「学校は、みんなでいっしょに、同じことをする場所です。ひとりだけ違うことをしたら、だめなのよ」
「でも先生。オレの分の給食はないって、みんな言ってますよ」
 怒りもせず、ひかるは淡々と答える。
「給食がないんだから、弁当持ってくるしかないでしょう」
「それは……」
 相沢先生は、さらに泣きそうになった。いや、もう泣いていた。
「わかりました。明日から、井上くんの分の給食がなかったら、先生のをあげます。だからもう、お弁当は持ってこないで。みんなも、お願いね」
 はーい……という元気のない声が、まばらにあがった。
 森本たちも、まさか先生の分の給食を用意しないわけにはいかないだろう。だって相沢先生は、今までずっと森本たちの味方だったのだから。今だって、ひかるから給食を取り上げたクラスの連中を叱らずに、ひかるに「だめ」と言った。相沢先生の給食をひかるに食べさせるくらいなら、最初からひかるにも給食をくばるはずだ。
 またも、ひかるの思い通りになった。ひかるが勝ったのだ。
 でもそのせいで、クラスの空気はさらに悪くなった。ひかるをにらむみんなの目が、ものすごく憎らしそうに、恨めしそうになっている。ひかるのせいで先生から叱られた、先生が泣いているのもすべてひかるのせいだと、みんなは思っているのかもしれない。
 昼休みが終わり、午後の授業が始まっても、クラスのふんいきは最悪のままだった。
 クラス中、今にもバチバチ火花が飛びそうに、緊張している。相沢先生も、教科書を読む声がとても小さくて、ほとんど聞き取れないくらいだ。
 その中で、ただひかる一人だけが、落ちついてのんびりした表情だった。
 ――どうしてそんなに落ちついていられるのさ、ひかる。
 光の問いかけは、声にならない。
 もうすぐ、ひどいことが起こる。誰にだってわかる。もう止められない。
 ――なのに、どうしてそんなに平気なの、ひかる!
 覚悟、してるから? 森本たちにやり返しちゃった以上、もっとひどいめに合わされるのも、覚悟してるってこと?
 それが……大人の覚悟なの?
 なんか、ちがう。
 光はそう思った。
 もしも本当に、ひかるの言う覚悟が、光の考えているとおりのものだとしたら。
 それは――なんか、ちがうよ、ひかる。どこがどうって、うまく言えないけど、やっぱりちがうと思うんだ。
 けれど今、それをひかるに言うこともできない。光の声はひかる以外には聞こえないけれど、ひかるも光の言葉が聞こえたよ、と態度であらわすことはできないからだ。光が一方的にしゃべっていたって、ひかるにこの思いがつたわるとも思えない。
 そうしているうちに、とうとう終業チャイムが鳴ってしまった。
「おい、てめえ。なに考えてんだよッ!」
 森本がどなった。
 ひかるのまわりを、十数人の男子生徒がとりかこんでいる。ホームルームが終わると同時に、ひかるを逃がすまいといっせいにかこんでしまったのだ。
 女子たちは、教室のすみにひとかたまりになっている。相沢先生はさっさと教室から逃げ出してしまっていた。
「ざけんじゃねェぞっ!」
「なにチョーシこいてんだよ!」
「なんとか言えよ、てめえッ!!」
 森本が力まかせにひかるの肩を突き飛ばす。
「――ひかる!」
 光は思わず叫んだ。
「乱暴すんなよ、森本! 相手は女の人なんだぞ!」
 森本の腕をつかんで止めようとしても、実体を持たない光の両手は、森本のからだを通り抜けてしまう。
「答えろよ、おらァッ!!」
 森本はいきなりひかるの服をつかんだ。
 その脅しにも、ひかるは顔色ひとつ変えなかった。
「おまえ、オレにさわっていいのか? 井上菌に感染すんじゃなかったのかよ」
「うるせえッ!」
 悲鳴みたいに森本はわめいた。顔は真っ赤で、目も充血している。
 反対にひかるは、ひどく淡々としていた。怒りも恐怖も、なんの感情も読みとれない。
 そんなひかるの表情に、森本はますます腹を立てる。
「ふ、ふざけんな、てめえーッ!!」
 森本は力いっぱい、ひかるを突き飛ばした。
 ひかるは後ろの机にぶつかり、はでな音をたてて床に倒れ込む。
 きゃあッ、と、女子たちが小さく悲鳴をあげた。
 でも、誰も動こうとしない。ふつう、教室でケンカが始まったら、止めてくれる先生を呼びに行くものなのに。
 でもこれは、ふつうのケンカじゃない。みんな、知っているのだ。これはいじめの延長であり、このクラスにいるモノはみんな、いじめに加わっていたということを。ただ一人、いじめの被害者だった井上光をのぞいて、全員が加害者だということを。
「オレが、なにしたって言うんだ?」
 ひかるはゆっくりと立ち上がり、静かに言った。おちついて、けして大きくはないけれど、その場にいる者みんなの耳にはっきりと届く声だった。
「オレはたしかに、おまえらがキライだ。でもオレはおまえらを殴ってないし、持ち物をとったりこわしたり、してない。昨日の給食だって、みんな平等にくばったし、サッカーも、先生に注意されたらすぐに、森本、おまえにボール回してやったじゃないか。給食食わなかったのも、サッカーやらなかったのも、みんな、おまえらの勝手だ。オレのせいじゃない」
 ひかるの言っていることは、正しい。
 ――でも、ひかる。そうじゃないんだよ。
 光はそう叫びたかった。
 いくらひかるが正しくたって、それはただの理屈だ。そのとおりにいかないことなんて、山ほどある。第一、なんでもかんでも理屈どおりになるのなら、いじめなんて起きるわけないじゃないか!
