FAKE −6−
 歩が寝付いたのをたしかめて、桜子は静かに立ち上がった。
「いけない、早く戻らなくちゃ」
 考えていたよりも、歩のそばで時間を過ごしてしまった。
「おやすみなさい、歩さん」
 もう一度歩の寝顔を確認すると、桜子はそっと長屋を出た。
 ――今さら、何を迷っても、悔いても、どうしようもない。ここまで来てしまった以上、もう、この道化芝居の舞台からは降りられない。
 東京に出れば、久川男爵家と交流のあった人物と出くわすこともあるだろう。なかには、本物の久川桜子を詳しく知っている人もいるかもしれない。
 だが、那原にいれば、その心配もほとんどない。屋敷や農場で働く人々は地元出身の者ばかりで、男爵家にとっては「お目見え以下」の使用人たちだ。みな、男爵の顔など写りの悪い写真でしか知らない。
 そして、唯一の肉親である慈乃は、視力を失っている。
 命からがら那原に逃げてきた娘と少年を受け入れ、優しくいたわってくれた人々。彼らをだまし続けることは、苦しい。深夜、悪夢に目覚めると、自分でも気づかないうちに、ごめんなさい、ごめんなさいと涙混じりに小さくつぶやいていることもある。
 ごめんなさい。嘘をついて、ごめんなさい。
 ――それでも。
 私はこの屋敷で、幸せなのです。
 桜子はふるえる両手を胸の前で強く握りしめた。
 生みの母を早くに亡くし、父の愛も知らずに育った私にとって、お祖母様の優しさは生まれて初めて触れた家族のあたたかさ。
 四六時中おなかをすかせることもなく、夜も眠れない寒さにこごえることもない。私だけの寝室、綺麗な着物、舶来のオルゴールに、屋敷のみんなとすごすお茶の時間。図書室にあふれるほどの書物も、好きなだけ読める。
 東京の久川本邸での惨めな生活の中、どこかに幸福な私の半身がいる、と想像したことがあった。自分が今、こんなに哀しい想いをしている分、どこかに幸せを満喫しているもうひとりの自分がいる。そんな莫迦な空想で自分を慰めていたことがあった。
 けれど今、その空想が現実になった。
 歩にも、充分な治療を与えてあげられた。
 三沢多恵のままでは、たとえ那原に着いても、歩の命を救うことはできなかったろう。
 けれど久川桜子にはそれが可能だった。
 お願い。もう少し、このままでいさせて。
 いつか罪が露見して、罰を与えられるとしても。今だけはもう少し、この幸せを味わわせて。
 ここが私の故郷。那原で暮らすようになってまだ半年だけれど、心からそう思う。
 祖父母と暮らした東京の下町は、震災ですべて燃えてしまった。久川本邸は今まで住んでいたというだけで、けして自分の家と呼べる場所ではなかった。
 愛する人たちがいる。私を受け入れ、抱きしめてくれる人がいる。ここが私の家。私の故郷。たとえその想いが、嘘の上に築かれた砂上の楼閣であっても。
 笑っていたい。大好きな家族と、友達に囲まれて、私は桜子のままでいたい。この美しい早春の山里で。
 ――そうよ。後悔はしない。
 私は間違っている。罪を犯している。
 でも、後悔はしない。
 足早に庭へ出ると、吉爺やが腕にあふれるほどレンギョウの枝を切っていてくれた。
 それを受け取り、井戸端へ向かう。
 屋敷や使用人長屋には上水道が引かれているが、農場内にある井戸もまだ利用している。江戸時代のつるべは青銅製の手押しポンプに取り替えられていた。
 桜子は自分で水を汲み、手早く枝の水揚げをすませた。きれいに切りそろえたレンギョウの枝を、吉爺やに用意してもらった濡れ新聞紙でくるむ。
 一連の動作にまったく無駄はない。桜子にとって、考えなくても身体が動く慣れた作業だ。
「これだけあれば、水仙はいいかしら」
 大きな束を抱え、屋敷の中へ戻ろうと振り返った時。
 桜子は不意に立ち止まった。
 屋敷へ続く柳の小道に、背の高い姿があった。
「春とはいえ、やはり那原は寒いな。インヴァネスを羽織ってくれば良かった。あなたはお寒くないのですか?」
