FAKE −2−
「えっ……。いえ、わ、わたくし――」
「たしかに、日本人にはない色ですからね。少し気味が悪いでしょう」
 指先でまぶたに触れ、まるで他人事みたいに言って直之は笑った。
「おわかりでしょうが、ぼくは生粋の日本人ではありません。ぼくの父は、帝政ロシアの亡命貴族でした」
「帝政ロシア……!」
 桜子は思わず小さく息を呑んだ。
 彼の左中指に見える指輪。瀟洒な金細工は、良く見れば家紋を象った印章指輪
(シールリング)だ。欧州の貴族たちがもちいるもので、手紙の封をする蝋などに印を押すのに使う。現代ではその存在価値も形骸化してはいるが、それでも名門一族の象徴ともいえるものであり、持つことを許されるのは一族の長だけのはずだ。
 ――それでは、あれは彼のお父さまのものだったのかしら?
「あの忌まわしい革命をのがれ、父は故国を捨てました。そして亡命先の上海で、遊学中だった母と知り合い、結婚したのです」
「まあ、そうでしたの……」
「生前、父は変わり果てたロシアはもはや自分の祖国ではないと良く申しておりました。ぼくにとっても、祖国と呼べるのは母の生まれたこの日本だけです。母はぼくを生んで間もなく上海で他界し、また先年、父も孤独のうちに世を去ったため、ぼくは母の縁故を頼って伯父の阿久津伯爵家に身を寄せました」
 まるで物語を朗読するかのように、直之はよどみなく自分の生い立ちを語った。この人目に立つ容貌のため、何度も同じ話を繰り返すしかなかったのだろう。
「ぼくたちは、どこか似ていますね」
「え……」
 直之が優しく微笑し、桜子を見つめていた。
「ぼくたちはともに家族を喪い、わずかな肉親の縁を頼って、遠い地へ来た。けれど、その見知らぬ遠い国こそが、自分の本当の故郷だった。――違いますか?」
「え、ええ……」
 けれど桜子は、つい目を伏せてしまった。まるで直之の視線から逃げるように。
「今ではわたくしの家族は、この娘ひとりきりになってしまいました」
 つぶやくように、慈乃が言った。
「お話は伺っています」
 青年――直之は桜子に目を向けた。何の感情も窺えなかったその目に、初めて痛ましげな陰がよぎる。
「お父上もお兄上も、あの大震災で亡くなられたのでしたね。お気の毒に」
 大震災。大正十二年九月一日午前十一時五十八分、帝都東京を襲った直下型大地震。
 のちに関東大震災と呼ばれるようになるマグニチュード七,九の激震と、それに続く大火災は、わずか四日足らずで二十万を越える人々の命を呑み込んだ。
「いえ……」
 桜子は目を伏せた。
 直之が言ったことは、けして間違いではない。桜子の父、久川辰雄
(たつお)男爵も、その嫡男竜一郎(りゅういちろう)も、大震災で死亡した。二人とも崩落した屋敷の下敷きになったのだ。
 だが、それが真実のすべてでもない。
「それで、東京を離れて、お祖母様のいらっしゃるこの那原へいらしたのですか」
「はい」
 桜子は最低限の返事しかしなかった。慎ましさこそ令嬢の美徳とされている以上、それはけして礼儀を失したことではない。
「大変な経験をなさったのですね。ぼくはあの時、横浜に居りましたが、あそこもひどい有り様でした。東京よりも酷かったかもしれない。江ノ島や藤沢あたりは津波にやられましたしね。今考えても、こうして生きているのが不思議なくらいですよ」
「ええ……」
 桜子は一瞬、返答に詰まった。
 横浜――この男性の常の住まいは、横浜にあるのだろうか。東京に居た時も、阿久津伯爵の名は聞いていても、その甥のことなどほとんど聞いたことがなかった。彼がずっと横浜で生活しているのなら、少しは安心だけれど……。
「ああ、申し訳ない。つらいことを思い起こさせてしまったようですね」
「いいえ、大丈夫ですわ」
 桜子の沈黙を良いほうに解釈してくれた青年に、桜子はぎこちなく微笑んだ。
「あの震災で哀しい体験をしたのは、わたくしひとりではありませんもの」
 その言葉に直之は、桜子を力づけるように笑みを浮かべ、うなずいた。
「それに、わたくしはすべてを失ったわけではありませんわ」
