光も早く帰ろうとした。この教室にいたって、楽しい思い出がうかんでくるわけでもない。
 ――むしろ、ロクでもないことばっか、思い出すよな。
 結局、卒業まで友達はできなかったし、福田や金子は、今でも光を怖がって、怪物でも見るかのような目で見る。森本なんか、不登校で卒業すらあぶなかった。
 それでも、いい。
 いやなことは、終わったんだ。もう思い出さなければいい。
 教室を出ようとした時、ドアのそばに高倉が立っているのに気がついた。
 高倉は、ほとんどの女子が着ている公立中学の制服ではなかった。見慣れない、ちょっとおしゃれなセーラー服を着ている。
「そっか。高倉、私立中学、受験したんだっけ。合格おめでとう」
 高倉はあいかわらず素っ気なく、ぼそっと「ありがと」と言った。
「あたしが合格できたの、半分はあんたのおかげでもあるんだけどね」
「え、ぼくの?」
 高倉はうなずいた。
「あたしさ、最初は受験するの、迷ってたんだ。勉強、めんどくさいし、受かる自信もなかったし。でも――公立中学に行ったら、またこいつらと三年間、いっしょじゃん」
 二人は教室を見回した。
 同じ小学校の出身者は、たいがい中学の学区も同じだ。クラスは替わり、ほかの小学校出身者もおおぜいくわわるが、大半の生徒が同じ学校に顔をそろえることになる。
「絶対、いやだったの。こんなヤツらとまた三年間、つきあわなきゃいけないなんて。だからあたし、めちゃめちゃ勉強したよ。なにがなんでも、私立に合格してやるって。公立よりお金かかってたいへんだけど、親にもいっしょうけんめい頼んだ。あんたがあの時、さわぎを起こさなきゃ、あたし、きっと覚悟が決まらなかった。ずっと迷って、もしかしたら受験もしなかったかもしれない。あんたがあれだけのことやったから、あたしも思いきって受験決めたの。井上があれだけやったんだから、あたしにも絶対できるって、思って」
 光はだまって、ちょっと横を向いてしまった。あらためてそんなことを言われると、なんだかとても照れくさい。
 ――言わなきゃ、いけないかな。高倉に、私立に行ってもがんばれよって。
「井上は、地元の中学に行くの?」
「うん。ぼくん家、私立に通えるほど、お金ないしさ」
「そう。でも、今の井上なら、どこに行ってもきっと大丈夫だね」
 小声でそんなことを話しているうちに、教室に残っている生徒の数は、どんどん減っていった。
 ふと気がつくと、相沢先生が光たちのそばに来ていた。
「相沢先生……」
「ごめんなさいね、井上くん。きみには、本当に迷惑かけちゃって」
 あいかわらず誰の目も見ないようにしながら、相沢先生は言った。言葉のひとつひとつが聞き取りにくいくらいの早口だった。ほんとうは光となんか話もしたくない、という気持ちが見え見えだ。
「いいえ――」
 どう返事していいかわからず、光はつい、ぶすっと答えてしまった。
「でもね、もう二度と、こんなことないから。あなたたちとも、これっきり会うこともなくなると思うわ」
「え? どういうことですか?」
「先生ね、この三月で学校、辞めることにしたの。――教師を辞めるの」
 まるで同じ大人に話すみたいに、相沢先生は言った。
「無理だったみたい、わたしには。やりたいこととできることは違うって、よくわかったわ」
「教師を辞めて、どうするんですか?」
「親元に帰って、お見合いでもして、結婚するわ。それくらいしか、することないもの」
 相沢先生はむりやり笑顔を作ろうとした。けれどその笑いはとてもぎこちなくて、口元がひくひくしている。
「どうせこんなクラス、何年経ったって、同窓会やろうなんて思う子はひとりもいないだろうし。あなたたちとも、ほんとにもう、これっきりね。ごめんなさいね、一年間、なんの力にもなってあげられなくて。でも井上くんなら、わたしの手助けなんて、きっと必要なかったわよね?」
 ええ、そうですね、と答えるのすら、腹が立って、光はもうなにも言わなかった。
「二人とも、ご家族が待ってらっしゃるわよ。急ぎなさい」
 相沢先生は、窓の外を見下ろした。校庭には保護者たちが立ち、それぞれの子供たちが出てくるのを待っている。
