FAKE −7−
「お人形だって着物だって、桜子様はすぐに飽きて、簡単に捨てたり人にあげたりしていたわ。私なんか、一枚の着物をすり切れるまで着ていたのに。ピアノのお稽古や英会話、和歌だって、桜子様はいつもやりたくもないのにやらされるって、文句ばかりだった。私なら……もっと上手に、もっと熱心にやるのにって、いつも思っていたわ。もしもやらせてもらえるなら……」
 やってみたかった。桜子のやっていることすべて。
 学校へ通って学んでみたかった。世界中のすべてのことが知りたかった。社会に出て、自分の力を試す機会を与えられたら、いったいどれだけのことをやり遂げられただろう。
 桜子の持っているものすべてが、欲しくてたまらなかった。
「そうよ、私だって幸せになりたかった! なにより生きていたかったのよ! 桜子様は死んでしまったわ。残ったものをほんの少し私がわけてもらったからと言って、なにがいけないの!?」
「いけなくなんか、ないさ」
 直之は言った。
 気負いも怒りもない、ごく当たり前の表情で、少女の言葉にうなずいた。
「きみはたしかに、久川財閥を受け継ぐ娘だ。入籍されていようがいまいが、そんなのは紙切れ一枚の問題だ。その薄っぺらい紙切れはいったいどうなった? あの震災の炎の中で、とっくに灰になっちまってる。なにも問題はない」
 桜子は呆然と直之を見つめた。
「な、なにを、あなた……」
「なにって、きみと同じことを言ってるだけだろう」
 直之は軽く肩をすくめ、からかうようにほほえんで見せた。
「このことを知っているのは、あの少年だけなんだな? あの様子なら、彼から秘密がもれる心配はなさそうだ。この那原はもともと久川家とは縁のない土地で、親類縁者はいないはずだが、ここで死んだ桜子さんの知人に出くわす危険はないのか? たとえば、女子学習院のご学友とか」
 まるで彼も最初からこの嘘に荷担していたかのように、問題点を数え上げていく。
「それは……いまのところ、ないはずよ。久川家に遊びに来ていた桜子さんのクラスメイトなら、記憶してるわ。お茶会だなんだで、何度も顔を見ているもの」
「彼女らの前でも、化けの皮をはがれない自信は、ある?」
 桜子はうなずいた。死んだ桜子の口調も仕草も、完璧に真似できる自信はある。震災以来、半年も音信不通だったクラスメイトや教師の目を欺くことくらい、簡単だ。
 実際、この那原でも、同じような華族牧場を持ち、以前から久川家と交流のあった人々の訪問を受けたことも、何度かあった。そして彼らは、目の前の美しい娘が久川桜子であることを、髪の毛ほども疑わなかった。
 彼らをだますことに、なんの罪悪感も感じない。なぜなら彼らにとって、自分が交際している娘が久川男爵の嫡子であろうが女中の生んだ庶子であろうが、何の関係もないことだからだ。彼らには久川家令嬢という肩書きさえあれば充分なのだ。
 屋敷で働く使用人たちには、申し訳ないと思うこともある。本来なら同じ使用人の身である自分を「お嬢様」と呼ばせているのだから。けれどその埋め合わせは、彼らに優しく接することではたそうと思う。
 ――たぶん私は、本当の桜子様よりもずっと良い主人なんじゃないかしら。他人に使われるつらさを知っているだけに。
「この牧場や屋敷にも、東京の本邸で働いていた人間はほとんどいないんだろう?」
「家令の吉沼さんが……。でも彼が東京にいたのは、もう一〇年以上も前のことよ」
「ああ、あのじいさんなら大丈夫だろう。きみのことを頭っから信じ込んでる」
 直之はにやっと笑った。
「人は、自分の信じたいものをより強く信じるものさ。誰だって、十年前に会った根性の悪いくそガキよりも、目の前にいる優しく賢いレディをこそ、主家の令嬢として認めたい。きみは、あのじいさんが思い描いていた理想のお嬢様なんだ」
「自分の信じたいものを、より強く……」
「いいか、自信を持て。きみは完璧だ。本物の桜子様は死んじまった。今また、きみが偽者だということになったら、お祖母様はどうなる。二度も孫を失うことになるんだぞ」
「お祖母様――!」
 桜子の祖母。……多恵にとっても、血のつながった祖母である人。
