FAKE −19−
「あ、阿久津伯爵家はどうするの? あなたが事業のほとんどを買い取って……」
「それももう片づいた。事業はほとんど売り払ったが、そこからあがる利益の一部を伯爵家に還元させるようにしてある。よほど莫迦なことでもしでかさない限り、食うに困ることはないだろうさ。向こうも、俺のツラなんて二度と見たくないと思っているだろうしな」
 同じ名字を名乗ってはいても、彼の母親を見殺しにした阿久津伯爵家は、家族でもなんでもないのだろう。それでも伯爵家を完全に破産させなかったのは、死んだ母に対するせめてもの思いやりだったのだろうか。
 この国に、直之の家族はいない。愛する者はおらず、日本は彼の故郷ではない。
「俺はもともとこういう人間さ。この国にも、もう未練はないね」
 ――それなら、あなたの故郷はどこ? 私がこの那原にたどり着いて本当の故郷を見つけたように、生まれ育った街に戻って、それであなたは幸せになれるの?
「そんな顔をするんじゃない」
 直之が微笑む。何事もなかったかのように。
 けれどその目はけして、桜子の目を見ようとはしない。桜子が彼の視線を追おうとすると、すぐに伏せられ、逃げてしまう。
「きみはもう、正真正銘の久川家の令嬢であり、女戸主だ。男系男子の不在で爵位は国家に返上しなければならないにしても、そのほかの久川家の財産、財閥に関する権利は、すべてきみのものだ。もう俺の手助けなんか、なにもいらないはずだろう」
 いいえ、と桜子は言おうとした。
 昨夜、暗く寒い屋根裏部屋で過ごした時間の中で、桜子の心を支えていたのは、直之が教えてくれた言葉だった。
 だが直之は、桜子が口を開く前に、小さく首を横に振った。何も言ってはいけない、と。
「もう俺に関わるな。きみにはきみの住む世界があるんだ。帰るべきだ。きみにもっともふさわしい世界に」
 桜子の住むべき世界。この久川別邸、優しく豊かな那原。そこに暮らす人々。
 ――そこに、あなたは入れないというの?
 その生まれ故に? 灰色の美しい瞳のせいで? そんなものはあなたの罪ではないと、私もあなたも充分にわかっているのに。
 今の私とあなたをへだてるものは、薄っぺらな書類一枚きり。かつてあなた自身がそう言ったように。
 けれどあなたは、その一枚が越えられない、越えてはいけないというの?
「こんな碌でなしのことは、もう忘れるんだ。きみは久川家の女戸主だ。喪が明ければ、縁談なんて降るようにあるさ。その中から、自分に似合いの男を見つけて、新しい家族を作るんだ。今度こそ、本当の家族を」
 ――本当の家族。……私の夫。そして、子ども。
 たしかにそれは、桜子が夢見ていた光景だ。
 直之はまるで逃げるように、桜子から目をそむけ、うつむいた。
「そうだな。最後の記念に、慈乃様が愛された久川邸の庭を散歩しながら、帰らせてもらおうか」
 そして直之は、庭へ通じる扉を開けた。
 とたんに春の風がさあっとサンルームを吹き抜ける。甘い花の香りがかすかに鼻先をくすぐった。今、久川別邸の庭は春の花が爛漫と咲き乱れている。
「それではごきげんよう、桜子嬢。もう二度とお目にかかることはないでしょう」
 礼儀正しく挨拶をして、直之は足音もさせず、すべるように庭へ出ていく。
 ――どうして。
 どうしてあなたがそんな目をするの。まるで母親に置き去りにされた子どもみたいに、不安で淋しくて、今にも泣きそうな目をしているの。
 泣きたいのは私のほうよ。今、またあなたに見捨てられる、私のほうなのに!
