2 ザ・反撃!


 始まりは、夏休みの宿題。理科の自由研究だった。
「ぼく、昆虫採集したんだ。夏休みのほとんどを、九州のばあちゃん家ですごしたからさ。ばあちゃん家、わりと田舎のほうで、田んぼとか雑木林とかも残ってて、カブト虫とかセミとか、ふつうにつかまえられたんだよ」
 それでも、たいした虫をつかまえたわけじゃない。カブト虫が2、3匹に、あとはカナブンとかトンボとか、めずらしくもないものばかりだった。
「だけどさ、みんな、すっげーびっくりしてた。だって、カブト虫なんてふつう、デパートかペットショップで買ってくるモノだもん。それを、ぼくは自分でつかまえて、自分で標本にしたんだ。標本の作り方は、じいちゃんが教えてくれた。先生もほめてくれて――理科の自由研究じゃ、ぼくのがクラスで一番に選ばれたんだよ」
 でもね、と、光はうつむいた。
 朝の通学路、大勢の人たちとすれ違う。人目を気にしながら、ぼそぼそと光はこれまでのことをひかるに説明していた。
 言葉がとぎれても、ひかるはだまったままだった。あいかわらず光のちょっとうしろあたりにふわふわ浮きながら、光がまた話し始めるのを待っていた。
「森本が、ぼくの昆虫標本は環境破壊だって、言い出してさ」
 ただでさえ数が減っている昆虫を、わざとつかまえて、標本にするなんて、とんでもない。こいつは日本の自然を破壊してるんだ。森本は光を指さして、そう叫んだ。
「てめえみてーなヤツがいるから、日本の自然には生き物がいなくなっちまうんだよ!」
 森本の言葉に、金子や福田など、子分たちがすぐに同調した。
「そうだそうだ! 井上は、環境破壊してるんだ!」
「てめえ、知らねえのか。こういう小さい虫だってな、自然の生態系の中で大事な役割をはたしてんだぞ! 理科の授業でちゃんとやったじゃねえかよ!!」
 彼らは、光を環境破壊の悪魔だと決めつけた。
 学校全体でリサイクルや街の環境美化にとりくんでいるのに、光が一人でそれらをすべてだめにしてしまう、と。
「はあ!? なによ、それ!? たった一匹二匹の昆虫つかまえただけで、自然破壊だあ!? そいつら、ノーミソ煮えてんじゃないの!?」
 とうとうがまんできなくなったのか、ひかるが大きな声を張り上げた。
 ストレートなひかるの言葉に、光も小さく笑ってしまった。
「ちがうよ。あいつら、ぼくがうらやましかったんだ」
「え?」
「ほら、ぼくん家、母子家庭だから、あんまり金持ちじゃないだろ。お小遣いの額とかも、少ないほうでさ。ゲームやマンガも、発売当日には買ってもらえないんだ。買ってもらっても、中古だったりしてさ。みんなより、いつもちょっと遅れてんだよ。……でもそのぼくが、『貧乏でかわいそうな井上』が、クラスん中の誰もやったことないようなことを、やったんだ。みんな、昆虫採集なんてほとんどしたことないからね。森本は、それが許せなかったんだよ」
 光が、いつまでも「貧乏でかわいそうな井上」でいれば、森本はきっと光をいじめたりはしなかったろう。
 自分が見くだして憐れんでいた井上光が、自分にはできないことをやってみせた。それが、森本にはどうしてもがまんできなかったのだ。
「そして――あとは、きのう言ったとおり。何回か殴られたりモノを奪られたりしたあと、先生に相談したけど、森本の親が学校にどなりこんできて、反対にぼくが森本にあやまらされたんだ」
 あの時の森本の顔を、光は一生忘れないだろう。親のうしろにかくれながら、先生たちには見つからないよう、うれしそうに笑い、光に向かって歯を剥きだして見せた森本の顔を。
「あいつら、なんでぼくをいじめ始めたのかなんて、とっくに忘れてんじゃないかな。今はもう、ぼくを――誰かをいじめてんのが楽しくて楽しくて、しょうがないんだよ。やめられなくなっちゃったんだ」
 たぶん光がいなくなっても、森本たちは誰かをいじめることをやめられないだろう。クラスの中に次のターゲットを見つけ、そいつをいじめるにちがいない。
 やがて光とひかるは、初めて出会ったあの歩道橋にさしかかった。
 その時、ぴろぴろりん……、と、かわいい電子音のメロディが聞こえてきた。
「あんた、ケータイなんか持ってんの?」
「うん。お母さんが急な残業なんかになった時、連絡するのに便利じゃん」
