FAKE −8−
 勝一は金のため、一人娘の美音子を平民の金貸しに嫁がせることまで考えていた。もしも直之が出資して阿久津家の事業を立て直してやらなければ、華族の対面が保てないとして礼遇停止、最悪の場合、爵位返上に追い込まれていたかもしれない。
 自分たちを恨んでいるはずの年若い甥に頭をさげ、融資を頼む阿久津勝一伯爵の胸中は、怒りと屈辱で煮えくりかえっていたことだろう。
「阿久津家の事業は、ほぼ完全に俺が掌握している。半分以上の企業や工場は利益が期待できそうもないから、さっさと売っ払ったがね。実質的に、阿久津家はもう俺のものだ」
 そう言う直之は目を伏せたままで、少しも嬉しくなさそうだった。
「皮肉だな。行きずりの水夫の子じゃあ華族社会から抹殺するしかなくても、ロシアの亡命貴族の子、それも正式な国際結婚の証があるなら、なんとか受け入れることができる。自分で考えついたこの嘘があるから、俺は正式に阿久津の名字を名乗ることができるんだ」
 やがて直之は顔をあげた。まっすぐに桜子を見る。
「率直に言おう。俺はきみの勇気に敬服している。俺が日本に戻ってきたのは、二十五になってからだ。自分を守れるだけの力、金を手にして、母の結婚証明書だの俺の出生届だの、偽造書類をしっかり抱えていなければ、阿久津家の敷居をまたぐ勇気が出なかった。たとえ嘘がばれても、札束で横っ面をひっぱたけば、大概の人間は言うことを聞く。そう自分に言い聞かせなければ、日本へ帰ってくることもできなかったんだ。だが、きみは違う。その身ひとつで、この那原へ来た。誰の助けもなく、今もたったひとりで闘い続けている」
 たしかに、桜子を守り続けるものといえば、歩の沈黙だけだ。
 そして直之は、桜子に手をさしのべた。
「俺は、きみの力になれると思う」
「私の、力……?」
 自分の秘密をすべて知っている人。迷った時、つまずいた時に適切な助言をくれる人。
 そんな人がそばにいてくれたら、どれほど心強いだろう。
 彼が、そうなってくれるというのだろうか。
 けれど、自分で自分を偽者だと言い切る男を、信じていいのか。
「それで……、あなたの得られるものはなに?」
 かすれる声で、桜子は言った。
「あなたになんの得もないのに、危険を冒す必要があって? そうでしょう?」
 その言葉を聞いたとたん、直之はいきなり笑い出した。
「さすがだよ、桜子嬢! やっぱりきみは、俺なんかよりずっと頭がいい!」
「ふ、ふざけないで! 私は真面目に言っているのよ!」
「いや、失敬」
 まだくっくっ……と低く笑いながら、直之は右手をあげ、洒落た仕草で桜子を制した。
「確かに、今、きみの秘密を守り抜いたところで、おれに目立った利益はない。だが、不利益ならある」
「……不利益?」
「そう。まずこの那原で、気軽に訪問できる上流階級の屋敷が一軒減ってしまう。醜聞が発覚した後も、きみのお祖母様がのんびり近所づきあいをしてらっしゃるとは思えないからな」
「え、ええ。それはそうでしょうけど――」
「暇を持て余しているご婦人方のおしゃべりに聞き耳をたてるのも、俺にとっては大事な情報収集なのさ」
 直之はにやっと笑った。
「どこの屋敷が金に困ってるか、どの家のどんな事業が儲かっているか、彼女達はひっきりなしにうわさしあっているからな。時には経済専門誌の記者よりも、あちこちの財閥の内情に詳しかったりするんだ」
「それを聞いて、あなたは次の投資先を決めるのね」
「そのとおり」
 直之はぱちんと指を鳴らし、その手で桜子を指さした。まるで浅草オペレッタの一シーンのようだ。
「言っておくが、これは詐欺でもなんでもない。株式投機や先物取引はれっきとした商行為だ。きみや、きみのお祖母様に迷惑をかけるような真似は絶対にしない」
「そして私がこの屋敷からいなくなれば、あなたは貴重な情報収集の場をひとつ失ってしまう、というわけなのね」
