光はあわてて自分の席についた。高倉も、窓ぎわの席に戻る。
 六年B組の教室はあいかわらず静かで、体育の時間なども、まったく活気がなかった。
 それでも大きなトラブルはなく、また平穏に一日が終わった。
 ――これで、良かったんだろうか。
 また遠回りして家に帰りながら、光は考えた。
 高倉が言ったことを、ひかるに教えてあげようか。クラスの中にも一人は、ひかるに感謝している子がいるって。
 何度か立ち止まり、あの歩道橋へ行こうとした。
 でも、どんな顔をしてひかるに会えばいいのか、わからない。
 ひかるに会う、勇気がない。
 結局、光はそのまま家に帰った。
 マンションの玄関を開けるとすぐ、携帯電話が鳴った。
「あ、もしもし、光? ごめんね、お母さん、帰るの少し遅くなりそうなの。晩ご飯は……」
「うん、いいよ。カップメンでも食べてる」
 お母さんが残業で遅くなるのは、今までにも何度かあった。そのたびに、光は一人でずっと留守番をしていた。
 光はゲームやマンガで時間をつぶし、夕方になると、お湯を沸かしてカップメンを作った。
 宿題を終わらせて、お風呂の用意をしても、お母さんをまだ帰ってこなかった。
 お母さんが帰ってきたのは、夜九時近くになってからだった。
「ごめんね、光。遅くなっちゃって。ごはん、どうした?」
「うん、カップラーメン食べたよ」
「それだけじゃ、おなかすくでしょ。なにか、夜食作ろうか。お母さんもおなかすいたし」
「お母さん……。いいよ、ぼくがやる」
 光は立ち上がった。お母さんをキッチンの椅子に座らせる。
「て言っても、カップメンくらいしか作れないけどさ。あ、それとも、パンでも焼こうか」
「どうしたの、光。急に親切になっちゃって」
 お母さんは優しく、くすくす笑った。
「うん……」
 光は少し、ためらった。
 でも、思いきってお母さんにたずねてみる。
「お母さん、仕事、たいへん?」「光……。どうしたの、いきなり」
「お父さんがいたころは、お母さん、働いてなかったじゃん。毎日、家にいてさ。それが、離婚してから急に働かなくちゃいけなくなって、家に帰ってきても、ぼくしかいないし、ぼく、あんまり家のこととか手伝ってないし……。やっぱり、たいへんだよね」
「光――」
 お母さんの表情がくもった。少し哀しそうな目をして、光を見る。
「光……。お父さんとお母さんが離婚しないほうが良かったって、そう思ってる?」
「ううん!」
 光は強く首を横にふった。
「離婚する前、お父さんとお母さん、毎日ケンカばっかりしてたよね。ぼくの前じゃ、二人とも、できるだけふつうの顔してたけど……。知ってたよ、ぼくも。お母さん……良く泣いてたよね。そんなつらい思いするなら、むりしていっしょにいることなんかない。少しくらい淋しくても、別れちゃったほうが良かったって、思ってる」
 お母さんはじっと光の顔を見ていた。そして、小さくうなずく。
「そうよ。お母さんも、そう思ったの」
「だからお父さんと別れたんだよね。それがお母さんの、選択だったんだね」
「そうよ」
 お母さんはうなずいた。
「お母さんは、まちがってないよ。自分で決めたことの責任を、ちゃんと自分ではたしてる。だからお母さんは、まちがってないよ」
 お母さんは、自分が選んだ結果をちゃんと受け入れている。お父さんと二人で背負っていた責任を、今はたった一人で背負い続けて、それでもけんめいにがんばっている。それがお母さんの、覚悟だ。
「光……」
 お母さんは指先で、そっと目元をぬぐった。そうして、涙まじりの笑顔で笑顔で、光を見る。
「ありがとう、光。お母さんも、離婚はまちがいじゃないって思ってる。でも……あんたにそう言ってもらうと、ほんとうにうれしいわ」
 光はポケットから、あのデジタルオーディオプレイヤーを出した。
