを離れられない。
「歩さん、私――」
「彼の言うとおりにしたまえ。貴女はお祖母様のそばへ戻られたほうがいい」
 低く、力強い声がした。
 振り返ると、住宅の玄関に背の高い姿がある。
 インヴァネスコートについた水滴を払い、直之はゆっくりと室内に入ってきた。
「なかなかいい住まいだな。久川家では使用人の文化的生活にも充分気を配っていると見える」
「阿久津様……。ど、どうしてこちらへ」
「いや、執事に訊ねたら、お嬢様はこちらだと言うもので」
 直之は土産に持ってきたらしい花束を、桜子に差し出した。このあたりでは珍しい早咲きの薔薇だ。
 そして、寝床の歩のほうへ視線を向ける。
「きみか。震災の大火の中から、命がけでお嬢様を救った英雄くんというのは」
 その、やや軽薄な口調に、歩は表情を険しくする。
 直之が桜子の秘密に気づき、荷担してくれていることは、歩には教えていない。直之が裏切りはしないかと、少年がよけいな心配をするだろうから。
「きみの背中の火傷は、桜子嬢をかばって負ったものだそうだな。小さな英雄に敬意を表し、きみにも手土産を持ってきた」
 インヴァネスの下から出てきたのは、平たい紙袋だった。
 その中身は、
「わあ! 『少年倶楽部』の最新号だ! 江戸川先生の新連載が載ってる!」
 歩は一瞬、直之への警戒を忘れ、初めて子どもらしい歓声をあげた。
「きみが読みたいなら、毎号取り寄せてあげよう。東京の発売日より、三日くらい遅れるがね」
「本当ですか!?」
「まあ、そんなこと……。お手数でしょうに」
「いいや、かまいませんよ。どうせぼくも、月に何種類も東京から雑誌や読み物を取り寄せているんです。一冊くらい増えても、どうということはありません」
 直之はインヴァネスを脱ぐと、洋間の椅子を和室に寝ている歩の顔が見える位置に引き寄せた。高く足を組み、椅子に座る姿は、まるで活動写真のポスタアのようだった。
「彼の話し相手は、しばらくぼくが勤めよう。桜子嬢は先にお祖母様のそばへ。執事には一応、取り次ぎを頼んであるのだが、どうもあの老人、少し耳が遠いんじゃないか? ぼくの名前を聞き間違えているような気がするよ」
「大丈夫ですわ。家令の吉沼はああ見えて、まだとてもかくしゃくとしていますのよ」
 桜子は歩の枕元を立ち上がった。家令が来客を知らせても、そのもてなしの用意は桜子が考え、女中たちに言いつけなければならない。
「では、わたくしは先に屋敷へ戻っておりますわ。歩さん、阿久津様にご迷惑をおかけしてはだめよ」
 返事は聞こえなかった。歩はもう少年倶楽部に夢中で、目を輝かせて活字を追っている。
 直之も、そんな歩をまるで弟を見守るような目をして眺めていた。
 これなら、しばらく席を外しても心配はなさそうだ。直之も、少し歩の相手をしたら、すぐに屋敷へ来るだろう。
 ――もしかしたら、歩さんにもこの人のことを打ち明けてもいいかもしれないわ。
 気概のある人間を高く評価する直之だ、賢い歩のことも気に入ってくれるに違いない。そして歩も、直之がどういう人物なのかを自分なりに判断できれば、少しは安心できるのではないだろうか。
 お互いに隠し事がなくなって、少しでも重荷が減れば、それにこしたことはない。
「それでは、屋敷でお待ちしています、阿久津様」
 もらった薔薇の花束をかかえ、桜子は長屋をあとにした。





 ぱたん……と、小さな音をたてて扉がしまると、それきり狭い長屋には、ストーブで薪が爆ぜる音以外、何の物音もしなくなった。
 不意に、歩が雑誌から視線をあげた。
 そしてまっすぐに直之を見る。
「おかしいと、思わないんですか?」
「なにを?」
「ぼくのような下働きの下男が、こんな雑誌を読めること」
 歩は膝の上に雑誌を閉じた。
「金額のことを言ってるんじゃありません。こういう雑誌は……難しい漢字が多い。尋常小学校を出たくらいじゃ、読めるものじゃないんです」
「ああ、そうだろうな」
「――ぼくは、尋常小学校だってろくに行っていません。ぼくに読み書きを教えてくださったのは、お嬢様です」
「……彼女が?」
 直之は、桜子が出ていった扉を見やった。
「ぼく……、東京のお屋敷にいる時に、猫を飼っていました」
 ぽつりと歩は言った。
 少年が突然なにを言い出したのかと、直之は少しいぶかしそうな顔をした。
「白い、こんなちっちゃなヤツで……、道端に捨てられていたのを拾って、厩でこっそり餌をやっていたんです。屋敷の人に見つかったら、捨ててこいって言われるに決まってるから――」
 歩は、自分の手のひらをじっと見つめていた。まるでその中に、白い子猫がいるかのように。