 とは言うものの、光はリュックのポケットから携帯電話を出そうとはしなかった。
 着メロも、ちょっと鳴ってはすぐ止まり、またすぐに鳴りだしては止まってしまう。それが、何度も何度も繰り返された。
「ああ、メールの着信音か、それ。メール見なくていいの?」
 光は立ち止まり、ちょっと困ったようにひかるを見上げた。
 ひかるもすぐに、そのメールがなんであるのか、気がついたらしい。
「光。からだ、貸してよ。それ、全部あたしが消してあげるから」
「え……。い、いいよ。そのくらい、自分でできる」
「いいじゃん。どうせ今日一日、学校にいるあいだは、あんた、あたしにからだ貸してくれるって、約束したじゃない。今から入れかわってたって、いいでしょ?」
「う、うん……」
 光は迷った。
 きのう、ひかるはこう言った。
「あたしがあんたのからだに入ってれば、クラスでいじめられてるのは、もう井上光じゃない。あたし、成瀬ひかるなのよ」
「でも……! それじゃ、ひかるがつらい思いするじゃないか」
「ばぁーか! あたしは大人なのよ、オトナ! たかが小学生のがきんちょに少々いやがらせされたからって、そんなん、ヘでもないっての!!」
 ――ひかるは美人でかっこいいけれど、どうも口が悪い。
「あんた、もしかしてあたしが、そのまま借りたからだを返さないんじゃないかって、疑ってる?」
「えっ!? そ、そんなこと、ない、よ……」
 光はもそもそと口ごもった。
 100%ひかるを信じているとは言い切れない、自分が情けない。
「まあ、しょうがないよね。あたしとあんたは、知り合って間もないし。それで相手を完全に信用しろったって、無理な話よ」
 けれどひかるは、たいして気にした様子もなく、あっさり言った。
「でも大丈夫。そのからだは、やっぱりあんたのものなんだから。あんたが、あたしにからだを渡したくないって強く思えば、あたしの意識なんかすぐに追い出されちゃうはずよ。ほら、このあいだだって、そうだったじゃない」
「あ、ああ……そうだね」
 ふわりと、ひかるが光の目の前に立った。
 光をまっすぐに見つめて、言う。
「あたしを信じるも信じないも、あんたの自由。でも、できるなら、今はあたしのこと、信じてほしいな」
「ひかる……」
 信じるも信じないも、ひかるを受け入れるも受け入れないも、光の自由。光自身が決めること。
 なんだか、とても大きな決断を任されたような気がする。
 肩の上をぎゅっと強く抑えつけられるような、それでいて胸の奥からなにかが音をたててわきあがってくるような、身体中が急に大きくふくれあがるような、そんな不思議な感覚だった。
「うん、わかった。ぼく、ひかるを信じるよ」
 ひかるをまっすぐに見つめ、光は言った。
「光」
 ひかるも、にこっと笑う。
 それから二人は、歩道橋を急いで駆け下りた。
 入れかわる瞬間を誰かに見られたりしないよう、ビルのかげにかくれる。
「じゃ、ちょっとだけ、がまんしてね。すぐすむから」
 このまえと同じく、ひかるがまるで水泳の飛び込みみたいに、両手をそろえて突き出した。
 光は思わず、両目をぎゅっとつぶってしまった。
 ひかるが、からだの中に入ってくる。
 全身がぎゅうううっとねじられ、しぼられるみたいな、あの感覚が光をおそった。
 からだじゅうがうらがえしにされ、大きなローラーでおしつぶされているみたいだ。
 やがてその苦しさが、突然、ふっと消えた。
 からだがふわっとうきあがる。もうなにも感じない。
 そして光は、半透明の幽霊になっていた。
「光。大丈夫?」
 からだのある光が――いや、ひかるが、光を見上げている。
「う、うん、平気……」
 ぼそぼそと光は答えた。その声も、自分の中から出ているのか、どこか空の遠くのほうから響いているのか、はっきりしない。
「なんか、ヘンなの……。暑いとか寒いとか、なんにも感じないや……」
「しょうがないよ。からだがないんだもの」
 ひかるはリュックをおろし、中から携帯電話を出した。
 そのあいだにも、ケータイはぴろぴろりんと歌い続け、次々に短いメールを受信している。
「ふん」
 ケータイを操作したひかるは、その文面を見て、鼻先で笑った。