 ひかるが録音してくれた、いじめの証拠を。
「お母さん。ぼく、学校でずっと、いじめられてたんだ」
 あの日の会話が再生された。森本の声、福田の声、そして光の――ひかるの、声。
 お母さんは息を飲んだ。大きく目を見開き、叫び声をおさえつけるように、片手で口をふさいだ。
「ごめん、お母さん。ぼく、ずっと言えなかった――!!」





 その夜、光はお母さんと、夜遅くまでいろんなことを話しあった。
 これからどうするの、と質問されて、光は、今はまだ、なにもするつもりはないよ、と答えた。
「さっきも言ったけど、今はクラスん中、けっこうおちついてるんだよ。いじめのリーダーだった森本ってヤツは、ずっと学校休んでるし。このままなにも起きないなら、ぼくはそれでいいと思うんだ」
「そう……。光がそう決めたんなら、お母さんも、もうなにも言わないわ」
 お母さんは光の両手をにぎって、力強く言った。
「でも、あんた一人の力ではどうにもならないと思ったら、今度はもう、隠さないで。必ずお母さんに言ってね。お母さん、光のためなら、なんだってする。警察でも裁判所でも、どこへだって行くからね」
「お母さん」
 光も、お母さんの手をぎゅっとにぎりかえした。
「光が戦うなら、お母さんもいっしょに戦う。二人っきりの家族なんだもの」
「うん。ありがとう、お母さん」
 こんなに長いあいだ、お母さんと話をしたのは、ひさしぶりだった。
 お母さんに、すなおにありがとうと言えたのも。
「あ……」
 ――そうだ。やっぱり、言わなくちゃ。
 ひかるにも、「ありがとう」って、言わなくちゃ。
「お母さん、ごめん。ぼく、ちょっと出かけてくる」
「えっ? こんな夜中に?」
 いけません、と言いかけたお母さんを、光はまっすぐに見上げた。
「だめなんだ。今すぐ行かなくちゃ、だめなんだよ」
 今なら言える。でも、明日になったらまた、勇気がなくなってしまうかもしれない。
 言わなくちゃ。ひかるに、会わなくちゃ。
「ほんの少しだけ。用事がすんだら、すぐに帰ってくる。約束するよ。だからお願い、お母さん!」
 真剣な光の表情に、やがてお母さんも、あきらめたようにため息をついた。
「すぐ帰ってくるのよ。ケータイは持っていきなさい」
「うん! ありがとう、お母さん!」
 光はジージャンをつかんで、ぱっと玄関へ向かった。
「なにかあったら、かならず連絡するのよ。お母さんが迎えに行くから」
「うん、わかってる。すぐに帰ってくるよ!」
 靴をはくのももどかしく、光はマンションを飛び出した。
 まっくらな夜の街を、あの歩道橋に向かって走る。
 風はひどく冷たかった。もう冬が近いのだ。けれどそんなことも、光はまったく気にならなかった。
 やがて、六車線の大通りが見えてくる。
 深夜になっても、幹線道路の交通量はあまり減っていない。大きなトラックが、昼間以上のスピードでどんどん走っていく。
 そして、あの歩道橋の上に、ひかるはいた。
 ひかるはとてもきれいだった。
 長い髪が風にふわりとまいあがる。次々と足元を通りすぎる自動車のライトに照らされて、それはまるでひかるの翼みたいだった。
 ひかる、と、光は大きな声で呼びかけようとした。
 けれど全速力で走ってきたせいで、ぜいぜい息が切れて、うまく声が出ない。
「光」
 さきにひかるのほうが、光の名を呼んだ。
「どうして、来たの?」
「どうしてって――」
 苦しい息をおさえながら、どうにか光は声を出した。
「……迎えに、来たんだよ」
 ゆっくりと、ひかるへ手を差し出す。
 そして、気がついた。
 ひかるの姿が、薄くなっている。
 半透明の幽霊の姿が、さらに薄く、透けてしまっている。黒っぽいかっこいいパンツスーツは、ほとんど暗闇に溶けて、輪郭もはっきりわからないくらいだ。
