FAKE −4−
「ゆ、指輪?」
 久川家の紅玉の指輪なら、多恵も知っている。久川家の女主人に代々受け継がれるはずの、みごとな指輪だ。鮮血のように赤い紅玉は、夜会のおりなどに久川男爵夫人清子の指を飾っていた。
「あの指輪は、十七の誕生日にお母様がわたくしに譲ってくださったのよ。この宝石箱に大切にしまっておいたのに、ごらん!」
桜子は宝石箱の蓋を開き、多恵の目の前に突き出した。
 ネックレスやブローチ、指輪などがぎっしりと納められた宝石箱には、一箇所、空白ができている。ちょうど指輪ひとつ分ほどの空きだ。
「そんな……! 私、本当に知りません」
「しらを切るつもり!? まあ、図々しい! いいわ、下男たちに言いつけて、あんたの持ち物をみんなひっくり返して探させるから。それでも出てこなかったら、今度はあんたを丸裸にして調べさせてやるわ!」
 桜子は口元に勝ち誇った笑みを浮かべていた。その目は弱い者いじめの快楽にきらきらしている。
 その言葉はおそらく単なる脅しではない。多恵が自分の意のままにならなければ、桜子は本気でやるつもりだ。実際、気に入らない女中を同じ目に遭わせて、屋敷から追い出したこともある。
「私……」
 多恵は唇を噛んだ。
 やがて顔をあげ、まっすぐに桜子の目を見る。
 その表情には、さきほどまでのおどおどと怯えた様子はもう微塵もなかった。黒曜石のように強く輝く瞳には、なにものにも負けない意志の力があった。
「私は存じません」
 多恵はきっぱりと言った。
「今朝はたしかに宝石箱の中にあったわ。そのあと、わたくしの部屋に入ったのは多恵だけじゃないの。あんたが盗ったのでなければ、いったいどうしたって言うのよ! 指輪に足が生えて、勝手に歩いていったとでも言うつもり!?」
 桜子は声をはりあげ、まくしたてた。
「どうしたんだ、桜子」
 あまりの声に、竜一郎が廊下から扉を開け、のそりと顔を出した。
「聞いて、お兄様! この女、わたくしの指輪を盗ったのよ!」
「なんだって? そりゃ本当か」
 竜一郎はにやにや笑いながら、妹の話に乗ってきた。こういうところは息の合う兄妹なのだ。
「指輪って、あれだろう。祖母上
(ばばうえ)の紅玉」
「そうよ。久川家の家宝だわ。それをこの女、自分が触らせてももらえないのを妬んで、わたくしの宝石箱から盗んだのよ!」
「違います! 私、桜子様の宝石箱になんて、手も触れていません!」
「お黙り! じゃあ、指輪はどこへ行ったのよ! あんたが盗んだのでなければ、この部屋のどこかにあるはずじゃないの!」
 桜子から指を突き付けられても、多恵は怯まなかった。真っ向から桜子の両眼を見返す。
 やがて多恵は、ゆっくりと室内を見回した。クリスタルのシャンデリア、ピアノの上、カーテンからソファ、そして本棚。
 天井近くまである大きな本棚には、書籍は半分ほどしか並んでいない。それも少女雑誌や百貨店が出すファッションカタログがほとんどで、重厚な装丁の古典や外国語の文学全集などは開かれた様子もない。空いた場所には人形やオルゴールが飾られている。
 多恵はその本棚に近づいた。
 箱入りの文学全集を端から一冊ずつ傾けて、確かめる。
 やがてその中の一冊を引っ張り出した。
 多恵が取り出したのは、厚紙で作られた箱だけだった。中身の書籍がない。
 そのかわり、箱の中には大小さまざまの封筒や便箋がぎっしりと詰め込まれていた。
 桜子が複数の男友達からもらった恋文の数々だ。
 多恵はそれを思い切り良く逆さまにした。手紙の束がばさばさと絨毯の上にまき散らされる。
 そして最後に、ころんと小さなきらめきが転がり落ちた。
 鳩の血色をした、紅玉の指輪。
 竜一郎は短くうめき、言葉をなくした。桜子も顔面蒼白になる。
 多恵は指輪を拾い、桜子の目の前に差し出した。
「お探しのものに間違いございませんか、お嬢様」
「な……っ、なによ、なによ――!」
 低くうめくように桜子は言った。
「あんたが隠したんでしょ! 自分で隠して、見つけてみせて――」