「はい、先生」
「さようなら、相沢先生」
 二人のあいさつに、相沢先生も小さくお辞儀を返した。そして逃げるように、早足で教室から出ていった。
「――なに、あれ」
 相沢先生が出ていくとすぐに、我慢できなくなったみたいに、高倉が言った。
「先生を辞めるって……結局、逃げるんじゃん! この一年、なんにもしなかったくせに。自分がなんにもできなかったの、まるで井上のせいみたいに言って……!」
 光もうなずいた。
「そうだよ。先生は、逃げるんだ」
 相沢先生が出ていったドアをにらみながら、光は言った。まるで、まだそこに先生がいるかのように。
「でも、これから先生は、『自分は逃げたんだ』っていう負い目を、一生せおっていくことになる。自分の負い目と戦うのは、他人と戦うより、ずっとつらくて、むずかしいんだ。先生はまだ、そのことを知らない」
「井上……」
 びっくりした顔で、高倉が光を見上げる。
「あ――、いや……。その……前に、ぼくにそう教えてくれた人がいるんだ」
「そう……」
 高倉は少し、とまどうような表情になった。
「じゃあその人、あたしにも言うかな。……おまえだって、逃げたんだろうって」
「どうして、高倉が?」
「だってあたし、このクラスの連中と同じ学校に行きたくなくて、中学受験したんだもん。一人だけ別の学校に行こうと思ってさ」
「それは違うよ」
 すぐに、光は言い切った。
「新しい学校に行ったからって、うまく行くとは限らないだろ。どこにだって嫌なヤツはいるし、新しい友達作ってくのだって、いろいろ努力しなきゃだしさ。前からの仲間とつきあってくほうが、楽なことだってあるじゃん。でも高倉は、楽な道を選ばないで、思いきって全部新しい道を選んだんだ。そうだよ、受験に落ちたかもしれないだろ。それを高倉は、自分でいっしょうけんめい勉強して、ちゃんと合格したんだ。この先、どんなつらいことがあるかわからないけど、それでも、自分で全部作り直すことを選んだんだろ。だからそれは、逃げたんじゃない。うまく言えないけど――高倉は、チャレンジして、戦うことのほうを選んだんだ」
「井上」
 今度は高倉が、少し照れくさそうな顔をした。
 そして、にっこりと笑う。
「うん」
 ――高倉がこんなふうに笑うの、初めて、見た。
 笑うと、高倉はとても可愛い。
「井上にそう言ってもらうと、なんか、ちょっと安心する。自分に、自信持てる気がする」
「うん。高倉なら大丈夫だよ」
 高倉は持っていたショルダーバッグの中から、パールブルーの携帯電話を取りだした。そして、ぱっと画面を開いて、光に見せる。
 画面には、メールアドレスと携帯番号が表示されていた。
「これ、あたしのメアド」
 早くメモしなよ、と、光に携帯を押しつける。
「このメアド教えたの、井上だけだよ。ほかに知ってるのは、家族だけ。だから、ウザいのとか、ヘンなメール来たら、井上からだって、すぐわかるからね!」
「高倉……」
 笑顔でうなずき、光も自分の携帯電話をポケットから出した。
「じゃあ、ぼくのも」
「あ、やっぱり。こわしてなかったんだ、その携帯」
「うん。ずっと隠して、持ち歩いてた」
 光と高倉は顔を見合わせて、いっしょに笑った。
 おたがいのメールアドレスと携帯番号を交換する。
 そして二人は、いっしょに昇降口へ向かって歩き出した。
「メールするよ」
「うん。あたしも」
 靴を履き替え、上履きシューズはそのまま手に持って、外へ出る。
「あ、ママだ! じゃあね、井上! またね!」
 先に、高倉が走りだした。その先には、着物を着たきれいな女の人が立っている。高倉のお母さんだろう。
 光は手を振って、高倉を見送った。
 そして気がつけば、光のお母さんも、光のすぐそばに来ていた。
「光。卒業おめでとう」
「ありがとう、お母さん」
 光はお母さんと並んで、明京小学校の校門を出た。
「光、ずいぶん背が高くなったね。その詰め襟、買う時にも思ったけど。もうすぐ、お母さん、追い越されちゃうね」
「え、そうかな」