 直之の姿が、ドアの向こうに消えていく。
 桜子はそれを、黙って見送るしかなかった。
 それが、令嬢としてふさわしい行動だから。取り乱したり、泣いてすがったり、そんなことをして彼に迷惑をかけてはいけない。自分の名誉を汚すことはできない。
 わかっているのに、身体が勝手に動き出しそうになる。強く両手を握りしめていなければ、手が彼のほうへ伸びていってしまいそうだ。
 ――行ってしまう。彼が、手の届かない海の彼方へ。
 阿久津直之はどこにもいなくなり、そして三つ目のアレクセイが彼の生まれ育った魔都上海に舞い戻るのだ。
 あの笑顔が、低く力強い声が、もう二度と私の隣に戻ってくることはない。
「……本当に良いのですか?」
 不意に、高く澄んだ声がした。
 桜子は振り返った。
 開けっ放しだったサンルームの入り口に、ほっそりとした小柄な姿が立っていた。
「歩さん……」
 少年はまだ包帯や顔の湿布が痛々しく、あり合わせの松葉杖にすがっている。
「大丈夫なの、歩さん。まだ寝ていなくてはだめでしょう」
 桜子の気遣いを拒むように、足をひきずりながら、歩は懸命に桜子の隣へ近づいてきた。
「本当に良いのですか。あの方を、このまま行かせてしまって」
「歩さん、なにを――」
「ごめんなさい。ぼく、聞いてしまいました。先ほどの、おふたりのお話を」
 歩は悔しそうに唇を噛んだ。
「それなら、わかっているでしょう」
 歩は真っ直ぐに、桜子をつらぬくように見つめてくる。その視線から、桜子は逃げるように目を伏せた。
「直之さんが自分でお決めになったことよ。私が口出しできることじゃないわ」
 彼が生まれ育った街に戻るというのなら、それを止めることなど桜子にはできない。それが彼の生き方であり、幸福であるのなら――。
「阿久津様のお考えじゃありません。桜子様のお気持ちです!」
「私の……?」
「それで桜子様はよろしいのですかと、おたずねしているんです! 本当にもう、阿久津様とお会いできなくても、よろしいのですか!?」
 ……逢えなくなる。あのひとと。
 それが私のためだと、彼は言った。
 でも、本当に?
 このまま彼のことをすべて思い出にして、それと引き替えに得られるものはなに?
 那原での幸せな暮らし。飢えることも、誰かに脅かされることもなく、とよや吉沼執事や、菊や、家族のように大切な人たちに囲まれて。そしていつか誰かと巡り会い、愛し、愛され、結ばれて――。
 私にふさわしい生涯の伴侶。その人とともにはぐくむ、新しい命。
 誰もが思い描く、当たり前の幸福。桜子自身、ずっとそんな風景に憧れていた。
 けれど。
「……いいえ」
 かすれた声で、桜子はつぶやいた。
 どんなに夢見ようとしても、何も思い浮かばない。まるで暗い穴の中に自分の夢がすべて吸い込まれ、消えてしまうみたいだ。
 そして、暗闇の中に浮かぶ、ただひとりの姿。
 そのひとの声が、言葉が、どんな時も自分を支えてくれた。道を見失って打ちひしがれた時も、彼の言葉が指針となった。
 いつもこの胸に、そのひとの姿があった。
 そのひとの前でこそ、自分は本当の令嬢でいたかった。そのひとが賞賛してくれた、勇敢で賢い、けして挫けない、心の強い娘でありたかった。
「私……!」
 心や気持ちが思考としてまとまるより先に、身体が勝手に動き出していた。
 ――莫迦だ、私。今まで、自分の想いすらまるでわかっていなかった。こんな時になってようやく、本当の気持ちに気がつくなんて!
 直之が開けたままにしていた庭へのドアから、桜子は外へ出ようとした。
「そっちじゃなくて、お嬢様! こっち、屋敷の中を抜けたほうが早いです!」
 歩が廊下を指さす。
「急いで! まだ自動車のエンジン音は聞こえてません。今ならまだ間に合います!」
 桜子は走り出した。
 長い廊下を、さっきとは反対に玄関へ向かって一気に走り抜ける。大きな足音が響き、羽織の長い袖がまるで蝶の羽根のように大きくひるがえった。髪に飾ったリボンも、どこかで吹っ飛んでしまう。
 その後ろ姿を、歩は唇を噛み、懸命に声を押し殺して見送った。
 ――間に合う。今ならまだ、間に合う!
