FAKE −20−
 触れてはいけないと思っていた。
 彼女の幸せを見届けたら、すぐに消え去るのが自分のつとめだと。それ以外に、彼女の幸せを守り抜く方法はないと、自分に言い聞かせていた。
 一度でも触れたら、もう二度と離れられなくなる。すべてを自分のものにしてしまいたくなる。
 そんな資格はないのに。もはや桜子は偽者ではなく、本物の財閥令嬢だ。だが自分の生まれは変わることはない。父親もわからない、上海で生まれ育ったいかさま師。そんな自分が桜子のそばにいては、いつか必ず、彼女の幸せに傷をつけてしまう。
 だから、だから……!
 何度自分に言い聞かせても、みんな無駄になってしまった。
 桜子がすべてうち砕いてしまった。たった一度の抱擁で、嘘もごまかしも言い訳も、直之の心を鎧のように包み隠していたものを、すべて塵のようにあとかたもなく消し去ってしまったのだ。
 そして残ったのは、剥き出しの心。
 ありのままの、直之自身だけだった。
 理性ではわかっている。今すぐこの手を離せ、二度と彼女に触れてはいけない。今すぐ、彼女の手の届かないところへ逃げてしまえ、と、今も自分自身に命じている。
 彼女を本当に愛しているなら、そうすべきだ。
 けれど、身体がどうしても動かない。
 この手に抱いたぬくもりを二度と手放したくないと、身体中の血と肉が叫んでいる。
 そして……、心のどこかで声がする。
 彼女を信じろ、と。
 二度とあなたをひとりにしない。どんな困難にも、あなたとなら立ち向かえる。
 そんな子どもみたいな想いを、どうして信じられるだろう。人間は誰もみな、そんなに強くない。直之自身が、それを一番良く知っているはずなのに。
 どうしてこの手がほどけない。
 ――ああ、そうなのか……。
 人は、自らの信じたいものをこそ、信じる。
 自分で言っておきながら、俺は今までその言葉の意味を、まるでわかっちゃいなかった。
 それは、こういうことだったのか。
 直之は、さらに強く、全身で桜子を抱きしめた。
 息もとまりそうなほどの抱擁が、桜子を包み込む。
「愛している」
 今、胸にあるのはただ、その一言だけだった。
 信じよう、きみを。
 そして、きみを愛する俺自身を。
 二度と自分の心を裏切らない、と。
 嘘ばかりついてきた自分たちが、今初めて、互いの真実を見つけた。手に入れた。
 直之は桜子の頬にそっと手を添え、顔をあげさせた。
 涙で汚れ、くしゃくしゃになった小さな顔。化粧も落ちて、可愛らしい鼻の頭は薄赤くなっている。
「ひどい顔だな」
 それでも、この世のなによりもいとおしい。
「あなただって」
 桜子もくすっと笑った。
 もう迷わない。自分にとって一番大切なものは何なのか。信じていたいものは何なのか。それがわかっている限り、この手を離すことはない。
 桜子の鼻先に、接吻が降りてくる。
 それからまるい頬、涙の残るまつげ、瞼。耳元。ついばむように優しく、直之の唇が触れる。かすかに触れる吐息が、天鵞絨のように桜子の肌を撫でていく。声にならない声が、桜子の名を繰り返し呼んでいた。
 ――そうよ。忘れないで。
 私はいつでも、ここにいる。あなたの一番近くに。
 私が、あなたの真実。たとえあなたが何を見失っても、私があなたの手の中に残る、たったひとつの真実になる。
 そして、唇に唇が触れた。
 少し乾いてざらついた、直之の唇の感触。それが優しくやわらかく、桜子の唇をそっとなぞっていく。
 桜子の身体の芯を、甘い戦慄が走り抜けた。そして絡め合う指先から、同じ戦慄を直之も感じていることがつたわってくる。
 ふたりの唇が重なり合い、呼吸がひとつに溶け合う。今、ふたりは完全にひとつだった。重なる鼓動が、ぬくもりが、分かちがたいひとつの生命となっていく。
 ――そうよ。私たちはこうなるために、めぐりあった。互いの欠けているもの、どうしても満たせない心のかけらを、お互いの存在で、命で補い合うために。
 この美しい山河の中で、私たちはめぐりあった。
 初めての接吻の上に、桜の花びらが雪のように舞い散っていた。