 桜子は祖母の座る椅子の背もたれに、そっと手を置いた。
 慈乃もその気配に気づいたか、小さくうなずく。
「狩猟時期の別荘にと思って夫が手に入れた農場で、わたくしひとりが療養していたことが、不幸中の幸いでした。あの地獄を生きのびた孫娘を、こうして受け入れることができたのですから」
 直之は無言でうなずいた。
「桜子さん。お客様にお茶のお代わりをお持ちして」
 コーヒーテーブルに置かれた紅茶のカップは、二つとも手をつけられた様子もなく、すっかり冷めてしまっている。
「はい、お祖母様」
 桜子は、黄色い花が連なるレンギョウの枝を抱え直した。
「阿久津様、こちらへはおひとりでいらっしゃいましたの?」
「いいえ。伯母と従妹といっしょです。従妹の美音子
(みねこ)は少し肺が弱くて。これから東京はどんどん埃っぽい時期を迎えます。それが美音子にはつらいらしいのですよ」
「まあ。それでしたら、このレンギョウを少しお土産にお持ちになりません? 従妹のお嬢様もきっとお喜びになりますわ」
「ありがとう。遠慮無く頂戴いたします」
「では、少しお待ちになってください。お茶の用意と一緒に、枝の水揚げをしてまいります」
 軽く一礼すると、桜子は絣の裾を美しくさばき、入ってきた時と同じく風のような身軽さで応接室を飛び出した。
 長い廊下を走り抜け、屋敷の北側にある台所へ向かう。
 明治の終わりに建てられたこの館は、日本人の大工が西洋建築の雰囲気を真似て造った和洋折衷の建物、いわゆる擬洋館だ。
 屋根は黒いスレート葺き、正面玄関には半円形の屋根を持つ車寄せがあり、ホールや階段は優美なアールデコの彫刻で飾られている。西の端にあるサンルームには、高価なステンドグラスがふんだんに使われていた。
 が、タイル貼りの浴室には日本人好みの大きく深い浴槽が備え付けられ、台所には最新式のオーヴンとともに、今もかまどが現役で頑張っている。日々の暮らしに密着した空間には、日本古来の生活スタイルがそのまま活かされているのだ。一階のもっとも奥まった一室は仏間で、畳敷きの和室だ。
「おはよう、とよさん。お客様にお茶のお代わりをお持ちするわ。お湯は沸いてるかしら」
「はい、お嬢様。このとおり、ちんちんに沸いてますよ」
 とよと呼ばれた女中頭は、丸い顔におおらかな笑みを浮かべた。地元の訛りが残る言葉にも、包み込むようなあたたかさがある。
 常時二〇人以上の人間が寝起きしていた東京の久川本邸にくらべ、この那原別邸で働く使用人の数も少ない。敷地内の人間の多くは、牧場で働く人々で、屋敷内にはほとんど足を踏み入れない。専任の料理人もおらず、台所を管理しているのは、地元那原の出身のこの女中頭だった。
「わたくしは吉爺やに、もう少しレンギョウの枝を切ってもらってくるわ」
「南のお庭には、水仙も咲いておりましたですよ」
「すてきね! じゃあそれも、お客様のお土産にしましょう」
「そんなら、あたしが行ってまいります」
 紺の霰絣(あられがすり)に白いエプロンを重ねた、りんごのような頬をした若い女中が言った。
「ううん、いいの。わたくしが行くわ。それよりお茶菓子の用意をお願い。たしか、到来物のカステラがあったはずよ。お客様はお若い殿方だから、きっとお茶だけじゃ物足りなく思われるんじゃないかしら」
 来客の説明をして、桜子は自分で自分の言葉にどきっとした。つい、彼の嵐のような瞳を思い出してしまい、言葉に詰まる。彼が不足に思っているのはこの屋敷のもてなしや、単純に空腹を満たすものなどではなく、なにかもっと別のものではなかっただろうか――。
「どうかなさったんですか、お嬢様」
「い、いいえ、何でもないわ。わたくしもちょっとお腹が空いたみたい。そうね、お客様にお出ししたら、わたくしたちもおあまりのカステラでお茶にしましょう」
「はい、お嬢様!」
 若い女中が、きゃあっとはしゃいで手を叩いた。
「これ、はしたないよ、菊! あんた、ちゃんと朝ご飯は食べてきたんだろう」
「そりゃもちろん。でも食べたのって、七時前ですよ。一〇時にもなりゃあ、とっくにおなかぺこぺこですって」