「ど、どうしたの、ひかる……」
 ひかるはなにも答えなかった。
 だまって、優しい笑顔で、光を見ている。
「ね、ねえ。帰ろう。いっしょに家へ帰ろうよ、ひかる」
 光は言った。でも、その声が、みっともなくふるえだす。うわずって、まるで自分の声じゃないみたいだ。
「光――」
「帰ろう、ひかる! ゲーム、まだクリアしてないじゃんか! マンガだって――あれ、まだ連載中だよ。来週には、コミックスの最新刊が出るんだ。続きが読みたいって、ひかる、言ってたじゃんか!」
「ねえ、光」
「帰ろう、早く! また、ぼくのからだ、貸してあげるから!」
 光は必死にしゃべり続けた。ひかるが口を開こうとするたびに、声をはりあげて、ひかるの言葉をかき消してしまう。
 なにも聞きたくなかった。ひかるになにも言わせたくない。
 聞いてしまったら――きっと、取り返しのつかないことになる。
「早く帰らないと、お母さんが心配する。だから、早くおいでよ、ひかる!」
 ひかるは静かに、首を横にふった。
「家へは、あんたひとりで帰りなさい。あたしは……行けない」
「ど……どうして――。どうしてだよ、ひかる!」
 今まで、ずっといっしょだったのに。
 ひとつのからだを二人で使って、いっしょにゲームしたりマンガ読んだり、いろんなことを話したり。
 とても楽しかった。ひかるだって、とてもとても、楽しそうだったのに。
「ごめんよ、ひかる……。ぼくのこと、キライになっちゃったんだね。当然だよね。ぼく、ひかるにあんなひどいこと言っちゃって……」
 光はこらえきれず、うつむいた。
 そのほほに、すぅっと冷たい風のようなものがふれた。
 ひかるの手だった。
「大好きよ。光」
 光は顔をあげた。
 ひかるが、光を見つめている。今にも泣きそうな、けれどとてもきれいな笑顔で。
「じゃあ……、じゃあ、どうして――!」
「だってあたしは、もう死んじゃったんだもの」
 透きとおったひかるの手は、たしかに光のほほにふれている。けれど光は、それを感じることはできない。ただかすかに、冷たい風を感じるだけだ。
「あたしはもう、この世界のどこにもいないの。あんたが見てるあたしは、ただのまぼろしなのよ」
「う――うそだ!」
 光は叫んだ。
「うそだ! そんなの、うそだ!!」
「いいえ。本当よ。光」
 だって、ひかるはここにいるのに。
 いろんなことを光に教えてくれて、今もこうして光と話をしているのに。
 ひかるがまぼろしだと言うなら、どうしてこんなに苦しいんだ。胸の奥から熱い鋭い痛みがこみあげてきて、息もできないくらい、哀しいんだ。
「そんなこと、言わないでよ。ひかる……」
 ぼろぼろと涙があふれてきた。
 それでも光は、けんめいに笑おうとした。なんでもないふりをして、笑って、そうして全部じょうだんだと思い込もうとした。
「そうだ、ひかる。ぼくのからだ、ひかるにあげるよ」
「――光!」
「言ってたじゃないか、ひかる。ぼくのからだがほしいって。だから、このからだをあげるよ。ぼくが幽霊になって、ひかるは生き返ればいい。そうすれば――」
「光」
 静かに、ひかるは光の言葉をさえぎった。
「そんなこと、言っちゃだめだよ」
「どうして!? だって、ぼくはそれでいいんだ! ひかる……ひかる、あんなに楽しそうだったじゃないか。走ったり、ジャンプしたり、サッカーだって――! ぼくは、それを見てるだけで良かったんだ。ひかるが楽しいなら、ぼくだって楽しい。ぼく……ぼくは――!」
 ひかるに、笑っていてもらいたいんだ。
 ひかるが笑ってくれるなら、どんなことだって、できるよ。
「ぼくが、ひかるのためにしてあげられること……これしか、ないからさ。だから、ひかる――!」
 ひかるはもう一度、静かに首を横にふった。