「あ、阿久津様……。どうして、こんなところへ――」
「あなたを捜していたのですよ、桜子嬢」
 直之はほほえみを浮かべ、ゆっくりと桜子に近づいてきた。その歩みは落ち着いているが、確実に桜子の行く手を阻む。
 桜子は思わず、後ずさった。
 なんだろう。嫌な予感がする。
 慈乃に挨拶に来ただけの人が、どうしてこんな庭の奥にまで来たりしたのだろう。まさか庭の散歩で迷ったわけでもないだろうに。
「わたくしに、なんのご用でしょう。お花でしたらすぐに……」
 直之はなにも答えなかった。ただ、さらに桜子に近づいていく。
 その、嵐のような灰色の目はけして笑っていなかった。まるで獲物を狩る大型肉食獣のように、じりじりと、焦ることなく桜子を追いつめてくる。
 ぞくりと悪寒が走った。
 その目が、桜子の力をすべて吸い取ってしまうかのようだ。
「桜子嬢」
 はい、と返事をしたつもりだった。
 けれど声が喉の奥でひからび、出てこない。
「いいや」
 直之が笑った。
 それまでの紳士的な、儀礼上の微笑ではなく、冷たく皮肉に満ちたその笑みが、彼本来の表情なのだろう。
「きみは、誰だ?」





     2  ふたりのフェイク

「きみは、誰だ?」
 同じ質問を、直之は繰り返した。
「な、なにを……。わたくしはこの久川家の――」
「いいや、違う。きみは久川桜子ではない」
 直之がゆっくりと近づいてくる。そして不意に桜子の目の前で身をかがめた。
 彼がふたたび身を起こした時、その手には新聞紙にくるまれたレンギョウの束があった。手にした花を、桜子は自分でも気づかないうちに取り落としていたのだ。
「さきほど応接室に入ってきた時、きみは開口一番『おはようございます』と言ったね。――華族の屋敷では、挨拶はすべて『ごきげんよう』だ。朝でも、昼でもね」
 その言葉に、桜子は思わず息をのんだ。
「同じ華族でも、慈乃様はもとはと言えば下級士族の出身だ。夫君の敦閣下は商人の出だった。だが、第二代男爵夫人清子
(きよこ)様は、堂上華族の家からお輿入れされた。その娘である桜子嬢も、幼い頃からの学習院育ち。華族階級以外の生活を知るはずはない。それが、わずか半年あまりの田舎暮らしで、生まれたときから染みついた華族の言葉遣いがなおるものか? ほかの言葉は訛りもなく、綺麗なままなのに」
 ごきげんよう。
 言われてみればたしかに、桜子やその母の清子は、いつもそんな挨拶を交わしていた。新参の女中がうっかり「おはようございます」などと挨拶すると、返事もしなかった。下々とは使う言葉からして違うのだと言いたげに。
 伯爵以上の家柄では、一家の家長を「旦那様」や「ご主人様」ではなく、大正の今でも「殿様」と呼ぶところも多いという。
 直之は、拾ったレンギョウの束をぽんと桜子の手にのせた。
「この花を切りそろえる様子も、見せてもらったよ。井戸から水を汲むのも、ずいぶん慣れているようだったな。花の処理も手際よかった。――日々の労働に慣れた者、労働に追いまくられていた者の動き方だったよ。一朝一夕で身に付くものじゃない」
 身動きすら忘れたような桜子に、直之はレンギョウをむりやり押しつけた。
「きみは久川桜子に良く似ている。けれど、桜子ではあり得ない」
 桜子の目の前に、直之の笑顔があった。
「桜子になりすました、偽者だ」
 その言葉が、桜子の心臓に突き刺さった。
 息も吸えない。まるで生きながら身体をふたつに引き裂かれたみたいだ。
「きみは、誰だ?」
 みたびの問いかけは、桜子の聴覚を上滑りしていくだけだった。
「そういえば、長屋にいた少年は、きみのことを『お嬢様』と呼んでいたな。彼は、きみとともに東京から来たのだろう? 彼もこのぺてんの片棒を担いでいるのかな?」
「違うわ! 歩さんは、なにも嘘はついていない!」
「ほう? では、きみは本当に久川家の令嬢だというのか? 他人のそら似を利用しただけではなく」
「……他人じゃないわ」
 低く、うめくように桜子はつぶやいた。
