FAKE −3−
 しゅんしゅんと湯気を噴くやかんを眺めながら、菊は考えた。
 人は、命も危ないような怖ろしい目に遭うと、そこで突然天命とやらを悟って、一夜で人となりががらりと変わることもあるって、お寺の和尚さんも講話でおっしゃってたし。お嬢様も、大震災の地獄をさまよって、きっと人がお変わりになったんだ。お嬢様は良いほうに生まれ変わられたんだ。
 男爵様やご嫡男の竜一郎様が亡くなられたのは哀しいことだけれど、桜子様が生きておられたことはあたしたちにとって、そして誰より大奥様にとって、どんなに幸せなことだろう。
「ほら、菊! やかんが噴いてるじゃないか、ぼんやりおしでないよ!」
「あっ! わ、あ、あちゃちゃちゃーっ!」





 暗い廊下を、桜子は玄関に向かって小走りに抜けていった。
 途中、壁に飾られた大きな鏡をちらっと覗き込む。
 楕円形の鏡には、菫色の矢絣を着た、愛らしい令嬢の姿が映っていた。
 きりりとした矢絣のお召しは清楚で若々しく、令嬢の凛とした美しさをひきたてている。しかも、羽織や袴を重ねれば準礼装として通用する矢絣を普段着にしているあたり、彼女の裕福さをも表していた。
 半襟も帯に合わせて、桜の刺繍を散らした山吹色。その明るい色が、いかにも山里の春を思わせる。長い髪を後頭部にまとめて三つ編みにし、それを輪にしてリボンでまとめたマガレイト髷は、鹿鳴館の頃から流行した束髪の一種だ。断髪にウェーヴをつけた耳かくしや前髪を大きくふくらませた庇髪が流行する大正の世では、やや時代遅れかもしれないが、すっきりとまとめたスタイルが彼女には良く似合っている。震災以降、髪を大きくふくらませる日本髪は廃れはじめ、動きやすいようにコンパクトにまとめる髪型が流行している。
 白磁の肌に、花びらのような唇。帝都一の美男と言われた父や、母の美しい容貌をよく受け継いでいる。
 けれどその表情には、どこか暗い陰があった。黒曜石のような瞳には、かすかに怯えるようなゆらぎが宿っていた。
 ――だめよ。こんな顔してちゃ。
 唇を噛み、桜子は鏡に映る自分を見据えた。
 ――大丈夫。自信を持つの。私は久川桜子。久川男爵令嬢よ。
 まず自分から信じ切ること。そうでなければ、他人を信じさせることなんて、できっこない。
 もう一度強く自分自身を睨みつけ、桜子は意を決したように鏡の前から離れた。
 足早に玄関を抜け、外へ出る。
 正門からまっすぐに馬車道が延びる前庭は、遅い山里の春に彩られていた。
 芝生はようやく緑の芽を吹き、風には沈丁花の甘い香りが溶け込んでいる。振り仰げば、沼原火山帯の主峰、残雪を戴く雄臼岳が青空に白く噴煙を噴き上げていた。
 那原は沼原火山が形成した火山灰台地で、南部は比較的地味も豊かで米作が可能だったが、標高の高い北部は水の利も悪く、開墾には不向きとされていた。広大な土地が赤松や落葉松が生い茂る雑木林のまま、手つかずで残されていた。
 実際、米作ができない山あいの住民は、江戸時代、年貢の一部を火山帯の温泉から採れる硫黄や硝石で納めていたという。
 湯治とわずかな狩猟だけがたつきの道だった那原に、やがて文明開化が新しい産業をもたらした。欧米から肉や乳製品を食する文化が持ち込まれ、それを支えるための牧畜が始まったのだ。
 原生林や薄っ原は開墾され、大規模な牧場がいくつも造られた。そこでは主として乳牛が、ほかに軍馬にするために乗用馬なども飼育された。
 この時、開拓の技術と資金を提供したのは、西欧諸国に遊学し、最新の知識を身につけた新華族たちだった。華族牧場、華族農場の始まりである。
 彼らはふだんは東京の本邸で生活し、避暑や狩猟の時季にのみ那原を訪れた。その時のために、牧場の敷地内にはモダンで美しい洋館が建てられた。そして引退後は東京を離れ、那原でのんびりと晴耕雨読の日々を過ごす者も少なくなかった。
 ――その気持ちもわかるわ。