「それともおまえらは、オレが自分の身を守るのも、いけないって言うのか? オレは――井上光は、クラス全員のうさばらしの道具として、文句も言わずに、ただ毎日毎日、死ぬまでいじめられ続けてりゃあいいって、そう言うのか!?」
「あ……ああ、そうだよ!!」
 森本がめちゃくちゃに叫んだ。
「てめえはそのために、このクラスにいるんだ!! そう決まってんだよ! 違うと思うなら、まわりに訊いてみろ!!」
 ――そんな!
 この状況で、ひかるをかばえる者なんて、いるはずがない。そんなことをしたら、今度は自分がいじめられてしまうから。
 光の考えどおり、森本の言葉を否定する者はひとりもいなかった。クラスメイトたちはみんな顔を伏せ、石みたいに固まって、互いに視線を合わせようともしない。
「そら見ろ。これで決まり、多数決だ!」
 勝ち誇って、森本はわめいた。
「井上光はいじめられ役、決定っ! 卒業するまでずっと、おれらのサンドバッグになるのが、おまえの役目だ!!」
「そ……そ、そうだ! 井上はサンドバッグ!」
「サンドバッグ、サンドバッグ!」
 森本に同調し、一人、また一人と声をあげる。
 福田が、金子が、手を叩いてはやしたてる。その声はうわずってふるえ、顔はまだ恐怖にひきつっていた。
 けれどこの騒ぎにやがてクラス全員がくわわれば、もう彼らに怖いものはなくなるだろう。クラスの運営は多数決で行われる。その多数決で「井上光はクラスのサンドバッグ」と決まったのなら、それに逆らうひかるのほうが悪いことになってしまう。
「わかったか、井上! 今度なにかしやがったら、マジぶっ殺してやっかんな! てめえはただだまって、おれらにぶっとばされてりゃいいんだよッ!!」
 森本がこぶしをふりあげた。
 ――逃げて、ひかる! 殴られるよ!
 いいや、それより早く、ひかると入れかわらなくちゃ! ひかるのかわりに、ぼくが殴られれば……!!
 その時、ひかるがさっと右手をあげた。
 森本が、ひかるをとりかこんでいた男子たちが、びくっとからだをふるわせる。殴られるとでも思ったのだろうか。
 しかし、ひかるは右手になにかを握っていた。
 それは光の部屋にあった、デジタルオーディオプレイヤーだった。
 プレイヤーを高く持ち上げたまま、ひかるは指先でスイッチを操作した。
『――井上光はいじめられ役、決定っ! 卒業するまでずっと、おれらのサンドバッグになるのが、おまえの役目だ!!』
 さっきの森本の声が、再生されて大きく響き渡った。
『てめえはただだまって、おれらにぶっとばされてりゃいいんだよッ!!』
「な……、なんだよ、それっ!?」
 ひかるはだまって、プレイヤーを森本の目の前に突き出した。
 森本もそれがなんであるか、すぐにわかったらしい。
「おまえの言ったことは、みんなこれで録音した」
 ひかるはゆっくりと、感情のない声で言った。鏡みたいに澄んでおちついた目で、まっすぐに森本を見ている。
「だ、だから、なんだ! それ持って、先生たちに言いつけんのかよ! そんなことしたって無駄だって、まーだわかんねえのか、てめえ!」
 先生たちはみんな、ただ光が我慢してくれることを願っている。そうして6年B組の生徒がさっさと卒業して、問題が目の前から消えてくれることだけを。
「わかってるよ」
 ひかるの表情はなにもかわらない。まるで仮面みたいだ。けれどそれは、昨日見せた、ひどく底意地の悪いあの笑顔よりもずっと、何倍も怖かった。まるで人間じゃないみたいだった。
「学校も教育委員会も、そんなもん、誰があてにするかよ。今度おまえらがオレになにかしたら、オレはこのメモリーカードを持って、警察に駆け込んでやるッ!!」
 ――警察!?
