「えっ、う、うそっ!?」
 光もあせった。
 あの携帯電話は、お母さんとの連絡用にと、夏休み前に買ってもらったばかりだ。
「あーあ、もったいねえことしちゃったなあ。こんなにすぐこわしちまったから、母さん、次のはなかなか買ってくれないだろうなあ。買ってもらえるのはたぶん、卒業して、中学に入学する、お祝いかな」
「い、井上、てめえ……っ」
「だから、いくらメール送ってもらっても、オレ、いっさい受信できねえから」
 ひかるははっきりと言い切った。
 たしかに、いたずらメールを受信したくないなら、いちばん確実な方法は、携帯電話を持たないことだ。
「クラスの連絡網とかで知らせがあるんなら、オレん家に直接、電話かけてくれよな。でも、うちって、母子家庭だろ。女の人とこどもしかいない家だからさ。電話はいつも留守電状態なんだ。はっきり名前言わない電話にゃ、絶対出るなって、母さんに言われてんだよ。みんなも、オレん家に電話する時は、最初にしっかり自分の名前言ってくれよな」
 こんなことを言われたら、家の電話に無言電話などのいやがらせもできない。
 ひかるは軽々とリュックを肩にかついだ。
 そしてひとり、悠々と教室を出ていった。
「ひかる! ひかる、ちょっと待ってよ!」
 光はあわててそのあとを追った。
 ひかるは急いで校舎を出て、走りだした。学校の外、誰にも見られない場所でなければ、ふたりで落ち着いて話すことはできない。
 今朝、ふたりが入れかわったビルの陰まで一気に走って、ひかるはようやく立ち止まった。
「あー、苦しい。でも、気持ちいいー! こんなにいっぱい走ったのなんて、何年ぶりかな!」
 でも幽霊状態の光は、苦しくもなんともない。
「ひかる、ひかる! どうすんだよ、あのケータイ! あれ、お母さんとの連絡用にって持たされてるのに!」
「だいじょうぶだってば。ほら、よく見なさい」
 ひかるは、さっきのこわれた携帯電話をポケットから取り出した。
 ――なにか、へんだ。
「あ、あれ……? なに、これ――」
「赤ちゃん用のおもちゃ。100均ショップとかでも、良く売ってるじゃない。それの、ペンギンやウサギのプリントシールをけずって、メタルカラーのサインペンで銀色に塗っただけ」
 よく見れば、マジックの塗り残しやムラもわかる。
 でも、半分手の中に握ってかくした状態で、一瞬だけぱっと見せられたら、これが100円ショップのおもちゃだなんて、誰も気づかないだろう。
「ほら。あんたのケータイはこっち」
 ひかるはもうひとつ、携帯電話を取り出した。
 こっちは間違いなく、お母さんに買ってもらった、本物の携帯電話だ。
「すごいや、ひかる……」
 思わず、光はつぶやいた。
「そっか。今朝、学校に行く前にお店に寄ってたのは、これのためだったんだね!?」
「そうよ。あんたのケータイがこわれたってことになったら、あいつらだって、こわれたケータイにメール送り続けるような、ばかなまねはしないでしょ。でも、本物は絶対に見つけられちゃだめよ。もしうそだってバレたら――」
「うん! うん、わかってる! ひかる、ほんっとにすごいよー!!」
「たいしたことじゃないわよ、このくらい。それにまだ、最後の仕上げが残ってるしね」
「最後の仕上げ?」
 そうよ、とうなずいて、ひかるはどこかに携帯電話をかけた。
「あ、もしもし、お母さん? うん、ぼく、ヒカル。――ごめんね、仕事中に電話しちゃってさ」
 ――お母さんに電話? ひかる、いったいなにをする気だろう。
 でも、光はもう、ひかるのやることにいちいち質問しようとはしなかった。
「今日、学校で連絡があってさ。明日、お弁当持ってかなくちゃいけないんだ。給食センターが断水なんだって」
 もちろん、そんな話は学校でも全然出なかった。
 でも、ひかるを信じていれば、だいじょうぶだ。絶対、うまくいく。
 電話からお母さんの声が聞こえる。
「あらそう。じゃ、お弁当用のおかずも買って帰らなくちゃね。光、なにがいい?」
「ん? なんでもいいよ。お母さんにまかせる」
 じゃあね、と、ひかるは電話を切った。
「ねえ光。学校を出たら、このからだ、あんたに返すって約束だったけどさ。家まで、あたしが動かしてもいい? 家についたら、ちゃんといれかわるから」
「ひかる――」
「思いっきり走るって、気持ちいいね。こんな気持ちよさ、あたし、ずっと忘れてた」
 ひかるはうれしそうに、ちょっとはずかしそうに、笑ってみせた。
「もうちょっとだけ、走りたいんだ。いいでしょ?」
 ――走ることが、気持ちいい? 