 けれど慈乃は、それを知らない。母・三沢ふみの私生児として生まれた多恵のことを、久川家では親戚にも一切言っていなかったからだ。
 慈乃をだましていることだけは、心が痛む。ぼろぼろになってたどり着いた娘を、疑うことなく受け入れてくれた慈乃。家族を亡くした娘を抱きしめてくれた、ただひとりの人。
「ああ、ちくしょう。このネクタイってやつは、どうも気に入らない。まるで絞首台のロープを首にぶらさげてる気がするよ」
 直之は乱暴な手つきでネクタイをゆるめ、だらしなくワイシャツの襟元を開けた。
「言葉遣いのささいな間違いなど、気にするな。誰かに指摘されたら、こう言うんだ。『久川家はもともと商人の家柄、腰を低く折って働く気風を失ってはならないというのが初代の教えですの。ですから日常の言葉も、雅な華族の風に染まってはならないと教えられております』と。いいか、間違いは誰にでもある。要は、いかにその間違いをごまかせるか、だ。いいわけはつねに頭の中に用意しておけ」
 まるで弟子を指導する師匠のような口調。
 桜子は呆然と直之を見つめた。
「あ、あなたは……」
「どうだい? 俺は頼りになる相棒になると思わないか?」
 まるで、桜子を迎え入れるように両腕を広げて、直之は言った。
「相棒って――」
「まずは友達から始めよう。きみと俺はこの那原の地で、きみのお祖母様を介在させて親しくなり、やがて友情を深めるようになる。美しい自然の中で若い男女が親しくなるのは、ごく自然ななりゆきだ。――そこから先は、きみの気持ち次第だ」
「あなたは……」
 桜子は小さく息をのんだ。
「あなたは、私のことを誰かに言うつもりはないのね?」
 直之が軽くうなずく。
「それどころか、私の力になってくれるというの?」
「ああ、そうさ」
「なぜ!? なぜ、初めて会った私を助けてくれるの!? こんな――」
 こんな、大うそつきの娘を。
 直之は唇の端を歪め、笑った。それはどこか、自分自身をあざ笑うようであり、また、胸のどこかでひどくうずく古い傷の痛みを耐えているかのようでもあった。
「俺も、偽者
(フェイク)だからさ」





 目をつぶれば今も、あの薄暗いアパートの一室が浮かぶ。
 運河から立ちのぼる、よどんだ潮の臭い。林立するアールヌーヴォーの瀟洒なビルと、その陰に隠れた貧困、差別、犯罪。無数の言語が飛び交う、混沌とした上海バンド。
 木賃宿のようなアパートは薄暗く、割れた窓から冷たく湿った風が吹き込んでいた。
 その窓辺で、母は日がな一日歌を口ずさんでいた。
 ――母さん。母さん、こっちを見て。ぼくを見てよ。
 すがりつき、その手を揺さぶっても、何の反応もなかった。
 ――ほら、ごらん。アレクセイ。これがあなたのお父様よ。
 母が示した写真立ては空っぽのまま。
 ――ほら、耳を澄ましてちょうだい。聞こえるでしょう、階段を登る足音。もうすぐお父様が来てくださるわ。お父様は背がお高くて、輝くような金髪に、あなたにそっくりの灰色の目で……。
 そんな父は、母の幻想の中にしかいないのだ。
 いつも、飢えていた。寒くて、身体中が痛くて。
 表通りをながめれば、同じ年頃の少年達が裕福な身なりをして、親の手にすがり、楽しそうにはしゃいでいる。
 自分にあるのは、袖のとれかけたシャツとズボン、爪先の破れた靴。そして現実から逃げ出した母。
 みじめで、哀しくて、たまらなかった。
 夢の中に閉じこもり、自分を見てくれない母親が大嫌いだった。許せなかった。けれどその母親に、こっちを向いてもらいたかった。愛されたかった。
 誰も助けてくれなかった。腹が減ったら食べ物を盗むしかなく、病気になっても、薄汚い毛布にくるまってうめいているしかない。
 どん底の中で、少年は人をだまし、盗む手だてを覚えた。それしか生き延びるすべはなかった。
「俺の母親は、阿久津勝一伯爵の妹、さな子。だが父親が帝政ロシアの亡命貴族だなんて、嘘っぱちだ。俺の父親は、わからないんだ」
「わからない……?」
「俺の母親は、学校帰りの路上で襲われ、強姦されて俺を妊娠した。襲った男は複数で、どうやらアメリカあたりから来た水夫だったらしい。阿久津家では娘の不祥事を一切口外しなかったので、無論、犯人は捕まっていない」