 雄臼岳の噴煙を眺めながら、桜子は小さくうなずいた。
 若い牝鹿のような軽やかな足取りで庭を抜けていく令嬢に、庭木の手入れをしていた職人や小僧たちが、いっとき仕事の手を止めて頭を下げる。
 桜子はひとりひとりに会釈をし、時には短く声をかけた。
「おはよう、親方。桜の具合はどうかしら!」
「へえ、今年の雪でかなり枝が傷んでおりましたが、思いきって切り落としましたんで、だいぶ元気になりました」
「じゃあ、四月にはまた花が咲くわね。お祖母様もきっとお喜びになるわ。ありがとう!」
 礼を言われたことに照れたのか、植木職の親方は頭を掻きながら何度も頭を下げた。
 開拓が進んだとはいえ手つかずの原生林が残る那原は、まだ荒々しく若い大地だ。冬の北風「沼原颪」は身を切るようだし、夏の激しい雷雨で、天井川の塩入川は何度も氾濫を繰り返してきた。
 それでも、ここは美しい大地。人々は素朴だけれど、開拓と進取の気概にあふれている。
 初代久川男爵敦は、桜子が生まれる前に他界していたが、きっとこの那原のような人だったろうと思う。一見無愛想で粗野にも思えるが、内には力強い優しさと情熱を秘めた男性。
 だからこそ慈乃は、夫が愛した那原別邸を終の棲家とさだめたのではないだろうか。
「吉蔵さん、吉爺や! レンギョウの枝をもう少し切ってもらえないかしら。お客様にお持ち帰りいただくのよ」
 北向きの斜面で草木の手入れをしていた老爺に向かい、桜子は声を張り上げた。
 大きく手を振る桜子に、吉蔵はのそりと顔をあげ、無言でうなずく。
「それと、南の庭の水仙も少しもらうわね。いいかしら!?」
 その問いかけにも、吉蔵は無言でうなずいただけだった。
 第二代男爵辰雄なら、使用人のくせになんだその態度はと怒鳴り散らすところだろうが、桜子は気にもとめなかった。
 そのまままっすぐに南の庭へは向かわず、一旦屋敷の裏手へ回り込む。
 敷地の北側には、使用人たちが暮らす長屋が並んでいた。屋敷や農場で働く五〇人あまりの人々のうち、ここに住んでいるのは二〇人ほど。残りは近隣の集落から通ってくる。
 とよは、農場で厩舎長を勤める夫と三人の子どもとともに長屋に住み、吉蔵は近くの集落で息子夫婦とともに暮らしている。菊も通いだ。
 屋敷に倣ってハイカラな文化住宅風の長屋の、一番端に建つ住居に、桜子は足を向けた。
 玄関で控えめに呼び鈴を鳴らし、そっと声をかけながら扉を開ける。
「歩
(あゆむ)さん――歩さん? 起きていて?」
 扉を開けたとたん、消毒薬のにおいが鼻をついた。
 そして、蒸れるような、病室独特のにおい。
「歩さん。私よ」
 その中へ、桜子は静かに足を踏み入れた。
 玄関をあがると洒落た洋間があり、その奥には和室がある。そこに白く、布団が延べられているのが見えた。
「お嬢様」
 布団に横たわっていた病人が、ゆっくりと身を起こした。
「いいのよ、寝ていなさい」
 桜子はあわてて駆け寄り、病人の背中を支えた。
「平気です。ぼく、今日はとても気分が良いんです」
 桜子に笑いかけた少年は、ひどく痩せて小柄だった。
 桜子より五才年下の十二才なのだが、もっと小さな子どものように見える。だがその表情には、年令よりもずっと大人びた賢さがあった。
 少しはだけた寝間着の襟元から、ちらりと少年の肩がのぞく。そこから背中一面に、惨い火傷の痕が広がっている。桜子は思わず眼を伏せた。
 傷痕に触れないようそっと、少年の寝間着を直してやる。
 手に触れた背中は背骨が浮き出し、綿ネルの厚ぼったい生地を通しても、熱っぽさがつたわってくる。かなり熱があるようだ。気分が良いなんて、心配をかけまいとする少年の強がりだ。
 それでも桜子は、少年の嘘にあいづちをうった。
「そう、良かったわ。きっと向坂
(さきさか)医師(せんせい)のお薬が効いたのね」
「はい。それに、お膳も残さずいただいています。牛乳だって、毎日ちゃんと飲んでるんですよ」
「鼻をつまんで、でしょ? 私もそうよ」