 そんなこと、考えたこともなかった。
 走ったり、歩道橋の階段を一段飛ばしに駆けあがったり、そんなこと、ちっとも特別なことじゃない。なにも考えなくても、からだが勝手に動くことだ。
 でも。
「ひかる」
 ひかるはちょっと不安そうに、光を見上げている。
 ――ひかるが、そんなに楽しいのなら。
 ひかるは幽霊だ。ひかるには、もうからだがない。だから、光にとっては当たり前のことでも、うれしくて楽しくてしかたがないのだろう。
「うん、いいよ」
 光はうなずいた。
「家に帰るまでなら。そのかわり、寄り道しないでよ」
「わかった。約束する!」
 言ったとたん、ひかるは走りだした。さっきよりもずっと早く、うれしそうに。
 歩道橋の階段も、まるで背中に羽根がはえたみたいに、かるがると駆け上がっていく。
「あ、待ってよ、ひかる!」
 光もふわふわしながら、あわててそのあとをおいかけた。





 家に帰りつくと、約束どおり、ひかるは光にからだをあけわたした。
「……なんか、へんな感じ」
 もとどおりになったからだをながめて、光はつぶやいた。
 ほほをさわると、指先が冷たい。柱の角に足をぶつけると、とっても痛い。そんな当たり前の感覚が、なんだかとても不思議な、初めて味わうようなものに思える。なにもかもが新しくて、どきどきすることばかりのようだ。
 幽霊になって、すべての感覚をうしなっていたのは、ほんの半日ほどのことだったのに。
 ――ひかるも、こんな感じだったのかな。
 それをたずねようとすると、
「ああ、やっぱりちょっと疲れちゃったかな。あたし、少し寝る」
 ひかるは宙に浮いたまま、くるっと光に背中を向けた。
「幽霊も疲れるの?」
「うん、まあね」
「あれ……ひかる? なんだか、少しからだが薄くなってない?」
「え、そう?」
 半透明のひかるの姿。それが、朝よりももっと透けているように見える。
 夕方になって、部屋の中が薄暗いせいだろうか。
 ひかるは背中を向けたまま、なにも答えなかった。
「眠っちゃったの、ひかる?」
 光はそれ以上、ひかるに話しかけるのをやめた。疲れているなら、そっとしておいたほうがいいと思ったのだ。
「宿題でもやろうかな」
 机に向かい、算数のドリルを広げる。
 部屋の中は、しんと静まりかえっていた。光がえんぴつで文字を書く、小さな音しか聞こえない。
 ふりかえってたしかめなければ、ひかるがそこにいることも、光にはつたわってこない。
 ――ひかるの寝息が聞こえたらいいのにな。光はふと、そんなことを思った。
 やがて、夕方六時をすぎるころ、お母さんが帰ってきた。
「ただいま、光。遅くなってごめんね。すぐご飯にするから」
 晩ご飯のおかずはサケのホイル焼きに野菜炒め、かぼちゃの煮物。光の大好物ばかり――というわけではなかった。どちらかというと、苦手なおかずばかりだ。
 でも、
「おいしい」
 かぼちゃの煮物を口に入れて、光は言った。
「これ、おいしいね、お母さん」
「え? ……どうしたの、光。あんた、煮物なんかあんまり食べなかったのに」
「うん、でも――今日、おなかすいてんのかな。なんか、すごくおいしいんだ」
 ご飯も、おつけものも、おみそしるも。そうか、ぼく、毎日こんなおいしいご飯食べてたんだ、と思う。
「お母さんって、料理じょうずだよね」
「やあね。どうしたのよ、いきなり。おこづかいの値上げなら、だめよ」
「そんなんじゃないよ」
 これも、ひかるが教えてくれたことなのだ。幽霊になって、触覚も味覚も、からだじゅうのすべての感覚を一度なくしているから、ふたたび感じ取ったその感覚が、とても新鮮に、大切なものに思える。
 ――でも、それはきっと、ひかるにとっても同じじゃないだろうか?
