FAKE −14−
 やがて、玄関の呼び鈴が鳴らされているのが聞こえてきた。その響きに、桜子はようやく我に返った。
「あら、お客さまかしら」
「電報が届いたみたいですよ。吉沼さんが出てくださってるようです」
 菊の言葉を裏付けるように、階下から人の声が聞こえる。窓の外をのぞくと、ずんぐりした国産馬の牽く小さな郵便馬車が見えた。
 日本の電話網は明治の終わりから整備し始められ、東京や大阪などの大都市圏では、個人で電話網に加入する者も増えてきている。が、北関東のはずれにある那原には、まだそんな家は一軒もない。急ぎの連絡は電報に頼るしかないのだ。
「阿久津様からじゃありませんか!?」
「いえ……、そんなはずはないでしょう」
 口ではそう言いながら、桜子も胸の奥では同じことを期待していた。
 そんなことあるはずはないと、懸命に自分に言い聞かせても、心臓が言うことを聞かない。勝手な幻想をいだいて、とくとくと早鐘を打って暴れ出す。
 だが、
「お嬢様。東京の弁護士事務所から電報でございます」
 漆塗りの小盆に電報を乗せ、家令が桜子の部屋に入ってくる。その言葉に思わず、肩のあたりからすとんと力が抜け落ちるような、落胆を感じた。
 ――本当にどうかしているわ、私。
「ありがとう、吉沼さん」
 がっかりした顔を見せないようにしながら、桜子は電報を受け取った。
「加藤弁護士事務所……。ああ、加藤先生の事務所からだわ」
 差出人の名前に、桜子は見覚えがあった。以前より久川家の顧問弁護士を勤めている人物で、桜子が那原に来てからも、何度か慈乃に呼ばれてこの屋敷を訪れている。桜子も、祖母に頼まれ、事務所への手紙を代筆したこともあった。温厚で実直な人柄を、慈乃も深く信頼していたようだった。
「何のお知らせですか?」
 好奇心を見せる菊は、老執事に横目でにらまれ、あわてて首を引っ込めた。
『センパン、コジンヨリイライサレシユイゴンジャウノコウクヮイヲオコナヒタク、キンジツチュウニキカヲオトナヒタシ。レイジャウノキョカヲモトム。イカガナリヤ』
 ――先般、故人より依頼されし遺言状の公開を行いたく、近日中に貴家を訪いたし。令嬢の許可を求む。如何なりや。
「遺言状……? お祖母様の――」
 慈乃がそんなものを用意していたなんて、聞いたこともなかった。弁護士が慈乃のもとを訪れた時は、まだ未成年の桜子はその話し合いに同席することを許されなかったのだ。
 長年、慈乃に仕えていた家令に尋ねても、「初耳でございます」と首を横に振る。
「大奥様のお子さまは亡くなられた辰雄男爵おひとりでございました。それゆえ、特に相続財産の指定などせずとも良いとお考えのようでしたので……」
「でも、そんなら、受取人がひとりきりっていうのは、今もおんなじなんじゃあ――。あ、わかった! お嬢様のお婿様になられる方への分配があるんだわ、きっと!」
「よけいなことを言うんじゃない、菊!」
 考えなしにおしゃべりする若い女中を、屋敷の差配をする家令は厳しい声で叱りつけた。
「おまえは向こうへ行って、とよの手伝いをしていなさい!」
「はあい、すいません!」
 菊はぴょこっと首をすくめ、あわてて桜子の居間を出ていった。
「とにかく、加藤先生と打ち合わせしなくてはならないわね。電報のやりとりでは焦れったいわ。吉沼さん、那原の街中まで出て、事務所に電話をかけてきてください」
「かしこまりました」
「こちらはいつでもかまいませんので、先生方のご都合の良い日をご指定くださいって。お急ぎでないなら、当家にお泊まりくださるようにね。ほかに何かあるようなら、吉沼さんの判断で決めてしまってけっこうよ」
 すでに女主人としての風格すら感じさせる令嬢に、老家令は満足そうな表情で一礼した。
 家令が自動電話(公衆電話)のある町の郵便局へ出かけるのを見送ると、桜子は慌ただしく来客を迎える準備にとりかかった。
 茶会などで客を招いたことはあったが、この屋敷に宿泊する人はいなかった。長い間使われていなかった客室を掃除し、窓を全開にして空気を入れ換える。
 いささか気が早いとも思うが、こうして忙しく身体を動かしていたほうが、気が紛れる。
