FAKE −12−
「それは、本当なの?」
「はい。正式に認知はされていませんが、彼女も、久川辰雄男爵の庶子のひとりです。……血のつながった、あなたの孫です」
「そう……」
 慈乃はひとつ、ゆっくりと吐息をついた。
「名前は?」
「三沢多恵。母親は、東京の久川本邸に奉公していた女中だったそうです」
 慈乃はわかりました、というようにうなずいた。そしてこころもち顎をあげ、まぶたを閉じる。見えないその目の奥に、なにかを追い求めているかのように。
「わたくしの夫は、命を賭けて世界の海を駆けめぐる冒険商人
(アドヴェンチュアリー・マーチャント)でした。未知なる国、未知なる港があると聞けば、小さな船に飛び乗って、どこまででも行ってしまう人だった。世界が自分を待っているのだと、信じて疑わなかった」
 どこか夢見るような口調。それは、家という制度の中で女性が傅いてきた「夫」を語るのではなく、彼女が愛した運命の恋人、自ら望んで真心を捧げたただひとりの相手のことを、語っているのだった。
「息子も、嫡出の孫も、だれひとりあの人の冒険心を受け継いでくれなかったけれど……そう、あの娘が――。あの娘が、夫の魂を受け継いでいたのねえ……」
 慈乃の口元に、わずかだが、幸福そうなほほえみが浮かんだ。
 今、彼女は報われたと思っているのかもしれない。激動の時代を生き抜き、夫の遺志を継いで財閥を、久川家を守り続けてきたその苦難が、初めて報われたと。
 老婦人の見えない両目に、かすかに光るものがあった。けれど直之は、それに気づかないふりをした。
 やがて、廊下の奥からまた、ぱたぱたと可愛らしい足音が近づいてくるのが聞こえる。
 慈乃は慌てて顔を伏せた。目元に残る涙を指先で拭う。
 応接室のドアが開き、銀のワゴンを押しながら桜子が入ってきた。
「あら、お祖母様。どうかなさいましたの?」
「いえね、少し煙が目に染みました。この暖炉、どうも煙の抜けが悪いようだわ」
「煙突を掃除しなくてはだめかしら」
「どうせなら、最新式のストーブに変えてしまったらどうでしょう? あれは便利ですよ。石炭もそれほど食わないし、その上で煮炊きもできる」
「まあ、文化的だわ!」
 たわいもない会話と笑顔、そして薫り豊かなお茶。
 いつもどおりの人当たりの良い笑顔に、直之はさきほどの衝撃をすべて押し隠した。
 ――そうだ。俺はペテン師だ、このくらいは朝飯前の芸当だ。
「お茶菓子も持ってきましたわ。揚げたてで熱いから、お気をつけて」
「おや、ドーナツですか。懐かしいな。上海の共同租界で、良く食べました」
「東京のお屋敷に住み込んでいた家庭教師に教わりました。その方、アメリカに留学もなさっていたんですのよ。牧場の人たちの小時半にしようと、昨日のうちに生地を作っておいたんです。卵もミルクも、みんなうちの牧場で採れたものですの。急いで揚げたら、少し焦げてしまいましたけど」
「少しくらい焦げ目があったほうが、揚げ菓子は美味しいものですよ。遠慮なくいただきます」
 籠に盛られたドーナツに、直之は手を伸ばした。
 桜子はドーナツを油を吸い取るための和紙にくるみ、慈乃にも手渡した。
「ああ、良い匂いね。これはどうやっていただくの?」
「ドーナツを食べる時の正しい作法
(マナー)は、手に持って、大きな口を開けてかぶりつく。これだけですよ。手で小さく割ったりしてはいけません。ぼろぼろくずれてしまいますからね」
「まあ、お行儀の悪い作法だこと。でも、作法は守らなくてはいけないわねえ」
 そうは言いながら、慈乃は上品にドーナツを口に運んだ。
「おいしいわ。とてもおいしいですよ、桜子さん」
「本当? うれしいわ!」
 互いにほほえみを交わし、時々手を触れあう祖母と孫。そうやって手を重ねることで桜子は、目の不自由な祖母にこの喜びや楽しさを、そして自分たちが一緒にいるということをより明確に伝えているのだ。
「聞かせて、お祖母様。横浜港の夜会のこと。そこでお祖父様と出会われたのでしょ?」