「ところが、運悪く若様に――竜一郎様に見つかってしまったんです。竜一郎様は子猫の首を掴んで、おもしろ半分に振り回して……。ぼくは思わず、竜一郎様の足に飛びつきました。竜一郎様はそのまま後ろに転んでしまって――。ひどく腹を立てた竜一郎様は、乗馬用の鞭でぼくを殴りつけました。何度も、何度も……。肉が裂けて、背中が血まみれになって、そのまま殺されるかと思った時、お嬢様がぼくの上に覆いかぶさって、ぼくを助けてくださったんです」
 ぐいっと寝間着の衿をはだける。その下にある火傷の痕を、直之に示す。
「その時の傷痕は、火傷で潰れてしまいました。けれどお嬢様の背中には、同じ鞭の痕が今でも残っているはずです」
 直之の表情が一瞬、不快そうに歪んだ。それは自分より弱い者を痛めつけて喜ぶ竜一郎に対する嫌悪であり、同時に、消えない傷を刻みつけられた少年や娘が負った痛みを、彼も感じているかのようだった。
 竜一郎のように、自分の屋敷の使用人を人間とも思わない者は多い。自分の自由になる所有物としか見なしていないのだ。ましてや相手が、歩のような身よりのない子どもならばなおさらだ。もしもその時にやりすぎて竜一郎が歩を殺してしまったとしても、ことが表沙汰にされることはなく、竜一郎がおおやけに罰せられることはなかったはずだ。
「その猫は、どうした?」
「死んでしまいました。首の骨が折れて」
 鋼のように鋭く硬質の光を瞳に宿し、歩はまっすぐに直之を見た。
「あなたの目的が何なのか、ぼくは知らない。知りたくもない。でも、わかる。あなたは狡い人だ」
「ほう……」
 直之は軽く眉を持ち上げ、にやりと笑った。悪党の笑いだ。
「今までも、お嬢様に近づこうとする男は何人もいました。甘ったるい言葉で口説いて、花だの人形だのを贈って――。でも、お嬢様の気を惹くためにぼくを利用したのは、あなたが初めてだ。……つまり、あんたは知ってるんだ。ぼくが――ぼくが、お嬢様にとって、ほかの使用人とは違うんだってこと」
 冬の嵐みたいな灰色の目が、まっすぐに歩を見ていた。けれど歩は臆することなくその目を見返し、言った。
「あんたがお嬢様を哀しませるなら、ぼくは絶対にあんたを許さない」
「へえ……。そりゃ怖いな」
「ぼくは本気だ! お嬢様を傷つけたら、絶対に許さないぞ!」
「許さない?」
 直之は立ち上がった。
 そしてつかつかと洋室を横切り、そのまま歩の布団のすぐそばまで来る。立ったまま、布団に座る歩を見下ろした。
「くそガキが生意気に、一丁前の男の目をしてるじゃねえか」
 いきなり、口調が変わった。その声まで幾分しゃがれて、場末の酒場で聞こえるような濁声になる。片手をスボンのポケットに突っ込んで立つその姿には、さきほどとはまったく違う、どこか得体の知れない空気が感じられた。
 豹変した直之の態度に、歩は思わず息を呑んだ。
「いったいどうしてくれるんだ? 俺をぶん殴るのか? その体で」
 そうやって座ったまま長身の直之を見上げると、よけいに彼が大きく見え、押し潰されそうな威圧感を感じる。
 けれど歩は唇を噛みしめ、自分を見下ろす灰色の目を、怒りに満ちた目で睨み返した。小さな、傷ついた体に、かッと熱い血が駆けめぐる。
「お嬢様は……お嬢様は今までずっと、哀しい思いばかりされてきたんだ。今やっと、この那原で、しあわせになれたんだ! お嬢様を泣かせたら、ぼくはあんたを許さない」
「だからどうするって言うんだ。俺を追っかけてくるのか? 布団にくるまったまんまの半病人のガキが、ろくに走れもしねえくせに!」
「追いかけてやるさ! たとえこの足で立てなくても、両腕で這ってでも、あんたを追いつめて、殺してやる!」
「ははっ! そりゃ楽しみだ! せいぜいがんばってくれ」
 懸命に叫ぶ歩を、直之は嘲笑った。歩の布団を爪先で蹴り上げる。
「それなら、まずは体を治すことだな。死に損ないの半病人じゃ、大事なお嬢様は守れないぞ」
「うるさいっ! あんたに言われなくたって、わかってるよ!」
 歩はとっさに枕をひっつかみ、力いっぱい直之に投げつけた。
「おっと!」
 直之はひょいと首を傾げただけで、それをかわす。
「おー、怖ええ! こいつは、本気で殴られないうちに、退散した方が良さそうだな」
「さっさと出ていけっ!」
 歩の怒鳴り声を背中で聞きながら、直之はもう一度高く笑い、長屋の玄関へ向かった。
 扉を開けると、冷たい霧のような空気が渦を巻いて流れ込んでくる。直之は慌てて外に出て、扉を閉めた。
「寒いな」
 手にしていたインヴァネスを肩に羽織る。
 直之は足早に庭を通り抜け、屋敷へ向かった。





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