FAKE −17−
 見張りの男はまた、扉の前にでんと椅子を据え、座り込んでしまったのだろうか。
 桜子はその場から立ち上がることもせず、ぐったりと扉に寄りかかった。
 どうして今も、直之の言葉が頭をよぎるのだろう。彼の言葉がこんなにも支えになるのだろう。
 ――人は、自分の信じたいものを信じる。
 なら、私はまだ彼を信じていたいのかしら。
 桜子はそっと、着物のふところを抑える。
 そこには、小さな硬いものの感触があった。
 桜子はそれをそっと取り出した。
 手のひらに載せたのは、小さな金の指輪だった。
 久川家の紅玉の指輪は、当然ながら取り上げられてしまった。
 これは、歩から手渡されたものだった。
「――阿久津様からです」
 竜一郎たちに引きずられ、玄関ホールを連れ出される直前、わずかだが歩と言葉を交わすことができた。
「大丈夫、歩さん!」
「へ、平気です。このくらい……」
 殴られ、腫れあがって明瞭な言葉も出せない状態で、歩は必死に顔をあげ、桜子に向かって手を差し出した。
 竜一郎に気づかれる前に、桜子の手の中に小さなものを押し込む。
「阿久津様からです。さっき、ぼくの長屋に立ち寄られて……これを、桜子様にって」
「直之さんが?」
 歩は一瞬、言いよどんだ。けれどすぐに意を決したように、まっすぐに桜子を見上げ、ささやいた。
「阿久津様は、これをぼくに託される直前……くちづけをされておられました」
「くちづけ?」
 少年は小さく、たしかにうなずいた。
「ほかには何もおっしゃってはおられません。ひどく急いでいらしたご様子で、あとはただ、これをお嬢様にと――」
 そして歩は、桜子の手に手を添えて、手のひらのものをより強く握らせた。
 桜子はわけがわからないまま、それを受け取るしかなかった。
 握らされたものがなんであるのか、手を開いて見て確かめる暇もなく、桜子は屋根裏部屋に引き立てられていった。その姿を、歩は床に這ったまま、立ち上がることさえ出来ずに見送るしかなかった。
 そして今、桜子の手には小さな指輪が残されている。
 シンプルな金の指輪。飾りはなにもなく、輝きも少し鈍くなっている。指にあててみると、桜子の薬指にちょうどぴったりだった。
 直之が接吻したという、女性用の指輪。
 このくすんだ色合いは、誰かがずっと肌身離さず身につけていた証拠だ。いったい誰のものだったのだろう。
 菊が残していってくれたランプにかざしてみると、内側に「A to S」の刻印が見える。
 たしか、直之の母の名はさな子、頭文字はSだったはずだ。
「もしかして、直之さんのお母様のものかしら……?」
 そんなはずはない。彼の母親は未婚のままで直之を生み、そして亡くなった。結婚指輪など持っているわけがない。
 けれど桜子は、この指輪になぜか彼の母のぬくもりが宿っているような気がした。
 直之が、母の思い出ごと桜子に託してくれたのだという気がする。
 A to Sは、アレクセイから桜子へ。ともに偽りの名でありながら、こうでありたいと願った自分たちの名だ。
 ――そんな、莫迦な。
 だって彼は、私を見捨てていったのに。
 私はもう、彼にとっては何の価値もない。彼のような人間が、自分に利益をもたらさない人間にいつまでも関わり合っているはずがない。
 もう二度と、阿久津直之が自分の前に現れることはないだろう。
 自分自身にそう言い聞かせているのに。
 直之が教えてくれた言葉が、この胸から消えない。まるで、桜子の生きる指針であるかのように。
 もしも彼に逢っていなければ、同じように嘘をあばかれ、閉じこめられた時、こんなに落ち着いてはいられなかっただろう。
 たとえ彼のすべてがいつわりだったとしても、彼が私に残してくれた言葉だけは本物。そう信じたい。
 久川別邸の人々にとって、私が本物の久川桜子であるように。
 私にとって、彼は本当の紳士。
 私の秘密を知り、そして守ってくれた。立ち去るその瞬間まで、私に礼儀を尽くしてくれた。
「莫迦ね、私……」
 桜子は左手にはめた指輪にそっと唇を寄せた。
 二度と会わないはずの人を、こんなにかばい続けるなんて。
 直之がくちづけたという、指輪。
 どんな思いで、彼はそんなことをしたのだろう。
 この指輪だって、本当は何の意味もないのかもしれない。これきり二度と会わない相手に、少し恰好つけて贈っただけのものかもしれない。
 それなのに桜子は、自分で懸命に理由をつけて、直之の好意を信じようとしている。この指輪が彼の優しさの証だと。
 あんなにも手酷く裏切られたというのに、私は彼に何を期待し続けているのだろう。
 彼の前でこそ、私は本物の令嬢で居たかった。彼が賞賛してくれた、勇敢で賢い娘でありたかった。
 桜子はもう一度、指輪にくちづけた。まるで直之にくちづけを贈るように。
 冷たい金属の中に、直之の唇のぬくもりを感じたような気がした。
 ――人は、自分の信じたいものをこそ信じる。
 直之の言葉が脳裏によみがえる。
 それなら、私はまだ彼を信じていたいの? もう二度と逢えない人だけど、彼の優しさは本物だったと信じたいの?