 応接室に響いていた明るい歌うような声とはまったく違う。かすれて、奥底に深い恨みと悲しみを沈めている声だった。
「似ていて当然よ。私は……本当に、桜子様の妹だったんだもの」
 桜子の腕の中で、レンギョウの花がつぶれていく。
 直之はわずかに眉をあげ、表情を変えた。
「そうか。きみが誰なのか、やっとわかったよ。久川辰雄男爵には、正妻腹の正嫡、竜一郎、桜子のほか、外の妾に生ませた数人の庶子がいたはずだ。きみはそのうちのひとりなんだな?」
「それも、違うわ……」
 花の枝が折れるほど力がこもっていた腕が、急にだらりと下へさがった。
 桜子はうなだれ、力無く笑った。
 彼の前では、どんな嘘も通用しそうにない。この、冬の嵐のような瞳の前では。
 初めてこの目を見た時に感じた、得体の知れないおののき。それは、このことを予感してだったのだろうか。
「私は、父に認知されていなかった。久川の籍に入れた庶子じゃない。母の、私生児よ」
 桜子は低く、まるで独り言のようにつぶやいた。
「だから私の名前は三沢多恵。母の名字を名乗るしかなかったの。私の父は、久川辰雄男爵。母は、……久川家の屋敷で働く女中だったわ。私と桜子様は、四ヶ月しか誕生日が離れていないの。桜子様が四月だけお姉さん……。どういうことだか、わかる?」
「正妻が妊娠中で手を触れられないから、かわりに、手近にいた屋敷の使用人で間に合わせた、というわけか」
 こくんと桜子はうなずいた。
「そのことで、清子奥様はひどくお怒りになったそうよ。色町で玄人の芸者や娼妓を買うならともかく、妊娠中の自分が苦しんでいるのに、その同じ屋敷の中で、使用人の娘に手を出したなんてね。父が同じだけなのに、桜子様と私がこんなに似ているの、おかしいと思わない? 私の母はね、なんとなく清子様に似ていたのよ。小柄で色が白くて、細面で……。そういうのが久川男爵の――父の好みだったということなんでしょうね」
「清子夫人は、結婚前は女子学習院でも指折りの美女だったそうだ。きみのお母さんも、綺麗な方だったんだろうな」
「ええ、たぶん。……私を生まなければ、そうなっていたでしょうね。私を生んだ時、母はまだ一五だったわ」
 幼い頃から他人の家に女中として奉公し、こき使われて栄養状態も良くなかった少女は、無理強いされた妊娠に耐えきれず、女の子を産み落としてすぐに死んでしまった。多恵は、母の顔も声も、ぬくもりも知らない。
 清子夫人は、夫が屋敷の女中に生ませた子どもを認めなかった。ほかの妾が生んだ子どもは久川家の庶子として、久川の名字を名乗らせて養育費も仕送りしていたのに、多恵は正式に認知もされず、名字も養育費も与えられなかった。
 母の死後、多恵は祖父母とともに暮らしていた。おまえの父は普通の大工だったが、おまえが生まれる前に流行り風邪で死んでしまったと、優しい嘘を教えられて。
 貧しくても平穏だった幼少期。時々、周囲の大人が自分を白い目で見ることには気づいていたが、その理由を知ることはなかった。
 が、祖父母が相次いで亡くなると、多恵は行き場を失ってしまった。
 その時、東京高輪の久川本邸から迎えが来たのだ。久川男爵の血をひく子どもを、道ばたで飢え死にさせるわけにはいかないと。
 だがそれも、けして多恵を男爵の庶子として認める、ということではなかった。
「女中の子は女中でしょう。ろくに働けもしない厄介者の面倒を見てやるのだから、感謝おし!」
 多恵は、同い年の異母姉、桜子の小間使いをさせられることになったのだ。
 死んだ母への嫉妬心もあらわに、ねちねちと多恵を苛める清子夫人。多恵のことなど完全に無視している父、久川男爵。その様子を見ている桜子と竜一郎は、子どもの残酷さを剥き出しにしてさらに容赦なく多恵を苛めた。
 朝から晩まで、あれをしろこれをしろと桜子のわがままに振り回され、機嫌を損ねればつねられたりぶたれたり。髪を巻く熱い鏝を手に押しつけられたこともあった。
