FAKE −11−
 正門からまっすぐに伸びる馬車道の両脇は、背の高いポプラと花水木が半々に植えられている。広い芝生と、奇麗に刈り込まれたツツジや薔薇の垣根。その向こうにある、白い壁の洋館。花の時期には、お伽の城のように見えるだろう。
 ……昔は、こんなところが欲しいと思っていた。
 母が見ている幻想が、きっとこんな風景だろうと思ったから。自分が望む美しいものに囲まれて過ごせたなら、母の心も少しは慰められるだろうと思った。
「……ばかばかしい」
 この屋敷がこんなに美しいのは、ここに住む人々がこの建物を、庭を、愛しているからだ。この屋敷が自分の一部であり、また自分自身も屋敷の一部であると考えて。
 ここが私の家。ここが私の還る場所。
 この屋敷は、そうやってここを愛しているひとたちのものだ。
 ――あの少女が流浪の末にやっと見つけた、あたたかな場所だ。
 血まみれになって這いずりながら、やっと辿り着いた彼女の故郷。
 初めて彼女の秘密を暴いた時の、あの大きく見開かれた目が、忘れられない。衝撃と恐怖と、そして言いしれない哀しみに潤んだ瞳。直之の胸の中に真っ直ぐに飛び込んでくるようだった。
 誰ひとり頼るものもないまま、懸命に生きのびてきた娘。それは直之自身も同じだったが、他人を騙し、傷つけて生きる道を選んだ自分と違って、彼女はそれでも誰も傷つけまい、哀しませまいと歯を食いしばって堪えている。そのせいで、自分の涙を誰にも見せられなくなって、たったひとりで声を殺して泣きながら。
 ここは、彼女の故郷だ。
 この美しい山里で、優しい人々に囲まれていたなら、いつか彼女の傷も癒えるだろう。嘘はやがて忘れ去られ、彼女は本当に久川桜子としてしあわせになれるだろう。
「ずいぶん愛されてるじゃねえか、お嬢様」
 ――俺が心配してやる必要なんて、どこにもない。
 ない、はずなのだが。
 屋敷の玄関を入ると、扉のすぐそばに控えていた執事が一礼し、さっとインヴァネスコートを受け取った。言葉はあまりはっきりしないが、その身動きに隙はない。
 執事の案内を、何度も訪れて慣れているからとことわり、直之はひとりで応接室へ向かった。
 長く暗い廊下を抜け、彫刻で飾られた扉の前に立つ。
 観音開きの扉は、少し隙間が開いていた。
 その奥から、優しい声が聞こえる。
   WHEN Friendship or Love,
   Our sympathies move,
   When Truth in a glance should appear,
   The lips may beguile,
   With a dimple or smile,
   But the test of affection's a tear.
「バイロンか……」
 英語の詩を、桜子が原語で朗読している。流暢な発音と明るい声は、聞く者を魅了する。
 直之も扉の前に立ったまま、しばらくその朗読に聞き入った。
 いつまでもそうやって聞いていたい気もしたが、詩の区切りの良いところで、直之は拍手しながらゆっくりと扉を開けた。
「まあ、阿久津様!」
 窓辺に立ち、詩集を広げていた桜子が、短く驚きの声をあげた。
 暖炉の前の一番あたたかな場所には、車椅子に乗った慈乃がいる。
 慈乃はいつもどおり白いシルクのブラウスに黒いロングスカート、桜子は紅梅色を裾濃にぼかした小袖に、金と黒の市松模様の昼夜帯を可愛らしく結んでいる。略式の普段着だが、春らしい明るい色彩がとてもよく似合う。半襟はモダンな総レースだ。
「いつからそこにいらっしゃいましたの!?」
「さきほどからです。すばらしい朗読を聞かせていただいた」
「まあ……!」
 桜子はうっすらと耳元を紅く染めた。
「黙って聞いていらしたなんて、恥ずかしいわ。洋行帰りの阿久津様からすれば、ずいぶんおかしな発音だったでしょう」
「いいや、とんでもない。上海の租界で、耳で覚えたいい加減なぼくの英語より、ずっとすばらしい発音でした。奇麗なブリティッシュイングリッシュでしたよ」
