やがて、彼女がぽつりと言った。
「家に一人でいても、まだ家の中のどこかに薫平の気配があるような気がして……。部屋の灯りが、どうしても消せなかったの。灯りを消したらあの子が困るんじゃないかって、毎日毎日、一晩中、薫平の部屋の照明
(でんき)
を点けっぱなしにして……」
あの時、薫平の部屋の灯りはついたままだった。
そして彼女は、階段の下から薫平を呼んでいた。いるはずのない、三年前に死んだ息子に向かって、「薫平、いるの?」と。
それに答えた薫平の声を聞いたのは、薫平の母ではなく、未沙だけだったのだ。
そして薫平は、逝ってしまった。
あのサファイアブルーの星々の中へ、逝ってしまったのだ。
「ごめんなさい……っ」
未沙は歯を食いしばり、うめくように言った。
懸命に涙をこらえようとするけれど、ぼろっと大粒のしずくがこぼれ落ちる。テーブルの上にいくつも丸いしみを作った。
「ごめんなさい、あたしのせいで……! あ、あたしが薫平と会ったから、薫平といっしょにあの海まで行ったから……。薫平、いっちゃった――!」
逝っちゃった。あの、砂浜に描かれた一夜限りの銀河に包まれて。
薫平、遠いところへ逝っちゃった。
もう、還ってこない。
「あ、あたしのせいだ、あたしのせいで、薫平が……っ!」
未沙と会ったことが、薫平が旅立つきっかけになったのだとしたら。もしも未沙が薫平と会わなければ、薫平はまだあの海まで行かず、ここにいたかもしれないのだ。
「そんなこと、言っちゃいけないわ」
薫平の母がそっと言った。
「これで良かったのよ」
「だって……! だって、薫平はもう……っ!!」
「あの子は、逝かなくちゃいけなかったのよ。これで良かったの。最後に、薫平があんなに見たがっていたホタルイカの海を見ていくことができたんだもの……。これで良かったのよ」
かすれる声で、彼女は同じ言葉をくりかえした。
未沙は顔をあげた。泣き腫らした目で薫平の母を見つめる。
息子とそっくりの、優しい、見る者をそっと包み込むような笑顔だった。
「未沙さん――だったわよね。あなたに会えたから、薫平もようやく逝くべきところへ逝くことができたのよ。きっと必要なことだったんだわ、あなたと薫平が会うことは。あなたにとっても、薫平にとっても」
「う……う、ぅ……っ」
未沙は返事ができなかった。ぼろぼろと涙ばかりがあふれる。
「ありがとう、未沙さん」
もう、目を開けていることすらできない。膝の上で両手を握りしめ、未沙は大声で泣きわめきそうになるのを必死でこらえた。
ありがとうなんて、言ってもらえる立場じゃない。本当は、何度謝っても謝りきれるものではないのに。
「ありがとう」
母の声に、薫平の声が重なって聞こえるような気がした。
……ありがとう、未沙。
おまえに会えて、良かったよ。おまえといっしょだったから、おれ、あの海まで行けたんだ。
あの、海のほたるを見られたんだ。
……そうだよね、薫平。
あたしたち、いっしょに見たよね。あの、一夜限りの小さな銀河を。
海のほたるの、命が燃えていくのを。
……いっしょだったよね。あたしたち、ずっと、いっしょにいたんだよね……!
「ううぅ……っ。うーっ――!!」
未沙は懸命に歯を食いしばり、泣き声を押し殺そうとした。けれどこらえきれない声がもれ、まるで小さなこどもみたいだった。
薫平の母も、両眼に涙をにじませていた。どうにか笑みの形を作ろうとするけれど、上手く笑えずに唇がふるえている。テーブルの上に置いた手も、ハンカチを握りしめて小刻みにふるえていた。
「これで私もやっと、あの子の部屋の灯りを消すことができそうだわ――」
そして季節は、足早に過ぎていった。
木々の緑は日増しに濃くなり、陽光も輝きを増す。
空の色がどんどん青くなり、気づけば盛夏のまばゆさも通り過ぎて、カレンダーはすでに九月に変わっていた。。
「ふう」
未沙は大空を仰ぎ、目の上に片手をかざした。
九月の富山湾は、まだ真夏の深い紺碧に染まっていた。
波頭と空を舞う海鳥が、白く目を射るようだ。むせかえる暑さと潮の匂いとを、胸一杯に吸い込む。
……来たよ、薫平。
大空に向かって、未沙はそっと話しかけた。
……あたし、ここまで来たよ。
もう一度、この海へ。
ホタルイカの産卵時期はもう終わってしまったけれど、海の風景はなにひとつ変わっていない。岬の形も水平線も、桟橋に並ぶ漁船も。薫平と眺めた、あの時のままだった。
夏休みが終わってしまった海岸には、人影はほとんどない。夏の名残のゴミや海藻が散らばるばかりだ。