 桜子の気持ちを察してか、とよもほかの女中たちも何も言わず、令嬢の指示に従ってせっせと働いた。
 やがて家令が屋敷に戻ってきて、弁護士の来訪は三日後になると報告した。
「わかりました。ご苦労様でしたね、吉沼さん」
 家令をねぎらい、さがらせると、桜子はこの頃すっかりくせになってしまったみたいに、自分の部屋の窓辺にたたずみ、ぼんやりと空を見上げた。
 ――お祖母様はいったい、何を遺言されていたのかしら。
 慈乃の最期の言葉。最期に彼女が何を思い、何を言い残そうとしていたのか。それを、早く知りたい。
 そうすれば、彼女はしあわせだった、という直之やとよの言葉も、信じられるだろうか。
 死ぬまで慈乃を騙していたという罪の想いも、少しは薄らぐだろうか……。
 いつの間にか太陽は山の端に沈み、窓の外は薄青い宵闇に包まれようとしていた。
 藍色の空にちらちらと星がまたたき始める。
 女中たちが無言で、それぞれの部屋にランプを灯して回る。オレンジ色のあたたかな光が窓辺に灯る。
 山里に静かな夕暮れが訪れる。
 が、突然、その静寂が破られた。
 獣の咆吼のようなエンジン音が、山あいにこだまする。
 けたたましくクラクションが鳴り響き、ねぐらに戻っていた山鳥たちが怯えて一斉に飛び立った。
「な、なんなの!?」
 桜子はあわてて自室を飛び出した。
 道路の整備が進んでいない那原には、自動車自体がまだ珍しい。慈乃を訪ねる貴顕の夫人たちも、ほとんどが馬車を使っていた。こんな、回り中を威嚇するような凄まじい排気音を聞くのは、桜子も東京を離れて以来、初めてだ。
 女中たちもみな驚いた様子で、指示もないのに持ち場を離れ、玄関に向かって走り出す。
「お嬢様……!」
「お客さまかしら。こんな時間に――」
 それにしても、門番に取り次ぎを頼みもせず、いきなり屋敷の玄関前まで車を乗り付け、クラクションを鳴らし続けるなど、あまりに非常識だ。まともな人間のすることではない。
 不安げな使用人たちに、桜子は後ろにさがっているように指示をした。
「大丈夫よ、わたくしが出ます」
「で、ですがお嬢様……」
「お祖母様だって、きっと同じことをおっしゃったわ。心配しないで」
 家扶と呼ばれる若い男性使用人に命じ、重たい両開きの玄関を大きく開けさせる。
 その真ん中に、桜子は立った。
「どちら様でございましょう。突然ご来訪くださいますには、いささか遅すぎる時間ではございませんか?」
「どちら様とは、ずいぶん偉そうなせりふだな。半年ぶりに会った兄上様に対する挨拶が、それか!?」
 冷たく尖った、男の声。少しくぐもってはいるが、その皮肉な響きは聞く者の聴覚に突き刺さるようだ。
 凍り付くような悪寒が、桜子の全身を走り抜けた。
 クラクションが止んだ。
 瀟洒な車寄せの前に、黒塗りの大きな乗用車が停まっている。後部座席は向かい合わせで、最大六人まで乗れるようになっている。淡くけぶる月光のもとでも黒光りするボディは、まるで巨大な肉食獣がそこにうずくまっているようだ。
 その後ろにさらにもう一台、もう一回り小さな乗用車が停車する。
 農場で働く小作人たちも、庭木の陰などから怖々とそれを眺めていた。北関東の片田舎で生まれ育った人々は、こんな最新鋭の乗用車は報道写真などで目にするだけで、実物を見ることなどほとんどない。
 直之も、阿久津家の別荘にパッカードを持っているという話だったが、久川家を訪れる時は、農場の動物を驚かせないようにと、いつも一頭立ての馬車か、あるいは乗馬で来ていた。
 自動車の周囲には、数人の男たちが立っていた。中折れ帽にカイゼル髭など、みな、ハイカラな洋装の紳士のように見える。が、屋敷の人々を睨め付ける目はひどく冷たく、まるで刃物のようだ。同じ人間を見る目とは思えない。その目つきに、桜子は背筋に冷たいものを感じた。
 その中からひとり、背の高い人影が抜け出してきた。車寄せの階段を登って、ゆっくりと近づいてくる。