「ええ、そうですよ。あなたのお祖父様は、あんまり美男子ではなかったわねえ。海での暮らしが長いから、肌なんかがさがさで、その手で触られると、とっても痛かったものよ。でもダンスがとてもお上手だったわ。欧州仕込みでね」
「そうして、お祖父様はお祖母様を見初められたのね?」
「ええ。……ほほほ、恥ずかしいわね。この年になっても、自分の若い頃の話をするのは」
 さきほどまでとまったく同じ、団らんの光景。
 だがその中で、慈乃と桜子とを結びつける家族の絆はさらに確かなものになったと、直之は感じていた。
 その絆を断ちきることは、きっと誰にもできない。
 ……知っているのかい、桜子。自分がこんなにも愛されていることを。
 それはきみ自身が懸命に生きて、手を伸ばして、歩き続けてきたからこそ、得られたものだ。この幸福は間違いなく、きみ自身が勝ち得たものなんだ。
 叶うことなら、何もかも喪う前に早く気づいてほしい。自分が、かけがえのない人々の想いに包まれ、守られていることに。
 俺のように、手遅れになってから気づき、泣きわめくのではなく。
 ――それこそよけいなお世話だろうと思うが、願わずにいられない。
 この光景が、いつまでも続きますように。
 桜子。きみが幸せでありますように。
 直之のその想いは言葉になることはなく、誰の胸にも届かなかった。





 山里の春は一雨ごとに温かくなる。
 風が東からに変わると、人々は重たい真冬の外套を脱ぎ捨て、いそいそと衣替えの準備を始める。田畑では土が掘り起こされ、久川別邸の農場でも種まきの準備が始まった。
 そして暦が四月に入ると、人々が待ちわびていた桜が一斉に咲いた。
 久川別邸に植えられたソメイヨシノも、天然の山桜に数日遅れて、見事に開花した。
「お祖母様、ご気分はいかが?」
 桜子は祖母の寝室のドアをノックした。
「少しお庭に出てみませんこと? 桜がやっと咲きましたのよ!」
 南向きの庭には春の日差しがいっぱいに降りそそいでいる。仰ぎ見る沼原連山は、残雪も消えかけ、いくつかの雪型が残るだけとなっていた。
 ここ数日、体調があまりすぐれないのか、慈乃は寝室からあまり外へ出なかった。率直な物言いは相変わらずで、気力が衰えている様子はないのだが、身動きするのは少しつらそうだった。
 毎日、嘱託医師の往診も受けているが、これといった異常は見あたらない。年齢が年齢だし、寒かったあいだの疲れが溜まっているのだろう、今は休養を第一にとしか、医師も言えないようだった。
 だからといって一日中ベッドに横になったままでは、本当に病気になってしまう。少しでも気分転換をさせてあげたくて、桜子は自分で祖母の車椅子を押してきた。後ろから慈乃の膝掛けを持って、菊もついてくる。
「今日はとても良いお天気ですわ。風もあったかくて!」
「そう? では少し、お庭を散歩してみようかしら」
 下男と女中の手を借りて、慈乃はベッドから車椅子へ移った。そのまま車椅子ごと抱え上げさせて、玄関の外まで運んでもらう。
「わたくしが押していくから、菊は日傘をさしていてちょうだい。お祖母様のお目に直接、日の光があたらないように」
「大丈夫でございますか、お嬢様。車輪
(くるま)つきと言っても、けっこう重たくはございませんか?」
「平気よ、このくらい」
 心配そうな女中頭に、桜子は笑顔で答えた。
「日傘はわたくしよりも、桜子さんに必要ではないの? 陽に焼けておてもやんみたいなお顔になったら、大切な殿方に嫌われてしまいますよ」
「大切なって……まあ、そんな方いませんわ! 意地悪なお祖母様!」
 慈乃のショールと日傘を持った女中を連れて、桜子は春の庭へと歩き出した。
 ちぃちちち……と鳥のさえずりが聞こえる。吹く風は甘く、花の香りがした。
「いい気持ちでございますねえ!」
 菊がはしゃいだ声をあげた。
「ええ、本当に」
 桜子も空を仰ぎ、うなずく。長い髪を風にまかせるのは、まるで空気で髪を洗うようで、本当に気持ちがいい。動きやすいようにと選んだ若竹色のワンピースも、ローウェストのスカートが大きく風に揺れて、まるで桜子自身が一本の若木のようだった。