 そうね。私の中にある思い出は、本物。
 私は明日、三沢多恵に戻る。久川桜子だった時のものは、何一つ持っていけない。けれどこの思い出だけは、桜子の時に知った幸福の思い出は、誰にも奪えない。お祖母様の優しさ、久川別邸の人々の笑顔。みんな、絶対に忘れない。
 そして直之の言葉も。
 彼の言葉も、この胸にしっかりと抱いていこう。
 なにもかもを失ったわけじゃない。私の本当の宝物は、今もこの胸にある。
 信じていよう。私は一時、本物の久川桜子だった。大好きな故郷で、お祖母様という本当の家族といっしょに暮らし、大事な友達がたくさんいた。
 そして……そして――。
 いつか桜子は、粗末な毛布にくるまって眠りについていた。





 翌朝、桜子は、竜一郎の配下の男たちに引きずられ、階下へ連れていかれた。
 廊下を抜ける時、鏡に映った自分を見て、小さく笑ってしまう。屋根裏部屋で凍える思いをして一晩過ごしただけに、ひどい有様だ。髪はほつれて顔の前に乱れかかり、古びたメリンスも埃まみれで裾が足にまとわりついている。
 それでも桜子は、毅然と顔をあげ、屋敷の玄関へと向かった。らせん階段を降りる足取りはきわめて優美で、まるでこれから貴顕の夜会に登場するかのようだ。
 廊下の隅や物陰から、かすかな嘆息やすすり泣きが聞こえる。屋敷の使用人たちが、罪人として連行されていく令嬢を隠れて見送っているのだ。
「お嬢様あ……っ」
 台所の戸口の陰に、菊が立っている。真っ赤に泣きはらした目をして、すがりつくようい桜子を見つめていた。
 桜子はそっと微笑した。
 ――大丈夫。心配しないで。
 凛としていなければ。無様に取り乱したりして、この信頼を裏切るわけにはいかない。
 わたくしは久川桜子。あの正門の外へ出るまでは、この久川別邸の女主人なのだから。
 玄関ホールでは、一足先に竜一郎が、残りの取り巻きを従えて桜子を待っていた。
「巡査はまだか」
 不機嫌に尖った声で、竜一郎は言った。桜子の落ち着いた様子が気にくわないらしい。自分の罪とこれから下される処罰とに怯え、うろたえて泣きじゃくる姿を、自分に取りすがって許しを請う様を想像していたのだろうか。
 昨夜もかなり深酒したらしく、竜一郎がそばに来ると、饐えた酒と煙草の臭いがした。髪だけはモボらしくポマードでぴったりと撫でつけているが、顔を覆う包帯は相変わらず不気味で、あらわになっている右の目元も薄赤くただれている。
「さきほど下男に呼びに行かせました。もう間もなく来るはずです」
「ふん。田舎者はなにをやらせても鈍くて、まったく腹が立つ!」
 竜一郎はいらいらと周囲を見回し、怒鳴り散らした。
「なにをのぞき見している、おまえら! 仕事はどうした、さっさと働け!」
 新しい若い主人の癇癪に、使用人たちはひどく怯えてながらも、まだぐずぐずとその場を立ち去ろうとはしなかった。
 やがて遠くから、力強い自動車のエンジン音が聞こえてきた。
 大地を揺るがすようなその響きはあっという間に屋敷へ近づき、そして玄関の前で停止する。
 ――とうとう、来た。
 桜子は自分に言い聞かせた。
 那原の集落から、連絡を受けて駐在がやって来たのだ。
 竜一郎が勝ち誇った顔で桜子を眺め、にやりと笑った。そして国家権力を迎え入れるべく、自分で玄関の扉を開けに行く。
 が、桜子はふと気づいた。
 ――へんね。那原の駐在所に、自動車なんかあったかしら?