 菊と呼ばれた女中は、平然と言った。
 くすくすっと桜子は笑った。
「本当は、わたくしもそうなの。朝ご飯、おかわりまでいただいたのに、もうおなかが空いてるのよ」
「お嬢様もですか?」
「ええ、そう。那原でいただくご飯はなんでも美味しくて、つい食べ過ぎてしまうの。東京にいた時はこんなことなかったのに。これじゃ、すぐにお洋服が入らなくなるほど太ってしまいそうだわ」
「いいえ、とんでもない。お嬢様は今まで少し痩せすぎてらしたんですよ。――大震災で、そりゃあおつらい目に遭われたのですから、しかたございませんが……」
 人の好い女中頭は薄幸の令嬢に同情してか、ぐすっと鼻をすすりあげ、着物の袂でそっと目頭を押さえた。
「泣かないで、とよさん」
 とよのまん丸い肩を抱きかかえるようにして、桜子はそっと彼女に寄り添った。
「たしかに、あの地震はとても怖ろしかった。思い出すと、今でもふるえがくるくらいよ。でも、わたくしは平気。怖いことなんて、もう何もないわ。この那原に来て、お祖母様と一緒にいられるんですもの」
「お嬢様……」
 ――そう。もう、大丈夫。ここなら、怖い事なんてなにもない。
 ここは東京ではない。那原、関東平野の北の外れだ。東京からは蒸気機関車でも六時間以上かかる。沼原連山の峠を越えれば、その向こうはもう東北地方なのだ。
「お庭の植木屋さんたちにもお茶を出してあげたいわ。なにかお茶菓子があるかしら」
「ええ、ええ。あの人たちは力仕事ですから、カステラよりもおなかにたまるものがよござんしょう。お餅でも焼きましょう」
「そうね。お願い。じゃあ、すぐ戻ってくるわ!」
 黄色い花に飾られたレンギョウの枝を手近な桶に活けると、桜子はふたたび風のように台所を飛び出した。
 廊下を駆ける軽やかな足音が、あっという間に遠ざかっていく。
「ばかだね、菊。お屋敷の中で花の水揚げが一番上手なのは、お嬢様じゃないか」
「あ、そっかあ!」
 女中頭に叱られて、菊は悪びれもせずにぺろっと舌を出した。
「おまえなんかがへたにお手伝いするより、お嬢様おひとりのほうがよっぽど手早くおやりなさるよ」
 それに……と言いかけて、とよはふと口をつぐみ、微笑んだ。
 ――桜子お嬢様がいらしてから、このお屋敷は明るくなった。
 夫を亡くした老婦人が静かに余生を送るだけだった、この久川別邸。東京に住む第二代男爵も老母のもとをめったに訪れることはなく、時が止まったような日々だった。
 そんな屋敷に半年前、震災で家族を喪った
桜子が、唯一の親族である慈乃を頼ってやって来たのだ。
 父も母も嫡男である兄も、そして東京の久川本邸で働いていた二〇人以上の使用人たちもほとんど、地震で崩落した屋敷の下敷きになり、死んでしまったという。最初の揺れが来た時に、運良く庭に出ていた桜子だけが命を取り留めたのだ。
 その後の猛火の中を逃げまどいながら、桜子は、鉄道も通信もすべてが麻痺した東京から自力で脱出し、この那原まで辿り着いた。
 地獄をくぐり抜けたままの桜子の姿はぼろぼろで、連れていたのも下働きの少年ひとりきり。それも大怪我をして一人では歩くこともできず、つきっきりで面倒を看ていたのは、主人である桜子のほうだった。
 桜子は、身のあかしとして祖母から贈られた紅玉
(ルビー)の指輪を持っていた。
 それは初代久川男爵敦が東欧で手に入れたもので、久川家の女主人が持つべきものと定められていた。慈乃から第二代男爵夫人清子へ、そして震災のさなか娘の桜子へと託されていたのだ。
 その時すでに慈乃は視力を失っていたが、手に触れた指輪をかつて自分が嫁に渡したものに間違いないと断言し、以前、東京の本邸で働いていた老家令も、やつれ果てた娘が、美男の誉れ高かった第二代男爵に似ていると証言した。慈乃の手元にあった写真と比べて見ても、たしかに彼女はそこに映った幼い桜子によく似ていた。
 そして彼女が説明した男爵家の間取りや一族の歴史、しきたり、日々の様子などには、ひとつも誤りがなかった。男爵家の家族でなければけしてわからないことまで、彼女は細かく知っていたのだ。