 視界のはしをちらっと横切る人影は、屋敷で働く庭師や小作人たちだろう。仕事の手をとめて、女主人と令嬢に軽く頭をさげる。
「お祖母様、聞こえて? ほら、鳥が啼いてるわ。なんの鳥かしら」
「あれは……オナガではないかしらね。どこかでウグイスの声も聞こえるのではなくて?」
「あ、本当! 今年の初音よ」
 砂利道の震動が慈乃に伝わらないよう、ゆっくりと車椅子を押していく。
 馬車道を囲む背高のっぽのポプラ並木は、路面に縞模様の影法師を落としている。そこを進むと、慈乃の見えない両眼にも、光と影とが交互に届くかもしれない。
「沈丁花はもう終わってしまったかしらねえ」
「いいえ。日陰のあたりにはまだ少し残っていますわ。摘んでいきましょうか」
「ええ、あとでね。ユキヤナギはどう? 正門のそばにたくさん植わっているでしょう」
「咲くには、まだちょっと早いみたいですわ」
「ユキヤナギの花吹雪も、それは可憐で美しいものよ。桜の花びらよりもずっと小さいから、本当に雪が降っているようで……」
 うっとりとため息をつくように、慈乃は言った。その膝に、どこからか桜の花びらが飛んできた。
「ああ、今日は本当に良い気持ち……」
 車椅子の背もたれにゆったりと頭をもたせかける。藤細工の背もたれが、きし、と小さな音をたてた。
「いつまでも、こうしていたいわねえ……」
 車椅子を押す手がほんの少し重くなったのを、桜子は感じた。
「お疲れになりました? お祖母様。もうそろそろお部屋へ戻りましょうか」
 が、それに対する慈乃の返事が聞こえてこない。
「お祖母様?」
 車椅子を止め、桜子は慈乃の顔を覗き込んだ。
 目を閉じて、おだやかに眠っているような慈乃の顔。口元には幸福そうな笑みが浮かんでいる。まるで幼い子どものような、無邪気な笑顔だった。
「――お祖母様!?」
 呼びかけても、反応は一切なかった。
「お祖母様!? お祖母様!」
「ど、どうなさいました、大奥様!」
 かすかに、寝息のような呼吸が聞こえる。
 だが、その腕をつかんで揺さぶっても、どんなに大きな声で呼びかけても、慈乃は眼を開けなかった。頭がかくりと前に倒れ、そのまま揺れ動く。
「お祖母様! どうなさったの、お祖母様!」
 桜子は懸命に慈乃を呼んだ。恐怖に息がつまる。身体中の血が音をたてて逆流する。頭の中でがんがんと破鐘がうち鳴らされているようだ。立っていられず、砂利道に両膝をついて慈乃の両腕を掴む。
「あ、あたし、人を呼んできます!」
 日傘を放り出し、菊が屋敷に向かって走り出す。
「お祖母様! 起きてください! 眼を開けて!」
 令嬢の声を聞きつけた庭師たちが、慌てて駆け寄ってくる。屋敷からも執事や女中たちが息せき切って走ってくる。
 けれど誰の姿も、桜子の目には入っていなかった。
 やわらかなショールにくるまれた腕にとりすがり、必死で揺さぶり続ける。あふれ出す涙で、慈乃の顔すらよく見えなかった。
「お祖母様! いや――いや、起きてお祖母様、お祖母様あっ!!」
 もう揺さぶってすらいられない。目を覚まさない祖母を起こすため、祖母の膝をこぶしで叩く。まるで小さな子どものように、桜子は泣きわめいた。
「お祖母様、お祖母様あっ!! 返事をして、お祖母様!」
「お嬢様! ――お嬢様、いけません、こちらへ……」
 慈乃を屋敷の中へ運ぶため、使用人たちがいったん桜子を車椅子から離そうとする。
 だがその手も振り払って、桜子はしゃにむに慈乃の膝元にしがみつき、祖母を呼び続けた。
 けれど桜子の声が慈乃に届くことは、二度となかった。
 ――初代久川男爵未亡人慈乃は、そのまま目を覚ますことはなく、三日後、家族同様に暮らしてきた屋敷の使用人たち数名と、そしてただひとりの孫娘とに看取られて、静かに息を引き取った。





 慈乃の葬儀は、以前から執事や女中頭が指示を受けていたとおり、地元那原のしきたりにそって、ごく簡素に行われた。
 その日、那原は朝からこぬか雨が降り、雄臼岳の噴煙もけぶって見えなかった。まるで那原そのものがひとりの老婦人の死を悼み、静かに喪に服しているようだった。