 淡々と語られた言葉に、桜子は息をのんだ。
 東洋と西洋が調和した直之の美しい容貌。見る者を魂ごと吸い込んでしまうような、不可思議な灰色の瞳。それらはすべて、彼の母を襲った忌まわしい犯罪のあかしなのだ。
 彼は鏡を見るたびに、それと向き合わなくてはならない。自分は誰からも望まれずに生まれてきたという事実と。
「その後、何もなければ、阿久津家はこの件を封印し続けただろう。だが、運悪く母は妊娠してしまった。周囲がそのことに気がついた時にはすでに五ヶ月をすぎ、中将流の医者でもどうしようもなかったそうだ。その時、俺の母はきみの母親と同じく、まだ一四才の小娘だった。自分の身体に起きた変化を、怖くて誰にも相談できなかったのさ」
「では……」
「母は、かつての乳母のもとに預けられ、そこで俺を生んだ。そしてわずかな金だけを持たされて、俺を抱いたまま、阿久津家を追い出された。阿久津家が、阿久津さな子は病死したと公表したために、日本国内にとどまることすら許されず、上海まで流れていき……そこで、死んだ。死んだ時には、母の精神は完全に壊れていたよ」
 まるで他人の身の上話のように、直之は顔色ひとつ変えずに語った。
 ロシア語の名前も、自分で考えた。父親が亡命貴族という偽の出自もだ。
 母の幻想にある父親像に具体的な姿と経歴を与えてやると、母はそれにすがりついた。少年がこうだよね、とささやいてやると、母はええ、そうよ、と即座にうなずいたのだ。
 自分の考えた嘘が母の狂気を助長していると、わかっていた。けれどその嘘だけが母の慰めになるのだと思うと、今さら引っ込めることはできなかった。
 直之はワイシャツの衿もとから細い金鎖をつまみ出した。その先端には、ペンダントヘッドの代わりに古ぼけた金の指輪が通してあった。
 それを一瞬眺め、そしてすぐにまたシャツの胸元にしまい込む。
 その指輪は、母の結婚指輪だった。
 無論、直之が手に入れた偽物だ。たまたま博打で巻き上げた金製品に、「A to S」の刻印があったため、母の幻想を飾る小道具として手渡してやったのだ。母さん、だめじゃないか、父さんにもらった結婚指輪が落ちてたよ、と。
 初めて手にしたはずの指輪に、母は何の疑問も持たなかった。Sは自分の名前のさな子だとしても、Aがいったい誰なのかなどと考えもしなかった。そして死ぬまで、肌身離さず身につけていたのだ。
「どうして……」
 桜子はつぶやいた。
 むごい目に遭わされた娘を、どうして家から追い出すようなまねをしたのだろう。
「阿久津家の家名を辱めたからだ」
 冷徹に、直之は言った。
「母には、幼い頃からの許嫁がいた。その男に嫁ぐまで処女でいることが、伯爵家に生まれた母の義務だった。だが行きずりの男に身を汚され、あまつさえ子どもまで身ごもった。誇り高い伯爵家の娘なら、その場で舌を噛んで自害するべきだったと、阿久津家の人間は母を責めた」
 揺るぎなく、何の感情も読みとれない機械音のような声。だがそれが逆に、煮えたぎるような直之の怒りを感じさせた。
「学校帰り、いきなり見知らぬ男たちに襲われたことが母の罪か。供をしていた女中はその場で首を絞められて殺されたが、同じように殺されるのが母の義務だったのか。望まぬ妊娠を誰にも打ち明けられなかったこと、それがわかった時にも死を選べなかったこと。たった十四の小娘が犯した死にも値する罪が、それだと言うんだよ、あの連中は」
「だって……だってそんなの、しかたないじゃない! 悪いのは、あなたのお母様を襲った男たちで――」
 桜子の言葉は次第に声が小さくなり、やがて語尾が消えていった。
 そんなことは、直之自身、何度も何度も自問しただろう。
 犯罪の被害者に罪はない。たとえば路上で強盗に襲われ、金を奪われて怪我をした男性を、いったい誰が「あんたが悪い」と責めるだろう。だが性犯罪のみは、襲われた女性をみなが責めるのだ。男を挑発したおまえが悪い、どうしてその場で死ななかった、と。
