1 生きてる光と死んでるひかる



 六車線の大きな幹線道路は、今日もかなり混んでいた。
 光は、道をまたぐ歩道橋のまんなかにしゃがみこんで、らんかんのすきまから、下を通る車をぼんやりながめていた。
 古い歩道橋は、下を大型車が通るたびにずんずん揺れる。ダンプなんかが通ったら、まるで地震みたいだ。
 ――あんなでっかい車に轢かれたら、ぼくなんて、きっとぺちゃんこだろうな。
 つぶれたカエルみたいに、アスファルトの路面にへばりつく自分を、想像してみる。
「……きもちわりい」
 轢かれたら、痛いかな。痛いだろうな。でも、きっと一瞬だ。わあッって思ったら、もうぺっちゃんこのぐっちゃぐちゃだ。
 首吊りや飛び降りと、どっちが痛いだろう。でもぼく、三階以上の高いところにのぼると、怖くて目もあけていられないし……。
 本当のことを言えば、この歩道橋を渡るのだって、怖いのだ。渡っているあいだは、いつも足の裏がむずむずする。
 それなのに光は、もう三〇分近くも、歩道橋のまんなかにしゃがみこんでいた。
 半透明のプラスチック板でできたらんかんは、ちょうど光の目の高さだ。だが下のほうには隙間があいていて、しゃがめばそこから下の道路が見える。
 ランドセルがわりのリュックをかかえ、ずっと歩道橋でしゃがみこんでいる光を、通りがかった人たちは、みんな、不思議そうな、どこか気味悪そうな顔でながめていた。
 けれど、誰ひとりとして、光に声をかけようとはしなかった。
 月曜日の午後一時半。ふつうなら、小学生がこんなところにひとりきりでいるはずはないのに。
 光は、小学六年の男子としては、ごくふつうの背丈だ。
 同じクラスの男子には、体格が良くて、しょっちゅう中学生や高校生にまちがわれているヤツもいる。女子だって、毎日ばっちりメイクしてきて、とても小学生に見えない子が多い。
 けれど光は、服装もトレーナーにハーフのカーゴパンツと、ありきたり。どこから見ても、ただの小学生だ。
 なのに通りかかる大人たちは、そんな光が、ふつうなら学校にいるはずの時間に、たったひとり、歩道橋の上にしゃがみこんでいても、ふしぎともなんとも思わないらしい。
 いや、光の様子がなにかおかしいと思っているから、そんなヘンな子供にはかかわりたくないと、足早に光のそばから逃げていくのだろう。まるで見てはいけないものを見てしまったみたいに、あわてて光から目をそらしながら。
 ――だいじょうぶ。ほら、誰もぼくを止めやしない。
 ぼくが死んだって、誰もなんとも思わない。
 いいや、ぼくが死ねば、きっとみんなうまくいくんだ。
 のろのろと、光は立ち上がった。
 リュックを足元に置き、錆びて、塗装のはげたらんかんに、手をかける。
 らんかんは高いけれど、あちこちに大きなビスや金具の出っぱりがあって、うまく足をかければ乗り越えられそうだ。
 ふるえる爪先を、金具のかどに乗せる。
 ――遺書……、どうしようかな。やっぱり、書こうかな。
 遺書がなかったら、光の死は自殺としてあつかわれないかもしれない。
 でも、そのほうがいいかもしれないと、光は思った。一人息子が自殺したと知るより、ぐうぜん事故で死んでしまったと思っているほうが、お母さんはまだ気がらくなんじゃないだろうか。
 お母さん。お母さん、寂しがるかな。ぼくがいなくなったら。
 ――だめだ。だめだ、よけいなこと考えちゃ。
 ぐずぐずしてたら、どんどん踏ん切りがつかなくなる。
 勇気があるうちに、飛び降りるんだ。
 そうすれば、みんな、終わる。
 全部、らくになれるんだから……!