波は大きくうねり、海上には遊泳禁止を知らせる赤いブイ。「クラゲに注意」の立て看板もある。もう、泳いで遊ぶには遅すぎるようだ。
そんな砂浜を、未沙はゆっくりと歩き出した。
……薫平、いるよね。そこにいるよね。
……遅くなってごめんね。でもさ、これでも学校とか、いろいろあるんだよ。それに、ここまでの交通費だって、せっせとバイトして貯めなきゃいけなかったしさ。
実際、夏休みはずっとバイトに明け暮れていた。ようやく旅費が貯まったのは、八月の末。それから切符を予約したり、旅行に必要なものをそろえたりして、結局ここへ来るのは、九月の連休になってしまった。
あの時と同じように、新幹線と在来特急、そしてローカル線を乗り継いで。
未沙はふたたび、この海岸へ来たのだ。
海から吹く強い潮風が、未沙の髪を乱していく。サンダルの薄っぺらな靴底を通して、じりじり焼けつく砂の熱さを感じる。
桟橋に向かって、未沙は歩き出した。途中のコンビニで買ったペットボトルに口をつける。
遠い水平線を見つめて。
……あのさぁ、薫平。なにから話そうか。
……あたしは全然、あいかわらずだよ。親とはしょっちゅうケンカしてるし。学校もバイト先も、もうムカツクことばっか。
もう一度この海に来るっていう目標がなかったら、三日も保たずに辞めてたね、あんなとこ。
……あいかわらず、あたし、あたしが好きじゃないし。
毎日毎日、つらくて哀しくて、泣きたいことばっかりだよ。時々、わけもなく泣いたりしてるよ。一人で、わあわあ声出してさ。
……それでも、ね。
この涙が。苦くて、みっともなくて情けないこの涙が、あたしの生きてるあかしだから。
人は、死ぬから哀しいんじゃない。生きているから、涙が出るんだ。
乾いた砂の上を選んで、未沙は腰を下ろした。
……そうだ。あたし、唯那にメール出してみたんだよ。
でもやっぱり、届かなかった。メルアド変更しちゃったみたいでさ。
あたしのほうは、まだしばらく変えないでおこうと思ってる。もし唯那が、あたしに連絡とりたいって思った時に、つながる手段を残しておいてあげたくてさ。
だって、唯那があのワゴン車に乗っちゃったきっかけの一部は、たしかにあたしと会ったことだと思うし。
あの子に、あたしがなんかしてあげられるなんて、思ってないよ。
でもあたしは、同じ思いをしてるから。
淋しくて、苦しくて、自分が大嫌いで。唯那と同じ気持ちを、あたしも持っているから。
唯那がまた、淋しくて淋しくてどうしようもなくなった時。そんな時もしも、あの子があたしのことを思い出したら。
その時は、そばにいてあげたいと思うんだ。
なにもできないけど、それでも、あの子を独りぼっちにはしたくないんだよ。
……あの時、薫平がずっとあたしのそばにいてくれたみたいに。
空を見上げる。
真夏の青さは少しずつ薄くなり、西のほうからだんだんと夕暮れの茜色が広がろうとしている。真っ白な雲に、ばら色に輝くふちどりがついていた。もうすぐ一番星も見えるだろう。
……薫平、いるんだね。そこにいるんだね。
空。海。風。大地。
すべてに、薫平の存在を感じる。
彼の足跡がくっきりと、力強く、この世界に刻まれているのを。
……ああ、そうだね。あなたはたしかに、ここにいたよね。
あの時、あたしたちはいっしょにいたよね。
同じ空の下、同じ海を見て。
同じ、海のほたるを数えたね。
未沙は立ち上がった。
大きく、風に向かって精一杯腕を広げる。
世界中を抱きしめるように。
……薫平。
大好きだよ、薫平。
あたしたち、もう一度会えるかな。
あたしが、あたしなりに精一杯生きて。
いろんな人に出逢って、話して、ケンカして。恋をして。
……そうだよ、薫平。あたし、これからがんばって、うんとすてきな彼氏、見つけるんだから。
その人と恋をして、いっぱい笑って、いっぱい泣いて。手をつないで、キスをして。二人でいろんなものを見て、話し合って。
そうやってあたしが、この世界にしっかりと、あたし自身の足跡を刻むことができたら。
きっと会えるよね、薫平。
あたしたちは、もう一度会えるよね。必ずこの海で。
海は、忘れない。
命の限りに火を灯す、あの無数のホタルイカたちのために、毎年毎年、春になると必ず優しい海流を起こして、その命を水面近くまで運び上げてくれるように。
あたしたちをめぐり逢わせてくれるよ。
この海の中で。
あたしと、あなたは、もう一度めぐり逢えるよ。
あの蒼く輝く、海のほたるになって――。
The END
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