 黒い天鵞絨のジャケットに光沢のあるグレイに細いストライプの入ったモダンなスラックス。深紅のネクタイと磨かれた革靴、アメシストと金のカフス。華美を抑えた直之の洋装とは違い、これ見よがしの服装だ。黒髪はポマードできれいに撫でつけていたのが、強い山里の風で乱れてしまっている。
 その顔は、半分以上が白い包帯で覆われていた。
 絹のワイシャツの袖からも包帯がのぞいている。その下には、歩の背中と同じような惨い火傷の痕が見える。
 ひとつだけ隠し残されている右の目が、突き刺すように桜子をにらんでいた。
「驚いたな。震災で家の下敷きになって死んだはずの妹が生きて、那原の祖母さんのところにいると聞いてはいたが、それがまさかおまえだったとはなあ!」
 高い哄笑が玄関ホールの高い天井にこだまする。
 それは間違いなく、かつて高畑歩と三沢多恵を半死半生になるまで鞭打った男、久川竜一郎の声だった。
「う、そ……っ。――どうして……どうして、あなたが……!」
 桜子は絶句した。
 恐怖と驚愕が全身を鉄の杭のようにつらぬく。
 呼吸がつまりかけ、ばくばくと暴れる心臓は今にも破裂しそうだ。
 あの震災の日、竜一郎は死んだ桜子と同じ部屋にいたはずだ。桜子は崩落した壁の下敷きになって死亡した。それはこの手で桜子の手に触れ、確認した。間違いない。
 同じ場所に立っていた竜一郎も、死んだはずだ。ずっとそう思っていた。あの崩落と、その後の爆発火災から、屋敷の中にいた人間が逃れられたはずはないと。
「こ、こんな……、こんなことって――! あなたは、死んだはずではなかったの!?」
 桜子は自分でも気づかないうちに、ゼンマイ仕掛けの人形みたいな奇妙な動きで、後ずさりしていた。
「おいおい。人を勝手に殺すなよ」
 竜一郎は大げさに両手を広げ、親しげと桜子に近づいてきた。が、その歩き方はぎこちなく、左の足を少し引きずっている。
「ご覧の通り、足はちゃんとついてるぜ。少しばかり汚くなっているがな」
 軽くスラックスをつまんで、裾を持ち上げてみせる。あらわになった左のふくらはぎは、一面むごたらしい火傷に覆われていた。
 世界が、ぐらりと揺れた。――そう思った。
 けれど揺れていたのは世界や地面ではなく、桜子自身だった。
 考えてみればたしかに、確認したのは本物の桜子の死亡だけで、そばにいた竜一郎はどうなったかわからなかった。その亡骸を見たわけではないのだ。
 そして今、久川別邸の玄関ホールに立つ男は、たしかに久川竜一郎だった。
 顔の半分を火傷で覆われていても、残った部分はかつての美貌をとどめている。他人はこの姿に迷うかもしれないが、長年同じ屋根の下で暮らしていた者が、見間違えるはずもない。
 そして同じく竜一郎も、今、自分の目の前にいる娘が、本当は誰であるのか、即座にわかったはずだ。
「おまえら、新しい旦那様へのご挨拶はどうした!」
 竜一郎は、立ちつくす桜子を押しのけるようにして、ホールの中へ足を踏み入れた。
 桜子の後ろに立ち並んでいた使用人たちを見回し、そして傲慢に腕を組んで怒鳴る。
「俺は久川竜一郎、第三代久川男爵だ。その俺を、いつまでもこんな玄関先に立たせておくつもりか!」
「は、はい、いえ、あの……っ!」
 頭ごなしに怒鳴りつけられ、使用人たちは怯えきっていた。とっさに返事をすることもできない。
「お、お嬢様……!」
 すがりつくように呼びかけられても、桜子もどうすることもできない。
 恐怖に身体中が鷲づかみにされて、指一本動かせない。自分が今、立っているのか倒れているのか、それすらわからなかった。
 頭の中は真っ白――いや、真っ暗だった。足元に巨大な穴が見え、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。
「若様……。よ、よくご無事で――」
 しゃがれた声がした。使用人たちを代表するように、老いた吉沼家令が竜一郎の前に進み出る。家令も、彼の容貌を見間違えなかったらしい。
「なんだ、吉沼。おまえ、まだ生きてたか」
 竜一郎は鼻先で嗤った。
「死んだ祖母さんに義理立てして、追い腹でも切ったかと思ってたぜ」
 冗談にしても辛辣すぎる言い方に、老人は答える言葉もなかった。