「桜子様の秘密のレタアラックにですか?」
 感情のない声で、多恵は淡々と言った。
「桜子様が毎晩、ここに隠した恋文
(ラヴレタア)を取り出し、眺めてらっしゃることは、屋敷で働く女中たちはみんな知っています。もし私が本当に指輪を盗んだのなら、どうしてそんなところに隠すでしょう。もっと、誰の目にもつかない隠し場所を考えます」
「おまえ、そんな真似してたのか。悪趣味だなあ」
 なかば呆れ、なかばおもしろがるように竜一郎が言った。
「それに、もうちょっとましな隠し場所を考えろよ。そう言えばおまえ、昔から考えが浅かったよなあ」
「う……、う、うるさいわね! わたくしが何をしていようと、大きなお世話よ!」
 桜子は耳元から首筋まで怒りと恥ずかしさに真っ赤に染めて、わめき散らした。
「なによ――なによ、こんなものっ!」
 いきなり、多恵の手の上から指輪をひったくる。
「あっ!」
 多恵が制止する暇もなかった。
 桜子はそのまま指輪を窓の外へ放り投げてしまった。
 ぽちゃん、と頼りなく、小さな水音が聞こえた。
「桜子様、なにを――!」
 多恵はあわてて窓際へ駆け寄った。
 けれど目に映ったのは、庭の池にゆらゆらと広がる水の輪だけだった。
「拾ってらっしゃい」
 腕を組み、あごをそらして多恵を見くだしながら、桜子は言った。
「拾ってくるのよ、早く! 今日中に見つけられなかったら、あんたが指輪を投げ捨てたって、お父様に言いつけてやるから!」
「なっ……!」
 多恵は愕然とし、思わず絶句した。
「大事な指輪よ。久川家の女主人のあかしだわ。それをあんたが失くしたって知れたら、あんた、この屋敷を追い出されるだけじゃあすまなくってよ?」
 桜子は勝ち誇るように笑った。その眼は弱い者苛めの快楽にぎらぎらしている。
「ねえ、お兄様だって見てたわよね。多恵がわたくしの手から指輪を奪って、池に投げ捨てるのを」
「あ? ――ああ、ちゃあんと見てたさ。指輪を投げたのは、多恵だ」
 妹のあまりの行動に唖然としていた竜一郎も、すぐにその意を察し、にやにや笑いながらうなずいた。
 何がなんでも多恵をいじめたい桜子は、多恵に指輪紛失の罪をなすりつけるつもりなのだ。屋敷の嫡男と令嬢が口を揃えて言えば、いったい誰がその言葉に異を唱えられるだろう。
 多恵はもう、なにも言えなかった。
 ただ、血がにじむほど強く唇を噛み、込み上げる怒りを抑えつける。
 黙りこくったまま、多恵は桜子と竜一郎の横をすり抜け、扉へ向かった。
 部屋を出る多恵の後ろで、桜子たちの笑い声が響いた。
 悔しい。身分が高い、裕福だというだけで、ここまで無体な真似をして良いというのだろうか。そしてそれ以上に、桜子たちになにも言い返せない自分が情けなくてたまらない。
 どんなに悔しくても、腹が立っても、どうすることもできない。桜子たちに逆らってこの屋敷を追い出されたら、多恵はどこにも居場所がなくなってしまうのだ。
 多恵は濡れ縁から庭へ降りると、着物の裾をたくしあげ、迷わず池に入った。
 錦鯉が泳ぐ庭の池は、一番深いところでも大人の腰のあたりだ。溺れる心配はない。水はぬるく、寒くはないが、その分ぬめりがあるようで気持ちが悪い。水底も藻に覆われて、足を踏んばっていてもぬるぬる滑る。
 さっき波紋が見えたあたりに見当をつけ、かがみ込んで両手を突っ込む。水はよどんで透明度が低く、そうやって手探りで指輪を探すしかないのだ。
「あれ見てよ、お兄様! まるでどぶ浚いみたい!」
 甲高くはしゃいだ声が聞こえた。ちらっとたしかめると、桜子が自分の部屋の窓から身を乗り出し、多恵を指さして笑っている。
「ほんと、いい恰好!」
「ああ、そうだな。本当にいい眺めだ」
 桜子の隣に立つ竜一郎は、多恵の白い腰巻きや、濡れて浮き上がる足の形に好色な目を向けている。
 いつの間にか屋敷の使用人たちも庭の端や縁側に集まり、池の様子をのぞいていた。みな、雇い主の立場を笠に着た桜子たちの行為に眉をひそめてはいるが、令嬢と令息の意向に逆らってまで多恵をかばおうとする者はひとりもいない。