 桜子は明るく笑った。
 けれど高畑
(たかはた)歩は、ふと表情をくもらせた。聡明な眼差しで、じっと探るように桜子を見つめる。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「歩さん……」
 桜子は一瞬、言葉につまった。
 ずき、と胸元を熱く鋭いものが突き上げる。それは、この那原別邸に来て以来、何度となく桜子を襲ってきた不安の塊だった。
 それを無理やり押し殺し、飲み下して、桜子はにこっと笑った。
「私は大丈夫よ。なんにも心配いらないわ」
「お嬢様――!」
「ばかね。どうしてそんなお顔をするの」
 桜子は歩を抱き寄せ、こつんと額をつき合わせた。
「心配いらないって言ってるでしょう。歩さんはね、今はただ自分の身体を癒すことだけを考えていれば良いの」
「はい……」
 少年の声が涙にかすれる。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ぼくのために……!」
「違うわ、歩さん」
 桜子は小さく、けれど強い決意を込めた声でささやいた。
「これは私が自分で決めたことよ。歩さんのせいじゃない。すべて私が考えて、私がやったことなのよ」
 ――そう。あの地獄から生きのびるために。
 こうするしかなかった。
 これしか、私と、そしてこの子が、生きのびるすべはなかったのだから。
 そうよ。私は死にたくなかった。生きていたかった。
 それは人の本能、人として誰もが持っている、一番あたりまえの欲求。
 私はあやまちを犯している。けれど、けして後悔はしない。
 桜子は目を閉じ、そして歩を強く抱きしめた。





 あの日。
 大正十二年九月一日。
 九月になったというのに、朝からひどく蒸し暑い日だった。
 前日、小さな台風が通過したばかりの東京には、南からの湿った風が吹き込み、気温と湿度がかなり上昇していた。空はどんよりと曇り、時折り台風の残した小雨がぱらつく。それでも気温は一向にさがらない。
 空はまるで頭上にのしかかるように重たく、動物たちは妙に落ち着かない。人々も、いつもとは違うなにかを感じ取っているかのようだった。
 肌にべたべたとまとわりつく気温のせいか、久川桜子はずっと機嫌が悪かった。前日に、女子学習院の授業を抜け出して男友達と活動写真に行ったことを、父男爵から厳しくとがめられたせいもある。
 青筋をたてて怒った父は、桜子に十日間の外出禁止を言い渡した。学校帰りに寄り道ができないよう、ふだんは省電を使う通学も、久川家の車で送り迎えされることになってしまった。
「なによ。ちょっとお友達と息抜きしただけじゃない。それなのに十日も籠の鳥なんて、ひどすぎるわ。お兄様なんて一度出かけたら、吉原や千住に居続けで、四日も五日も屋敷へ帰ってこないじゃないの!」
「しかたないだろう。俺は男で、おまえは女なんだから」
 居間のソファにだらしなく寝そべっていた竜一郎が、せせら笑いながら言った。
「親父だって家の外に女を囲ってる。そうやって男が外で遊んでいるあいだも、女は大人しく家を守ってるってのが、正しい家族のありかただろ」
 帝都一の美男と言われた父に似て、端正な容貌の竜一郎は色街の女にも人気がある。だが毎晩遅くまで深酒し、遊び呆けているせいか、顔色は冴えない。肌荒れもひどいらしく、首筋や胸元に点々と赤い発疹が浮いている。
「そんなのずるいわ、不公平よ! 楽しいことは殿方だけが満喫して、女は家でじっと待つだけなんて!」
 いくら憤慨しても、家長である父の決定は絶対にくつがえらない。
「なによ、お兄様なんて大っ嫌い! あっちへ行ってよ!」
 癇癪を起こして、手当たり次第にものを投げたり蹴り上げたりする令嬢に、使用人たちは怖じ気づいて誰も近寄ろうとしなかった。彼女の居室を遠巻きにし、時々聞こえるガラスの割れる音やものが倒れる音に、びくっと身をふるわせるだけだ。