「まあ、なんつーワンパターン、ステレオタイプないやがらせ! 脳みそが貧弱な、なによりの証拠ね。ほかにことば知らないのかしら、この連中」
 見たくない、と、光は思った。でも、ちらっと目を向けた瞬間に、ケータイの画面が見えてしまう。
 メールのタイトルもなく、発信者もわからないそのメールは、画面いっぱいに「死ね死ね死ね……」と繰り返されていた。
「同じ嫌がらせだって、もうちょっとアタマひねれってのよね。ほんと、語彙がとぼしくて、知性のかけらもないわ。小学生のがきだから、しょうがないけどさ」
「ご、い……?」
「知ってる言葉の種類、量って意味。ボキャブラリイってことばなら、聞いたことある?」
「うん。――意味はよくわかんないけど」
「ボキャブラリイが豊富だって言えば、いろんなことばを知ってて、意味も正しく使いこなせるって意味になるのよ。あたしが小六のころは、もうちょっとボキャブラリイが豊富だったわよ」
 なんだかちょっと奇妙だった。見下ろしている姿はたしかに井上光、小学六年の男の子なのに、話している言葉はまるっきり若い女性――大人の女性のものだ。
 ひかるは、慣れた手つきで、発信者不明のメールを次々に削除していく。
「光。学校の電話番号、このケータイに入ってる?」
「え? うん。明京小学校で登録してある」
「め、い、き、よ……ああ、あったあった」
 そして、ひかるはいきなり、学校に電話をかけた。
「もしもし。六年B組の井上光の母ですが。相沢先生はいらっしゃいますでしょうか」
「ちょっと、ひかる。なにしてんの――」
 おどろく光に、ひかるはだまってろ、と軽く手をふる。
「あ、相沢先生ですか? おはようございます。井上光の母です。うちの子がいつもお世話になっております――」
 知らん顔して、ひかるは話し続けた。声はたしかに光のものだが、ちょっと高い裏声になり、そのしゃべり方は完全に大人の女性だ。こんな話し方で「井上光の母です」なんて名乗られたら、誰も疑わないだろう。
「実はゆうべ、うちの子が歯が痛いって言い出しまして。ええ、虫歯みたいなんですよ。それで、歯医者さんに連れていってから、登校させますので、今日はちょっと遅刻させてください」
 ――虫歯? 歯医者? ひかるはいったいなにを言い出したんだろう?
「はい。歯医者さんがどれほど混んでるか、わかりませんから……。でも、午前中にはちゃんと学校に到着するようにさせますので。はい。よろしくお願いいたします」
 ていねいにあいさつして、ひかるは電話を切った。
「さーてと、これで時間の余裕ができたわ。ちょっと準備があるから、お店に寄るよ。あんたのお小遣い、貸してね」
「ええっ!? な、なにすんの、ひかる!?」
「まあ、だまって見てなさい。たいしたモンは買わないから、心配いらないって」
 ひかるは光を見上げ、にやっと笑った。
 それはあの、見ているだけでぞくぞくしてくるくらい、自信にあふれたひかるの笑顔だった。





 光が――いや、ひかるが学校に着いたのは、三時間めと四時間めのあいだの休み時間だった。
「ひかる、急がないと。四時間めは体育なんだよ。ジャージに着替えなきゃ」
 光は、今朝までのひかると同じく、ひかるのななめうしろにふわふわ浮かんでいた。ずっと自分のうしろ姿を見下ろしているのは、なんだかとっても妙な気分だった。
「更衣室とか、あんの?」
「女子にはね。去年、使ってない教室を更衣室に変えたんだ。小学校高学年にもなって、男子と女子が同じ部屋で着替えるのはおかしいって、PTAの誰かが言い出したんだってさ」
 森本たちによって、その更衣室に閉じこめられたことがあることは、光はだまっていた。
「ふうん」
 ひかるはたいして興味もなさそうに、うなずいた。
「まさか、ひかる。女子更衣室で着替えるつもり!?」
「ばかなこと言ってんじゃないわよ。ちゃんと小六男子、井上光のふりをしてやるから、安心しなさいって」
 教室のドアに手をかけて、ひかるはにやっと笑った。
「まあ、だまって見てなさい。絶対、ばれやしないから」
 そしてひかるは、六年B組のドアを開けた。
 休み時間でさわがしかった教室が、一瞬、時間が止まったみたいに静まり返る。
 クラスにいた男子全員が、いっせいに光を――いや、ひかるを見た。
 その、目。