 しかたがない。誰もみな、この屋敷での職を失うわけにはいかないのだ。
 もしも多恵が指輪を見つけられなければ、次は屋敷の使用人たちが総出でこの広い池の水をすべて掻い出し、底の泥を浚って探さなくてはならない。
 ――させられない、そんなこと。女中も下男も、毎日毎日こまねずみのように忙しく働いているのに。これ以上よけいな仕事を増やして、彼らを困らせることはできない。
 多恵は必死で池の底をさぐり、指輪を探した。
 さいわい水底は玉砂利ではなく、泥が薄くつもっているだけだ。丁寧に探れば、そこに沈んでいるものに指先が当たる。
 厳しい陽光がじりじりと背中を灼き、汗がしたたり落ちた。曲げた腰や膝が痛み出す。澱んだ水の生臭いような臭いが、腕から全身にまで染みこんでいくようだ。
 その時、
「多恵様――多恵様!」
 高い子どもの声が多恵の名を呼んだ。
「多恵様、ぼくも手伝います!」
「歩さん」
 多恵はようやく顔をあげた。
 額の汗をぬぐい、背を伸ばす。そのとたん、くらっと目眩がした。
「大丈夫ですか、多恵様!」
 粗末なキャラコのシャツに下穿きだけの恰好になって、小柄な少年が池に飛び込み、多恵のすぐそばに来ていた。池のほとりには、彼が脱ぎ捨てた白絣の着物と兵児帯がある。
「だめよ、歩さん。……私を様づけで呼んではいけないって、家令の米島さんにもいつも言われているでしょう」
 苦しげな呼吸を抑えながら、多恵はかすれる声で言った。
「いいえ。ぼくにとっては、多恵様もこのお屋敷のお嬢様のおひとりです。多恵様だって旦那様の――!」
「黙って、歩さん」
 砂を噛むように、多恵は言った。
 先年、久川邸で働いていた両親を流行り風邪で亡くした歩は、男爵夫妻の慈悲にすがるという形でこの屋敷の下働きとして住み込むことを許されていた。
 聡明な歩は尋常小学校を卒業する時、担任教師から上の学校への進学を強く勧められた。だが、吝嗇な男爵夫人がそんなことを許すはずはなかった。それどころか、半人前の小僧など、食わせ、着させてやっているだけで充分だと、歩にろくに給料も支払っていない。
 そんな歩を、ほかの使用人たちも犬か猫のように扱い、自分がやりたくない汚れ仕事やきつい屋外での作業を次々に押しつけた。
 多恵だけが、歩を自分と同じ人間として扱い、陰になり日向になりかばい続けた。
 一度、どんな理由があったのか酷い癇癪を起こし、竜一郎が乗馬用の鞭で歩をめった打ちにしたことがあった。その時、多恵は身を挺して歩をかばった。結果、多恵の背中にも歩と同じく、縦横に鞭の痕が刻みつけられることになってしまった。
 竜一郎や桜子にこびへつらい、彼らと同じように歩をさげすんで虐げることは簡単だったろう。だがそれをしてしまえば、多恵自身、自分もまた人間としてまともな扱いを受けられない身であることを認めることになってしまう。親がいないから、貧しいからと、それだけで歩を差別することは、自分自身を貶めることだ。
 誰からも守ってもらえない歩の孤独な境遇が、同じような日々を強いられる多恵の心を引き寄せたのかもしれなかった。歩をかばうことは、傷つけられた自分自身の心をもかばうことだった。
 歩は、多恵の生まれを知ると、彼女にも「多恵様」と敬語を使うようになった。桜子と同じ久川家の令嬢だと見なすようになったのだ。そんな扱いをしてくれるのは、無論、歩だけだ。
 歩が無心に向けてくれる敬慕の眼差しはうれしい。誰もかばってくれない中、この少年の優しさにどれだけ救われてきただろう。
 けれど今は、屋敷の実務を取り仕切る家令の言いつけを守らなかったと、あとで歩が咎められることになるかもしれない。それは、多恵自身が折檻されるよりもつらい。
 多恵の懸命の拒絶に、歩も唇を噛んで黙るしかなかった。
 多恵はふたたび池の中に両手を突っ込み、指輪を探す作業に没頭した。
 歩も同じく、懸命に水底を浚う。