 本当に死んでしまったひかるだから、生きたからだで感じ取る感覚は、もっとすてきで、貴重なものに思えたんじゃないだろうか。
 ――だから、ひかる、あんなこと言ったんだ。もう少し、走りたいって……。
「明日のお弁当、なにがいい? おにぎり? それともサンドイッチ、つくろうか」
「え、ううん、いいよ。ふつうのご飯でさ。運動会や遠足じゃないんだもん」
「そう? でも、お母さんもはりきんなくちゃね。せっかく光にほめてもらったんだもの」
 お母さんは光の顔を見つめ、にっこりと笑った。
「良かった。このごろ、光、なんだか元気がなかったから。お母さんも心配だったんだ。学校でなにかいやなことでもあったんじゃないかって。でも、やっと笑ってくれたね」
「お母さん……」
「ねえ光。なにか、つらいことがあったら、お母さんにはかくさないで。どんなことでも、お母さんに話してね。ふたりっきりの家族なんだから」
「うん」
 ――どうしよう。全部言ってしまおうか。学校のこと、いじめのこと。
 光は迷った。でも、いじめのことを全部お母さんにうちあけたら、ひかるのことも話さなくてはいけないだろう。
 ひかるの姿は、お母さんには見えない。見えないものを、どうやって信じてもらったらいいだろう。
 それに、ひかるは言っていた。まだ、最後の仕上げが残ってる、と。
 ひかるには、まだ考えがあるのだ。
 お母さんに話すのは、ひかるがすべての計画をやり終えてからでも、いい。
「お母さん。今はまだ、なにも言えないんだ」
 まっすぐにお母さんを見て、光は言った。
「でも、言える時がきたら、必ず全部、お母さんに話すよ。だから、今はもうちょっと、待って」
「光……」
 お母さんは一瞬、どうしようという顔をした。
 けれどすぐに、光を見つめてうなずいた。
「わかった。あんたがそう言うなら、お母さんも、今はなにも聞かないよ」
「お母さん!」
「でも、いつか必ず、お母さんに話してね。これだけは忘れないで、光。どんなことがあったって、お母さんはあんたの味方。絶対に、あんたを守るからね」
 うん、と、光はうなずいたつもりだった。けれどそれは、声にならなかった。
 涙をがまんするだけで、せいいっぱいだった。





   3  大人の覚悟


 次の日、光はお母さんにつくってもらったお弁当を持って、家を出た。
「お弁当の袋、あんまり揺らしちゃだめよ」
「うん、わかってる。行ってきまーす!」
 ひかるもあいかわらずふわふわと、光のあとをついてきた。
「だいじょうぶ、ひかる?」
「うん、もう平気。さーて、今日もがんばるよっ!」
 ひかるははりきって答えた。
 きのうは少し薄くなっているみたいに見えた姿も、今朝はいつもと変わらない。それとも、明るい光の下で見ているから、透明度の変化がわかりにくいだけだろうか。でも、これだけ元気なら、心配はいらないな、と光は思った。
 ゆうべはベッドに入る前に、もう一度ひかると入れかわった。
「ひかる。夜9時までなら、ぼくのからだ、使ってていいよ」
「え、どうして? あ、わかった。宿題をあたしにやらせる気でしょ」
「そんなんじゃないよ。ただ……、マンガ、読みかけなんだろ?」
 光は本棚に並べたマンガのコミックスを指さした。おととい、ひかるが勝手に光のからだを使って、読みふけっていたマンガだ。
「ゲームも、やっていいよ。わかんないとこは、教えてあげる。宿題はさっき全部やっちゃったから、今夜は寝るまで遊んでても、だいじょうぶだよ」
「ほんと!? ありがと、光!」
 そして、お風呂からあがったあと、からだをひかるに貸したのだ。
 ひかるはゲームに夢中になった。
「だめだよ、ひかる! そこでジャンプして、崖の上のアイテム、とらなくちゃ! そのアイテムがないと、3面のボスは絶対倒せないんだ」
「そうなの!? よーし、今度こそぉ!」
 そのゲームは一年も前に発売されたもので、光はとっくに飽きていた。でも、ひかるはコントローラを握りしめ、懸命にクリアをめざした。
「ヘンなの。大人のくせに、ゲームやマンガに夢中なんてさ。こどもみたいじゃん」
「別にいいじゃない。大人になったって、楽しいものは楽しいんだから」
 半透明になった光を見上げ、ひかるはにこっと笑ってみせた。
 そんなこと、想像したこともなかった。