 六年間、通い慣れた通学路を、お母さんと二人で歩く。もう二度と、通うことはないだろう道を。
「お母さん。ごめん……、先に帰っててくれるかな」
「どうかしたの?」
「うん。――どうしても、一人で寄りたい場所があるんだ」
 光は立ち止まった。
 お母さんも立ち止まり、光の顔をじっと見る。そして、小さくうなずいた。
「わかったわ。じゃあ、家で待ってるね」
「ごめん、お母さん。わがままばっか言って」
 ううん、と、お母さんは首を横にふった。
「早く帰っておいで。お祝いのごちそう作って、待ってるから」
 マンションへ向かうお母さんと別れて、光は今来た道を戻り始めた。
 大型車が行き交う、六車線の幹線道路。三月になって交通量はさらに増え、空気はひどく埃っぽい。
 その上にかかる歩道橋を、光は駆け上がる。
 ここで、ひかると出逢った。
 あの時は、手がかじかむほど冷たい風が吹いていた。けれど今は、あったかい春のひざしがいっぱいにふりそそいでいる。
 光も変わった。ぼろぼろにされたリュックをかかえ、うつむいて泣いていた光が、今はこうして、新しい制服に身を包んで、しっかりと両脚を踏みしめて立っている。
 ――ひかる。今日、ぼく、小学校を卒業したよ。四月からは、中学生だ。
 胸の中で、光はひかるに話しかけた。
 ひかるに初めて会った時には、こんな日が来るなんて、想像もできなかった。
 あれは、たった数ヶ月前のことなのに。
 ひかるに、いろんなことを教わった。いっしょに過ごした時間は、とても短かったけれど。
 あの時、ひかるに出逢わなければ、きっと、ここにこうして立っていることはできなかっただろう。
 ――ありがとう、ひかる。
 ひかるのおかげだ。
 もう、ぼくは迷わないよ。苦しくても、つらくても、もう逃げないよ。
 みんな、ひかるが教えてくれたんだ。
 ひかるが教えてくれた言葉は、今も、ひとつ残らず、この胸の中にある。
 ――でも。
 ひかる。
 きみがいない。
 今のぼくを、きみに見せたいと思っても。この気持ちを、どんなにきみにつたえたいと思っても。
 ひかる。きみがいないんだ。
 この世界中、どこを探しても、きみがいない。きみの名前をどんなに叫んでも、きみに届かない。
 きみに逢いたい。ひかるに逢いたい。
 でも、どこにもきみはいないんだ!
 だって……だって、きみはもう、死んでしまったのだから。
 どんなに逢いたくても、もう二度と逢えない。きみの声が聞こえない。きみのぬくもりを、二度と感じることはできない。この胸から、なにかがごっそりと抜け落ちてしまったみたいだ。息もできないくらいに、苦しい。
 この痛みが、死への悼み。失われて、二度と取り返せないものへの、哀しみ。
 ひゅうひゅうと冷たい風が吹き抜ける、この胸の空白を、埋めてくれるものはきっとなにもないだろう。ひかるの存在、ひかるの命のかわりになるものは、なにもない。
「ひかる――っ!!」
 吹き抜ける風に向かって、光は思いきり、ひかるの名前を叫んだ。
 涙があふれる。
 こんなぼくを、きみはまた、泣き虫だと言って笑うだろうか。
 それでも、いいよね。
 泣いても、ころんでも、いい。泥だらけになって、傷ついて、それでも。
 ぼくはまた、立ち上がるよ。
 逃げないこと。戦うこと。そして生きること。みんなひかるが教えてくれた。
 だから、ぼくは生きていく。
 ひかる。もう二度と、きみに逢えないけれど。
 ぼくのこの思いは、けしてきみに届かないけれど。
 それでもぼくは、生きていく。消えない痛みを一生抱えたまま、きみに守ってもらったこの命を、絶対にむだにしないために。
「好きだよ、ひかる」
 光は、つぶやいた。
 届くはずのない、告白。
 それでも。
「大好きだよ。ずっとずっと、きみが大好きだよ、ひかる――!!」
 光の声は、風に乗って、大空の向こうへ消えていった。



                                                  END





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