 華族にとってもっとも重要なことは、家名を存続させることだ。そのために、家を継ぐ男子を大切にし、女子は軽んじられる。その嫡男ですら、家名を汚す行いがあれば容赦なく切り捨てられ、あらたに養嗣子を迎えることもためらわない。
 戦国から江戸にかけてはぐくまれてきた「家」という概念、それに捧げる忠誠心。それは明治、大正になってもしっかりと受け継がれていた。今度は、華族というあらたな特権階級の中で。
「俺が育ったのは、上海。それも嘘じゃない。あそこは良い街さ。各国の租界が入り組んでいるせいで、世界中からいろんな人間が流れ込み、通用する言語も三つや四つじゃない。俺のこの顔も、誰も気にしなかったし。ただし亡命貴族の父親なんて、影も形もいなかった。――なんでもやったよ。食うために、狂った母親を食わせていくためにね。置き引き、かっぱらい、街娼と組んで美人局のまねごともやった。なかでも一番金になったのは、カード賭博だった」
 最初はポーカーフェイスを逆手にとって、相手を引っかける程度だった。わざと「しくじった」という顔を見せ、相手に賭け金を吊り上げさせる。大げさ過ぎると嘘だと見破られる。いかにも本当らしく、一瞬だけ見せる困惑の表情。強欲な大人達は次々にその嘘に騙された。そして二倍も三倍も積み重ねられた札の前にショウダウンされた手札は、直之の勝ちだった。
 やがて初歩的ないかさまの手口を教わると、自分で工夫して次々に新しいいかさまの手法を考え出し、酒場でとぐろを巻く連中から金を巻き上げた。もう、誰にも見破られることはなかった。
 中指に嵌めた印象指輪をかざし、直之は皮肉な笑みを浮かべた。
「こいつは、いかさま博打で酔っぱらいから巻き上げた。謂われも家名もでたらめさ」
 いかさま博打で連勝する直之を、周囲の大人たちは驚異の目で見ていた。そしていつかついた通り名が「三つ目のアレクセイ」だった。
 だがその名前も、母を救うことはできなかった。
 博打で稼いだ金であたたかい食べ物を買い、急いで戻ってきた直之を迎えたのは、アパートの窓から飛び降りた母の亡骸だった。
「ある時、博打のカタに株券を少々巻き上げた。それをきっかけに、株や事業への投資を始めた。博打よりもずっと金になるし、一か八かの先の読み合いはスリリングだ。やろうと思えば、いかさまを仕掛けることもできる。汚い酒場で酔っぱらいに囲まれているより、はるかにおもしろかったよ。そして気がつけば――身分でも何でも、好きに買えるくらいの金が貯まっていた」
「それで、日本へ戻ってきたのね。……お母様の無念を晴らすために」
 さあ?と、直之は肩をすくめた。
「死んだ人間の思いを斟酌してやるほど、義理堅い人間じゃないよ、俺は。金にならないことには、指一本動かすのも嫌だね」
 ことさら悪人ぶって言ってみせる。
 だがそれは、彼にしてはあまりにも下手な嘘だと桜子は思った。
「そうだな……、あの連中の間抜けなツラは拝んでみたかったかもしれない。とっくに死んだと思っていた妹の息子が、二十年以上も経っていきなり戻ってきたんだ。母を見捨てた初代阿久津伯爵はすでに死に、母の兄の勝一が跡を継いでいたが、俺を見た時、連中、化け物に出くわしたような顔をしていたよ」
 そして、自分が見捨てた妹の息子に救われたことは、阿久津伯爵は歯ぎしりするほど悔しかったに違いない。
 阿久津家は室町時代以前にまでさかのぼれる公家の名家だった。武家政権の時代は権力から遠ざけられ、ほかの公家や皇室同様、見る影もなく零落していたが、明治維新によってふたたび高い地位を与えられ、この国の中枢に復帰することができた。
 が、領地や屋敷を持ったまま身分が変わった武家華族と違い、長いあいだ伝統文化の世界に閉じこもるしかなかった公家たちに、激動の時代を泳ぎ渡る経済感覚などないに等しかった。政府から与えられた一時金で事業を始めてもことごとく失敗し、阿久津伯爵家は高い爵位とはうらはらに、経済的にひどく困窮していた。
 その窮状を、直之の金が救ったのだ。
 いや、阿久津家の誇りを、直之が金で買い取った。





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