「あんたに教えなきゃいけないことが、もうひとつ、残ってたね」
「ひかる……」
「ねえ、光。人はね、誰かの命を奪うことだけは、絶対にしちゃいけない。人の命を奪う権利は、この世の誰にも、ないんだよ」
 ひかるは泣いていた。
 涙が、すうっと銀の糸みたいに、ひかるのほほをこぼれていった。
「この世に生まれてきた以上、その命をむだにすることは、誰にも許されない。自分自身にもね。あんたの命を奪うことは、あたしにも、あんた自身にも、絶対に許されないの」
「だって……だって、ひかる――!」
 ひかるの命は、奪われてしまったじゃないか。脇見運転していた、無責任なドライバーに。
「どうしてだか、わかる? 一度奪われた命は、もう二度と戻らないからだよ。あたしの命は、もう、誰にも取り戻せないの」
 ひかるの姿が、ますます薄くなっていく。
 声が遠ざかる。
「光。あたしのことなんか、もう、忘れちゃいな」
 そんなこと、できない。光はそう叫ぼうとした。
 どうして、ひかるのことを忘れられるだろう。
 けれど。
「いいんだよ。忘れちゃいな。だってあたしは、もう死んじゃったんだから」
 いやだよ、ひかる。
 どうしてそんなことを言うの。
 ぼくはまだ、ひかるといっしょにいたいよ。
 もっともっと、ひかるといっしょに過ごしたい。二人でいろんなことを話して、いっぱい遊んで、いっぱい笑って。
 ひかるだって、そうだろう!? まだいっぱい、やりたいことがあるんだろ? 生きていたかったんだろ!?
 ひかるに生きていてほしい。たとえ、なにとひきかえにしても。
 そうだよ――ぼくは、ぼくは……!!
「あたしは、消えなきゃいけない。死んだ人間は死んだ人間、もうこの世界のどこにもいないの。あんたの目に、映っていちゃいけないんだよ」
 もう、声が出ない。ひかるの名前が呼べない。
 ひかるの姿が見えない。
 行かないで、ひかる。
 ぼくのそばから、いなくならないで。
「大好きよ、光」
 ひかるは優しくささやいた。
 冷たいひかるの手が、光のほほを包む。
 くちびるがふれた。
 その瞬間、光はたしかに、くちびるにひかるのぬくもりを感じた。
 あたたかく、やさしい、ひかるのくちびるを感じた。
 そしてひかるは消えてしまった。





 それから、季節はあっという間に過ぎていった。
 光の住む街にも、何度か雪が降り、冷たい冬が駆け抜けていった。
 気がつけば、南のほうからちらほらと桜のたよりが届くようになり、そして、市立明京小学校も卒業式の日を迎えていた。
 光は、四月から進学する市内の公立中学の制服を着て、卒業式に出席した。
 六年B組38人全員が、なんとか無事にこの日を迎えることができた。三学期もほとんど不登校だった森本も、卒業式にだけは出てきた。足りない出席日数をおぎなうために、春休み、特別に補習授業を受けるらしい。
 出席番号順に名前を呼ばれ、ひとりひとり校長先生から卒業証書を受け取る。光は胸をはって、どうどうと証書を受け取った。
 保護者席にいるお母さんも、誇らしそうに光の姿を見つめていた。
 式が終わると、今度は教室で、小学生最後の通信簿を受け取る。
 ふつうならそのあと、担任の先生から、一年間の総まとめや、中学生になるにあたってのこころがまえなど、いろんなお話があるのだろう。けれど相沢先生はほとんどなにも言わず、さっさと最後のホームルームを切り上げた。
「それじゃあみんな、春休みもじゅうぶんからだに気をつけてね。中学へ行っても、がんばってください」
 先生のあいさつが終わると、生徒たちも自分の荷物をまとめ、次々に教室を出ていく。

 



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