「そういうこと。俺のように生粋の日本人ではない人間が地域の社交界に入り込むのは、けっこう面倒でね。適当なご婦人に取り入って紹介してもらおうとすれば、すぐに過大な見返りを要求される。金銭的なものや寝室へのご招待ならまだしも、最悪の場合は売れ残りの次女三女を押しつけられそうになったりするんだ。そういうのはさすがに勘弁してほしいよ」
「あら、良いお話じゃない。上海育ちのぺてん師が、華族の姫君をめとれるのよ。浪漫
(ロウマンス)だわ」
 桜子の辛辣な冗談に、直之は愉快そうに笑った。
「そのお姫様が、持参金の代わりに山ほど借金を背負ってきてもか? 俺はごめんだね」
 ひとしきり笑うと、今度はまっすぐに桜子を見る。
「これで、きみを手助けする理由になるか?」
「ええ……」
 桜子はうつむき、考え込んだ。
 無償の親切だとか、きみのけなげさに感動したとか、綺麗事ばかり並べる人間は信用できない。こうして自分の利益をきちんと説明する人間のほうが信頼できる。こちらが相手の利益を損なわない限り、相手もこちらの秘密を守ってくれるだろう。
「いいわ。あなたの言葉を信じます」
 桜子は小さくうなずいた。
「あなたが私の秘密を守るかわりに、私はあなたを久川家のお茶会や園遊会にご招待して、あなたが那原の上流階級に溶け込む手助けをすれば良いのね」
「そうだよ。お互い、とても簡単なことだ」
「ええ、そうね……」
 返事をしながら桜子は、目眩のような脱力感を感じていた。
 ――とりあえず、これで大丈夫。
 今はまだ、自分の嘘があばかれる心配はなくなった。
 そう思うだけで、足元からすうっと、全身の力が抜けていく。
「いいか、きみは久川桜子だ。きみ以外に、桜子は存在しない。きみはもう、一生、桜子なんだ」
「ええ……」
 桜子は乾いた声で返事をした。
 それは、自分でも覚悟していたことだった。
 今までは誰にも知られず、自分で自分に言い聞かせるしかなかった。
 不安でたまらなかった。いつ、自分の罪が露見するのか。すべての嘘があばかれた時、自分はどうすれば良いのだろう。そのことを考え始めると、一睡もできなくなった。まるで胸の上に氷の固まりが乗っているみたいで、息を吸うのもつらくなるくらいだった。
 今だって、明日のことなど何もわからない。不安は同じだ。
 けれど、すべての秘密を知り、励ましてくれる人がいる。今はもう、ひとりではない。そう思うだけで、心臓の真上にのしかかっていた大きな氷の固まりが少しずつ溶けていくようだ。
 懸命に踏ん張っていた足から、少しずつ力が抜けていく。
「おい、どうしたんだ?」
「なんでもないわ。ちょっと立ちくらみがしただけ……」
 平気と言いながら、桜子はとうとうその場にしゃがみ込んでしまった。
「気分が悪いのか? なら、そこでじっとしていろ。今、女中を呼んできてやる」
「い、いいえ。大丈夫よ。ひとりで屋敷まで戻れるから――」
「無理するな。お嬢様が外の陽にあたりすぎて具合が悪くなったと言えば、誰も疑いやしない!」
 ――頭の良い人。どんなことでもすぐに、もっともらしい理由や言い訳が出てくるのね。
 だったら、ねえ。教えて。
 桜子は直之の言葉に従い、立ち上がるのを諦めた。小さな子どもみたいに膝をかかえ、うずくまる。
 そして、つぶやく。那原に来てからずっと、胸の中にわだかまっていた疑問を。
 きっと彼なら、答えてくれる。
「ここにいるのが桜子なら、多恵は……三沢多恵は、どこへ行ってしまったのかしら」
 誰に尋ねることもできず、自分でも解答を見つけられなかった問いかけを、やっと口にすることができた。
 自分が桜子として生きていけば、当然、三沢多恵はどこにもいなくなる。
 多恵として感じた喜びや悲しみ、思い出のすべても、誰に語ることもなく、この胸の中に封印してしまうしかないのだ。
 だったら、自分はなんのために三沢多恵として生まれてきたのだろう。あの震災の日まで、多恵として生きた時間に、いったいなんの意味があったのだろう。
「多恵は、死んでしまったんだよ。あの震災で」
 答えた直之の声も、どこか苦しげだった。
「そう……。やっぱり、そうなのね」
 不意に、桜子の目から涙がこぼれ落ちた。