 直之は室内に入っていった。慈乃に軽く一礼し、来客用の椅子に腰かける。
「バイロン卿とは、ロマンティックですね」
「お祖母様のご所望でしたのよ。今日は浪漫
(ロウマンス)が聞きたいとおっしゃって」
 孫娘の言葉に、慈乃も小さくうなずいた。
「では、ぼくもさっきの続きをリクエストしてもよろしいですか?」
「その前に、阿久津さん。この子にお茶を持ってこさせますわ」
 慈乃は小さく手を振り、桜子をうながした。
 が、テーブルの上にはすでに三人分の茶器が用意されている。桜子は少し不思議そうな顔をした。
「今日は雨で、とても寒いわ。紅茶に少しブランデイを垂らしたら、阿久津様のお身体をあたためるのにもよろしいのではなくて?」
「ブランデイ……。それは、ありがたい」
 直之は小さく笑った。
「わたくしのにもね。ほんのひと垂らしで良いわ」
「はい、お祖母様。すぐにお持ちしますわ」
「それと、何かお茶菓子を用意してちょうだい。もう『小時半』よ」
「こじはん?」
 聞き慣れない言葉に首をかしげる直之に、桜子は無邪気に笑った。
「このあたりの方言ですの。朝食とお昼ご飯のあいだや、お昼と晩ご飯の中間にとる軽食。でも、ただお茶とお菓子をいただくだけじゃなくて、田畑で働く人のために、もっとしっかりおなかにたまるものを用意するんです」
「おもしろい言葉ですね。小時半か。たしかに田舎の生活は朝が早い。ぼくも少し空腹です」
「じゃあ、もう少しお待ちになっててくださいね。すぐに用意します」
 桜子は暖炉の上に本を置いた。そして直之に軽くお辞儀をして、応接室を出ていく。
「あの娘が来てから、農場や屋敷で働く小作人たちに出す小時半も、いろいろと工夫できるようになりました。ハイカラなお菓子なんかもあってね。以前は判で押したように、女中たちがつくるおにぎりと漬け物だけだったのだけど」
「そうですか。ぼくも楽しみです」
 ぱたぱたと軽い足音が廊下を遠ざかっていく。快いリズムだ。
 ――この足音を、この応接室でもう何度聞いただろう。
 この足音が響くから、長く暗い廊下や使われないまま冷えていくいくつもの部屋も、あたたかな空気に包まれる。この屋敷の人々もまた、彼女の足音や歌声を、屋敷を包む空気の一部として聞いているのだろう。
 もう彼女は、欠くべからざるこの屋敷の一部だ。
「さて……。猶予はあまりないわね」
 独り言のように慈乃がつぶやいた。
 感情の読めない声の奥に、隠しきれない嘆息が隠れている。わずかに歪めた眉が、慈乃の見せた唯一の感情だった。
「阿久津様」
 不意に強く硬い声で呼びかけられ、直之は思わず身がまえた。
「さきほどの朗読……、あなたはどうお聞きになりました?」
「は? ――いや、見事でした。よほど良い先生について学ばれたのでしょう」
「そうですね……」
 慈乃はいったん、口を閉ざした。
 こんな慈乃を見るのは、初めてだった。率直な物言いこそが、彼女の最大の武器であり、魅力だったのに。直之もじっと、彼女の次の言葉を待つしかなかった。
 沈黙が室内を支配する。
 やがて、意を決したように、慈乃は言った。
「あの娘は、桜子ではありません」





    3   真実と、罰と

 恐怖と驚愕が心臓を鷲掴みにした。耳がたった今聞いた言葉を、頭が、全身が拒否する。
「な……っ、なにを、慈乃様……!?」
 直之は思わず椅子を掴み、腰を浮かしかけた。けれど慈乃の見えないはずの両眼に正面から見据えられると、全身が硬直したようにぴたりと動けなくなる。
「あの娘は、久川桜子ではありません」
 慈乃はもう一度、はっきりと繰り返した。
「わたくしの息子は、父親に似ないぼんくらでね」
 そして、指一本動かせなくなった直之を気にも留めない様子で、淡々と慈乃は話し始めた。
 その声にはもう、さきほどまでの苦悶や逡巡はまったくなかった。こうして話すことが自分の義務だと、覚悟を決めたかのようだ。