 そして、唯一の肉親である慈乃が、
「かわいそうに……。つらい思いをしたのですね。でも、もう安心なさい。わたくしがいますよ。あなたの、祖母です」
 見えない両眼に涙を浮かべ、桜子をしっかりと抱きしめたのだった。
 もう誰も、慈乃にすがりついて泣きじゃくる少女が久川桜子であることを疑わなかった。
 最初は震災の衝撃でほとんど口もきけなかった桜子だったが、傷が癒えるにつれ、次第にこの那原別邸の人々にもうちとけるようになった。
 そして気がつけば、屋敷の中にはいつも桜子の笑い声や歌声が聞こえるようになっていた。
 夫に先立たれ、そしてまた大天災で息子一家を亡くして、哀しみに凍りついたようだった慈乃の表情も、桜子に癒され、少しずつやわらいでいった。
 常に男爵夫人としての威厳を崩さない慈乃だが、たとえ誰にも気づかれなくとも、ずっと大奥様に仕えてきたとよには、ちゃんとわかっている。大奥様が、桜子さまをどれほど大切に思っていらっしゃるか。
 ――お名前にふさわしい、花のようなお嬢様。山里の桜はまだ咲かないけれど、お嬢様がこのお屋敷に一足先に春を連れてきてくだすったんだ。
「本当に佳いお嬢様。明るくて優しくて、あたしたちにも気さくにお話しくださって……」
「そうそう。あたし、華族のお嬢様は、台所になんて絶対顔も見せないもんだって思ってました。なのに桜子お嬢様は、ご自分でお料理までなさるし」
 お嬢様はこの台所で、とよや菊が名前も知らなかったようなハイカラなお料理をたくさん作ってくださった。
 それに、このところ菊は、家に帰るといつも、五人いる弟妹に読み書きや算数を教えている。小さな弟たちは、物知りな一番上の姉に「姉ちゃん、すっげえ!」と尊敬のまなざしを向けてくれるが、何のことはない、全部お嬢様が教えてくださったことを受け売りしているだけなのだ。ほかにもお嬢様は、菊が興味があるなら編み物や洋裁も教えてくださるとおっしゃった。今流行りの簡単服
(あっぱっぱ)くらいなら、すぐに縫えるようになると。
「そうだね。お裁縫でもお掃除でも、おまえさんよりずっとお上手だ。東京の奥様がよっぽど賢くお育てになられてたんだろうねえ」
「うん、ほんとに」
 菊は大きくうなずいた。
 ――あのお嬢様が、こんなにまでお変わりになったんだもんねえ。
 東京で暮らしていた第二代久川男爵の一家がこの那原別邸を訪れたことは、数えるほどしかない。富裕な久川家は、那原以外にも軽井沢や箱根などにいくつもの別邸や狩猟小屋を持っていたのだ。
 桜子と同い年の菊は、東京の奥様や男爵様の顔などまったく知らない。
 が、桜子とその兄竜一郎とは、一夏一緒に過ごしたことがある。
 十年ほど前、男爵家の二人のこどもたちが学習院初等部の夏休みを祖母の暮らす農場で過ごした時。菊は農場の使用人の子らの中から、お嬢様のお遊び相手に選ばれたのだ。
 その夏は、菊にとって最悪の夏休みになった。
 竜一郎も桜子も、身分と久川家の財力を鼻にかけ、使用人である菊をいじめ続けた。菊を小突いたり蹴ったり、あるいは着物の裾をめくったりと粗暴な竜一郎の行為にも泣かされたが、桜子の陰湿な意地悪にはもっと泣かされた。
 おもちゃや装飾品など高価な持ち物を見せびらかし、菊の貧しさを嘲笑ったり、あるいは自分でハンカチや靴下などの小物を隠しておきながら、菊が盗んだと告げ口してみたり。そのくせ人前では、ことさら菊と仲良くふるまい、まるで姉のように優しげにいたわってみせたのだ。
 なまじ人形のように可愛らしい顔立ちをしていただけに、大人たちは誰も桜子の小狡さに気がつかなかった。
 あの頃の桜子しか知らなかったら、今の桜子など想像もできない。
 これでお嬢様の美しい面差しにかつての桜子の面影が色濃く残っていなかったら、そして証拠の指輪がなかったら、誰も彼女が久川桜子だと信じなかったに違いない。
 ――あれからもう十年も経っている。人が変わるには充分すぎるくらいの時間だ。




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