 扉が開く。
「待っていました。さあ早くこの毒婦を――」
 紳士ぶった竜一郎の科白が、だが途中でぷつんと切れてしまった。
「な、なんだ、おまえ……っ!?」
「失敬。隣人を訪問するにはいささか早すぎると承知してはいるのだが、火急の用件があったものでね。無礼を省みず、うかがった」
 グレーの中折れ帽に同じ色調の三つ揃え、濃紺のネクタイ。絹のシャツの袖口には、漆黒のジェットのカフスが光る。
 その手で、直之は中折れ帽を軽く持ち上げ、一礼した。
「中へ入らせていただいてもよろしいですか?」
 目線を合わせて許可を求めたのは、竜一郎にではなく、桜子にだった。
「え……。あ、あの――」
 突然のことに返事もできない桜子に、直之はにこやかにほほえみかけた。
 ――どういうこと?
 いったいなにをしに来たのだろう。彼は私を見捨て、去っていったはずなのに。
 桜子はまばたきすらできず、直之を見つめているしかなかった。
「――執事
(バトラー)!」
 直之はぱちんと指を鳴らす欧米風のやり方で、家令の老人を呼ぶ。「バトラー」などという横文字で呼ばれたことのない吉沼老人は、それでも自分のことだと察したらしく、目を白黒させながら、慌てて直之のそばへすっ飛んでいった。
「すまないが、上着の手入れを頼む。夜行を乗りついで東京からとんぼ返りしてきたもので、すっかりしわだらけになってしまったよ。ああそれから、加藤弁護士になにかあたたかいお飲物を。――それとも、気付けにブランデイかリキュールでも?」
「いや、アルコホルは結構。熱いお茶を一杯いただけますかな」
 直之の後ろから、いささかおぼつかない足取りで入ってきたのは、ころころと太った初老の男性だった。丸い腹の前に、大きな書類鞄を抱えている。
「こちらは加藤弁護士。東京で弁護士事務所を開いておられる」
「加藤先生……」
 その名前に、桜子は聞き覚えがあった。たしか、祖母の遺言状を預かっている弁護士だ。
 直之の言葉どおり、ふたりはかなりの強行軍をしてきたらしく、加藤弁護士のツィードの背広もだいぶくたびれている。
「久川家に偽の相続人が現れたというのでね、急遽、お越し頂いたんだ」
「それなら片はついた。もう間もなく警察が来る。いちいち弁護士なぞ呼ばなくとも――」
 うるさそうに竜一郎が言った。追い返すつもりなのか、加藤弁護士のほうへ歩み寄ろうとする。
 その目の前に、直之が立ちはだかった。
「きみのことだ」
「……なっ――!」
 竜一郎は絶句した。
 その場に居る者全員が、息を飲んだ。
「なんだと、きさま……ッ!」
 ぎりぎりと歯噛みしながら、唸るように竜一郎は言った。
「寝言はたいがいにしろ。偽者はそこにいる! 久川家令嬢の名を騙ったぺてん師だ!」
「彼女はたしかに、故久川辰雄男爵の嫡出子ではない」
「そら見ろ! だから――」
「だが彼女も、正式に認知された久川家の庶子だ」
 淡々と直之は言った。
 竜一郎は唖然とし、一瞬言葉を失った。信じられない、という表情で直之を見る。
「……な、なんだと――?」
「この件に関しましては、私からご説明申し上げます」
 大きな書類鞄をかき回しながら、加藤弁護士が一歩前へ出る。
「えー、久川多恵嬢、旧姓三沢多恵嬢が久川辰雄男爵の庶出の娘であることは、関係者の証言等によりあきらかであります。正式な書面ではありませんが、男爵直筆の覚え書きも現存しております」
 弁護士は鞄の中からわさわさと書類の束を取り出した。
「諸事情により、多恵嬢の認知は遅れていましたが、このたび、久川家戸主により正式に認知、入籍されました。この手続きは、父親である辰雄男爵がすでに亡くなられたため、女戸主となった久川慈乃夫人によって行われております」
 ――お祖母様!