「わたくしの育て方が間違っていたのでしょうね。長男を早くに病気で死なせてしまったものだから、次男のあの子をつい甘やかしてしまって……。できあがったのは結局、親の財産を食いつぶして遊び呆けるしか能のない男だった。そんな男が選んだ嫁も、ちょっと顔が奇麗なだけの能なしでね。そんな夫婦の子どもがどんなものだか、最初から想像はつくでしょう」
 素っ気ない言葉遣いは、華族の令夫人のそれではなく、彼女がもともと生まれ育った階級のものだ。だがそれが、今、彼女が真実を語っている何よりの証拠だった。
「竜一郎も桜子も、向学心も向上心も欠片も持ち合わせていなかった。生まれながらの身分に胡座をかいて、そのことに疑問を感じたことすらなかったでしょう。あなた方のその恵まれた環境は、あなたの祖父が命を賭けて大海を渡り、血のにじむような努力のすえに築き上げたものだと語っても、まるで理解しなかった。――辰雄の娘の桜子はね、英語の詩なんか読めやしませんよ」
 直之は絶句した。
 ……それがわかっていながら、なぜ。
 さきほどまでこの部屋を包んでいた平穏な空気。孫娘と祖母と、寄り添いあい、ほほえみを交わしていた。それはまぎれもなく、信頼しあう家族の姿だった。
「ドイツ語とフランス語の区別だってつきゃしなかった。わたくしはね、わざとそこに、いろんな原語の本を混ぜて置かせておいたのよ」
 慈乃の指さした先には、数冊の本が無造作に積み重ねられていた。
「あの娘はさまざまな原語の本から、迷わずにバイロンの詩集を選びだしました。ほかの言語も、ひとつやふたつなら読めるのではないかしらね」
「……ええ。おそらく」
 懸命に声を絞り出し、直之は答えた。
 全身に冷たい汗が流れ落ちる。目の前の小さな老婦人から、すさまじい威圧感を感じる。彼女は気負いも怒りもなく、淡々と事実を語っているだけなのに。
「貴男は、あの子の協力者なのね。三つ目のアレクセイ」
 もう、否定はできなかった。この老婦人の前ではなんの言い逃れもできない。
 直之はあらためて、肘掛け椅子に全身を預けた。言葉にできない脱力感が襲ってくる。けれど腹を括らねばならない。どんなごまかしも嘘も通用しない。自分の持てる知恵、知っていることすべてで、この老婦人と対峙しなければならない。
「これは、貴男が仕組んだことなの?」
「いいえ!」
 強く、直之は言った。
「いいえ、それは違います。たしかに俺は、彼女に少しばかり手を貸しています。だがそれは、けしてあなたを騙すためではありません! いかさま師の俺が言っても無駄かもしれない。でも、信じてください。たとえ久川桜子本人ではなくとも、彼女もまた久川辰雄男爵の――」
「そんなことはどうでもよろしいの」
 直之の懸命の弁明を、慈乃はぴしゃりと封じ込めた。
「あの娘は、わたくしの孫です」
「え……」
 直之は唖然とした。
 一瞬、慈乃が何を言ったのか、理解できない。
「あの娘は、わたくしのたったひとりの孫です。わたくしがそう認めたのです。その身体にどんな血が流れていようといまいと、関係ありません」
「慈乃様……!」
 慈乃の表情はまったく変わらなかった。
「わたくしはすでに、二度も家族を喪いました。戊辰の戦で父は討ち死にし、賊軍の汚名を着せられた兄は自害しました。そして今度はあの震災……。息子も孫も、みな死んでしまった」
 この世にひとり取り残される哀しみは、味わった者にしかわからない。家族とともに死にたかったと、どんなに願ったことだろう。だがそう泣き叫ぶことは、自らの誇りが許さなかったはずだ。慈乃は毅然とした態度を崩さないまま、ただひとり、唇を噛みしめて絶望と孤独に耐えてきたのだ。
 その慈乃のもとへ、あの娘は来た。ただひとり生き残った孫、桜子として。それはもはや、必然と言える出会いだったのかもしれない。
「あなたがもし、あの娘を傷つけようとするならば、わたくしはけして許しません。わたくしの全力を持って、闘いますよ。この年寄りに最後に与えられたたったひとりの家族を、また取り上げる権利など、神にも仏にもないのです」
 けして大きくも、猛々しくもない声。だがその中に、揺るぎない強い信念がある。これが、血みどろの維新を生き抜き、そしてまた激変する明治の世で勝ち上がってきた人間なのだろう。