 光の知っている大人は、みんな、いつもとてもつまらなさそうで、この世に楽しいことなんてなにひとつない、とでも言いそうな顔をしていた。大人になってしまったら、こどもの時にはこんなに楽しいゲームやマンガ、公園でのサッカーも昆虫採集も、全部、つまらなくなってしまうのかもしれないと、光は思っていたのだ。それが大人になることなんだ、と。
 でも、ひかるは違う。光が飽きてしまったマンガだってゲームだって、目をきらきらさせて手にとっている。いいや、ただ走ることだってジャンプすることだって、とても楽しそうだ。
 それが、光にはなぜだかとても、うれしかった。
 ひかるがこんなに喜ぶなら、もうちょっと、からだを貸してあげてもいいかな。そう思う。
 ――ひかるが喜ぶと、ぼくもうれしい。
 それは、なんだかちょっとくすぐったくて、笑い出したくなるような、胸の奥がぎゅっとなるような、ふしぎな感覚だった。
「光、もう9時半よ。ゲームはもう終わりにして、早く寝なさい」
 ドアの外からお母さんの声が聞こえて、ようやくふたりはゲームをやめた。
「はあーい!」
 ベッドに入る前に、ふたたび入れかわる。からだ中を裏返しにされるようなあの感じにも、もうだいぶ慣れてきた。
 パジャマに着替えようとした時、ひかるがふと、机の上を指さした。
「あら、光。あんた、ずいぶんいいもの持ってんじゃない?」
「ああ、それ……」
 それは、ヘッドフォンタイプのデジタルオーディオプレイヤーだった。
 パソコンなどで音楽をダウンロードし、数p角のメモリカードに記憶する。それを再生するためのデジタル機器だ。オフホワイトの細長いメカは、手の中にかんたんに握りこめてしまうほど、小さくて軽い。
「それ、九州のばあちゃんがまちがえて贈ってくれたんだよ」
「まちがえた?」
「ほら、最新のゲーム機のコントローラに、ちょっと似てない? あのコードレスコントローラのゲーム機がほしいって、ぼく、ばあちゃんに言ったことがあるんだ。そしたらばあちゃん、まちがえて、これを誕生日のプレゼントに贈ってくれてさ」
「うーん……。まあ、似てると言えば、似てる、かもね……」
 似ているのは、コントローラだけ。ばあちゃんは、テレビのCMに映っているコントローラのほかに、ゲーム機本体があるんだっていうことを、理解していなかったわけだ。
 プレゼントがまちがっていたことは、ひかるはばあちゃんに今でも言っていない。
「ほんとはぼく、あんまり音楽とか聴かないんだけど。でもさ、ビデオのタイマー予約もろくにできないばあちゃんが、いっしょうけんめい電器屋さんでこれ探して、買ってくれたんだって思うと、すっげーうれしかった」
「そう」
 ロングヘアのきれいな姿に戻ったひかるは、優しくほほえんで、うなずいた。
「やっぱり、へんかな、ぼく。……ばかなのかな」
「ううん。そんなことない。あんたのその気持ちは、とっても大切なものだと思う」
 そんなふうに言われると、すごく照れくさい。見上げたひかるの笑顔も、なんだかいつもよりずっときれいに思えてしまう。
「でも、これがあるなら、話が早いわ。明日、これ、学校に持ってくからね」
「え。だめだよ。こういうの、学校に持ってっちゃいけないんだ」
「いいから。先生に取り上げられるようなヘマは、絶対しないわよ」
 だめだと言うなら、食物アレルギーでもないのに学校にお弁当を持っていくのも、だめなはずだ。光はそう思い、あまり強くひかるを止めなかった。ひかるにはきっと、なにか考えがあるのだ。
 そして今朝、学校へ行く途中、またいつものビルの陰で、ふたりは入れかわった。
 ひかるが光のからだに入り、光は半透明の幽霊になる。
 入れかわるとすぐに、ひかるは早足で歩き出した。きゅっと唇をかみしめて、まっすぐに前を向き、ためらう様子もない。
 光も、遅れないようにふわふわとついていく。そして、ななめ上から声をかけた。
「ねえ、ひかる。怖くないの?」
「なにが?」
「だって、きのうのことくらいで、森本たちがおとなしくなるわけないじゃん。絶対、なんかしかえししようとするに決まってるよ」
 ひかるは光を見上げ、口のはしをきゅっとあげて、笑った。





BACK    CONTENTS    NEXT
【 −7− 】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送