 クラス中が、息を呑んだ。
 光も、絶句した。
「これだけはっきりした証拠があるんだ、オレが告訴すれば、警察はかならず動いてくれる。これはもう、れっきとした暴力事件だ、犯罪だ! 森本、おまえの親は、おまえがいじめなんかしていないって校長室でどなってたけど、警察が取り調べに行っても、まだ同じようにおまえを信じて、かばってくれるかな?」
「な……っ」
 森本はもう、声もない。真っ赤だった顔は、今にも気絶しそうなくらい、青白くなっていた。
「オレの親は、かならずオレを信じてくれる。オレといっしょに、警察に行ってくれるはずだ。子供がここまで、命がけでやってんだ。信じない親なんかいるもんか!」
 ひかるは断言した。それを否定する声は、もうどこからも聞こえなかった。
 息苦しいほどの沈黙が、教室中に広がっていった。
「こ……こわしちゃえ――」
 かすれる声が、聞こえた。
「こわしちゃえよ、あんな機械……。そうすりゃ、証拠なんか、なんもなくなるんだからさ……」
 がたがたとみっともなくふるえながら、福田がひかるのオーディオプレイヤーを指さしていた。顔中に脂汗が浮いて、森本と同じくらい、福田も真っ青だ。
「し、証拠がなけりゃいいんだよ! そうすりゃ井上だって、警察なんか行けねえんだからさ!」
「そ――そうだ! そうだ、壊せ!」
「そいつを取り上げろ! 井上に勝手なことさせんな!!」
 怒鳴り声があがった。
 ひかるをとりかこむ輪の中から、最初はじわじわと、福田と同じようにひどく怯えた声が。森本たちだけでなく、木島などほかの男子生徒も叫び出す。やがてそれは、自暴自棄になったみたいなむちゃくちゃな大声になる。
「メモリーをこわせッ!!」
「ボコボコにしろ、二度と口がきけねえようにしちまえッ!!」
 ――な、なに言ってんだ、みんな!
 光は思わず、ひかるの前に立ちはだかろうとした。
 両手を広げ、ひかるをかばう。
 けれど幽霊の光には、クラスメイトを止めることなんかできない。ひかるにつかみかかろうとする連中の腕は、光をかんたんに突き抜けてしまう。光の姿さえ、彼らの目には見えていないのだ。
 ただ一人、ひかるをのぞいて。
 ――ひかる、逃げて! 逃げて!!
 光は懸命に叫んだ。
 けれどひかるは、にこっと笑っただけだった。
 まるで光に、安心して、大丈夫だよ、と語りかけるみたいに。
 そしてひかるは、ふたたび声をはりあげた。
「おまえら、録音してんのが、これ一個だけだと思ってんのか!?」
「……え――っ!?」
 煮えたぎる鍋みたいだった教室が、一瞬、しんと静まり返った。
「この教室ん中に、もしかしたらオレの協力者がいるかもしれねえぞ。オレに頼まれて、同じようなデジタルプレイヤーで、今のやりとりを全部録音してるヤツが……いないとでも思ってるのか?」
 ひかるはわざと、ひとつひとつの言葉をくぎって、ゆっくりとしゃべった。
 自分をとりかこむ生徒たち一人一人の顔を、まっすぐに、突き刺すように見ていく。
「6年B組、オレをのぞいた37人全員が、心をひとつにして、オレをいじめることを楽しんでると、おまえら、本気で信じてるか? なかにはいるはずだぜ。いじめなんてかっこ悪りい、もういい加減やめてえなって思ってるヤツがさ。そういうヤツがこっそりオレの協力者になって、ポケットに録音機械を隠し持ってるかもしれないぜ? たとえオレのメモリーカードがこわされたって、そいつが録音してくれた証拠がある。オレはなんにも困らないぜ」
「う……うそだ――。うそつくんじゃねえ、てめえッ!」
「うそだと思うなら、その証拠を出してみな? 誰もオレに協力してねえって、その証拠をさ」
 ひかるの言葉に、生徒たちは男子も女子もいっせいに、自分のまわりを見回した。自分のとなりに立っている、同じクラスメイトを。
 そして、誰かと目が合うと、あわてて首を横にふる。――ううん、ちがう。自分は井上の協力者なんかじゃない、と。