「もういいわ。向こうへお行きなさい」
 多恵が小声で言っても、
「平気です。ここを手伝うなとは、誰にも言われていません」
 歩は頑なに池から出ようとしなかった。
 多恵もそれ以上はなにも言わなかった。指輪を探す指先に、神経を集中する。
 どのくらい、そうやっていたのか。
「――あっ!」
 多恵は、短く声をあげた。
 指先に触れた、小さく硬い感触。つまんでみると、丸い輪がはっきりと感じられる。
「あった……、あったわ!」
 多恵は右手を高くあげた。その指先で、深紅の宝石が陽光を跳ね返し、きらりと輝く。
 リングの内側をたしかめると、そこには「ヒサカワレイフジンニコレヲササグ」と刻印された文字が読める。久川令夫人にこれを捧ぐ。間違いない。久川家の紅玉の指輪だ。
「良かった、多恵様。さあ、早くそれを桜子様へ――」
「ええ!」
 ぬめる水で手でもすべらせたら大変だ。多恵はたもとから白いハンカチを出し、指輪を大切にくるんだ。そしてそれをふところにしっかりと納める。
 安堵のため息をつき、もう一度袂の上から指輪を抑えた時。
「……え?」
 多恵は、妙な物音を聞いた。
 低く、地の底から湧き上がるうなり声のような。
「なに、今の……」
 歩も同じうなりを聞いたらしい。
 ふたりが顔を見合わせた瞬間。
 それは、きた。
 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分三十二秒。
 神奈川県西部から相模湾を経て、千葉県房総半島先端に到達する大断層が、動いた。
 その動きは、帝都東京を中心に、関東南部の広い範囲に震度5から震度7を超える凄まじい揺れをもたらした。
 関東大震災の、最初の揺れである。
 日本史上もっとも甚大な被害をもたらした天災の、始まりだった。





 ずん!と足元を突き上げるような揺れに、大地がふるえた。
「きゃあああっ!」
 多恵は悲鳴をあげた。
 立っていられず、そのまま池の中に転倒する。
 東京の大地は、その上に乗っているすべてのものを容赦なく揺さぶり、振り落とし、なぎ払った。
 まるで巨大な手に全身を掴まれ、上下に激しく振り回されているみたいだ。身体を起こすこともできない。
 池の水が鼻にも口にも流れ込む。咳き込み、もがき、多恵は必死に起き上がろうとした。
 なにが起きたのか、理解することも、考えることすらできなかった。
 最初の揺れがおさまりかけ、多恵はようやく水面から顔をあげた。
 大地はまだ余波にふるえていた。池の水は激しく波うち、庭木は嵐の時のように大きく揺れている。あちこちでもうもうと砂埃があがっている。
「だ、大丈夫ですか、多恵様!」
 ずぶ濡れになった歩が、池の中を這うように多恵のそばに近寄ってきた。
「いったいなにが――」
「じ、地震……。地震だと、思うわ……」
 なかば茫然と多恵はつぶやいた。
 言いながら、自分の言葉が信じられない。
 目の前の光景が、現実だとは思えないのだ。
 みごとな書院造りの母屋が、大きく斜めにかしぎ、凄まじい音をたてながらぐらぐらと揺らいでいた。
 屋根が傾く。梁が落ちる。雪崩のように瓦が落ちてくる。
「お、お屋敷が――!」
 つぶやいたのはどちらだったろう。
 ふたりは、息もできない砂埃の中、もがきながら池の岸にあがった。
 手に触れた地面が、まるでくずれかけた豆腐かなにかのように、とても頼りなく、得体の知れないものに感じられる。
「なんなの……。なんなの、これ――」
 その時、ふたたび大地が揺れた。
 午後〇時一分、第二震。
 本震よりもさらに凄まじい揺れが、帝都を襲った。
 続けて午後〇時三分、第三震。
 わずか五分ほどの間に、マグニチュード7を超える揺れが連続して襲ってきたのだ。
 百雷が鳴り響くような轟音とともに、今度は凄まじい横揺れが多恵と歩をはね飛ばした。





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