「あいかわらず古くさい屋敷だな。祖母さんの懐古趣味丸出しだ。まあ、いいさ。そのうち、全部俺の好みに改修してやる。俺の寝室は、二階の角部屋にちゃんと用意してあるんだろうな。俺たちが東京からいつ来てもいいように、用意だけはしておけと言ってあったはずだぞ」
 竜一郎は家令を突き飛ばすように押しのけ、ずかずかと屋敷の中へ進んでいった。
 車を囲んでいた男たちも、無言でその後についてくる。
 彼らは竜一郎の使用人、あるいは護衛なのだろうか。屋敷で働く人々をにらみつけ、獰猛な表情で威嚇する。
「それから、誰か警察を呼んで来い」
「え……っ!?」
 屋敷の使用人たちはみな息を呑み、茫然と竜一郎を見た。
「聞こえなかったのか、警察を呼べ。いくら田舎だって、集落に行きゃあ駐在のひとりやふたりはいるだろうが!」
「な、なんのために……若様――」
「決まってるだろう。この泥棒猫を警察に突き出してやるためだ!」
 その指は、まっすぐに桜子を指していた。
「こいつは俺の妹、久川桜子じゃない。東京の屋敷で働いていた、女中の三沢多恵だ!」
 みさわ、たえ。
 その名前が、落雷のように桜子を打ち据えた。
「よく化けたものだな、多恵。俺ですら、最初に見た時は桜子の幽霊かと思ったぜ。その調子で祖母さんやほかの連中もみんな騙してたんだろう。……ああ、そうか。祖母さん、目が見えなかったんだっけなあ」
 竜一郎は桜子の前に戻ってきた。わざわざ身を屈め、うつむいた桜子の顔を覗き込む。
 桜子の目の前に、酷薄な笑いがあった。
 その薄笑いの口元。弱い者をいたぶって愉しんでいる、その暗い目の光。それを、見間違えるはずはない。
 この男は、久川竜一郎だ。
 ――ばれた。
 ついに、この時がきた。
 洞窟のように真っ暗になり、うつろだった脳裏に、ようやくそれだけの言葉が浮かぶ。
 とうとう、嘘がばれてしまった。
 自分の罪が暴かれる日がきた。
「まったくおまえら、どこに目をつけてるんだ。この女は、おまえらと同じ奉公人だぞ。がきの頃からずっと東京の屋敷に住み込んで働いていた、宿無しの孤児だ! 俺の屋敷で拾ってやらなかったら、とっくの昔に野垂れ死にしていたんだ! そんな女を、おまえらは今の今まで、お嬢様お嬢様とたてまつってたんだぞ!」
「そ……、そんな――。まさか……」
 使用人たちのあいだから、うめくような掠れた声がもれた。
 ――なにか、言わなくちゃ。
 掠れた声が、頭のどこかで聞こえた。
 だから言っただろう。いつも頭の中に言い訳を用意しておけって。
 機転を効かせろ。黙っていたって、事態はどうにもならない。自分の知恵で乗り切れ。きみならできるはずだ。
 それは、直之の声だった。
 ――直之さん。
 桜子ははっと顔をあげた。
 その目の前に、直之がいた。
「なおゆき、さ……」
 普段通りインヴァネスコートを腕にかけ、阿久津直之が久川別邸の玄関ホールに立っている。
 その表情は落ち着いて、目の前の異様な雰囲気になど、まるで気づいてもいないようだった。
 ……助けに来て、くれたの?
 私を助けに来てくれたのね、直之さん!?
 なぜ、とか、いつの間に、とか、そんな疑問すら出てこなかった。
 桜子の胸に熱い、痛いくらいの喜びと希望が噴き上がった。指先がじんとしびれ、勝手に直之のほうへ伸びていこうとする。
「失敬。なにか、お取り込み中かな」
 軽く一礼し、直之はホールの中へ足を踏み入れようとした。
 竜一郎が連れてきた男たちが、それを阻もうと直之の前に立ちふさがる。
 が、直之が無言で見据えると、彼らはその目に臆したのか、わずかに後ずさりし、直之に道を空けた。
「阿久津勝一伯爵の甥、直之です。伯父の代理で、久川家の新しいご当主にご挨拶にうかがったのだが」
 竜一郎は振り返り、にやりと嗤った。
「それは感謝する。だが、来客はお断りさせていただいている。祖母の喪中なのでね」
「貴君が第三代久川男爵か?」
 その言葉に、竜一郎は細い眉を不快そうに跳ね上げた。





BACK    CONTENTS    NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送