「かわいそうな多恵……。生きていても、誰からもその存在を認めてもらえなかったのに、死んでしまった時すら、誰にも知られないままだなんて」
 それではまるで、誰かの苦しみやつらさを吐き捨てられるためだけに、多恵の存在があったみたいだ。多恵は、幸せになることも許されなかったというのだろうか。
「きみが泣いてやればいい」
 直之も地面に片膝をつき、そっと桜子の肩に手を回した。
「きみが幸せになれば、多恵もきっと喜ぶ」
「本当に?」
「ああ」
 直之は強くうなずいた。
「多恵はこの世から消えてなくなったわけじゃない。多恵のことを覚えているのは、きみと、長屋にいるあの少年と――そして俺も、忘れないよ。多恵がどんなに頑張り屋で、どんなに誇り高かったか、俺たちはちゃんと覚えている。それだけでも、多恵の生まれてきた意味はある」
「生まれてきた、意味……」
 桜子になるためではなく、多恵自身であったことの、意味。
「多恵はきみに、生きるために闘うことを教えてくれた。生まれた階級も、財力も、どんな力も奪うことのできない誇りがあることを、教えてくれだだろう?」
「ええ……。ええ、そうね――」
 久川本邸でどんなにいじめられても、どんなに理不尽な扱いを受けても、多恵の誇りは負けなかった。
 力のある者に媚び、卑屈にしっぽを振ることは簡単だったろう。けれど多恵は、けしてそれをしなかった。竜一郎や桜子のわがままにつきあって弱い者いじめをするような真似は、絶対にしなかった。そのせいでよけいに自分がいじめられることになっても、自分より弱い者を守るためなら、歯を食いしばって我慢した。
 たとえどんなに身分が高くても、どれほど金があっても、他人を見下して踏みにじるような人間にだけはならない。生まれた環境がその人間の価値を決めるとは、けして思わない。
 それが、多恵の誇り。
 その誇りがあるからこそ、生きていける。生きるために、戦い続けられる。
 多恵の勇気は、今もこの胸に生きている。
「死んでしまった多恵のためにも、きみは幸せにならなくてはいけないんだ、桜子」
 いつか桜子は、直之の肩に頬を押し当て、声を殺して泣いていた。
 今まで抑えつけていた不安や悲しみ、大好きな人々をだましている罪の意識、生きている苦しさ全部が、この涙に溶けて身体の外に流れ出していくようだった。
「そうだ、泣くといい」
 直之は強く、桜子を抱きしめた。
 その腕の中で、桜子はまるで小さな子どものように泣きじゃくった。
「今は、泣きたいだけ泣くといい。そして、明日からはまた、笑って生きていくんだ。桜子――」





 それから。
 久川別邸には、阿久津伯爵の甥御、阿久津直之氏が足繁く訪れるようになった。
 表向きは、療養中の慈乃夫人の見舞いということだったが、
「あれは、やっぱりアレですよねえ?」
 くすくす笑いながら、女中の菊はやたら嬉しそうに言った。
「大奥様のお見舞いなんて言ってるけど、阿久津様のお目当ては、絶対に桜子お嬢様ですよねえ?」
「なんだい、この子は。さっきからにやにや笑ってばっかりで。ご主人様方のことをあれこれ噂するなんて、良くないよ!」
 女中頭のとよに厳しい顔で叱られても、菊はまるで平気だった。
 今までも、お嬢様目当てにお屋敷を訪れる紳士の方々は何人もいた。けれどお嬢様は、誰にも良いお顔はなさらなかった。礼儀正しくお客様をお迎えにはなるけれど、大奥様のそばを離れず、たとえ屋敷の敷地内でも、来客の男性とふたりきりになることなど、絶対になかった。
 それが、阿久津様にだけはうちとけたご様子を見せられて、時々おふたりで庭を散歩なさることもある。
 震災でご家族を失って、悲しみに閉ざされていたお嬢様のお心にも、やっと明るい光が届き始めたのだろうか。
 そうだといいなあ、と菊は思った。優しいお嬢様には、早くお幸せになっていただきたい。
 誰にも言ったことはないけれど、今までお嬢様は、誰もいない場所ではひどく淋しそうな顔をなさることがあった。菊は何度か、そうしたお嬢様の姿を見かけたことがある。