「ねえあんた、死にたいの?」
 突然、高い声がした。
「自殺するの? じゃあそのからだ、いらないんだ? だったらあたしにちょうだいよ」
「――え?」
 光はふりかえった。
 冷たく、鉄みたいなにおいのする風が、一気に光の全身をおしつつむ。
 ぞうッと、足の先から頭のてっぺんまで、からだ中の皮膚が鳥肌立った。髪の毛まで全部、逆立つ。
「あんた、そのからだ、いらないんでしょ? だったらあたしがもらっても、いいよね?」
 そこには、全身を真っ赤に染めて、右肩から腰、右足までをぐちゃぐちゃにつぶされた、若い女の幽霊が立っていた。
 長い黒髪の下、奇妙なくらいきれいな左半分の顔で、幽霊がにィッと笑う。光に向かって、右手をさしのべて。その手は、手首から先が奇妙な角度に折れ曲がり、おもちゃみたいにぶらぶら揺れていた。
「ね、ちょうだい?」
 光は返事ができなかった。
 そのまま、白目をむいて気絶した。





 気がついた時、光は見慣れた自分の部屋にいた。
 一年生の時から使っている学習机にベッド、本棚に乱雑につっこんであるコミックス。まちがいなく、自分の部屋だ。
「あれえ……。ぼく、いつの間に帰ってきたんだろ」
 さっきまで、歩道橋の上にいたはずなのに。
 光はベッドの上に起き上がった。
 服もちゃんと着ているし、リュックも机の横に置いてある。おかしなところはなにひとつない。
「へ……へんだな。なんか、へんな夢でも見てたのかな、ぼく」
 怖い夢だった。全然知らない女の人の幽霊が出てきて、その幽霊がまた、妙にリアルで――。
「夢じゃないわよ」
 いきなり、天井のあたりから声が降ってきた。
「うわああっ!?」
 思わず見上げた先には、あの女の幽霊が浮かんでいた。
 血に染まり、ぐちゃぐちゃにつぶれた右半身もそのままだ。その身体の向こうには、天井の様子が透けて見えている。
「うっ、うわ、うわっ、うわわわ……っ」
 幽霊を指さしたまま、光はまともな言葉も出せなかった。
「なによ、失礼ね。あたしは化け物か。――て、ああ、このカッコじゃ、たしかにおバケだわね」
 幽霊は、ささっと両手で自分の顔をなでた。
 すると、あまりにも無惨だった右半分の傷がきれいになくなり、服にしみついた血の汚れも一瞬で消えてしまった。サックスブルーのおしゃれなブラウスに黒のパンツルックがかっこいい。
 そして両手を離すと、左半分と同じく、若くてうつくしい女性の顔がぱっとあらわれた。
 黒いロングヘアにほっそりとした顔立ち。髪と同じ色の瞳と、きれいにルージュでいろどられた唇。
 ……きれいなおねえさん。
 光は思わず、その顔に見とれてしまった。
 とはいうものの、その顔はやっぱり半分透けて、うしろの天井が見えていたのだが。
「だ、誰?」
「なによ、覚えてないの? あたしがあんたをここまで連れてきてやったんじゃない」
「連れてきたって……」
 幽霊はふわふわと宙に浮かんだまま、かっこう良く足を組んだ。まるで見えない椅子に座っているみたいに。
「ぶっ倒れて動かないあんたのからだを、あたしがかわりに動かして、ここまで歩かせてきたの。家までの道順は、ちゃんとからだが覚えてるものだからね」
「ぼくのからだを動かしたって……お、おねぇ――おばさんが!?」
「だーれがオバサンだっ! あたしはまだ二十五だ!」
「二十五才……。やっぱ、おばさんじゃん」
「だまれ、このガキ!」
 幽霊は光の真上で思いきり足を蹴りあげた。
 だがその爪先は、すかっと空振りしてしまう。
 彼女の足は、光の頭をすーっとすり抜けてしまったのだ。
「ち! やっぱダメか」
 幽霊は悔しそうに舌打ちをした。
「や、やっぱって……、もし当たってたら、どうするつもりだったんだよ!? そんな、とんがった靴はいて、あぶないじゃんか!」
「うっさいな。あんたが避ければいいだけの話でしょ」
「よけらんないよ。いきなり蹴られたりしたら――」
「マジ? やっだ、どんくさぁ!」
 幽霊は宙に浮いたまま、けらけら笑った。
「な……なんだよ! なだよ、そんなに笑うことないだろ!」
 光はどなった。
 だんだん腹が立ってくる。だいたいこいつ、本当に幽霊なんだろうか?