 財閥の令嬢として生まれ、金に飽かせてわがまま放題に育てられた桜子だ。我慢したり感情を抑えたりなどということは教えられてもいないし、屋敷の使用人などはなから同じ人間と思っていない。
 そしてこんな時、桜子が八つ当たりする相手はたいがい決まっていた。
「多恵
(たえ)っ! 多恵、どこなの、多恵!」
 桜子はヒステリックに声をはりあげた。
「は、はい! 今、参ります!」
 令嬢の怒鳴り声に応え、ひとりの少女が長い廊下を転げるように走ってくる。
 少女が桜子の部屋の扉を開けたとたん、さっきよりもさらにすさまじい声が飛んできた。
「遅いわよ、多恵! 呼んだらすぐに来なさいって、いつも言ってるじゃないの!」
「すみません」
 うつむいた少女は、安っぽいメリンスの単衣を着ていた。帯も古い帯を解いて仕立て直した昼夜帯だ。しかも地味な千すじ縞の単衣は少女には小さすぎ、裾から足首が見えている。短い袖をひっぱり、隠そうとしている手首の上には、まだうっすらと赤く火傷の痕が残る。髪を巻く鏝を押しつけられた折檻の痕だ。三つ編みの髪も少しほつれ、額に乱れ髪が張り付いていた。
 女学生らしい庇髪に結い、緋縮緬の大きなリボンを飾った桜子の隣に並ぶと、多恵の貧相な身なりが余計に際立つ。
 だが、うわべの違いをのぞくと、二人の少女は驚くほど良く似ていた。
 年頃も背格好も、そっくりだ。黒目がちの瞳に磁器のような肌。濡れ羽色の髪。
 多恵のほうは、栄養状態が良くないのか、かなり痩せて頼りなげに見える。桜子は奇麗に化粧しているが、多恵は顔色も悪く、目の下にはうっすらと隈が浮いていた。
 こころもち顎をあげ、多恵を見くだす桜子には表情の端々に高慢さが見え、反対にうつむいてばかりの多恵はおどおどとして卑屈にさえ感じられる。
 だが、もしも二人が着るものを取り替え、互いの態度や口調の真似をしたら、他人には見分けがつかないかもしれない。そのくらい、二人はよく似ていた。
 だがそのことが、桜子はよけいに気に入らない。
「いやぁね。あんた、汗びっしょりじゃないの。汚いわあ。どこで何してたのよ」
 桜子は多恵を嘲笑うように、絹のハンケチを口元にあて、大袈裟に顔をそむけた。
「桜子様のお召しに火熨斗
(ひのし)をあてていました」
 多恵はうつむき、小さな声で返事をした。
 その返事に、桜子は不愉快そうに小さく鼻を鳴らした。
 多恵にそれを命じたのは、桜子自身だ。
 九月一日からは衣替え、真夏用の紗や絽の単衣から、同じ単衣でも少し生地の厚い御召縮緬や紬などに着替える。
 多恵はそれに間に合うよう、箪笥に入りきらないほどある桜子のお召しをすべて洗い、火熨斗をあてておくように言いつけられていた。
 着物の丸洗いと火熨斗あては重労働だ。火熨斗は言うなれば和製のアイロンで、中に炭火を入れて使う。重たく、また非常に熱い。
 今、桜子が着ているモダンな花柄のお召しも、昨夜のうちに多恵がしわひとつないよう奇麗に火熨斗をあてておいたものだ。アールヌーヴォーを思わせる洋花の柄に、あえて江戸好みの麻の葉模様の帯を合わせるあたり、お洒落な桜子らしい。伝統的な文様を流行りの幾何学柄に見立てているのだろう。透かしの蘇州刺繍が入った半襟を縫いつけたのも、多恵だ。
「まあ、いいわ。大事なのはそんなことじゃないもの」
 桜子はふわりと長い髪をかきあげた。甘く濃い香水が香る。
「あんた、今朝、わたくしの部屋を掃除したわね?」
「はい」
「その時、この部屋からなにか持ち出さなかった?」
「えっ!?」
 思いがけない質問に、多恵はぱっと顔をあげた。
「いいえ、お嬢様。私、なにも――」
「嘘おっしゃい!」
 桜子は乱暴に多恵の肩を突き飛ばした。
「指輪がないのよ! お祖母様からいただいた、紅玉の指輪が!」





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