 あざけりと悪意に満ちた目。クラスメイト、いや、同じ人間を見ている目じゃない。
 あれは、なにか人間以外のもの――こわれかけたおんぼろのおもちゃ、あるいはもう殺すしかない、ハエ取り紙にひっかかったハエとか、ゴキブリとか、そういうものを見る、目だ。
 光は、この目が怖かった。
 そして、どうしても納得できなかった。ぼくだって同じ小学生、同じ人間なのに、どうしてぼくだけが、こんな目で見られなくちゃいけないんだろう、と。
 どんなに考えても、その理由がわからない。わからないから、よけいに怖い。
 みんな、にやにやと光を馬鹿にして笑いながら、ひかるをじっとながめている。
 けれどひかるは、そんな笑いも、クラスメイトたちの視線も、まったく気にしなかった。
 まるで教室に誰もいないみたいに、まっすぐ前を見て、自分の――光の席へ近づいていく。
 そこには、森本たちがいた。
 彼らの手には、絵の具のチューブがにぎられていた。
 森本たちは、光が教室に置いてあった図工用の絵の具を、ひとつ残らず机の上にしぼり出していたのだ。光の机は絵の具でどろどろのぐちゃぐちゃ、もとの木目なんて、まったく見えなくなっていた。
 ――ひどい。光は宙に浮いたまま、幽霊をとおりこして、氷のかたまりかなにかになってしまいそうな気がした。
 あの汚れを落とすの、いったいどうしたらいいんだろう。ぼくの絵の具だって、みんななくなっちゃった。これから図工の時間、ぼく、どうすればいいんだよ。
 森本も金子も水沢も、絵の具をほうりだすことも忘れていた。遅刻すると連絡のあった光が、こんなに早く学校に来るなんて、思っていなかったのだろう。もしかしたら、光がこのまま、学校を休むと思っていたのかもしれない。
 悪事の現場を見られたことで、森本たちは一瞬、しまった、という顔をした。
 だがすぐに、にやにやとヒカルを馬鹿にした笑いを浮かべる。
 彼らも知っているのだ。先生たちも自分たちの味方であり、光がなにを言おうとも、自分たちが誰からも叱られない、ということを。
 ――ほら、見ろよ、ひかる。いくらひかるがかっこいいこと言ったって、やっぱりなにもできないじゃないか。
 光は目をつぶった。
 たとえ、からだを動かしているのが自分じゃないとわかっていても、これ以上、自分がいじめられているところなんか、見たくない。
 けれど。
「そっかあ。おまえ、ほんとにいっしょうけんめいだなあ、森本ぉ!」
 ひかるが言った。
「……え?」
 明るく、よく響くその声。
 光は思わず目をあけた。
 目の前で光が、いや、ひかるが、にっこりと笑っていた。自信に満ちて力強く、少しも怖れずに。
「わかってるよ、森本。おまえ、オレがきらいなんだろ? オレに、爪のアカくらいでも好かれちゃ困ると思って、いっしょうけんめいオレをいじめてんだよな?」
 ひかるはずんずん森本に近づいていった。
「安心しろ。オレも、おまえが大っきらいだよ」
「えっ!?」
 光はあわてた。
「な、なに言ってんだよ、ひかる! そんなこと言ったら、ますますいじめられちゃうじゃんか!」
 けれどひかるは、幽霊になった光の言うことなんて、まるで聞いていなかった。
 森本の目の前につめ寄り、にたァッと笑う。それは、上から見ている光でさえ、ぞおッと背すじが寒くなるような、冷たく、意地の悪い笑い方だった。
「心配すんな。オレは一生、おまえを許さねえよ。大人になっても、ずっとずっとおまえを憎んで、恨み続けてやるからな」
「な……っ。なに言ってんだ、てめえ……」
「オレは死ぬまで忘れねえぞ。おまえが、一対一じゃケンカもできねえ、ひきょう者の、人間のクズだってことをな!!」
 クラスメイトたちを見回し、ひかるはどなった。
「おまえら全員、おんなじだ! キライなヤツに面と向かってキライって言う勇気もねえ、かげでこそこそいやがらせのメール送るくらいしかできねえ、ひきょう者! てめえらがどんなに忘れようとしたって、オレは一生覚えてるぞ! てめえらがそういう臆病者、ウジ虫みてえなヤツらだってな!!」




BACK    CONTENTS    NEXT
【 −4− 】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送