 なりふり構わない令嬢の姿に、使用人たちは目を丸くした。
 玄関の扉も、開いたままだった。いや、誰かが開けておいたのかもしれない。
 低く、エンジン音が聞こえる。二度、三度とセルモーターが回り、そして力強い拍動のような響きに変わる。
「直之さん!」
 暗い玄関ホールから、桜子は外へ飛び出した。
 車寄せの階段を駆け下り、馬車道へ飛び出す。
 動きだそうとしていたパッカードの前に、両手を広げて立ちはだかる。
「あ、危ないっ!」
 急ブレーキの音が悲鳴のように響いた。
「何をする! 危ないだろう!」
 運転席側のドアが開き、直之が慌てて飛び出してきた。
「きみはいったい何を考えて――」
 直之は、自動車の前に立つ桜子に詰め寄り、その手を掴もうとした。
 その腕を、反対に桜子が掴む。
 そして桜子は、直之の胸にしがみついた。
 直之の背に両手を回し、強く強く抱きしめる。
 まるで小さな子どもが母親の胸にすがりつくように、がむしゃらで無様で、何のてらいも計算もない、魂ごと抱きしめるような抱擁。
「行かせない」
 ――どこにも行かせない。
 ここから、私の腕の中から。
 あなたを、どこへも行かせない。
「離すんだ」
 低く、かすれるような声で、直之は言った。
 桜子は首を横に振った。何度も何度も、声も出せないまま、直之の命令を拒む。
 ――行かせない。だって私は、まだあなたに何も言っていない。
 私達はまだ、お互いになにひとつ本当のことを言っていない。
 阿久津直之。三つ目のアレクセイ。どちらもあなたが生きるために造りあげた仮面、偽りだとしたら、本当のあなたはどこ?
 そうよ。名前なんて、関係ない。私が久川桜子と名乗ろうと、三沢多恵であろうと、私自身の本質に何の変わりもないように。
 これから手に入る富や地位のために、自分の本当の想いを捨てるなら、それは昨日までの自分をみんな投げ捨ててしまうことになる。多恵として生きた時間を、自分で裏切ることになってしまう。
 ――私は私。たとえどれほどの栄誉や富と引き替えにしても、自分の心は裏切らない。
 直之はどうにかして桜子の身体を自分の胸元から引き離そうとした。肩に手をかけ、押しやろうとする。だがその手にはほとんど力が入らず、やがてだらりと下へ落ちた。
 伏せた顔はひどく苦しげで目も上げられず、まるでなにかに怯えているようにも見える。力に満ちた嵐のような瞳も、今は暗く陰ってしまっていた。
 桜子は直之を見上げ、そのほほにそっと手を触れた。
 逆境を乗り切る知恵も、他者を怖れず、苦難に立ち向かう勇気も、すべては本当の自分を包み隠すための鎧。
 三つ目のアレクセイの仮面を外せば、ありのままのあなたがいる。
 ひとりぽっちで、飢えた心と身体を抱えてうずくまる、淋しい子どもが。どんなにつらくても哀しくても、泣くことさえ許されなかった子どもがいる。
「だめだ、桜子。手を離すんだ。俺は……俺は――!」
 ――見つけたわ。とうとう、本当のあなたを。
 なんて嘘が下手なの。
 おばかさん。自分で自分の気持ちがわかっていないの。
 あなたは、私の幸福のために、自分は消えたほうが良いと思っているのでしょう。自分の痕跡が残っているだけでも、私の未来の妨げになると。
 でも、それならなぜ、この指輪を私に贈ってくれたの? なにを思って、この指輪にくちづけしたの?
 桜子はそっと左手を目の前にかざした。そのくすり指に嵌った小さな金の指輪を、直之に示すために。
 鈍く光る金の指輪に、直之がわずかに息を飲む。動揺を見せまいと懸命だが、表情が曇り、灰色の瞳につらそうな光がよぎった。
 ――この指輪を見るのが、そんなにつらいの?
 可哀想に、本当のあなたはまだ、お母様を喪った上海の小さな汚いアパートの一室から、まだ抜け出せていないんだわ。
 誰かの手を取っても、その手を喪うことが怖くて仕方がないのね。だから、手に入れる前に諦めることばかり、覚えてしまったのね。
 だからせめてこの指輪を、私の手元に残しておきたかったのね。私のそばから消えるんだと自分で決めたくせに、それでも本当は自分のことを忘れてほしくはなかったのでしょう? だからこの指輪に、あなたのすべてを込めたのね。
 本当のあなたはほら、こんなにも傷ついて、苦しみもがいて、誰かの救いを求めている。声をあげることすらできないで、こみ上げる涙を必死に押し殺している。
 抱きしめてくれるあたたかい手を、求め続けているのに。
「いやよ。絶対に離さない」
 あなたを守りたい。
 あなたの言葉がずっと私を支えてくれたように。
 今度は――今度こそ、私があなたを守りたい。
 この久川別邸も、そこに暮らす人々も、私ひとりの力では守り抜くことができなかった。
 あなたがいたから、あなたの言葉が私の真実だったから、私は闘うことができた。最後まで諦めず、凛と顔をあげていることができた。
 だから今度は、私があなたの支えになりたい。
 あなたの希望になりたい。
 何があっても絶対にあなたを裏切らない、あなたのたったひとつの真実になりたい。
 ずっと、ずっと、あなたのそばにいる……!