 みんな、必死の表情だった。ここで井上光の協力者だとうたがわれたら、自分もいっしょにぼこぼこに殴られてしまう。金子も福田も、森本までが、おおげさに首を横にふっていた。
 けれどそれを見る目は、疑いに満ちている。ちがう、と言う言葉を、誰も信じていない。
 そうだ。誰も信じられない。
 このクラスの中で、本当に信じ合っている友達なんか、いない。
 みんな、自分がいじめられないために、光のいじめに同調していただけなのだから。
「おまえら、ほんとバカだなあ。こんな時に、『はぁい、ボクが井上くんの協力者でーす!』なんて名乗り出るヤツがいるかよ」
 ひかるはもう一度クラスメイトたちを見回し、にこっと笑いかけた。――まるで、その中に本当に自分の協力者がいるみたいに。
「いいんだぜ、今はウソついてたってさ。知らん顔してていいよ。おまえの安全を最優先しろよ。みんなといっしょにオレの悪口言ってても、オレ、ちっとも気にしねえからさ。おまえがケガしねえことのほうが、大事だよ」
 ひかるの目は、誰を見てるかわからない。森本たちが、ひかるが誰を見ているのか確かめようとすると、さっと目をそらしてしまう。
「デジタルプレイヤーも、見つからないようにうまく隠せよ。メモリーカードだけ、あとでこっそりオレに送ってくれればいいからさ」
「メモリーカード――」
 その言葉に、福田たちがはっと気がついたように顔をあげた。メモリーカードを奪えばいいと、思いついたのだろう。
「あのさあ。オレが、おまえらの目の前で証拠を手渡ししてもらうと、思うのか?」
 からかうように、ひかるは言った。
「家へ郵送してもらうに決まってんじゃん! おまえら、どうするよ? オレん家のポストを二十四時間見張るか? もしそうするなら、オレ、母さんの会社に送ってもらうだけだから」
「か、会社……」
「それを、どうやって止める? 母さんのバッグをひったくるか? そんなことしてみろ、オレが告訴しなくたって、おまえらは犯罪者だ!」
 もう誰も、なにも言えなかった。
 ひかるが一歩、前へ出る。
 見えない腕に押されるように、森本が一歩、後ろへ下がった。
「オレはおまえに、なんにもする気はねえよ。森本」
 静かに、ひかるは言った。
「もうオレをほっといてくれ。オレにかかわるな。オレのかわりに、誰かをいじめるな。オレが言いてえのは、ただそれだけだよ。できんだろ、そのくらい!」
 強く言われても、森本はもう、返事もできなかった。
「ま、もし別のヤツがいじめられたとしても、そいつだって、オレと同じことをするはずだけどな」
 そしてひかるは、もう一度デジタルオーディオプレイヤーをみんなに見えるように、持ち上げた。
「わかるよな、みんな。もうこのクラスで、いじめはできない。しない、やめた、じゃねえ。もう二度と、できないんだよ!」
 やがてそれをハーフパンツのポケットにしまうと、リュックを肩にかつぎ、ひかるは一人、教室を出ていこうとした。
 誰もそれを止めない。
 ひかるの姿を目で追おうともしない。
 そしてひかるは――井上光は、六年B組の教室をあとにした。





 ――わからない。
 とぼとぼと自宅に向かって歩きながら、光は胸の中で、何度もくりかえした。
 わからない。ほんとうにあれで、良かったんだろうか。
 光は見てしまった。
 あの眼。教室にいた全員の、あの眼。
 それは光を見ているのではなかった。隣にいるクラスメイト、6年B組の生徒ひとりひとりに向けられていた。
 かつて光を見たのと同じ、怯えと嫌悪に満ちた眼。
 見てはいけないもの、見たくないのに、どうしても目に入ってしまう、怖くてしかたがないものを見る、眼。
 クラス全員が怯えていた。同じクラスメイトたちに、今朝までは仲良く友達としてつきあっていた相手に。
 ――こいつは、今も自分の声を録音してるんじゃないのか? なんでもないふりしているくせに、かげでこっそり、いじめの証拠を集めているんじゃないのか!?





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