 亡くなられたご家族のことを思っていらしたのか、それともご自分をかばって大やけどを負った男の子、高畑歩くんの回復がはかばかしくないのが気がかりなのか、うつむき、ふるえる両手を強く握りしめていらした。
 泣くまい、声を出すまいと唇を咬んでこらえていらっしゃるお嬢様があまりにおかわいそうで、菊はどうしても声をかけることができなかった。
 だって、菊が「大丈夫ですか」と問いかけてしまったら、お嬢様はきっと無理にも笑って、「大丈夫よ」とおっしゃるだろう。そんな無理はさせたくない。いつもみんなのために笑ってらっしゃるお嬢様だもの、せめてひとりきりの時は、つらい気持ちや哀しい気持ちを顔に出させてさしあげよう。泣きたいのなら、泣かせてさしあげよう。そう思っていた。
 ――でも、きっともう大丈夫。お嬢様もお気づきになってるはず。もう、ご自分はひとりじゃないんだ、ひとりで声を殺して泣くことはないって。
 菊は、お嬢様にやっと訪れた幸福が、まるで自分のことのように嬉しかった。
「ほら、ぼやぼやしていないで、早く銀器を磨きなさい! もうすぐ、お茶会のお客様がお見えになっちまうよ!」
「はあい、今すぐ!」
 ようやく菊は、やわらかい紅絹
(もみ)の布を持って、来客用の銀のスプーンをひとつひとつ丁寧に磨き始めた。
 久川別邸で午後のお茶会が開かれるのは、ずいぶんひさしぶりのことだった。
 那原はまもなく桜の時季を迎える。それに合わせて近隣の別邸や狩猟小屋に来ていた人々を招き、舶来の紅茶や菓子を楽しみながら、肩の凝らないおしゃべりをする。天気が良ければ、久川別邸の美しい庭を散策する。上流階級の婦人たちを中心にした、のどかな楽しみだ。
 招待状の送り主は別邸の女主人、男爵未亡人の慈乃になっていたが、実質的に来客をもてなすのは、孫娘の桜子だった。大がかりな夜会などで正式に桜子を紹介する前に、こうした小さな集まりでまず近隣の人々と顔見知りになるのが目的なのだろう。
 慈乃はここ数日、寒暖の差が大きい天候のせいか、少し体調をくずしていたが、それでも孫娘のために車椅子に乗って茶会にくわわり、来客に挨拶をしていた。
「今日はあたたかくて、ようございましたわね。このぶんですと、今年は桜が咲くのも少し早まるんではないかしら」
 満月みたいにまんまるな顔をした大沼孝子子爵夫人が、にこにこと人の好い笑顔で言った。
「こちらのお屋敷のソメイヨシノは、ほんとに見事ですもの。花が咲きましたら、またおじゃまさせていただいてもよろしいかしら」
「ええ。ぜひいらしてくださいませ」
「じゃ、その時は主人も一緒に。ごめんなさいね、桜子さん。主人も来るように言ったのですけど、あの人ったら、那原に来てから庭いじりばっかりしていて……」
 大沼子爵は欧州各国の大使を歴任し、引退してこの那原に落ち着いた人だ。その妻も、現在は子爵夫人にふさわしい落ち着きをそなえているが、子爵と正式に結婚する前は、花柳界の女性だった。
 ほかにも、日露戦争で活躍した軍人の妻、爵位はないが政商として名を知られた財閥一族の女性など、慈乃によく似た立場の女性達が集まっている。なかには、桜子と同年代の娘や姪などを連れてきている女性もいた。
 数名の若い男性もいる。こうした社交の場は、花嫁候補の娘を自分の目で見定められる数少ない機会なのだ。特に、家を相続できない次男坊、三男坊にとっては、家付き娘に自分を売り込む絶好のチャンスだ。うまくいけば婿養子として、家を継ぐ兄貴よりも高い地位に昇ることもできる。
 そうした若者たちがまず最初に狙いをつけるのは、なんといってもこの屋敷の令嬢、桜子だった。
 美貌と財産にめぐまれた桜子は、ほかの令嬢やその母親にとっては、めぼしい婿候補を片っ端からさらっていってしまう目障りな存在だ。夫人たちはにこやかにほほえみながらも、内心は桜子がなにかとんでもないヘマでもやらないかと、あら探しばかりしている。
 西棟の端にあるサンルームで、お茶会は表面上はおだやかに始まった。





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