「好き」
 子どもみたいな小さな声で、桜子はつぶやいた。
「好き。あなたが、好き」
「……だめだ。そんなことを言っちゃ――。きみは……、きみは……!」
 直之がもがいている。どうにかして桜子の言葉を否定し、思いとどまらせようと。そんなのは一時の気の迷いだ、きみにはもっとふさわしい男がいる、そんな言葉をもごもごと不器用につぶやく。自分の中にあるものに必死に抗おうとし、強く握りしめたこぶしが小刻みにふるえている。
 けれど、桜子はさらに強く、直之を抱きしめた。広い肩に頬を押しつける。
 とく、とく、とく……と、心臓の鼓動がつたわってきた。
 直之の鼓動。力強く、精緻な響き。ここに、桜子の手の中に直之がいる、何よりも確かな証。
 ほら。こんなにも私たちはお互いのそばにいる。互いの肌のあたたかさを、感じている。
 千万の言葉を尽くしてもあなたに信じてもらえないのなら、こうしてこの手であなたを捕まえている以外、気持ちを伝えるすべはない。
 これ以上に確かなものは、なにもない。
「どうして、きみは……」
 直之がつぶやいた。諦めて、吐息をつくように。
 まるで泣いているような声だった。
「怖くないのか」
 ――怖くはないのか。やっと手に入れた幸福を失うことになっても、いいのか。
 直之の素性が明らかになれば、阿久津伯爵家は狭い華族社会の中で取り返しのつかない傷を負うことになる。それは、直之と親しく交際していた人間も同じだ。単なる交誼、近所づきあいなら、問題が起きてから「騙された」と騒げばなんとか恰好もつくが、もっと親しい交際を続けていたら、その者もまた、華族社会、階級から排斥されてしまう。
 今も、久川家がその憂き目に遭わないよう、多恵と桜子を入れ替える小細工をして、醜聞をふせいでいるのに。
「平気」
 桜子は短く答えた。
 怖れない。なにひとつ。自分の心を裏切ることに比べたら――あなたを喪うことに比べたら。
「どうして、きみは……」
 同じ言葉を、直之はもう一度つぶやいた。
「どうしてきみは、そんなにも勇敢でいられるんだ」
「あなたが教えてくれたのよ。人は自分の信じたいものをこそ、信じる。わたくしを信じている人たちのために、わたくしは本物の令嬢でなくてはならないって」
 あなたが信じてくれるから。
 だから私は、強く在
(あ)れる。
 誰よりも勇敢で、賢く、誇り高い娘で在れる。
 自分だけのために強くあること、闘い続けることは難しい。一度折れてしまった心をつなぎ合わせ、立ち上がるのに、ひとりきりでは力が足りない。
 けれど、誰かのために強くあるなら。
 誰かが私を信じてくれるなら。
 私はどれほどだって、強くなれる。闘い続けられる。
 あなたが信じる私でいられる。
「桜子」
 ふるえる手が、ゆっくりと上へあがった。ためらい、恐れながら、それでもいつか桜子の背に触れ、その長い髪に指を絡める。
 そして直之は、強く桜子を抱きしめた。
「きみを、愛している」
 ――それはきっと、初めて逢った時から。
 あの早春の日、色鮮やかなレンギョウの枝を腕いっぱいに抱えて、少しおてんばで明るい令嬢が春風のように応接室に飛び込んできた、あの日から。
 このいとおしい姿が、自分の胸の中に強く焼きつき、消えることはなかったのだ。
「どうしてくれるんだ……。こうしてきみを抱いてしまったら、もう二度とこの手を離せなくなるじゃないか――!」





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