 桜子は思わず口元を覆った。そうしなければ、赤ん坊みたいに意味のない声をあげてしまいそうだった。
 三沢多恵を認知、入籍。
 ……まさか、まさかご存知だったの、お祖母様。
 すべてご存知で――私を、孫と呼んでくださっていたの!?
「これでわかったろう。彼女は清子夫人の生んだ嫡子ではないが、久川家の正式な一員だ。相続に関しても、相応の権利を有している」
 直之は、威圧するように竜一郎を真っ向から睨んだ。
「ふ、ふざけるな! 久川家の戸主は、この俺だ! 俺が久川家の家長であり、第三代男爵だ!」
 竜一郎は直之につかみかかった。絹のシャツの襟元を鷲づかみにし、首を締め上げようとする。
「それに関しては――」
 直之は竜一郎の手首を掴んだ。そして力ずくで引きはがす。
「きみが本物の久川竜一郎であるのなら、知っておくべきだろう。――久川辰雄男爵嫡男、竜一郎については、宮内省に廃嫡届が提出されている」
「な……ッ――」
 廃嫡とは、相続権を持つ嫡男からその権利を取り上げることである。廃嫡された男はもはや家にとっては不要の存在であり、良くて他家へ養子に出されるか、あるいはその男の出来がよほど悪ければ、廃嫡の時点で隠居も同然の扱いになる。社会的に抹殺されるに近い状態になるのだ。
「えー、久川家から推定家督相続人の廃除、つまり長男の廃嫡について宮内省に正式に書面が提出されたのが、昨年八月三〇日。当日受理はされておらず、翌日の震災で男爵閣下も竜一郎氏も死亡されたため、不受理扱いとなっておりました」
 書類をめくりながら、弁護士が補足の説明をした。
「廃嫡の理由は、竜一郎儀、心身共に重大なる病を得て、皇室の藩塀たる華族男子の義務を全うすることあたわざるため……と、なっております」
 これがその書類の写しです、と、弁護士は数枚の書面をみなに見えるようにかかげた。
 そして、直之が冷ややかに言った。
「竜一郎氏は、梅毒に感染していた」
 けして大きくはないその声に、竜一郎の全身がびくっとふるえた。
 怒りに紅潮していた顔が、見る間に青ざめていく。
「心身共に重大な病とは、つまり梅毒感染により、健全な夫婦生活及び子孫繁栄をはかることがきわめて困難になったという意味だ。色里での無節操な遊興のつけで、財閥に後継者をもたらすことも難しくなった莫迦な嫡男より、いっそ心身ともに健康で有能な男を養子にして財閥を継がせたいと思った辰雄男爵の判断を、不自然だと思う者はいまい」
「う、嘘だ……。嘘を言うな――っ」
 まるで引きつけを起こしたみたいに、かすれた声で竜一郎が言った。
「きみが家族に内緒で横浜の医師のもとへ梅毒の治療に通っていたことも、男爵はすでにご存じだった」
 桜子は声もなく、竜一郎の横顔を見つめた。
 そう言えば震災の数ヶ月前から、竜一郎はしきりに肌荒れを気にするようになっていた。時には耳の裏や胸元などに濃いバラ色の発疹ができていることもあった。本人はただの虫さされだと言っていたが、それも梅毒が進行したことによるものだったのだろうか。そして今も、包帯の下に隠れているのは、火傷の痕だけではないのかもしれない。
「かつて竜一郎氏と婚約されていた周南
(すなみ)侯爵家の鳩子嬢も、竜一郎氏から梅毒を感染させられたとの証言がある。鳩子嬢は哀しい過去と病を克服すべく、東京を離れて治療を続けておられるが、父君である周南侯爵が代わりに証言してくださった」
 加藤弁護士もひかえめにうなずいた。
「侯爵閣下はたいそうお怒りだ。鳩子嬢は庶出だが、閣下は目の中に入れても痛くないほどかわいがっておられる。その娘を傷物にし、あまつさえ重大な病を感染
(うつ)した男を、自分の手で首を刎ねてやると息巻いておられたよ」
「ま、まさか……」
「知らないのか。閣下は居合いの達人だ」
 げえ、とも、ぐう、ともつかない、獣のようなうなり声をあげ、竜一郎は完全に硬直してしまった。





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