    エピローグ

 それから、二月後。
 梅雨の晴れ間、輝くような青空が広がった朝。阿久津直之と久川桜子は、久川別邸の一室でささやかな華燭の典をあげた。
 地元の神社から神主を招き、三三九度の杯事を執り行うだけの、本当にささやかな式だった。新郎側の親族として参列したのは、従妹である阿久津伯爵家令嬢美音子ひとりきり、新婦側の親族席には、久川別邸で働く人々が並んでいた。
 直之はモーニングコートの礼装、桜子は羽二重の白無垢だった。
 桜子の着た花嫁衣装は、慈乃が用意しておいた白羽二重の反物を、花嫁自身ととよが中心となって、久川邸に関わりのある女たちが千人針の要領で、若いふたりの幸福を祈りながら一針一針縫い上げたものだった。
 綿帽子を被り、白一色の花嫁衣装に身を包んだ桜子は、その名のとおり、満開の桜が人の姿をとって現れたかのように美しかった。
 その指には、シンプルな金の指輪があった。やや輝きの失せたその結婚指輪は、かつては直之の母のものであった。財閥の令嬢の結婚指輪にはあまりふさわしいとは言い難かったが、花嫁自身の強い希望により、指輪は故人である夫の母から妻へと引き継がれることとなった。
 急拵えの神棚の前で、神主の詔と杯事がつつがなく終わると、新郎新婦は仏間に入り、先祖の御霊に晴れて夫婦となったことを報告する。この時はふたりの親代わりとして、吉沼家令と女中頭の相馬とよが付き添った。
 この結婚で直之は久川家への婿養子に入ることとなり、久川直之となった。
 直之は日本で行った投資などで築いた財産を、すべて阿久津勝一伯爵名義に書き換え、阿久津家に残してきた。阿久津伯爵家と完全に縁を切るためであり、過去につながるものは捨て、一から新しい人生を歩もうとする決意のあらわれでもあった。
 そしてふたりが日光への新婚旅行へ出発しようとした時、もうひとつ、サプライズプレゼントがあった。
「わたくし達の、敬愛するお姉さま!」
 小さな背筋をぴんと伸ばし、一張羅を着込んだ尋常小学校の子どもたちが、車寄せの階段下に花道を作るように行儀良く並んでいた。
「敬愛するお姉さま!」
「ご結婚、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
 級長らしい年長の少女の音頭で、子どもたちが声を張り上げ、一生懸命覚えた祝いの言葉を暗唱していた。
「さあ皆さん、わたくし達の学舎にすばらしいピアノを寄贈してくださったお優しいお姉さまに、心からの感謝を込めて、お祝いのお歌を贈りましょう!」
 小学校の女教師が、これも式典用の一つ紋に紫紺の袴を着けて、指揮棒を振る。