 墓前は近隣から届けられた花々で埋まり、久川農場近くの尋常小学校は音楽と体操の授業を取りやめ、哀悼の意を表した。葬儀に参列できない農民や小作人たちは、菩提寺から久川家の墓所へ向かう道の端にぽつりぽつりと立ち並んで、地元の発展に貢献した名家の大刀自を、深くこうべを垂れて見送った。
 荼毘に臥され、小さな骨壺に納められた彼女は、愛する夫の隣で永遠の眠りについた。
「それで……これから、どうなるの。久川家は――」
「爵位はお国に返上ってことになるだろうな。跡取りがいなくて、女戸主になっちまったんだから」
 雨に濡れながら葬列を見送る参列者の中から、ぼそぼそとうわさ話の声が聞こえていた。
「こうなる前に、どうして養子をもらっておかなかったのかしらね、慈乃様は」
「だが、財閥の運営にはさしあたって困ることはなにもないだろう。先代が亡くなられた時すでに、慈乃様がしっかり屋台骨を組み直しておられたから」
「このまま久川財閥が発展し続ければ、何年か後には、断絶した本家の祭祀を受け継ぐって形で、爵位復活になるかもしれんさ」
「それらをみんな、あの娘がひとりで相続するのか――」
 久川慈乃のただひとりの肉親として、喪主を務めている娘。久川桜子。
 喪服の姿は痛々しく、お太鼓に結んだ帯さえ重たげに見える。参列者の視線は、その細い身体に集中していた。
「東京の本家は、震災で潰れちまったんだろう? 二代男爵も跡取りも死んじまったって」
「まだ行方不明って扱いにはなってるがね、まあ生きてるわけはないだろう。この屋敷と農場だけでも一財産だ。そのほかに、東京の財閥に関する権利だってある。それが今やみんなあの娘のものだ」
「あの若さでねえ……。年の頃から言えば、まだ女学生だろ。大丈夫か、ひとりでやっていけるのか?」
「なに、婿のなり手は掃いて捨てるほどいるさ。なんたって久川家丸ごとが持参金だ――」
 白絹に包まれた遺骨箱を抱きしめている彼女は、回りの声などまったく耳に入らない様子だった。
 うなだれて、流れ落ちる涙を拭うことすらできず、ただ立ちつくす。
 ――ごめんなさい、お祖母様。
 私、あなたに嘘をついたままでした。
 これが罰なの? まわり中の人をだまし続けていた、私への罰。
 慈乃は、なにも言い残さずに逝ってしまった。
 やっと逢えたと思った家族を、わずか半年あまりで喪ってしまった。また、ひとりぼっちになってしまった。
 一度、家族のぬくもりを知ってしまったから、この孤独、この喪失感は以前よりも何倍も大きくつらく感じられる。まるで身体の一部をごっそりとえぐり取られてしまったみたいに。呼吸することすら、哀しい。
 どこにいらっしゃるの、お祖母様。お願い、返事をして。もう一度桜子と呼んでください。私の髪を撫でてください。
 あなたに謝る機会を、与えてください……!
「桜子嬢」
 不意に、目の前に白いハンケチが差し出された。
「あ……」
 桜子はようやく顔をあげた。
 ハンケチを手に、直之が立っている。傘も差さず、喪服の肩は細かい雨粒にしっとりと濡れそぼっていた。
「ありがとうございます、阿久津様」
 桜子は素直にハンケチを受け取った。
 低い嗚咽が漏れる。
 直之の、自分の秘密を知っている者の顔を見たとたん、懸命に押さえつけていた想いが一気にあふれだしてくる。
「どうしよう……、どうしたらいいの、私――!」
 ハンケチで口元を抑えながら、桜子は涙に嗄れた声でつぶやいた。
「お祖母様は私に騙されたままで、逝ってしまわれたわ。私……、私、謝ることもできなかった……!」
「ここでそんなことを言うんじゃない」
 周囲に聞こえないように、直之は低い声で桜子を叱った。
「かまわないわ。誰に聞かれたって……! だって、だって――」
 お祖母様はもう、いらっしゃらない。自分の秘密を一番知られたくなかった人は、もうどこにもいないのだ。後は誰に気づかれようと、関係ない。





BACK    CONTENTS    NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送