 桜子の行くところへは、多恵はどこでもお供しなければならなかった。桜子が劇場の特等席で音楽や演劇を楽しんでいるあいだ、多恵は入り口ホールの片隅に立って、終わるまで待っていなければならない。そうやって自分の恵まれた環境を見せつけ、優越感にひたることも、桜子にとっては恰好の憂さ晴らしだったのだろう。
 桜子が住み込みの家庭教師についてピアノや外国語を学んでいる時、多恵は部屋の隅にまるで影法師のように立って、じっと控えていなければならなかった。
 けれどそれは、多恵にとって勉学に触れる数少ない機会ともなった。教本も見られず、家庭教師に質問することもできなくても、彼女たちが説明する内容をじっと聞いていることだけは許される。
 そして中には、多恵の境遇に同情し、こっそりと多恵にも勉強を教えてくれた人もあった。
「これはね、偉大なるシェイクスピア卿のソネット集です。英語の本だけれど、あなたなら充分に読めるはずですよ」
 そう言って原語の詩集を手渡してくれたのは、海の向こうからやってきた女性家庭教師だった。彼女は桜子や清子夫人に隠れ、多恵に英語や地理、そのほかさまざまな学問を教えてくれた。
「なぜ、私にこんなに優しくしてくださるのですか?」
 と訊ねると、彼女はほがらかに笑った。
「わたくしもたまには、覚えの良い生徒を教えてみたいのよ。ABCの教本にすら興味を示さない落第生ではなくて、わたくしの教えることに目を輝かせて聞き入ってくれる、向学心あふれる生徒をね」
 そして、ふと声をひそめ、言った。
「わたくしもね、同じなのです。――庶子なのよ、わたくしも」
「先生が……」
「わたくしの国では、庶子は何の権利も認められません。結婚も、まともな職につくことも、ほとんど不可能よ。キリスト教の教えに反する行為から生まれてきた、汚らわしい存在だから……。だからわたくしも、自分の生まれた国では家庭教師として働くことができず、海を越えてこの日本へ来るしかなかったのよ」
 髪に白いものが混じる年齢で、外国での一人暮らしはさぞつらく、淋しいだろう。けれどそれ以外、彼女には生きるすべがなかったのだ。
「あなたはまだ幸せかもしれないわ、タエ。日本では庶子であっても、結婚できるのでしょう? 学校にも行けるし、友人も持てる」
「ええ。認知さえされていれば、嫡子として家を継ぐこともできます」
 爵位を持つ者や裕福な者などは、正妻以外に、妾を「婦」として戸籍に登録している者も珍しくない。家を継ぐ嫡男を得るためという名目のもと、一夫一婦多妾の制度が黙認されていた。
「でも私は……、正式に認知された庶子ではありません」
 誰からも認められない存在というのであれば、多恵も女性教師と同じだ。
同じ年に生まれ、同じ父を持ちながら、桜子と多恵はあまりにも違っていた。
 桜子が女子学習院に通っているあいだ、多恵は屋敷の女中として働かなければならない。本でも読んでいようものなら、女中頭に厳しく叱られる。
 教養も娯楽も、望みもしないのにいくらでも与えられる桜子。たった一冊の詩集さえ、誰かの善意にすがらなければいけない多恵。
「それでも、あきらめなければきっと、しあわせをつかむことができるわ」
 女性教師は、優しく多恵を抱き寄せてくれた。
「世界の東の果てに来て、わたくしがこんなにもすばらしい生徒と出会うことができたように。あなたにもいつかきっと、しあわせが訪れますよ、タエ。あなたの国の神様は、生まれによって救うべき魂を選別したりはしないのでしょう?」
 諦めなければ、いつかきっと。
 その言葉だけが、多恵の心の支えだった。
 ともすれば絶望に塗りつぶされてしまいそうな毎日のなかで、懸命に生きる力、戦う力を保ち続けるための。
「……ずっと、桜子様がうらやましかったわ」
 今、久川桜子と名乗っている娘は、ひどく乾いたうつろな声でつぶやいた。





BACK    CONTENTS    NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送