     晴れたる青空 ただよう雲よ
     小鳥は歌えり 林に森に
     こころはほがらか よろこびみちて
     見かわす われらの明るき笑顔

     花さく丘べに いこえる友よ
     吹く風さわやか みなぎるひざし
     こころは楽しく しあわせあふれ
     ひびくは われらのよろこびの歌

 楽聖ベートーベンの「歓喜の歌」を斉唱しながら、子どもたちは階段を降りてくる新郎新婦の上に、摘んできたばかりの花びらをまき散らした。
 思いがけないこの純粋な祝福に、桜子は思わず涙を浮かべた。涙ぐむ妻を抱き寄せ、直之はささやいた。
「良かったね。きみが今までしてきたことが間違っていなかったという、何よりの証だよ」
「ええ……。ありがとう。こんなに嬉しいことって、ないわ――」
 可愛らしい歌声と人々のあたたかい笑顔とに送られて、直之と桜子は新たなる人生の第一歩を踏み出した。
 だが、ふたりの門出を見送った人々の中に、高畑歩の姿はなかった。
 歩は、挙式の一週間前にすでに那原を離れていた。東京で進学するためである。
「そんなに急がなくても良いでしょう? 中学校への編入は、九月からなんだから」
 歩にも自分の結婚式を見届けてほしいと、桜子は何度も懇願した。
「すみません、お嬢様。編入試験のための勉強もありますし、少しでも早く勉学の環境に慣れておきたいんです」
 歩の下宿先は、加藤弁護士が久川財閥のつてを頼って探してくれた、さる資産家の屋敷だった。歩はこれからこの屋敷に書生として住み込み、働きながら中学校に通って二年後の高校編入を目指すのだ。
 そこから先は、まだ具体的には考えていない。
「今はただ、勉強がしたいのです。一所懸命に学んで、早く一人前になって、必ずお嬢様や皆様のお役に立てる人間になって戻ってまいりますから」
「誰よりも一番、歩さんにお式に出てもらいたいのに……。わたくしは、歩さんを本当の弟だと思っているのよ」
「ええ、わかっています。お嬢様のそのお気持ちは、とてもありがたいと思っています」
 でも――だからなんです、お嬢様。
「男が立志の時を迎えたんだ。それをいたずらに引き留めてはいけない。『少年老い易く学成り難し』だよ」
 哀しげに瞳をうるませる桜子を、直之が後ろからそっと肩に手を置いて、慰めた。
 そして少年に向かい、一人前の男にするように、右手を差し出す。
 歩は一瞬ためらい、そしてすぐにその手を強く握り返した。
 まっすぐに直之の目を見据え、言う。
「お嬢様をお願いいたします。阿久津様――いえ、旦那様」
「ああ」
 直之は短く答え、うなずいた。
 握手の手を離す瞬間、愛する妻には聞こえないよう、小声で少年にささやく。
「お前さんに脅されたことは、忘れちゃいないさ。安心しろ」
 ――お嬢様を傷つける者は許さない。世界の果てまでも追いつめて、殺してやる。
「はい。ぼくもその気持ちは、今でも変わってませんから」
 そして歩は、東京へ向かう夜行列車に乗った。
 あの時の気持ちに、嘘はない。今でも微塵も変わっていない。
 けれど。
 ――ごめんなさい、お嬢様。ぼくは意気地なしです。
 夜汽車の中で、歩はこぶしを握りしめ、懸命に涙を堪えていた。
 ぼくは意気地なしの、卑怯者だ。
 お嬢様を守ると誓ったのに、結局はなにもできなかった。
 みんなの足手まといになり、最後までお嬢様にかばわれていた。震災の炎の中からお嬢様に背負われて逃げ出した時と、なにも変わらない。
 自分はあの時と同じ、なにもできない無力な子どもにすぎなかった。
 お嬢様を守り、救ったのは、別の男だった。
 そしてお嬢様は、少年が幼い胸に守りたいと願った優しいひとは、その男のもとへ嫁いでいく。
 その美しい花嫁姿を、笑顔で見送ることすら、自分にはできない。ただこうして涙を誰にも見られないよう、ひとり歯を食いしばるばかりだ。
 勉学に励めば、いつかこの痛みにも耐えられるようになるだろうか。
 幸せになるお嬢様に、心から笑って祝福の言葉を言えるだろうか。
 ごめんなさい、お嬢様。もう少し待っていてください。
 いつか必ず、おめでとうと言えるようになります。どんな痛みも哀しみも乗り越えられる、強い男になって、必ずお嬢様のお幸せな笑顔を見届けに、戻って参りますから。
 ――今は、逃げるようにあなたのおそばを離れるぼくを、許してください。
 お幸せに。どうか、お嬢様。今度こそ、本当にお幸せに。
 懸命に涙を怺える少年を乗せて、夜汽車は帝都へと走る。
 少年の手にあるのは、わずかな着替えと久川別邸の人々の心づくしのお餞別、そして苦い涙と不安と、それを克服するための勇気。
 歩は今、誰もが通る道を乗り越え、大人への第一歩を踏み出そうとしている。
 真っ直ぐに伸びる線路の向こうには、茫洋たる未来が広がっていた。





 那原に点在していた華族牧場は、戦後の農地改革によってそのほとんどが消滅してしまった。だが、彼らがこの地にもたらした牧場経営技術は地元の農民たちに受け継がれ、那原は現在でも本州有数の酪農地帯である。
 旧華族たちが遺した美しい洋風建築もまた、その何軒かが戦中戦後の混乱を乗り越えて現存している。中には、学校施設の一部として利用されたり、民俗資料館として一般に公開されているものもある。
 久川桜子が地元の尋常小学校に寄贈したアプライトピアノは、その後の学校の統廃合、教育改革などにより、長い間その所在がわからなくなっていた。だが数年前、那原中央小学校の取り壊し予定の倉庫から、偶然古いピアノが発見され、その型番や蓋の裏に彫り込まれたイニシアルなどから、大正十三年に久川桜子が寄贈したピアノと確認された。
 発見された当時、百年近く昔に製造されたピアノは傷みが酷く演奏は無理と思われたが、現代の名工の手により見事によみがえり、大正時代とまったく変わらない美しい音色を響かせるようになった。
 ピアノ発見の記念式典には、久川桜子から数えて三代目にあたる子孫の人々が招待され、小学校の全校生徒による「さくらさくら」、そし五六年生による「歓喜の歌」の合唱が披露されたという。





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