 いや、普通の人間じゃないことだけは、わかる。浮いてるし、半分透けてるし、オカルトやホラーの関係者なことだけはたしかだろう。
 でも。
「あ、あんた、誰? なんでぼくに声をかけたの」
「言ったじゃない。あんた、自殺するつもりなんでしょ? そのからだ、捨てるつもりだったら、あたしがもらおうと思ったの。ごらんのとおり、あたしはもう死んじゃって、自分のからだがないもんだからさ」
 ――やっぱり、マジで幽霊なんだ。
 光のからだをのっとって、生き返ろうというつもりなんだろうか。
 光は、頭のうしろあたりがすうっと冷たくなるのを感じた。けれど、今度はどうにか気絶せずにがまんする。今、見えているのが、最初に見た血まみれのぐっちゃぐちゃな姿ではなくて、きれいでかっこいい女の人だから、がまんできたのかもしれない。
 本当に、きれいな人だ。テレビドラマの女優か、雑誌のモデルみたいだ。
 こんなに若くてきれいな人が、もう死んでいるなんて。
「交通事故だったのよ」
 まるで光の頭の中を読みとったみたいに、幽霊は言った。
「先週の日曜日、自分で車を運転して、さっきの道を通ったの。そしたら、わき見運転の車にぶつけられちゃって。ちょうどあの歩道橋の真下あたりでね」
「ふうん、そっか……」
 車の事故なら、あの血だらけの姿も当然だ。
 でも、やっぱり。
「ぼくには、関係ないじゃんか。化けて出るなら……その、車ぶつけた相手んとこに出てよ」
「無理よ。そいつも事故で死んじゃったもん」
 けろりとして、幽霊は言った。
「ね。あんた、名前は?」
「い、井上 光……」
 つい、光は答えてしまった。
「ヒカル? ヒカルくん? ぐうぜんね、あたしもひかるっていうのよ!」
「……だから、いやなんだ」
 幽霊に聞こえないよう、光はこっそりつぶやいた。
「え? なんか言った?」
「だから――きらいなんだよ、この名前! 光なんて、女みたいじゃないか!」
 言ってから、光はしまった、と思った。こういうことを言うと、大人は必ず、
「そんなことを言ってはいけません」
「お父さんとお母さんがいっしょうけんめい考えてくれた名前です、もっと大切にしなくちゃ」
 と、叱るのだ。
 だが幽霊――ひかるは、にやにや笑って、こう言ったのだ。
「そんなにいやなら、別の名前にすれば?」
「えっ!? できるわけないじゃん、そんなこと」
「かんたんよぉ。別の名前を使う仕事につきゃあいいのよ。わかりやすいのは、マンガ家とか小説家とか、ものを書く仕事ね。たいがい、ペンネームってのを使うじゃない。その仕事で一流になれば、誰もあんたを本名で呼んだりしないわよ。ペンネームが、あんたにとって一番重要な名前になるんだもの」
「ペンネーム……」
「ま、戸籍上の名前は変えられないけどね。……て、関係ないか。あんた、どうせ死ぬんだもんね」
「え――」
 ひかるは身を乗り出すように、ふうっと光の目の前まで近づいてきた。なんだか、とてもわくわくしてるみたいな表情だ。
「でもさ、同じ死ぬんでも、飛び降りや交通事故はやめなさいよ。アレは痛いわよぉ。からだもつぶれてめちゃくちゃになっちゃうし。経験者が言うんだから、まちがいない!」
「う……」
 たしかに、その言葉には説得力があった。あの血まみれのひかるの姿を見ているだけに、なおさらだ。
「それよりも、もっとらくな方法があるよ。あたしとあんたが、入れ替わるの」
「いれかわる!?」
「そう。あたしがあんたのからだに入って、あんたは今のあたしみたいに、魂だけの存在、つまり幽霊になるわけ。幽霊になるんだから、死んだも同じ、自殺したいっていうあんたの希望もかなえられるんじゃない?」
「そ、そりゃ、そうかもしれないけど……。でも、どうやって?」
 ひかるはちょっと考えこんだ。どう説明すればいいのか、困っているらしい。
「とにかく、やってみればわかるわよ。さっきはうまくいったんだから」
「さっき?」
「言ったじゃない。気絶してひっくりかえったあんたのからだを、あたしが動かして、ここまで連れてきたって。つまり気絶したあんたのからだの中にあたしが入って、あたしの意志どおりに、そのからだを動かしたのよ」
「そんな! 人のからだ、勝手に使わないでよ」
「じゃあなあに、あのまま何時間も、歩道橋のまんなかにひっくり返っていたかったっての!? ひとがせっかく親切にしてあげたってのに!!」
 かんしゃくを起こしたみたいに、ひかるは大声をはりあげた。そしていきなり、両手を光へ向かって突き出す。
「あーもう、ごちゃごちゃうるさいっ! あんたはとにかく、じっとしてりゃいいのよ!」
 ひかるの手が、まっすぐ光の目の前に突き出された。指先をそろえ、まるで光の両眼をえぐろうとするみたいに。いや、水泳の飛び込みみたいに。
「うわっ!?」
 光は思わず、ぎゅっと目をつぶってしまった。
 その瞬間、異様な感覚が光をおそった。
 からだを内側からねじられるような、ひっくり返されて全部裏返しになるような。からだ中の毛という怪我、全部上に向かってひっぱられているみたいだ。痛くて苦しくて、ぐらぐらめまいがして。脱水中の洗濯物が、きっとこんな気持ちだろう。
 そして、ぱっと目をあけた時。
 目の前には、光自身がいた。
 ベッドに座り、にやっと笑って宙を見上げている。
「えっ!? ぼ、ぼく!?」
 まちがいない。そこにいるのはたしかに光だった。
 ――じゃあ、ここにいるのは!?