「いつから、お気づきだったのですか。――彼女のことに」
「最初からです」
「最初から!?」
「ええ。あの娘が那原に来た、その日から」
 慈乃もまた、大きく息をついた。身体中にたまった重苦しさをすべて吐き出そうとするかのように。
「いくら目が見えなくたって、声が似ていたって、二言三言話せば、すぐにわかりますよ。ああ、これはあの桜子ではないって」
「では、なぜ?」
「あの娘は、助けを求めていました。懸命に怺えてはいたけれど、あの娘の心は悲鳴をあげていた。たったひとりでもがいて、苦しんで、泣いていました。震災の地獄を死にものぐるいで逃げてきて……、わたくしにすがりついてきたのよ。大切な友達が死んでしまう、自分ひとりの力では救えない。どうか助けてくださいと。そんな娘を、どうして放り出せるでしょう」
 その時の桜子が、目に浮かぶようだった。
 傷だらけ、灰まみれになりながらも、毅然として顔をあげ続けている娘。大切な人を守るために懸命に歩き続け、自分の痛みや苦しみは胸の中に押し込めて、唇を噛みしめて声ひとつあげずにいる。
 涙をにじませながらも、その目はきっと、生きる力と勇気に強く強く輝いていたはずだ。
「それで、彼女を……」
「それだけではないわ」
 初めて、慈乃の表情がやわらいだ。
「あの娘は、わたくしのそばにいながら、けしてわたくしに媚びようとしなかった。財産が欲しいとも遺言書を書いてくれとも言わないわ。万が一、嘘がばれても、わたくしの遺言があれば久川家の財産を相続できるかもしれないのに、そういう予防線を張ろうとはしないのよ。この嘘がばれた時、言い逃れなどするつもりはないのね。来た時と同じく、身ひとつで出ていって、自分のしたことの責任をきちんと自分でとるつもりなのだわ」
 自分もまた久川辰雄男爵の庶子であることを告げれば、嫡出の桜子の名前を騙った罪も少しは軽くなるかもしれない。だが彼女はそれすらしなかった。自分が偽者であること、自分の罪を潔く認めているのだ。
 いつ終わってしまうかもしれない、那原での幸福な日々。明日、突然世界が崩壊してしまっても、悔いのないよう、精一杯今日を生きる。巡り来る一日、一日が、かけがえのない大切な日。
 そう思っているからこそ、桜子の笑顔はあんなにも澄んで、輝いているのかもしれない。
 そしてそれゆえに、この老婦人もまた、桜子を愛した。同じように、他者に媚びない誇り高い魂を持つがゆえに。孤独な魂どうしが巡り会い、そして家族の絆で結びついたのだ。
「勇敢な娘でしょう?」
 慈乃の短いその言葉には、愛し子へのいとおしさがあふれていた。
「……はい」
 そうだ。彼女は誰よりも勇敢な娘だ。
 自分もまた、その勇気に惹かれた。どんな苦難に突き当たっても、凛と顔を上げて立ち向かうその姿に。
 だから、柄にもなく手を貸してやろうなどと考えた。
 そして今、自分でも信じられないことに、懸命に彼女をかばおうとしている。自分が、まるで信用のない人間だということさえ忘れて。
 ――こんなのは、初めてだ。何の見返りもなく、誰かのためになにかをしてやろうとするなんて。
 いや、初めてではない。かつて、上海の共同租界にいた頃は、いつでも母のために必死だった。母の喜ぶ顔が見たくて、ただそれだけのために必死になって金を稼いだ。夢の中に閉じこもってしまった母が自分のためになにもしてくれないとわかっていても、母を棄てることはできなかった。
 ――まさか、同じだというのか。あの時の想いと……。
「あの娘は、どこかわたくしに似ています。人に甘えるのが下手で、意地っ張りで、無理な背伸びばかりしている……」
「ええ」
 直之は小さくうなずいた。
「彼女は、あなたの血をひいています。あなたと――今は亡き久川敦男爵閣下の」
 意味のないことだと言われても、言わずにはいられなかった。
 そして慈乃もまた、固く握った両手をぴくっとふるわせた。





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