 光はあわてて自分のからだを見回した。
 目の前にかざした両手は、半分透けて、向こう側に部屋の光景が見えていた。……さっきのひかるとまったく同じく。
「どう? 幽霊になった気分は」
 光が――いや、ひかるが言った。
 ひかるの説明したとおり、光の意識は自分のからだから追い出されてしまったらしい。今、光のからだに入っているのは、ひかるの意識なのだろう。
 目の前にあるのは、光の顔、光のからだ、着ている服だって、なにひとつ変わっていない。
 でも。
 ……ぼく、こんな顔、してたっけ?
 どうだ、見たかというような表情をして、にやっと自信ありげに笑うその顔は、鏡や写真で見るいつもの自分とは、まったく違う。まるで別の人間みたいだ。
 表情だけで、こんなにも違って見えるなんて。
「ね、かんたんでしょ」
 光が、いや、光のからだに入ったひかるが、言った。その声もたしかに光のものだったが、しゃべり方は全然違う。
 ひかるはとてもうれしそうだった。両手をなでたり、大きくのびをしたり、座ったまま足をばたばたさせてみたり、からだの動きを確かめているようだ。
「そういやあたし、昔から一度、男の子になってみたかったんだあ。そうだ、せっかくだから、どっか遊びに行こうかな! あんた、いつもどこで、なにして遊んでんの?」
 ひかるはベッドから立ち上がった。
「あ、でも、このカッコ、だっさいなあ! もうちょっとマシな服、ないの?」
 そして、壁につくりつけになっている洋服たんすを開け、光の服をかたっぱしから引っぱり出す。
「ち、ちょっと……! ひとのからだで、勝手なことしないでよ!」
 あわてる光を、ひかるはにやっと勝ち誇ったような笑いを浮かべて見上げた。
「あんたは幽霊なんだから、これはもう、あたしのからだよ。――あ、と、あたし、じゃないか。オレ、かな? オレ」
 ひかるはでかけることはやめたようだが、今度は本棚に並んだマンガをいろいろ物色し始めた。散らかした服も片づけないままだ。
「あんたは望んだとおり幽霊になったんだから、もうここにとどまってる必要もないし。好きなとこに行っちゃっていいのよ」
「行くって、どこへ……」
「天国とか地獄とか、いろいろあるじゃん。ま、あたしもまだ行ったことないから、良くわかんないけどさ」
「い、いやだよ! 地獄なんて、行きたくない!」
「なによ。あんた、死にたかったんでしょ? 願いがかなったんだから、文句ないでしょ!」
「いやだいやだいやだ! ぼくのからだ、返せよ!!」
 光は大声でわめいた。からだがあったら、手足をふりまわしてめちゃくちゃにあばれるところだ。
「人のからだ、勝手に使うな! 返せよ!!」
 空中に浮かんだ光は、そこからひかるに思いきりぶつかっていった。
 ――あ、ぼく、今は幽霊だから、蹴ったり撲ったり、できないんだっけ!?
 でも、勢いがついて、もう止まらない。
 そのまま光の姿は、ひかるに重なった。
 その瞬間、また、からだ中がしぼられるみたいな、あの感じが光を襲った。
「う、うわっ! うわあっ!?」
 おなかの奥から一気に吐き気がこみあげてくる。
 それを、どうにか押し殺そうとした時。
「あ……!」
 光のからだは、もとどおりになっていた。
 両手をさする。それからほほ、あご、髪の毛もひっぱってみる。ちょっと痛い。
 ちゃんとからだがある。
「良かったあ……」
 光は大きくため息をついた。
「あーあ、やっぱりだめか」
 ふたたび半透明の幽霊になったひかるも、がっかりしたようにため息をついた。





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